メタン濃度

温暖化がどんどん進み、日本の梅雨は、しとしとじめじめではなくて、どかぁんとした雨になるとのこと。日本は2009年に地球上の温室効果化ガスのリアルな状況を定量的に「観る」べく温室効果ガス観測技術衛星、通称GOSATを打ち上げ、今年中に3機目を打ち上げようとしている。観測データは公開されていて、地球の状況はどうなっているのかと眺めることが出来る。妙な言い方だが、CO2は堅調に増加していて、CO2だけ考えれば温室効果は2009年に比べて格段に増えている。もっと効果の高いメタンはどうかと言うとこれも赤道近傍で極端に増えてきている。

なんでメタンに注目したのかと言えば、コロナ禍中にシベリアの永久凍土が溶けて、人類が遭遇したことの無い細菌が大気に放出されるという話と共に、凍結された有機物が溶解によって腐敗して、メタンを放出し始めるという噂があったからだ。時々思い出していたのだけれど、そう言えばGOSATって、メタン観測も出来たんだったなと思い出し、公開されているデータを拝見したわけだ。

確かに増加しているのだけれど、絶対量としては赤道あたりにベルト状に増加しているのがわかる。大気に係る遠心力で、赤道付近に重いガスが集まっているのかと思ってしまう。最も太陽エネルギーが降り注ぐエリアに、熱エネルギーを蓄積できるガスが濃縮されていくのだから、温暖化の加速はより進むということだ。世界中でとんでもない嵐が巻き起こっている元凶がそんなところにあるのだとすると、CO2削減よりもメタンの排出量をマイナスにすることが効果的ではないのかと、リアルなデータを観ると思う。

人工衛星が地球上をくまなく検診しているんだけど、人類はその結果を正しい方向に活用しようとはしない。しているのかもしれないのだけれど、地球温暖化ガスは2009年以降、確実に増加している。そして、平均気温もそれにつれて上昇し続けている。相関関係はあるのだろうね。世界中でGDP向上競争をし続ける限り、活動により発生する熱エネルギーは減らないだろう。実質GDPを下げ始めた日本は、先進国で一番、温暖化ガスを出さない方向に向いているのかもしれない。生活に優しいか、地球に優しいか。気の持ちようかな?

知財経営?

知財経営をしましょう!なんて経産局どのは旗を振るのですが、特許庁では知財経営なんて言葉に定義付けなどしていない。経営戦略に知財を絡めましょうと言うことなんでしょうけれど、まぁ、定義づけに拘ってしまって、フレームワークみたいなもんが出来て、全部埋めたのに倒産したなんて言われても困るからね。結果的に知財を有効に活用できていた経営だったくらいが丁度良いのかもしれない。

大企業はちゃんと部門を構築して経営戦略の中に知財のポジショニングをしているのでしょうけれど、中小企業などそんな専門家を雇える筈も無く、地域の経産局が面倒見て上げるくらいのことをしないと、儲ける骨格に知財を入れ込むということはなかなかにして難しいでしょう。B2C商材を出していらっしゃるお企業様ならブランディングもとっても重要。商標なども忘れちゃ駄目で、むしろ、そっちの方を忘れてはならないと言えよう。

地域の特性にも気を配らないといけなくて、なんでそんなとこでやってんのというお会社も数多くいらっしゃるんだけど、ブランディングだけを考えてみると、地域って大いなる見方だし、人々の固定観念を上手に使うということは悪い事では無い。驚かせるより感心させる方が穏やかだしね。

大学においても経営戦略におけるブランディングはとっても重要だと思っている。と、言うか、人口大減少の時代において、旧態依然で済まされる筈はなく、思い切ってターゲットを絞り込んで、尖がることも必要だ。焦って動いたら負けという声もあるが、ゆでガエル状態は絶望的である。身の丈と言うことなんだけどね。身の丈を精一杯に使いきること。思い切りが必要である。

液晶よおまえもか・・

我が国から液晶ディスプレイメーカーが消えてしまうとの事。技術先行でビジネスで負けるというのは「またか」ということなのだけど、S社殿の液晶パネルにはちょっと想いが強かったので、とっても残念な感を抱いている。小生が博士課程学生の時、就職活動中に拝見した対角30cmの「超巨大」液晶パネルの迫力は物凄かった。これは凄いと思った。液晶を探すのは人力で、ノウハウの塊と言うのにも驚いた。35年も前のお話だ。技術が産業産品に化けた後は、価格競争だけになるのだなと寂しい思いがする。

K山工場も拝見いたしましたよ。凄いの一言だったのですけどね。その後、有機ELパネルの登場で、これも驚きましたね。これまた原理原則が解ってしまうと、どんどこ近隣諸国に主役の座を奪われて、結局、価格競争に負けっぱなしの状況は変わらない。ディスプレイというAI時代の主役のマン・マシンインタフェースなんだけど、日本製って何処に行ったら見つかるのかなと、なんだか寂しい思いばかりだ。

知財戦略だなどと言ってみても、要素技術って代替技術が出てくると、もう、そんな知財など要らなくなっちゃうわけで、それが大学発知財の最大の弱みだったりするんだよね。知財を提出してから学会発表という流れなんだけど、学者っていつの間にかカンコツまでしゃべっちゃうからいつの間にか真似されて、それよりも応用範囲が広くて活用しやすいものを出されてしまってギブアップ。

知財と共に起業して、自ら社会に出すというのは正しい方向性だと思う。勿論、基礎研究だけに打ち込んで、世界トップペーパーを出しまくっていらっしゃる研究者はそんなことをする必要は全く無いけどね。そうであっても気力溢れる若い学生諸君にチャンスを与えて、起業させる懐の広さを持って欲しいなと思ったりする。社会を楽しくする目に見える技術はあっという間に真似されて広がっていく。それは良い事だとは思う。人々を驚かせ続けることがどれだけあるのか?起業者にエールを送るばかりである。

学者の自由

技術経営と言えばMOT。MOTと言うと欧米では2000年過ぎには滅びた考え方で、その前からずっと続いているMBAが未だにライセンスとしては認められてはいるが、MBAを持っていますよと仰る方で、真っ当なビジネスモデルを語って頂けた方に、未だに出合ったことが無い。威張るだけ威張って、声が出掛ければ正義と言うのがMBAの流儀なのだろうなと思う。そもそも論、日本はちっとも豊かにならない。企業もどんどこ潰れていく。MBA持ちのコンサル殿があまたいらっしゃってこの体たらくはどういうことか。

もう一つ。学士院の皆さんが自分達で委員を決められないのはけしからんと大騒動があったと思うのだけれど、それと並行して、基礎研究者は自由な思考が重要なのだから、競争的資金は似合わない、だから国立大学当時の運営費交付金制度を復活させるべきだ!と声を挙げるが、これもナンセンスで、自由な思考は間違いなく許されねばならぬが、それは大学人の使命として、自らにしか出来ない教授法を創り上げ、自らの世界レベルの研究創造から得た知恵を活かし、次世代を育てる手法への思考が自由に許されているということで、税金を遊び金に使って良いという事では無い。

まぁ、今の政治家諸氏の様に、パーティーを開いて活動経費を稼ぐというのは余りにも品性お下劣で話にならないが、学者が遊び金を寄越せと、特に、教授レベルの人達が大騒ぎするのもお下劣と言わざるをえまい。科学研究費補助金という、自由に世界をリードする研究に挑んでい良いよという門戸は開かれているのだ。これが「貴方は提案してはダメ!」という規則があってはならないが、そうではないのだ。自由に挑戦できるのだ。こんな素晴らしいことがあろうか。

どうも気になる。ここをこうすればもっと良くなるだろうにと、目の前の装置の改造(改善にあらず)に躊躇しているようでは、挑戦者として失格だ。時間が掛かるから?掛ければよろしい。世界との競争で勝つ気があるのなら、眠っている間など学者には無い。それが学者の自由であって、これも見事に許されている。もっとも、最近は労災云々で週40時間までしか働いてはダメよということを言い出して、これがなんだか分からない。国家国民の為に汗を流して、それを働いていないと言われるのは癪である。学者はまなぶものである。有難いことだ。

宇宙イベント

昨日のことで古臭いが、チームメンバーから組織ネットワークが動かず、お仕事に支障が生じているという悲鳴が伝わって来た。お仕事環境の冗長性によって社会に対する停滞は回避できたのだが、それは小生が関与させて頂いている組織の本の一部の出来事であって、その組織においては責任と権力の一体化が徹底されていて、必要な決定を迅速に実行できるからだ。責任回避を第一に考える他部署とは異なる。

それはそれとして、何故にそれが発生したかと言うことなのだが、どうも先週からおかしかったとのこと。名古屋においては残念ながら観察することが出来ないオーロラを地球上に発生させた、X級太陽フレアの連続発生による磁気嵐発生が要因なのかなと勝手に想像したのだ。電磁気嵐による電子機器の異常動作や停電は、何というか、科学雑誌ではおなじみだったのだが、NICTのホームページの警報を拝見して、実際に生じるのだなと、宇宙のパワーに感激した。

ピラミッドパワーなんてのもあったなと、宇宙のパワーを集約して、重心位置に神秘の現象を発生させるというやつだが、クフ王のピラミッドなどで、何か発生しているのかなと夢物語を描いてみたり、どこぞの大学にあるピラミッド内部において、何か発生していないのかなと、次にお会いした時に聞いてみようとか、ビックバンよりも身近な宇宙イベントに、困ってしまうのだが楽しさを感じてしまうのだ。

近々の太陽活動の周期的活動における最大値は来年と予測されている。周期的活動なのだから、これはまぁ、当たるのだろう。すると、来年は今よりも激しくフレアが発生して、何かが生じるのであろう。核融合の揺らぎで宇宙放出される様々な電磁波、粒子線が、遥か太陽からやって来て、地球に襲い掛かってくる。遺伝子変異も生じさせて突然変異も発生するだろう。産業界にとっては警戒するべきイベントだが、学者的には愉快と感じてしまう。いつまでもガキである。

役職定年制度

工学に限らず、基礎研究って何かなって思った時に、今、生存している宇宙は何故できたかということを遡っていることに他ならないことに行きつく。ビッグバンという強烈なエネルギーが極微の一点に集中し、何故か生まれ、エネルギーの揺らぎが生じて外部に発散しながら、当然のことながら、反跳して爆発点に圧力を生みながら、エネルギーを質量に変換するイベントも生じさせながら、今の宇宙が生まれて135億年が過ぎたのだけれど、結局、生まれた元素を資源として無駄遣いする生命にはなっただけのことだ。

とある方が「僕は外との繋がりを無視して没頭することが基礎研究を実施することだと思っていた。しかし、外の世界では、人々がいろんな謎を解き明かしていて、そこに自分の居場所があるかもしれないと気付いた。そんな時に、あなたのような存在が役に立つと分かった。」と仰って頂けた。自分にも居場所があるのだなと、頑張ってきて良かったなと、実感させて頂けた。

大企業には役職定年制度を残して実行されているところが多い。100歳まで現役でピンピンコロリ社会を目指す我が国において、なんとなく古いルールだなと感じる一方、ビッグバンから続くエネルギーの連鎖で生まれた細胞分裂と言うエントロピーを小さくしたり大きくしたりする真理を考えると、若い、即ち、エントロピーが小さい段階で、次のステップに挑戦する環境があったほうが、従来を安定して継続するのではなく、破壊的イノベーションが求められる時代にマッチしていることは明らかだ。

「まだまだやれている」ということが旧態依然の踏襲ではなく、改革出来ているのだと感じていたとしてもそれは主体的な観点からであって、「まだまだやれている」という意欲がある段階で、自分を客観的に見直せる場に移行しようと思考するのが、宇宙の真理であろう。成熟した場は恐ろしい。場が持つ生命力が個を飲み込んでいく。それを感じたならば、自らの表現の場を転換して良いのだ。それをアシストする仕掛けが役職定年制度なのだろうと、粒子線治療と放射線治療との違いを説明していて思った。

御片付け中

週間引っ越しニュースでは無いのだが、会議テーブルと机を運び出すことが出来た。20年以上もお仕事をさせて頂き、一体、何名の方と議論をさせて頂いたのだろう。良きお仕事、善き出会いを創造してくれた什器に感謝である。どけてみると踏みつけられていない分、床が綺麗だなというのが第一印象。まだまだ、沢山残っているが、空間が出来たので、そこを有効に活用しながら次の段階へ進もうというところだ。

お引き受けをしていたお仕事もどんどんと放り出しているのだが、新たに「暇になったんだからこれをやって」と旧知の間柄から頼まれてしまう。隙間を創るとそこが埋まってしまうものだなと、油断をしていると襲い掛かってくる。攻め手も上手で、年に2回「くらい」だからと迫ってくる。この「くらい」というのがとても曲者で「以上」だったりするから油断ならない。

Windows11を動かすことが出来ないPCも、シャットダウンさせる方向で、メインPCの移行を目指し始めた。これもなかなか厄介な作業で、外付けの機器のドライバーなどをインストールし直さないといけない。その昔はPCオタクだったのだが、今は、極力面倒は避けているのだが、いろんなお仕事を断ち切っていくと、作業ファイルも限られてきて、機能的には「普通」のPCで済んでしまう。これも立派な断捨離である。

什器を廃棄するための場に行ってみると、ご同輩に出合い、お互い苦笑いである。あの方も計画的に進めていらっしゃるのだなと感心する。まだまだ大物が沢山残っている。第一段階を連休明けと定めていて、それが終了してほっとしているのだが、まだまだ残量は豊富である。引っ越しニュースは続きそうである。

あぁ人類

北の超大国を見ていると、何というか、ああなりたい人っているし、それを崇め奉っちゃう人もいるんだなと、人は様々だなと思うのだ。様々であることは良い事で、地球上のたんぱく質というか、哺乳類と言うか、その質量分布が2023年に論文発表されたんだけど、人間ってかなりの質量なんですよ。そのかなりの質量が同一思考だったらえらいこっちゃなんだけど、それが多様だからこそ均衡が保たれるのでしょうね。

ただ、哺乳類界においてはホモサピエンスはバランスを大いに崩していることに気が付かねばならぬ。インドネシアの主食自給率が100%まで落ち込んできたしね。ちょっと前には200%だったのだから、3億を超える民を有する国家がその状態と言う事は、ホモサピエンスという種の存続は赤信号状態と小生は思っている。ちなみになんだけど、先程の論文による数値分布が興味深い。

家畜類が6億3千万トン、人類が3億9千万トン、野生哺乳類が4千万トンで、海洋哺乳類が2千万トン。その中で家畜のウシさんが4億2千万トンで、人類より多いんですよ。その家畜のウシさん達が人類を支えているという構造を考えると、人類が地球上の哺乳類の殆どを食べちゃっているのではないのかと考えると、これは人類が恐竜の如くに絶滅方向に向かっているという学説も、おおぼらでは無さそうだなと感じる。

人類ってホモサピエンス一色だから、種としては1種類なんだけど、これも多様性から大いに反している。それに対して、時々、パンデミックを引き起こすコウモリさんは何と1200種もいらっしゃるそうなんですよ。陸上哺乳類の10%も占めるのだそうで、そりゃぁ、コロナウイルスの変異宿主にもなれるわなぁと思うわけですよ。一種類しか居ないから威張りたくなるのかどうか?もうちょっと賢くなっても良さそうなんですけどね、人類。

鼓動

休暇とは何かと、実体験を通して考えてみると、通常業務の一週間に比べて睡眠時間を長く取れる事かなと感じた次第。4時に起きなくても良いし、これは面倒だから明日に伸ばそうと思うことが出来、ストレスが軽減して睡眠を獲得できるのだろう。その昔は連休となればせわしく鉄道の時刻表などを調べ、リュックをチェックして過酷な質量を詰め込んでほくそえみ、肉体と精神の限界に挑戦していた。まぁ、そんなことをやりきってきたから、今は読書程度でも満足できるのだろう。

蚤の心臓と象の心臓は一生に行われる鼓動の回数は等しいなんて、本当かウソか確認したことは無いのだが、それを考えると、小生などはとうの昔に限界を突破しているわけで、だからこそ、おとなしくしていても精神が安定しているのかもしれない。ちょっと前?までは、じっとしているなど有り得ず、書類仕事の後はその反動で、必ずどこかに冒険にでかけていたものだ。最近は近所を歩き回るだけで満足してしまう。

定年退職というのは良く出来た制度だなと思うのだ。革命し続けねば自らの居場所が無くなる民主主義社会において、自らに革命を課し瞬間瞬間を猛烈に強烈に生き抜くことが出来るのは、まぁ、普通の人間であれば50歳位までであろう。稀に突き抜けてあの世でも閻魔様を困らせて、現世に戻ってくる程に快活な方もいらっしゃるが、まぁ、大略そんなものであろう。しかし、身の回りにおいて、定年後にも変わらずに活動していらっしゃる方を多くお見掛けする。

要するに、本来であれば限界を突破させて鼓動を稼がねばならなかったのに、じっと停止させていたからこその定常運転であって、それって本来であれば、現役時代に事業所に対して富をもたらすことが出来ていたのではないか?とてもでは無いが、過労困憊の日々を過ごす身にとっては定常運転など有り得ない。というか、そんなつまらない生き方は出来ない。ピンピンコロリが宜しい。その筈である。

茶摘み

少し長めのお休みを頂いて、読めていなかった書物をむさぼったり、久しぶりに近所の里山?を歩き回ったりと、少しは人らしい活動が出来たかなと感じる。ロングバケーションは無い国だが、そうであるならば、ショートが2か月に一度くらいあればよいのにと思ったりする。祝日がもう少しあってもよさそうだが、講義が出来ないなどの苦情が来そうだが、それはWebツールで解決すればよろしい。

五月連休が終わると、夏休みを目掛けることになるわけだが、長期の天気予報を拝見するに、猛暑が長く続くよう。世界の豪雨や暴風雨のニュースを見ているのだが、それが当たり前のように発生している様に、これが本当に人類活動の結果だとすると、それだけのエネルギーを無駄に垂れ流していたのだなと、エネルギー保存則を思い出して、人類の凄さを感じるのだ。こんなことが出来るのだなと呆れかえる。

どんどんと増え続ける人口だから、それを養うためには更にエネルギーの投入が必要になるわけなのだけれど、信じられない省エネ技術などが飛び出してきたり、自然共生経済という概念の導入ももたらされたりして、体力だけではなく、知恵の活用も見られるところは少しは安心したりもする。呆れたり安心したりと忙しいが、休日中に恒例の茶摘みをやって、気温の上昇を感じた。

例年に比べて明らかに芽の伸び方が違った。葉っぱが大きく、茎も伸びて、嵩は多いのだが、新茶のなよなよ感がなく、しっかりがっしり(それ程でもない)という感じで、農家さんなどは現場を見ながら収穫をなさっているのだろうけれど、八十八夜みたいな伝説を面白がっている程度の民からすると、定点観測的な収穫となって、例年との違いに驚かされるのだ。人類の文化と経済活動。その有り様を考えないと、文化を全部捨てないといけないような状況に陥るのではないか。そう感じた茶摘みである。