捨てられない

大量の本に埋もれて亡くなった方のニュースを見た。御冥福をお祈りする。教授室や宿舎の書斎を眺めると同じ運命が待っていそうだなと、テレビが宙を舞ったと仰った三菱電機の先輩のお話を思い出した。備えあれば憂いは無いのだが、本を無くせと言われると、まぁそれは無理だなって思う。活字があって生きているみたいなところがあるからね。書棚だけは固定しているけど、本そのものは狂気となって宙を舞うだろう。

書棚をなんとか空にしたいと、雑誌などは断裁して電子的にスキャンして読めるようにしているのだが、これがかなり決断が必要なのだ。学会誌などはえいやと出来るが、太陽みたいなものになると「いやいや」となってしまって書棚に鎮座し続ける。いずれ死んだらゴミになるのはわかっているのだから処分するべきだが、未練と言う人間臭さがそれを阻害する。

毎日一つ捨てようと決めて頑張るのだが、捨てても捨てても何かが現れる。断捨離を格好付けてやっているわけでは無い。なんだか長い事生きてきて、あちらが近づいてきたので、整理をしておこうかなと思っただけだ。しかしながら未練の塊だから、それがなかなか進まない。きっぱり捨てられる人は偉大な人だ。心底そう感じる。

言い訳はいっぱいある。まだ講義をさせて頂いているから参考書が必要だ。新しいモノを作っているから原子の結合に関する書籍はあればある程良いなんて凄まじい言い訳だ。一つの言い訳はありとあらゆる方向に応用できてしまう。これが厄介だ。引き出しの中には無限の小銭がある。これまたマーケットで使おうと思うのだが、これが気合を入れないと必ず増える。そもそもネットでのお買い物は小銭を減らさない。特に50円玉は減らない。山の頂の心地良さはこんなところにもあるのかもしれない。水平位置に何もない。独特の美しさだ。かくありたい。

慌てない

東京駅と小田原駅間で何故通電を停止しなければならなかったのか?停車中にアナウンスがあるわけでなく、ニュースで何かあるわけでなく。現場の関西方面は理解出来ますが、何もなさそうな関東で止めてしまうのは何故だったのか?さっぱりわからない。

豊橋手前で、車内の掲示に関西方面で震度6弱の揺れと出た時に、下り線が名古屋辺りで詰まりそうだから、少しは遅れるかなと思っていたら、送電停止のアナウンス。がっくりである。前入りしておけばと思っても後のお祭りですな。緊急停止である。最初はカーブの地点で止まったので、傾いていてこれはきつい。5分くらいで動き出し、平坦路で停止。すると静岡駅まで行くという。

その昔は何があってもドアの開放は無かったけれど、様々な事象で学んだのか、静岡駅でオープンとなった。一方で、何時、動き出すか全く分からないという。コーヒーを買いに表に出たりしながら、偶然に持っていたPCでお仕事などしながら過ごすこと2時間15分。出発した後は新横浜までそれこそ脱兎のごとくだ。出し過ぎじゃないのかと思う程の勢いで、新横浜まで。東京駅付近は動かないというアナウンスの下、殆どの乗客が品川で降りた気がする。払い戻しの列は物凄く、また、改札の外も大混乱状態。

帰路がこれまたえらいことだ。12時過ぎに下りは動き始めたようだが、ダイヤの乱れどころではない。まずは腹ごしらえと改札を出てゆっくり座って食事だ。これが大切。これが出来ない奴は山で遭難死する。落ち着きは満たされた腹から来る。構内はすったもんだだが、動き始めているのでホームには隙間が出来る。遠距離ののぞみは満員だから、近距離のひかり狙いで自由席に着座出来た。経験の成せる技と言えるかもしれない。窓の外を見ていたが、すれ違いは名古屋まで4本のみの異常事態。車両が足りないのだろう。名古屋駅の阿鼻叫喚、凄まじい。まぁ、そんなこんなの週の頭の出張でありました。

繰り返すのは何故

20年と聞いてそんなになるかなと、トヨタのルマンへの挑戦にモータースポーツを愛する小生として、なんだかんだで嬉しく思った。市販車とレベルが違いすぎるけれど、世界一は素晴らしい称号である。ハイブリッドによる全速度域でのトルクの伝達の正しさを漸く証明しましたねと、魔法みたいな仕組みでよくもまぁ頑張ったものだと感心する。

繰り返しの努力は必要で、何か頑張っていると突然閾値を超える時が来る。それまで頑張れるかが重要で、周りの理不尽な妨害などにめげずに続ける根性が根幹になければならない。それに加えて自らの創意工夫を凝らし、壁を超える時、自分のものに、なにかがなる。 

柳の枝にカエルが飛びつく事が本質ではなく、何故カエルが柳の枝に気がついたか、飛びつく事でなにが得られるかを思ったかが重要で本質だ。与えられたから努力するなどという事は度外視で、今を続けるだけの人も問題外。

新しい世界を開くのは創意工夫しかない。扉を開くのではない。既に扉がある世界などに拘る事に興味はない。世界を作り扉を開けて人々を受け入れるのが良い。受け入れたらまた次の世界を創れば良い。それだけの事だ。

 

地球の上

3億キロメートル先のターゲットに接近して着陸させる。無人の状態でそれを実現する。宇宙を進むロボットと言えるだろうか。人工衛星技術はウルトラローテクであるが故に安定していて安心感がある。太陽系誕生時代の、言わば「塵」なのだが、その頃の情報が残っている愉快な存在であることは間違いない。

その頃の塵が集まった状態が、一度の大衝突も経ずに残っているのが火星である。この火星には有人で行くという。こちらは相当にタフな旅になるらしい。想像に難くないのだが、実際に自分が行くわけではないので「らしい」という表現で勘弁して頂こう。一人で山歩きをするレベルではない。大地と別れて数年間、宇宙の中で孤立するのだ。まさに孤立だ。この孤独にどうやって耐えるのだろう。

数年間分の食料等々、全てがそこにあるといえば聞こえが良い?がそれしか無いのだ。そこにあるものしかない。新しい何かに触れるとすればそれは火星だ。火星に到着して終わりではないのだ。帰らないといけない。どちらのモチベーションが高まるだろうか。凄まじいイベントである。

ここまで凄まじい孤独にはなかなか遭遇できない。いや、遭遇したくない。大地があるから何処かに行ける。その意味を感じることが出来ることができるのではないか?地球の上に居る限り、今のところ誰かに会うことが出来る。こんなに有り難いことはない。今日もお出かけだが地球の上だ。なんだかほっとする。そんな気分だ。

言うは易し

研究力が落ちたからなんとかせよ、若手が会議に出る時間を減らせ。閣議で言いたいことを言う。一方でゼロックスは1万人のエンジニアを削減する。5年の任期付きで所属をどんどんかえれば視野が広がって良い研究が出来るようになるとかなんだとか。大学を減らせとか様々な声が聞こえてきますが、はてさてこの国何処に行くんでしょう。

昔は良かったと叫び続けるのはいい加減にやめた方が良い。日本が新興国だった頃、現在の新興国の方々が日本に勉強に来ていた。その方々が爆発的に勉強して、日本の機能が薄まったということだ。十分の一の寄与が千分の一の寄与になったということだ。力が急激に弱まったというが、30年前に企業が「大学は余計なことを教えないで良い、企業が教えるから」とふんぞり返った勢いは何処に行った?

都合が悪くなるとその責任を他に転嫁する癖が日本にはある。国立大学を削減して私立だけにしろ、国には金が無いんだと言いながら、研究力が落ちているからなんとかしろとか、様々な圧力で研究者を苦しめる。腰を据えて研究したくなる奴なんか居なくなるって。当たり前の話だ。

企業の中とてそうだろう。イノベーションを起こせなんて簡単に言ってチームを作って新規事業を起こせなんて、魔法使いでは無いのだ。イノベーション難民がどれだけ社会に居るのだろう。ただ、目の前で動いてる3Dプリンタなどをみていると、何かやっている内にアイデアが生まれるかもしれないと思う。そんな環境を0歳児に与えるのが良い。30年後に何か変わるかもしれない。教育とはそいういうものだ。教育より尊いものは無い。嘉納治五郎初高等師範学校校長が仰っている。その通りだ。

油断大敵

昨年、名古屋港でも話題というか恐怖をまき散らしたヒアリの活動がこれからの暑い時期に活発化するとのこと。幸い、目の前で見たことはなく、TVなどで話を聞くと自らの油断に苦笑いだ。常に危険がいっぱいだ。我が国はなんだかんだ言っても安全だなとは思っていた。

最近は新幹線で悲惨な事件もあり、また、通り魔が頻発し、物陰が薄ら恐ろしくもある。安全は神話になってしまった感がある。向こう三軒両隣なんて感覚はがきんちょの頃には確かにあったが、今は、あまり聞かない。聞かないが、小生の周りはそれが維持されているから、古典的町並みと言っても良いのかもしれない。

それでも駅からの夜道は、田舎故に竹林などの前を通る必要があったり、街灯もない暗がりを通るのは薄気味悪い。誰もいない山道では獣との遭遇という恐怖はあるが、都会の恐怖は別物である。

南方の生物が何故毒を有するのか。いろんな説があるそうだが、彼らが食している果物の発酵したものやカビなどの毒が集約されているというものや、体の中で合成できるなど様々だ。人間の毒はどこからくるのか。同じ生命同士で殺し合うことを避けることで、ホモサイエンスは生き延びてきたはずだ。5年後を予測してなどと暢気な講義を展開していて良いものか?この瞬間も命があるのかどうか解らない、そんな恐ろしい日本になったなとがっかりの私であります。

切羽詰まらない

切羽詰まる。切った羽が詰まる。凄い表現である。刀の鍔を抑える金具のことだが、それが詰まると刀が抜けなくなって相手に切られてしまう状態だ。重要なことは常に準備をし、切羽詰まらないように行動しなければならないということ。なんだか、切羽詰まったななどと安直に言うということは、まだまだお仕事が足りないと言うことだ。切羽詰まると安直に使ってしまうが、実はその状況を解っていないのだ。だからきっと切羽詰まっていない。

崖っぷちはかなり知っている。実際に1000mの落差を目の前にしたこともある。崖っぷちだ。ただ、これもまた縁までは行ったがその先に一歩踏み出したことはない。だから崖っぷちという単語の意味も恐らく知らない。谷底は知っているが崖っぷちなどの高みは知らない。そんなもんだ。

もうだめです、限界ですと言う言葉もしょっちゅう聞くし小生も使う。使うが、もう駄目というかあちらの世界に出掛けたことは跳ねられた時くらいであって、お仕事的にはあちらにお出かけをしたことはない。きっと誰もがそうだ。あっちに行って帰ってきた人間はそうそう出会ったことがない。だから大丈夫だ。

経験を積んだ人間が、経験の内人間に威張り散らす。これこそあっちの世界の出来事だ。巧言令色少なき仁の民は、この地において不要である。こけても前向きに立ち上がり、その場で泣き叫んで良い。それで良いのだ。でも、泣きやんだら一歩進が良い。それが新しい道だ。行くが良い。道は無くても夢があれば良い。そんなもんだ。だから切羽詰まらなくて良い。そんなもんだ。

中学生の頃にケント紙という硬く白い紙に、T定規なる凶器を使って図面を書くのが面白く、それ以来、ずっと手書きの図面を作成するのが趣味であった。趣味であったというか、紙に書いてしまうというところか。流石にデジタルツールを使うようになったのだが、それでも2次元図面であり3D図面などは縁遠いものであった。それが3Dプリンタを買ってしまったところから、3D図面を描かねばならなくなってしまった。

3DCADと呼ばれるカテゴリのツールをいじるわけだが、何種類か存在しているFreeツールに御厄介になるのだが、このお作法というか、それに慣れていかないと思うような立体物が出来てこない。格闘である。2Dを描いたら勝手に3Dが出来るという魔法のツールかと思いきや、やたらと文句を言ってくる。作法が違うと。お前は生け花の師匠か?と、その上から目線が腹立たしい。ただ、これが新しいツールを体得するためのハードルであると我慢する。

体に染みついた昔流を若手に押し付け威張り倒し、いじめて追い出す、なんだかそんな旧態依然の社会状況を実感する。ただ、これはどんな仕事もそうだと思うのだが「これをやらないと前に進めない」という現実が目の前にあると、為せば成るもんだなぁと。前日にこんなもんかなというところであったものを全部捨てて、やっぱり目指すべき、到達するべきゴールを目指すべきだと気を取り直して取り組んでみた。ショパンから始まってQueenを2枚、そしてシューマンのピアノ曲の5曲目に出来た。まぁ、こんなものかなというレベルだが、形にはなった。

これを3Dプリンタに送ってみてどうなるかだ。ここにもお作法があって、図面は出来ていても3Dプリンタが解釈できないなんてことも発生する。まぁ、新しい事なんてそんなもんだ。出来ないから面白い。出来た時の喜びは、こんな年齢になっても大きく、そして頑張ったなぁと、それだけに対してのご褒美だが、有難いもんだ。出来なければ淘汰される。それだけのことだが、何か新しい形を創り出せる、良い時代である。時代は旧態依然を否定してくる。だた、努力だけは永遠に変わらないのではないか。それを実感出来た週の始まりであった。

ロビタ

家事ロボットを漫画にしたのは流石の手塚先生である。ロビタは何も最初から家事ロボット言うわけでは無かったが、成る程、人間の脳の知識情報を全て機械に閉じ込めようとすると未来においてもこれだけのサイズになっちゃうだろなと、妙に納得した。

ロボットでありながら人間である。「こうして欲しい」とロボットに語っても「しかしですね」と反論してくる。これがロボットとは違うところなのだが、今ではAIが普通にやってきそうだ。そうなってくると人間とAIとの境界線がどんどんと薄れていきそうな、そんな気になってくる。

学生の頃に貪るように読んだ火の鳥だが、もう一度読んでみたい漫画は何だと言われると恐らく火の鳥と言うのだと思う。素晴らしい作品だと感じる。こんな時代があったのだろうと妙に納得もする。結局のところ、人は何処からきて何処にいくのか。永遠のテーマである。

命には限りがある。限りがあるからその限界という境界点まで突っ走れるのだと思う。だらだらの人生など不要である。今日も一日を過ごしてみようではないか。そんな朝である。

朝の風景

交差点に差し掛かろうとした時、前方から突進してきたベンツが眼前を横切った。どんなに上等の車でも乗りては選べないということか。朝っぱらから「三度目」に出会いそうになり、えらく不機嫌である。なんとなく嫌な予感がしたので立ち止まったが、今では当たり前の風景になってしまったスマホ歩き野郎(野郎ばかりではない)であればNext Lifeへご招待であったろう。

ふと気が付くと、御器所の辺りは建て替え物件や、足場を組んで外壁をやり直すお宅が多いことに気付く。戦後の建物のリプレースと、先のオリンピック前後の家々が大型修理の時期なのだろう。メンテナンスフリーの住宅が理想なのだろけれど、人が作ったものは必ず壊れるし、まぁ、自然とてうつろうわけだから、結局のところ、ためたお金は出ていく定めにあるらしい。

御器所から鶴舞大学に至る途中のお屋敷には、ベンツだけではなく、高級車と呼ばれる部類の四つ輪が沢山並んでいる。一体どんな人達が住んでいるのだろうと思っていたのだが、自分さえ良ければという人達だということが良く分かった。恐ろしい街である。

家は土地を縛り、家具は家を縛る。昔の人は良く言ったものだ。縛り合う関係にはなりたくないものだ。お互いが高めあうそんな組織でありたいし、人でありたい。まぁ、出来損ないの人類であるからそうも都合良くは行かないのだけれど、まぁ、元気で社会のために頑張れる組織になればいいなぁと、組織を縛ってはいけないとあがいている私であります。