興味と趣味

心が動く、それはその対象が何かを感じさせてくれるからだ。それが世界で最初の出来事であれば当然そうだろう。それを日本語は興味と呼ぶ。単に面白いということではない。心が動くほどのものである。後悔などなく、のめり込める、そんな対象に興味を抱く。楽しみであり、それを体感し味わうことが出来るほどの楽しさだ。興味とはそれ程に優れている。

趣味とはまた違う。興味は自らの外にあり、趣味は自らの中にある。それ故に、趣味は身勝手であり、利己主義者は趣味のみ満足でき、自らが制御できない興味という人間が到達した文明を理解することは出来ない。自らのミスを他に転嫁し、正義は趣味の中の自分にしかないと断言し、他を排斥する。

会話力によって生き延びたホモサピエンスも、趣味のみに生きるDNAによって滅びるのだろうと実感している。やまとごころなど無いのだ。日本人は須らく滅びるということではないが、ネアンデルタール人が滅びたの如く、趣味人は消えていかねばならぬ。旧人類と蔑まれようが、興味を抱ける民は、その慈しみの心によってその生命を永らえる。

泣く人が居ない。そして笑顔になるだけの出来事に興味を抱けない。自らだけが正しく、自らを正当化し、他を排斥する者がはびこる今、旧人類は心を揺らがせることなく、死を恐れず決断せねばならぬ。決断を知らぬ者によって決断を迫られる時代になっているのだなと、陰口、裏表を定常状態とする者に溢れた世の中で生き抜く辛さを感じる私であります。