真実は?

先日、某所での展示会で「仕上げレスで鏡面です!」と叫ぶ、まぁ、中京地域だったら威張りくさりそうなブースで足を止めた。確かに綺麗だ。中京地域の同じ絶叫に比べれば、確実に上を行く仕上がり具合だ。立ち止まり視線を落とすと「0.6μmかな」。何故解るのですかの問いかけに、「いやいや、中京地域なら表面だけの粗さだけど、御社の製品は内部の歪が少ないね」の問いに頬をあからめる。中京地域の技術が自動車目線でそれ以上を求めなくなっているなかで、きちんとモノを作っている人たちが我が国には残っていらっしゃったことを知ったことは偉大なる収穫であった。

何を作るか問題だが、自動車などはもう我が国で作る必要は全く無い。5Gの世界がくる中で、車の中のハーネスに頼る時代はもう無い、いや、とっくになくなっているのに、さもそれが必要の如くにうそぶくモノづくり屋と学者によって踊らされてきただけだ。税金を産むのは自動車だけですからね。それは否定しないけど、ものを作るという点において、日本の置き去りにされた感は凄まじい。図面を形にしただけでしょ?その図面の価値はなんだったのですか?そこまで威張る根拠があるのですか?まぁ、そんなもんだ。

で、じろじろ世の中を見渡してみると、人間である限り、やはり自らの能力を最大に発揮できることこそ豊かな社会と言えるのではないかと、心底思うのです。五体満足でも智慧がなければでくのぼうだ。きらりと「あなただけ」の力を発揮できれば、それこそ「命」である。その命の価値を最大化させるものづくりが出来る時代になったと思うのだ。人類が作った電子頭脳が、人間の処理能力を超えた時代である。否定してはならない。

計算機を形作る世界で面白いお話が最近出てきている。40年近く前の技術が伝承されていないと。オートメーション化された機器を繰り返しと言う嘘の経験に依って威張ってきた連中が世の中を作っている。実は真理はそこには無い。無いから技術の伝承は成されない。ボタンを押すことは技術では無い。何を作るかの前段階で、我が国は既に滅んでいる。だからこそ、ゼロから数字を産む奴が必要なのだ。それを褒めたたえる文化が必要なのだ。