和を以て

子曰く君子は和して同ぜず小人は同じて和せず。和とは同じ方向を向く事では無い。協力し合って一つの方向に進むことである。その時、自らの力を自らなりに発揮していることが組織として最も重要なことである。和を以て貴しとなすと聖人は申されたが、単に仲良くなれと仰られたわけでは無い。皆で同じことを考えよう、実行しようなどと伝えている者がテレビの向こうにいらっしゃって驚いた。

聖人と言えば聖徳太子だが、教科書から消されるという。小生くらいの年齢であれば、一万円札と言えば聖徳太子であって、聖徳太子は居なかったといわれると、厩戸皇子まで架空の人物みたいになってしまっていて、週刊誌などでは、作られたイメージなどと書かれているから、日本人のいい加減さには呆れかえる。まぁ、皇族の家系図ほどいい加減なものは無いと言えばそうだが、武士よりはましだ。記録がある以上、いらっしゃったことで良いではないか。

法隆寺は言わずと知れた世界最古の木造建造物だが、釈迦三尊像など、劫火から免れ、厩戸皇子死後直ぐに創られた像が現世に繋がっていることは奇跡であって幸いなことである。光背に刻まれた碑文ですら、学者が偽物と面白がって叫ぶが、鋳造当時のものと現代科学的に解き明かしたとしてもそれを認めず偽物と叫ぶ姿こそ、偽者であろう。

大声に従うことを否とは言わない。しかし、自らの判断基準無く付き従うことは辞めたら如何か。和を以て貴しとなすを間違って捉える風潮は、AIの登場で益々恐ろしい方向に進んでいくのではと、今一度、温故知新。自らの文化を読み返し、真正日本人として歩んでみたい。昨日、勤続20周年式典に参加させて頂き、しみじみ感じた私であります。