手帳

手帳はパーソナルアシスタント。私だけのアシスタント。それは秘書の方をはじめ、特殊な職種を除けばそうだろうと思っている。単に思っているだけだから、私は違うという人は勝手に叫んでいてください。小生は兎に角そうだ。12月に入る前から地下鉄などの釣り広告に次の年の手帳の宣伝が目に付くようになる。

小生が紙の手帳から離れ始めたのは1993年だから、もう24年も前の話だ。HP100LXの登場で、PCと携帯電脳とをリンクさせ、紙離れを目指したのがきっかけだ。アシスタントは一人でなければ情報が分散して不便この上ない。今で言えばiPhoneに日程を入れて、それを紙に写してなんてことをしているようなもので、二度手間で、情報の欠落の恐怖にいつも怯える。もっとも、今も、紙の手帳が気になるのは、電子媒体への不安である。消えるのではないか?実際に、職場のシステムが変更されたり、電脳側のOSのバージョンが大きく変わるなどした時、あったはずの予定が見えなくなるということを今でも経験する。まぁ、紙の手帳に書いていても、仕事に熱中していて次の会議を忘れちゃったなんてことは、よくある(?)ことですからね。

学生の頃、小生のボスが能率手帳をご愛用なさっていた。小さな紙片を手帳から取り出して、無言で手渡される時の恐怖は凄まじかった。突然、夜中の3時に現れて、5時までで良いからワシの宿舎のポストにデータ入れとけと言われる時の恐怖。それでも必死にこなして自転車を30分ほど漕いで宿舎にお伺いすると、待ってましたとばかりお出ましになり、「朝飯くいいこ」と、その後も内容吟味で、延々とお説教が始まる。気が付くと完全に話題はふっとんで、じゃ、自転車のとこまで送るから、でさようならである。時々拝見する手帳の中身は、表紙の黒よりも深く漆黒だった。

今もって、そこまで予定や思考がアポブックを埋めることは無い。いや、埋められるほどの力は無い。持ち歩くものを最小化することに躍起になり始めた24年前。電脳だけをパートナーにしようとあがく生活を描いた「電脳のある風景」という唯一の電子出版物の原稿もどっかに行ってしまった。独りに帰属するはずの日程が、オープンになって隙間を埋めてこられる昨今、オープンにならない紙の手帳などなんの役にも立たない。いや、小生の場合は立っていない。趣味で併用していたこともあった紙の手帳も、懐古の対象でしかない。ただ、憧れはある。買った直後の何もない日程。それが永遠に続けばと幻想を抱ける瞬間。既に来年の5月くらいまで埋まり始めているアポブックを見て苦笑する私であります。