庭園

恵林寺というお寺があって、幼少の頃に「心頭滅却すれば火もまた涼し」の寺として母親から刷り込まれた。夢窓疎石和尚が開山されて、その庭園を拝見したのは中学生の頃。それから寺院の庭園とは素晴らしいものだなと、疎石和尚が手を入れられたと伝わる庭園を見て回っている。全国にあるので、なかなか全てを拝見というところまで至っていない。至っていないことの幸せを感じている。コンプリート出来ないことの満足感。同じ庭園を拝見するたびにその感覚は変わってくる。だから全てを拝見ということにこだわる必要は無い。

満点よりも60点を取り続ける方が偉いものだと思う。実際に相当の努力が無いと60点を取り続けることなどできるはずはない。しかし人は残りの40点も欲しいと思ってしまう。まぁ、完全を目指すことは悪いことではないのだが、完璧を目指すのはそこで終わりと思ってしまうからで、60点を取ったらそれは半分以上を理解したということなのだから、更に次を目指してみては如何か。地球の歴史から見れば点にも満たない人間の寿命である。新しいことだと思っても1万年前の人類が既に思考していたのかもしれない。今だから出来ただけだと思うと、満点などちゃんちゃらおかしい。

満点が明確になっているスポーツは愉快だ。見ていて極めて判り易い。野球のホームランなどはその典型例だ。2本のポールの間にある壁を越えたら必ず点が入る。ゴールが無い世界を走り続けろと言われたらどうだろうか。その昔、宗兄弟はマラソンの練習で220kmを走ったそうだが、一人で箱根駅伝を走破出来る耐力だ。こうなってくると既に哲学の領域とも言えよう。人類を逸脱した哲人と思える。普通の人にはとても到達できない。到達できなくて良いのだ。それが人間というものだ。弱いから頑張れる。

心頭滅却と唱えてみても既に滅却していない。何も考えるなと禅寺では言われるが、考えない考えないと頭の中で反響して、既に考えないことを考えている。禅寺の庭園はそれを作庭された方の心の再現と言われる。生きざまとは心の再現そのものであろう。頑張りすぎず、立ち止まってみる。そんな一日を過ごしても良い。その気になったらまた歩めば良い。そう自らに言い聞かせると、なんだか愉快になる。そんな一日にしてみたいものだ。