駄目なものは駄目

共通テストの監督業務で最も厳しいのは全国共通・統一で実施するということだ。槍が降ろうが(降らないけど)大雪だろうが、なんだろうが同時進行だ。そして解答止めの号令で一斉に終了だ。試験開始前には試験監督に従うことと指示を出す。それでも止めずに行動する。それがニュースに出ていた無効裁定だ。当人も親も真っ青なのだろうが、それがルールだ。ルールは守らなければならない。努力した人が泣きを見るようなことがあってはならない。それが重要だ。

共通テストだけではない。大学の定期テストなどでも「筆記用具をしまいなさい。これから解説です。筆記用具を持っていた場合にはカンニングとみなして零点です」と宣言して解説しているにも関わらず、「赤ペンで自分の答案を採点してしまいました、どうしましょう」と頓珍漢な無法者が現れる。複数名現れる。それはカンニング行為ですねと宣言すると途端に騒ぐわめく押しかけてくる。一体、どんな育ち方をしているのかと、当人がかわいそうになる。

駄目は駄目なのだ。このフレーズを戯言で過去20年以上にわたって何度言ったか忘れたが(覚えるつもりはさらさら無い)、駄目は駄目と至極当然の会話が成立しないような世の中にいつからなった。なったことは無いのかもしれない。戦争になれば人殺しだって可になってしまうのだから、駄目は駄目という基準は神様にしか無いのかもしれない。モーセの十戒がここに現れるのだろう。唯一神が駄目といったから駄目。クリアである。

誰かが決めたから駄目、慣例だから駄目、気に入らないから駄目という駄々っ子製造装置みたいな大人も居る。そんな人が存在すると言われたらそうだねと言わざるを得ない。しかし、やっぱり駄目なものは駄目。全国統一の名の下に指示される行動に対して、それに反する活動を行ったらそれは受け入れられない。社会とはそういうものだ。それが実施されている内はまだましかもしれない。その内にそれも無くなるのかもしれない。そうなったらとっととこの星を去るとしよう。そんなところだ。