組織論

今日は研究室が所属する大学院専攻の修士論文審査会。学生諸君の中には自己本位のコミュニケーションの世界で生きているので、他者の意見を聞き入れようとせず、また、疑いの目を持って他者と接するので、こちらの意図を伝えることが極めて難しくなっている。それを単に年齢差だというのは簡単で、駄目だというなら、駄目だと言った側の正当性を明確に相手に伝えなければならない。それが出来ないのであれば駄目という人間側が退出する時代になっていると実感する。根性主義は通用しない。

当たり前だが社会はローカルな集団の集合体で、それらが何らかの客観的指標を持って繋ぎ合って維持されている。客観的と思えない指標が振りかざされると、すわ一大事、戦争にまで発展する。やや大袈裟だが、突然病になったり自殺したりと、そんな話を間近で聞いたりなんかするわけだが、一方的価値観で相手にプレッシャーを与えてりるのではと、常に感じなければならないと思っている。こうするほうが良いのにと思ったことが、実は単なる自己の己惚れであって、真の第三者から見たら欺瞞の王様になってしまっているのかもしれない。

国立大学は中立組織だから、常に第三者の立ち位置が求められるから、例えそれが研究の場においてですら、なかなか前進しようとしない者であってもそれを一方的に責めるのは間違っている。常に聞き入れられるにはどうしたら良いのか悩み続けなければならないし、批判を来る返すなど言語道断。誠にもって難しい。19世紀から21世紀まで、それこそほんの一瞬の間の筈なのだが、徒歩でのやり取りが光速での伝聞になった時、人間同士の繋がりは、むしろほんの周囲の人間同士ですら希薄になってきているのだと認識しなければならない。

一所懸命にやっているのだと認識して、それがその人物にとってのものであったとしても、その積み重ねを自己の組織内の機能の一部として取り組むことが出来ないと、纏めるものの無い独裁者という、ロバ耳大魔王に陥ってしまう。それが仮想現実で生きてきた者と、リアルなものづくりで生きてきた者の関係性であり、そこに踏み込めない者は消えるべきであって、指導者の位置に居るべきでないと肝に銘じるここ数年である。旧態依然の社会と仮想こそ是とされる社会。恐らく、様々な時代に繰り返されてきたことだと思うのだが、妙に定年などが延長されてしまって高齢者自殺者が増えるんじゃないのと、終活なんか真面目に考えたりする私であります。