工学

学理の探求から得られた結果を、どの様に社会にとっての価値に転換していくかという学問が工学であろう。様々な捉え方があって良いとは思うが、小生はそう考える。どのように成果に繋げていくかそのストーリーこそ工学人が描く物語だ。より多くの人が関わる物語を描いていく。完成する事の無い物語。今日できた物は既に次の瞬間には既に過去の遺物。それが工学人の宿命。それを面白がる余裕と先人への尊敬こそ持つべき意識だ。

関門トンネルも青函トンネルも、先人の偉大なる技術の成果だ。老朽化が問題となっているが、それが工学だ。明日のために過去を学び、常に刷新を続ける。その歩みは止めてはならぬ。根幹は基礎学理の探求である。何故こうなるのか解らないということがあれば、それは今の理解が間違っていると、自然に頭を垂れねばならぬ。それを数の論理で押し通すようなことはあってはならぬ。ノートの書き換え、データのすり替えみたいなことが起こってくる。

たとえ散ったとて、そこには桜があり、また咲いてくれると期待する。それと同様に人はあるべきだ。だからこそ日本人であり、信頼し合う民である。咲いてくれた桜に「おかえり」と声を掛ける優しさと包容力を抱くべきだ。倒れてもひっくり返っても、歯の食いしばりと血の滲みに敬意を払う。それが工学だ。真理の探究から産まれる学術を、笑顔を産む価値に変えていく。それこそが工学人のあるべき姿だ。

大きな組織を求める声が上がり始めていて、小生の耳にも入ってくる。それは違う。組織ではなく、何を成すべきかの理想を問うべきだ。寺子屋が民主主義を作り得た様に、学び知恵に変えていく為に大きな組織とは異なる指向性を持った組織が必要なのだ。供に活かしあえる。尖った技術を持ち、大きな組織とも堂々と会話が出来る。供にポジションが異なるのだ。同一視してはならぬ。