人類の退化

自動ドアは一定質量を超える物体がスイッチプレートに置かれると、なんらかの作用によって物体が存在していることを検知され、その結果、ドアが開く。雨風の中、壊れることなく動作し続けるこの仕組み、凄いと思う。PM2.5が襲ってこようが大雨、大雪だろうが、横綱が乗ろうが(見たことは無いが)、人が乗ると開くのだ。ちなみに秋田では(こればっかり)雪よけの覆いがあるのが主流だ。秋田の雪をなめてはいけないという話では無く、自動の話。

今のところ、自動と言えば運転だろう、たぶん。フォルクスワーゲン社の1充電800Km走行で、ハンドル、アクセル、何もないなんていうのは当たり前。道路の上の自由というビジョンを掲げた電気自動車かつ自動運転車。それをぱくったかなんだか知らないが、某社がアクセルやハンドルも無く、感情を理解する人工知能を乗せた電気自動車というコンセプトを今更ながら発表した。それを日本のマスコミは凄いことだと発表する。このあさましさ。なんとかならないものか?

電池がしょぼいから電気自動車はあり得ないと言っておきながら、いつの間にか、両刀使い。ガソリンを使って距離を稼ぐ。小生は間違っていないと思う。思うのだが、炭酸ガスやPM2.5を集団でまき散らすことを正しいとは言えない。気分次第で何処へでも行ける。荷物も運べる。こんな便利なものを人間は捨てないだろうなと思う。一方でチケットを買って椅子に座ったら、快適に運んでくれる電車というツールは、疑似的自動運転と言えないだろうか。経路も目的地も決まっているが、第ゼロ近似的自動運転車だ。

自動運転というか、インフラもそれに応じて変化しなければならない。自動車だけだとえらいこっちゃだが、街も人も変わっていけばよい。バーチャルではない、人が移動して出会う世界は大歓迎だ。自動運転だろうがなんだろうが、人と人が出会わなければならない。しかしながら、自動運転は人間の考え運動する機能を猛烈に減退させていく。自動運転車が街に溢れたら、カタツムリみたいな人間が徘徊するのだろうか?努力の末の自動運転車が人間を退化させると思うと、小生的にはドタ靴を履いて岩山を歩いているほうが幸せだなと思ってしまう、私であります。