技術の棚卸し

技術の棚卸しが加速している。特に製造業の技術伝承ということだが、高齢化まっしぐらな状況において、次世代に残るべき技術は何かという取捨選択をしている。これは誠に遺憾なことである。技術にもならない適当な口伝であればそんなものは消し去るのが良い。研究室の先輩が、たまたま上手くいったから、この前処理はこうするのだというようなことがあると、改善ループが途切れてしまう。こんなものには棚卸しは有効に働く。

そうではなくて、AIやロボットが代わりにやってくれるからというだけで捨ててしまう技術が増え始めている。特に腕力が必要な部分において、かなり消え去った技術と言うものがある。いきなり橋が落ちるとか。隠された前提こそ技術であって、それが伝わっていかないと、新しい工学などその上に乗るはずはない。

親方日の丸の仕事に関わって、まぁ、そんな場所に出ていると、世界情勢がひしひしと伝わってくるわけだが、それを先取りできる理解力、解決力、問題発見能力を講義していくとなると、教育プログラムの相当な棚卸しが必要になってくるのは間違いない。それに加えて自習するべき範囲がべらぼうに広くなる。これなどか喫緊の課題であるのだが、大学統廃合などでは決して解決しない内容である。

技術は人のためにあるから、当たり前なのだが、人が成長しようとする意欲と、意欲を支える基礎学力がどれだけあるかだ。江戸の終わりに西洋に目を向け始めた先人は、殆どゼロから言葉の壁を破り、知識の壁を乗り越え学問を身に着けていかれた。自学自習などできないなんてことは正に戯言である。ましてや伸びようとする者を陰口で追い詰めて引き下ろそうなど言語道断。天網恢恢疎にして漏らさず。そんな人間にはなるまいと、こつこつ、やっぱり一歩ずつの私であります。