虚数

複素数って良くできていて、自乗して正と負になる。こんな面白い数字は他にはない。電磁波と物質の相互作用を表現する時、こんな便利な数式は無い。研究をしていけばしていくほど、成る程なぁと感心する。まぁ、最近はちっとも研究はできていないのだが。

今はとても便利な世の中である。何が便利だと言えば計算機。ちょっと試して駄目なら修正。自由自在だ。その昔はパソコンにもマシンタイムがあって、若い連中はキーボードにすら触らせて頂けない。パソコン様である。謎めいたプログラムを動かして計算機に「ダメ!」と怒られてしぼむ。自乗して負を表現することすら、えらいこっちゃであった。

頑張って何らかの結果が得られたとき、何かが生まれた時に、何かが消えていくことが多々あるのだ。これこそ虚数の仕業だと思ったりするのだ。頑張った挙句に消えていく。むしろ消すことに意味がある。消すからこそ生まれる余地がある。足すことばかり考える人はお気楽だろうなぁ。

光あるところに影がある。影が美しければそれは影を造った実態がしっかりしている証拠である。いろんなお仕事をさせて頂いているのだが、この影を美しくすることこそお仕事だなと実感している。黒子とはそういうお仕事だ。間違ってはいけない。自分は何かを成しているのだと思っている間は影は見えない。そういうことだ。

柳ケ瀬再開発

昨日、岐阜に行ったのだが(こればっかり)、駅の近くの開発の目まぐるしいことよ。なにやら、名鉄岐阜駅周辺にドカンとマンションを建てて、柳ケ瀬の南辺りに人を呼び込む予定とのこと。駅の北西にタワーを建てたら殆どがT社系の通勤者が買ってしまって、地元にちっともお金が落ちなかったそうな。その二の前にならなければ良いなとちょこっとは思う。

即ち性善説ということなのだと思う。疑ってそれはやめ様、あれは駄目だと旗振り役が言っていては何も進まない。やってみようかと言えば兎に角何かが動き出す。動き出すはずだ。人生など短いから、なんでこれが出来ないんだと嘆くことがあるとは思うが、そこは一つ、波平さんの年齢を超えても、あぁ、新しく体験することがあるのだなと思えば、何も嘆くことはない。

むしろそもそも生まれた時代背景があまりにも違うのだから、怒るという感情そのものが受け入れられるはずは無いのだ。背中を見て育てなどと、ちょこっと熱くなったとしても、それは全くの無駄である。今日日の若者は他人の背中など見るはずはない、見るのはスマホの画面だけだ。だから怒る感情そのものが無駄、自らのベクトルに向いてくれと思うあなたが悪い。時代「はずれ」だ。

柳ケ瀬に「そろばん」屋さんの大きな看板を見た。そろばんならなんでも揃う。ライバルが離脱していけば、頑張っていればナンバーワンでオンリーワンになる。これはいつの世も変わりそうもない。ロボットが走って階段を駆け上ってくる時代である。人間の頑張りは先を想うことしかないと感じる。人も家も暗いうちは滅亡はしない。右大臣実朝の悲哀を今思う。

秋の味覚

気が付けば冬で、秋のお話が全くなかったなぁと、紅葉が街中で美しくないくらいのネタしかなかったけれど、柿を頂いているときにそう言えばこれは秋のネタだなと思った次第。親族が山梨にいらっしゃって、甲州柿をうんとこさお送りいただいて、様々に楽しみながら舌鼓中である。

山梨で柿というと甲州百目という巨大な渋柿でありまして、それの「ずくし」か干し柿が甲州名物ですな。なんてことを書くと他にも柿はあるぞと言われそうではあるが、その思いでしかないから仕方がない。これが本当に巨大なんですよ。干してやっと普通の柿の大きさと言うと大袈裟かもしれないが、適度に干した干し柿は良いですな。

和菓子の究極の甘さは、干し柿の最大の甘さを超えてはいけないとかなんだとか。確かにそうだと思います。渋が抜けて干され切って表面が硬くなる前の干し柿の美味しさは、これは実に芸術的だと感じています。表面に糖分がびっしりと浮き出る程でないと干し柿では無いという評価はそれはそれで正しいと思いますが、小生はそこまで硬くなる前の段階が好みだな。

11月も終わろうというのに、やっとこさっとこ秋の味覚のネタとは何事だと、新米、新豆が出てきたことでそう言えばミカンの他にもいろいろあるわなと思った次第。甘柿はどのタイミングで食すのが良いのか、これはこれで案外難しいような気がする。サラダに入れても良いし、柿は結構万能選手。美味しくいただきたいですな、有難い事です。

世の流れ

神と仏が出会ったならば・・というお話もあるが、その結果が今の日本だから良かったのだか悪かったのだか。クリスチャンの方々にはなぁんにも関係ねぇだというところだろうが、この地に有史以前から居る種族にとっては重要な話なんだな。名古屋携帯PC研究会幹事長の戯言時代だったら暴言が大爆発だったのだが、機構長の戯言となると、まぁ、これ以上は言えないところが出てくる。消化不良だな。

難しい話はほったらかすことにして、と言うか、まぁ、制限されますわな。だぁ~、とか、ばばぁんとか、言いたいけどそれは言えないとかありますよ。だったらそうすりゃいいじゃんって?その通り、なんだけど、言えないものは言えない。すみません。情けないったらありゃしない。

その流れで思い出したのが、要素技術開発に心血注ぐ企業の方々がどれだけ血を吐いて頑張っているか。丁寧に、大切に、物事を扱っていらっしゃる。しかし、そこで生まれた商品が世の中で同様に扱われているとは限らない、いや、むしろ、乱暴に扱われるのだ。それで「うまくいかない」などと攻め立てられる。時代の流れは速い。しかし、雑に仕事をして良いということでは無いのだ。

戯言らしいフレーズを吐いたが、ボタンの向こうに幸せな世界などないと言っておこう。あるいは、先輩が何もしないから自らも何もしなくても社会に受け入れられるのだと、物凄い錯覚をしている君にも言おうか。頭使えよ。先に生まれた奴が遊んでいるから自分も呆けていれば良い。なるほどね。そんな奴はいらん。いらんというか、誰も求めないって。後輩の悪口言って生き残ろうって?小生の首を掻き切ってみよ!それだけの話だ。

壊してもそのまま

研究を遂行する上で、必ず生じる装置の故障。機械的要素であればなんとかなる可能性もあるのだが、例えばトランジスタが一個飛んだという事態になると、それと同等品を入れ込まないと復活はおぼつかない。これがまた保守部品の製造が終わった直後に故障が発生するものだからたちが悪い。加えて装置開発企業にとっては買い替えを促進するチャンスなものだから、べらぼうにふっかけてくる。

まぁ、形あるものはいつかは壊れるのだから、それがたまたま発生したのだとすれば、まぁ、仕方がないということにもなろう。研究の継続のために何かを削って必要な物品を補填することになる。しかしこのままいくと、間違いなく、破産する方向にいくのでしょうね。では装置を保守しないということで良いのかとなれば決してそうではない。それはあってはならない。

ましてや使って壊してもほったらかして、しらんぷりする輩もいるのだから始末に悪い。それを正当化して威張り散らすありさま。それを守る人種も大勢。やってらんないよと投げ出そうものならさらにつけ込んでくるからそれはしない。粘り腰である。

それにしても装置の保守には御足が必要だ。様々な思いがあるが、単に安い機材の提供と社会に受け止められているならばそれは変更しなければならない。知恵という極めて高尚で得難いものが付加されるのだ。社会はそれを真摯に受け止めるべきだ。そうでないと第二第三のゴーンが生まれる。そんな気がする。

反面教師

ゴーンさん程の方が何故収入申告を過少に申告されたのか?まったくもって理解できない。良い仕事をしているのだから高い報酬があってしかるべきだ。高い報酬があればそれなりの税金を払うのが日本と言う国である。まぁ、どんなにパブリックにつくしても評価されない国だから、そうなってしまうのかなと、国の在り方にがっかりと言う感じもする。いずれにせよ、強力なリーダーシップのお手本が逮捕とは、なんともはや、情けない。

起きて半畳寝て一畳天下とっても二合半だ。所詮は人の世の中の人の在り方だ。実り過ぎて周りが見えなくなったか。曇った眼には何も見えない。山の中で霧にまかれたらじっとその場に佇むしかない。いずれ晴れる。晴れる前に動き出せば後悔しか生まれない。新しく生まれることが、過去への悔いであること程、むなしいことは無かろう。

他山の石と思ってはならない。自らに照らし、背任行為など一切無いと常に実行せねばならぬ。思っているだけでは駄目なのだ。そのためには活動がオープンであることだ。一円に至るまで公開された中で執務せねばならぬ。それが最もらくちんなのである。

ただ、税金が私利私欲に使われるようなことがあったり、理不尽な税金体系であったりすれば、税金を払う気にはなれないでしょうね。海外旅行にばんばん行って、高級車に乗っている家庭が給食費を免除されているとかね。まぁ、ネガティブ要素は尽きないが、やはりやってはいかんことはいかん。反面教師、肝に銘じましょう。

SDGs

今年は里山では紅葉が美しいのだそうだ。まっ黄色に染まる前に落ちる銀杏、赤くなる前に茶色くなり、乾いて落ちる桜の樹々を見ていると、都市部と山部では随分と違うものだなと実感する。記憶になる11月の半ばと言えば、これは寒くて厚着の季節なのだが、ここ最近、動けば汗が流れる状態である。夜明けが遅くなり夕暮れが早くなるくらいは例年の通りなのだが、日が昇って暑さを感じる点において妙な気候が続いている。

SDGsで示される達成目標に向かって、何かをしているのか分からない我が国であるが、大きな17個のターゲットは細分化されて169ものより具体的な目標として掲げられている。掲げられているのだが、そんなことどうすりゃいいんだというようなものも林立の状態だ。「中小零細企業の設立や成長を奨励する」などの項目は、漠然とし過ぎて行動しようがないような気がする。奨励することが目標か?

ロボティクスだAIだなどということは、ほったらかしてもやたらと進むでしょう。これは必然として実施される。ものづくりにおいてはやはりこれは猛烈に必要だ。家庭用パン焼き機を動作させたとしても、同じ結果が得られないような機械が横行しているわけだ。生き物と機械との関りがまだまだ十分ではないということだ。

緑のまま落ちる銀杏、茶色くなって幹で枯れる桜。40度を超える夏のせいだと植物学者がTVで言うが、まぁ、それはそうなのかもしれないが、過去にもあったけどその時は今年ほど、都会の紅葉は汚くなかったと思う。思うが、日本だけのことでは無いのだろう。植物がおかしくなると全てがパーだ。そうなる前に何とかしなきゃと行動に出たいが、大きな政府では何もできそうにない。出来そうにないけど何もしないのはまっぴらごめんだね。ジタバタしてみようか。

ナノテクも良い

重厚長大な大物も良いが、14TB 容量のハードディスクなどというものも愉快である。クラッシュしたらどうなるんだろうという情けない悩みはRAIDでクリアするということなのでしょうね。フロッピーディスクなんていう代物の世代人としてはなんだか無限に広がる世界という気もするが、これが案外、あっという間に埋まったりするから昨今の情報量は恐ろしい。その書き込み読み込みを支える部品が日本製と言うところが素晴らしい。

日本製と言うのもちょっとどうかなとちょっぴり思っていて、確かに本社は日本にあるけれど、世界的企業の活動と言うことを考えると、そうは言いきれそうもないという心持がする。新しく何かを生み出すということがいかに大変か。ひそかに達成している人がいても、大きな企業がもみつぶしたりしますからね。恐ろしい世の中です。

数ナノメートルの世界に様々な素材を積層して作り上げるハードディスクヘッドは、まさに芸術でありまして、その制御技術の凄まじさだけではなく、トータルのパッケージとしてヘリウム原子を逃がさないシールとかね、よくもまぁそんなトータルシステムをお安く提供できるものだと呆れかえる。どんな魔法を使っているのやら。

トンネルも凄いけどナノテクノロジーを目に見える大きさに構築していくこともこれはなかなか凄い事だ。1ナノメートルを10の9乗倍しないとメートルサイズにならないのだ。もっとも、一日に数センチしか進まない時があっても信念でトンネルを掘るのもやはり凄い。技術に感動する人が居る時代は幸せかもしれない。近い将来、どんな技術も当たり前と言われ、使い捨てにされる時代が来るのだろう。その時、何を作ろうとしてもがくのだろう。ちょっと楽しみな気になっている私であります。

飛騨トンネル

名古屋から金沢に車で行こうとすると、北陸自動車道と東海北陸自動車道の2パターンがある。籾糠山を貫く飛騨トンネルを有する後者は着工から36年掛かったそうな。飛騨トンネルだけでも10年を超える工事。黒部の太陽ではないけれど、破砕帯あり、湧水ありのとてつもない工事だったそうですね。お話をお伺いするだけでも手に汗握り、我が国の土木工事が如何に高いレベルにあるかを実感させて頂きました。

確かに走っていて「凄い」と感じるトンネルである。10kmを超えるとてつもないトンネルである。何しろ褶曲と圧縮、断層ずれを豊富に抱いたとんでもない土壌帯である。どうしてそんなところを狙うのだと首をかしげたくなる程である。見事な土木工事をもっと国民は誇って良いような気もするが、さらりと話をするほうが素敵と言えばそれまでだが。

ところが、例えば海外での新幹線車両に大きなミスがあり、日本の技術力に大きな?が付いてしまう状況にある。全ての技術が高いレベルで維持、発展を続けるには極めて困難であることはわかるのだが、しかしそれを成し遂げなければ我が国の発展は無い。リニアが南アルプスを貫くのだが、本当に大丈夫かと心配になってしまう。

リニアの工事もきっと知恵と勇気で乗り切って頂けることだろう。品川ー神奈川間の約37kmにもおよぶトンネル工事も楽しみである。品川を出発したら顔を出さずに神奈川に入る。なんという凄まじい計画か。故障しないエレクトロニクスも要求されるだろうし、様々な嘘をつかない技術の投入を楽しみにしたい。青函トンネルを抜くのに20年が掛かった。10年で南アルプスを抜くというが、無理はいけない。技術はやはり素晴らしい。そう思う。

純粋力

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ・・小学校5年生で暗証した島崎藤村の詩なのだが、今でも思い出すのだから凄まじい。若い頃の記憶とはそれ程に強く、そして純粋である。暗記するほどに繰り返し読み、その言葉の意味を想う。想うのだが所詮は小学生、濁り酒を飲めるわけでもなく、あぁ、そうなのだなと思うのみだ。

小諸城址の懐古園を初めて訪れたのは大学生になってからだ。そこに到着する前から頭の中で「小諸なる・・」が延々と繰り返され、どのような世界なのだろうかと極限の美化。園を巡って、成る程、こういうことかと小学生の理解は正しかったと。

逆の言い方をすれば、大学生になっても小学生の想いを越えなかったということだ。理屈はある。勿論、それはそうだ。しかし、感動は小学生で良いのだ。エゴに固まった大人の脳みそは不要である。純粋な憧れで良いのだ。

暮れゆけば浅間も見えずとあるのだが、浅間も大学生になって初めて見た。亡き母が、五十鈴川の流れを見て、小学生の頃に教科書で読んだ流れの姿、そのままだと語っていたことを忘れない。純粋力。今こそ、純粋力の時代であろう。そう思う。