地球の上

3億キロメートル先のターゲットに接近して着陸させる。無人の状態でそれを実現する。宇宙を進むロボットと言えるだろうか。人工衛星技術はウルトラローテクであるが故に安定していて安心感がある。太陽系誕生時代の、言わば「塵」なのだが、その頃の情報が残っている愉快な存在であることは間違いない。

その頃の塵が集まった状態が、一度の大衝突も経ずに残っているのが火星である。この火星には有人で行くという。こちらは相当にタフな旅になるらしい。想像に難くないのだが、実際に自分が行くわけではないので「らしい」という表現で勘弁して頂こう。一人で山歩きをするレベルではない。大地と別れて数年間、宇宙の中で孤立するのだ。まさに孤立だ。この孤独にどうやって耐えるのだろう。

数年間分の食料等々、全てがそこにあるといえば聞こえが良い?がそれしか無いのだ。そこにあるものしかない。新しい何かに触れるとすればそれは火星だ。火星に到着して終わりではないのだ。帰らないといけない。どちらのモチベーションが高まるだろうか。凄まじいイベントである。

ここまで凄まじい孤独にはなかなか遭遇できない。いや、遭遇したくない。大地があるから何処かに行ける。その意味を感じることが出来ることができるのではないか?地球の上に居る限り、今のところ誰かに会うことが出来る。こんなに有り難いことはない。今日もお出かけだが地球の上だ。なんだかほっとする。そんな気分だ。

言うは易し

研究力が落ちたからなんとかせよ、若手が会議に出る時間を減らせ。閣議で言いたいことを言う。一方でゼロックスは1万人のエンジニアを削減する。5年の任期付きで所属をどんどんかえれば視野が広がって良い研究が出来るようになるとかなんだとか。大学を減らせとか様々な声が聞こえてきますが、はてさてこの国何処に行くんでしょう。

昔は良かったと叫び続けるのはいい加減にやめた方が良い。日本が新興国だった頃、現在の新興国の方々が日本に勉強に来ていた。その方々が爆発的に勉強して、日本の機能が薄まったということだ。十分の一の寄与が千分の一の寄与になったということだ。力が急激に弱まったというが、30年前に企業が「大学は余計なことを教えないで良い、企業が教えるから」とふんぞり返った勢いは何処に行った?

都合が悪くなるとその責任を他に転嫁する癖が日本にはある。国立大学を削減して私立だけにしろ、国には金が無いんだと言いながら、研究力が落ちているからなんとかしろとか、様々な圧力で研究者を苦しめる。腰を据えて研究したくなる奴なんか居なくなるって。当たり前の話だ。

企業の中とてそうだろう。イノベーションを起こせなんて簡単に言ってチームを作って新規事業を起こせなんて、魔法使いでは無いのだ。イノベーション難民がどれだけ社会に居るのだろう。ただ、目の前で動いてる3Dプリンタなどをみていると、何かやっている内にアイデアが生まれるかもしれないと思う。そんな環境を0歳児に与えるのが良い。30年後に何か変わるかもしれない。教育とはそいういうものだ。教育より尊いものは無い。嘉納治五郎初高等師範学校校長が仰っている。その通りだ。

油断大敵

昨年、名古屋港でも話題というか恐怖をまき散らしたヒアリの活動がこれからの暑い時期に活発化するとのこと。幸い、目の前で見たことはなく、TVなどで話を聞くと自らの油断に苦笑いだ。常に危険がいっぱいだ。我が国はなんだかんだ言っても安全だなとは思っていた。

最近は新幹線で悲惨な事件もあり、また、通り魔が頻発し、物陰が薄ら恐ろしくもある。安全は神話になってしまった感がある。向こう三軒両隣なんて感覚はがきんちょの頃には確かにあったが、今は、あまり聞かない。聞かないが、小生の周りはそれが維持されているから、古典的町並みと言っても良いのかもしれない。

それでも駅からの夜道は、田舎故に竹林などの前を通る必要があったり、街灯もない暗がりを通るのは薄気味悪い。誰もいない山道では獣との遭遇という恐怖はあるが、都会の恐怖は別物である。

南方の生物が何故毒を有するのか。いろんな説があるそうだが、彼らが食している果物の発酵したものやカビなどの毒が集約されているというものや、体の中で合成できるなど様々だ。人間の毒はどこからくるのか。同じ生命同士で殺し合うことを避けることで、ホモサイエンスは生き延びてきたはずだ。5年後を予測してなどと暢気な講義を展開していて良いものか?この瞬間も命があるのかどうか解らない、そんな恐ろしい日本になったなとがっかりの私であります。

切羽詰まらない

切羽詰まる。切った羽が詰まる。凄い表現である。刀の鍔を抑える金具のことだが、それが詰まると刀が抜けなくなって相手に切られてしまう状態だ。重要なことは常に準備をし、切羽詰まらないように行動しなければならないということ。なんだか、切羽詰まったななどと安直に言うということは、まだまだお仕事が足りないと言うことだ。切羽詰まると安直に使ってしまうが、実はその状況を解っていないのだ。だからきっと切羽詰まっていない。

崖っぷちはかなり知っている。実際に1000mの落差を目の前にしたこともある。崖っぷちだ。ただ、これもまた縁までは行ったがその先に一歩踏み出したことはない。だから崖っぷちという単語の意味も恐らく知らない。谷底は知っているが崖っぷちなどの高みは知らない。そんなもんだ。

もうだめです、限界ですと言う言葉もしょっちゅう聞くし小生も使う。使うが、もう駄目というかあちらの世界に出掛けたことは跳ねられた時くらいであって、お仕事的にはあちらにお出かけをしたことはない。きっと誰もがそうだ。あっちに行って帰ってきた人間はそうそう出会ったことがない。だから大丈夫だ。

経験を積んだ人間が、経験の内人間に威張り散らす。これこそあっちの世界の出来事だ。巧言令色少なき仁の民は、この地において不要である。こけても前向きに立ち上がり、その場で泣き叫んで良い。それで良いのだ。でも、泣きやんだら一歩進が良い。それが新しい道だ。行くが良い。道は無くても夢があれば良い。そんなもんだ。だから切羽詰まらなくて良い。そんなもんだ。

中学生の頃にケント紙という硬く白い紙に、T定規なる凶器を使って図面を書くのが面白く、それ以来、ずっと手書きの図面を作成するのが趣味であった。趣味であったというか、紙に書いてしまうというところか。流石にデジタルツールを使うようになったのだが、それでも2次元図面であり3D図面などは縁遠いものであった。それが3Dプリンタを買ってしまったところから、3D図面を描かねばならなくなってしまった。

3DCADと呼ばれるカテゴリのツールをいじるわけだが、何種類か存在しているFreeツールに御厄介になるのだが、このお作法というか、それに慣れていかないと思うような立体物が出来てこない。格闘である。2Dを描いたら勝手に3Dが出来るという魔法のツールかと思いきや、やたらと文句を言ってくる。作法が違うと。お前は生け花の師匠か?と、その上から目線が腹立たしい。ただ、これが新しいツールを体得するためのハードルであると我慢する。

体に染みついた昔流を若手に押し付け威張り倒し、いじめて追い出す、なんだかそんな旧態依然の社会状況を実感する。ただ、これはどんな仕事もそうだと思うのだが「これをやらないと前に進めない」という現実が目の前にあると、為せば成るもんだなぁと。前日にこんなもんかなというところであったものを全部捨てて、やっぱり目指すべき、到達するべきゴールを目指すべきだと気を取り直して取り組んでみた。ショパンから始まってQueenを2枚、そしてシューマンのピアノ曲の5曲目に出来た。まぁ、こんなものかなというレベルだが、形にはなった。

これを3Dプリンタに送ってみてどうなるかだ。ここにもお作法があって、図面は出来ていても3Dプリンタが解釈できないなんてことも発生する。まぁ、新しい事なんてそんなもんだ。出来ないから面白い。出来た時の喜びは、こんな年齢になっても大きく、そして頑張ったなぁと、それだけに対してのご褒美だが、有難いもんだ。出来なければ淘汰される。それだけのことだが、何か新しい形を創り出せる、良い時代である。時代は旧態依然を否定してくる。だた、努力だけは永遠に変わらないのではないか。それを実感出来た週の始まりであった。

ロビタ

家事ロボットを漫画にしたのは流石の手塚先生である。ロビタは何も最初から家事ロボット言うわけでは無かったが、成る程、人間の脳の知識情報を全て機械に閉じ込めようとすると未来においてもこれだけのサイズになっちゃうだろなと、妙に納得した。

ロボットでありながら人間である。「こうして欲しい」とロボットに語っても「しかしですね」と反論してくる。これがロボットとは違うところなのだが、今ではAIが普通にやってきそうだ。そうなってくると人間とAIとの境界線がどんどんと薄れていきそうな、そんな気になってくる。

学生の頃に貪るように読んだ火の鳥だが、もう一度読んでみたい漫画は何だと言われると恐らく火の鳥と言うのだと思う。素晴らしい作品だと感じる。こんな時代があったのだろうと妙に納得もする。結局のところ、人は何処からきて何処にいくのか。永遠のテーマである。

命には限りがある。限りがあるからその限界という境界点まで突っ走れるのだと思う。だらだらの人生など不要である。今日も一日を過ごしてみようではないか。そんな朝である。

朝の風景

交差点に差し掛かろうとした時、前方から突進してきたベンツが眼前を横切った。どんなに上等の車でも乗りては選べないということか。朝っぱらから「三度目」に出会いそうになり、えらく不機嫌である。なんとなく嫌な予感がしたので立ち止まったが、今では当たり前の風景になってしまったスマホ歩き野郎(野郎ばかりではない)であればNext Lifeへご招待であったろう。

ふと気が付くと、御器所の辺りは建て替え物件や、足場を組んで外壁をやり直すお宅が多いことに気付く。戦後の建物のリプレースと、先のオリンピック前後の家々が大型修理の時期なのだろう。メンテナンスフリーの住宅が理想なのだろけれど、人が作ったものは必ず壊れるし、まぁ、自然とてうつろうわけだから、結局のところ、ためたお金は出ていく定めにあるらしい。

御器所から鶴舞大学に至る途中のお屋敷には、ベンツだけではなく、高級車と呼ばれる部類の四つ輪が沢山並んでいる。一体どんな人達が住んでいるのだろうと思っていたのだが、自分さえ良ければという人達だということが良く分かった。恐ろしい街である。

家は土地を縛り、家具は家を縛る。昔の人は良く言ったものだ。縛り合う関係にはなりたくないものだ。お互いが高めあうそんな組織でありたいし、人でありたい。まぁ、出来損ないの人類であるからそうも都合良くは行かないのだけれど、まぁ、元気で社会のために頑張れる組織になればいいなぁと、組織を縛ってはいけないとあがいている私であります。

豊かさとは?

ハワイの噴火が一向に収まる気配がない。日本でもあちらこちらで溶岩が溜まっていたり噴火したり。地球が活発な活動期にはいったのかしらと思う。思うというか、これも太平洋プレートが3.11でどかんと動いた余波なのかしらと思ったりもする。地球規模の活動だから因果関係が大きすぎて分からない。一つ言えることは自然はやっぱり驚異だということ。畏怖する相手であって共存なんて通じない。

自然の反対を突っ走るのがお金となるのかもしれない。基本的生活から物欲番長まっしぐらまで、まぁ、お金がやってくれることって様々ありますな。米国オンライン証券会社がアンケート調査をしたそうなのですが、お金を沢山持つことが幸せと答えたのは11%だったとか。

その金額が凄くて、豊かであるためには240万ドル必要とお答えになったそうな・・税金が高い国とは言え、いやぁ、土日なく活動して駅の立ち食いソバで時間を稼ぎ出している我が身にとって、なんだかなぁと人生を傍観したくなる数字だなぁ。

17%の方は家族や友人と愛情のある関係を持つことが豊かさとお答えになっているそうなのですが、安心な生活を送るには140万ドル必要なんだそうな。ベンチャーを設立して一攫千金を目指すわけだなと、こんなところからも人生観の違いが出るなぁと思った次第。日本でやったらどんな答えが出るか恐ろしい。恐ろしがっても仕方が無いので、今日も一日、恙無くでいこうと考える私であります。

エアタクシー

天気予報によれば明日から天気は下り坂続き。いよいよ本格的に梅雨が来たかなと言うところですな。やぶ蚊がびぃびぃと飛び回り、気が付くとかゆくなっている恐ろしい季節。怪しい病気などを運んでこなければよいけれどと思ったりもするけれど、見えないところの水溜まりから生まれくてくるんでしょうねぇ。吸血昆虫は好きになれないです。

いよいよドローン型ではあるけれど、1~2人乗りの自動車サイズのエアタクシーが動き出しますね。米国ではどんどんヘリポートが出来て、20機ほどが同時に着陸できるエアタクシー乗り場では、1時間に200機ほどの離着陸を実現できるとか。AI制御で衝突回避。空の交通整理はほぼほぼAIという、日本では一体いつになることやらということが西洋では当たり前のように実現する。

自動運転にしても例え人身事故があったとしてもそれはそれ、きっちりと開発を進め、高速の乗り降りなんて当たり前になっている。アマゾンが倉庫から自動持ち出し、そして搬送なんてことを明日にでも始めそう。輸送トラックが襲われたら誰が助けに行くのだろうなんて野暮なことは考えっこ無しということか。

5年後に向けて将来を予測しましょうなんて、無理じゃないのという程の遠いけど近い未来。発展が極めて速く、リニアモーターカーが実現する前に自動運転車が走り回って、リニアなんかいらないんじゃないの?なんてなったりして。渋滞なくドア2ドアで移動出来たらそっちのほうが良いのではと、テクノロジーはテクノロジーを滅ぼすのだなと、空飛ぶタクシーが当たり前になってしまって、次は何なんだろうと想像するのも恐ろしい私であります。

孤独たれ

昨年、出張と重なって出席できなかった、名工大社会人大学院コースの合宿勉強会に参加させて頂いた。一緒に検討させて頂いたグループの、普通の大学院生の元気の良さに感動した。分野が違うので性格の違いということもあるのだろうが、小生もムキになって参加できたのは、間違いなく彼らのお陰である。とてもフレッシュな気持ちになり、感謝している。どうも有難う。

この合宿は産業戦略工学専攻が出来た当初から実施されてきていて、様々な気付きと想いを抱かせてくれる稀有な学びの場であると感じている。歳を重ねて幾星霜では無いが、続けることの意味は極めて大きいのだと実感した次第。教員も含めて40名を超える人々が一堂に会して学び合う姿勢は、真剣に参加する者には何かをもたらすであろう。

この「真剣に」というのが難しく、今を乗り越えようでは何も変わらず、こんなふうに社会に関わらせて頂くためにこうなりたいから、そこを目指すために自分が不足と思うところを足していこうというための意識でなければならない。今を乗り越えるのは当たり前だ。時が勝手にゴールを示す。

例の如く、一人で先乗りして、広重美術館を堪能し、古い町並みをのんびりと散策しながら脳の洗濯をさせて頂いた。日常とは異なる時を得るのであれば、その効能を最大化させるしかけを自らに課すべきであるが、小生の見たところ、そんな学生は皆無であったことは残念でならない。一人で自らを見つめ直す。電脳世代の諸君に必要なのは、その孤独力であろう。それもまた実感できた合宿であった。