良き日に想ったこと

独りで出来るお仕事って大したことなくて、得意不得意があるから、それぞれ補える関係のチームだと想定以上のことが出来て幸せですな。研究室と言うエリアで言うと、若い学生君たちのパワーは凄くて、研究だけでは無く、人生勉強もさせて頂いてきた。既に引退してしまっていますが、OBの素晴らしい日に呼んで頂いたりなんかすると、その瞬間瞬間を思い出させて頂いて、幸せ以外の何物でもない。感謝いたします。

お仕事でもそうですな。同僚に恵まれて過ごしているわけですが、前向きなチームワークは素晴らしいですよ。二人三脚ではないのだけれど、揃うと心地よい、見ていても楽しいみたいなね。そんなチームは良いですな。他律を意識しあって、お互いの力を伸ばしあうというか。そんな関係性がよろしい。頼りになるってそういうことではないかな?自分では絶対に出来ないことをへっちゃらでこなしてしまう人とのお仕事は面白いですからね。

役割ってあるじゃないですか。なんだか解らないけれど「なんであの人、あんなことに熱中できるのだろう?」って不思議に思ってしまうことってありますよね?遊びにしても趣味にしても。そんな人達同士がチームを作って新しい目的を共有して、プロジェクト創れたら面白いだろうなって。そんなことを研究室と言う場でさせて頂いてきたことを思い起こさせて頂けることは本当に幸せなことだと実感するのです。

週の初めにそんなことがあると、なんだかこの一週間、突っ走れそうな気になるのですよ。四苦八苦しているお仕事もウルトラ追い込みで、これも結束して頑張らないといけない。いろんなことをおひとり様、ぼっちでこなすわけだけど、それもまぁ、お役目だから仕方が無い。一緒に頑張って頂ける方は本当に尊い。正直、そう思っていますよ。尊敬しあうこと、それが一番ですな。

テキストエディタ

物書きが商売では無いが、テキストエディタ程大切なツールは無い。ワードや一太郎などのツールは、そのまま出版するわけでもないのに、お作法にうるさく、結局のところ、印刷してみても見栄えが悪い事この上ない。電子ブックツールなどはその点、画面で見るにはそこそこ良いものが出来るのだが、日本語のキャラクターにマッチしたツールが皆無なことから、使っては見たものの、使いこなすところまで追い込めなかった。

理由は簡単で、キンドルなどのツールの活用者が極めて少ないから。地下鉄でキンドルを使っている人を見ると感動するね。「おたくおじさん!貴方もこっちの世界の人なのですね!」と妙に懐かしく感じてしまったりするが、結局、おたくの戯言であって、マジョリティには何故かなれない。エキスパンドブック出版から始まった電子本作成なのだが、epubに馴染もうとするのだけれど、読み手が精々PDFな人達だから、そっちの世界に倣うしかない。

まぁ、他律と言えばそうなんだけどね。誰に合わせるかと言えば、使い手であって、自分ではない。「それ誰がどうなるの?」と聞いてみても良いが、千人も発表する学会のコミッティーが居るんだとふんぞり返られるが、千人でしょ?と言いたいところをぐっとこらえるわけだ。と、こんな駄文を入力しているのは随分と古いテキストエディタだ。その昔、EmacsやmuleをUnix上で動かして喜んでいたのだが、テキストガラパゴスから抜け出せずにずっときている。

pomeraが登場した時に直ぐに飛びついて、その進化に付き合って久しいが、Realforceのキーボードに慣れている指が、なかなか馴染んでくれないわけだが、これも道具の一つだと思えば何とかなる。何とかなるレベルなら使い続けらるわけだ。ChatGPTからコピペをしているわけでは無いので、文章入力ツールはインタフェースからエディタまで、一心同体となって、思考がそのまま文章となって現れるのだから、それなりの道具でなければならない。道具は大切。身の回りの道具の残骸は、挑戦そして旅立ちの連続を表現している。いつまで続くのか?定かでない。

続けること

どこまで頑張り抜けるかと言うことだが、それはやってみないと解らないというのが答えだと思う。没頭して取り組むことができるターゲットであれば、恐らくだが、自分の命と言うものを失っていることすら解らずに取り組み続けるのだろう。土地に取り付く地縛霊などはそんなものかもしれない。縛られているのではなく、死んでいることを認識していないだけだろう。

研究などはその良い例で、何故やり続けるのかと言えば、それはゴールが無いからである。KGIはあったとしてもそれがどんどんと果てしなく発展を続けてしまうのだ。要素技術開発などは正にそれで、誰かがそれで良いよと言ってくれるわけではないから、自らが設定している「ここまでやろう」の達成が頭の中で見えてくると、見えないゴールに終着点を切り替える。

政治家諸氏が、当選したらやるべきことは次の当選と言うのが、その気持ちが分からなくは無いが、何もしないのに税金をさらっていく様は許されない所業だし、ゴール設定がおかしいだろうと考えるが、それを国民が認めているのだから仕方がない。それでも、80歳を過ぎているのに次の選挙でも当選しようとする意気込みは凄くないか?それを阻止する者が現れないのがこの国の哀しさだが。

果てしなく頑張り続けることが出来ることは、その人間の根本の、ある意味、強さなのだと思う。二、三年で職を転々とする方がいらっしゃるが、他者のせいにする会話があって辟易する。なんでも他人に押し付けるのは気楽で良かろうと気分を悪くしながら聞いている。逆に、今まで存分に力を得たから、それを活かして挑戦するのだという方のお話しは心地良い。そうありたい。

ビジョン考

ビジョンを描くのはとても難しい。常に想っていること、こんな風になったら良いなってことが誰にもあると思うのですが、それを誰もがこんな場に居たらこんな幸せな状態になるのになってレベル感になっていくと、ビジョンっぽくなってくる。「核無き世界」と為政者は叫ぶが、悲惨な状態を作り出すから核はダメという事なのだけれど、それでは発電は良いのですかと、ベストミックスと言う綺麗な単語でエネルギーを生み出す国の発言に説得力があるのか?

ピジョンの元にあるのが成し遂げたい目的、あるべき姿ということなのだけれど、これに関しても、そう簡単にゴール設定が出来るものでは無い。ご相談が多くある「弊社の工場の装置を使って、新しい仕事は出来ませんか?」というご質問に対しては「ありませんね」と答えることにしている。装置を使う事がビジョンとなってしまった方々に、誰かを喜ばせるという発想は生まれない。無理も無いのだけれどね。図面だけで生きてこられた日本だから。

中小企業が誕生した政策的なものを書面で学んだだけなので、真相は解らないが、仕事を与えお金を稼がせる仕組みとして大企業の下の中小企業と言うポジションにおいて、その源泉は大企業からの指示である。図面待ちと呼ばれる強固な体制が、活動し続けても粗利がマイナス、だから補助金という繰り返し。社会のビジョンを描き、利益が上がるものづくりをさせてこなかったこの国の仕組みにこそ、超赤字体質があるわけ阿が、日本株が上昇するという状態にバブルが恐ろしく感じられる。輸出赤字で株価が上がる。

「信頼」なんて単語はビジョンになり得ない。それは「当たり前」であって、幸せを誘発する願いでは無い。この当たりをはき違えると、似非コンサルに金だけふんだくられて、結局、何も目的を抱けないままゾンビ状態から脱却できない。ビジョンは定量的すぎると、叶ってしまう。叶わないからビジョンであるともいえる。目指す過程でどんどんと大きく成長していく。掴める夢は所詮小さい。掴めないから夢である。夢が大きくなるから苦難を楽しいと思える。その為のビジョンでありビジョンがあるから夢も見れる。寝てみる夢よりも起きて観る夢が良い。そう思う。

ライフとライス

昨年からライスワークとライフワークという言葉が極めて身の回りで飛び交い始めた。それ以来、これはライフかライスかという思考が働くようになってきた。小生などは仕事中毒と言う事では無く、やらないと終わらないからということで、本社対応等、週7日制で動いているわけだが、能力が高い人はそんなことはしないのだろうなと羨ましく思ったりもする。新しいことをやりはじめると、前例が無いわけで、全てが思考の対象になる。これを職場の職務の為だからとライスワークと思えないところが悩みどころだ。

それをライスワークとライフと切り分けられる人は幸せなんだろうなと、羨ましく思う。こちら側が気分を害そうが腹を立てようが、ライスワーク人間には何も響かないから、最近では悟りが開けて無視するようになってきた。価値観が異なるわけだからね。期待するよりも自らの身を削った方がずっと精神衛生上健やかである。それにライフワークに取り掛かっている時は、雑念など起こり様がないからね。自らのライフワークに打ち込んでいることが一番の幸せと思うしかない。

G7会合などを拝見していると、とんでもない密度のワークをこなす方々が集まって、世界に対して責任ある発言をしている様に畏怖の念が湧いてくる。これをライフワークとしてやっているのかと聴いてみたくもなる。それを鏡とすると、自らのちっぽけさが情けなくなるのだ。もっと気合をいれてライフワークに取り掛からねばと思うのだ。ライフワークとしか感じない毎日で、ライスを食べられるのだから、それは幸せと考えるべきだろう。

石の上にも三年が出来ない人は、ライフワークを持てない人だと、某所のお坊様に説教を頂いたことがある。そんなもんかなと何気なく聞いていたが、今、成る程なと分かるようになってきた。歯を食いしばって耐え抜き続ける者の素晴らしさである。心から自然とエールが出てくる。自らにもエールを飛ばしてみたいものだが、まだまだ苦行が足りぬ。苦行をライフワークとするのだが、何時までもつことやら。残り僅かな時であろう。そう悟って頑張るのみだ。

B2C考

B2Bのお会社が、思い切ってB2Cの商材を創られたのだが、そのホームページを拝見してバリューブリッジなどで解析をしてみると、その商材を通じて顧客が成し遂げないというか、なって頂きたいという幸せが描かれていないのだ。こんなに凄い技術を組み合わせているのだとか、何十年の歴史ある技術で、世界トップの技術を使っているから買いなさいと言う、そんなページになっちゃうのですな。妙な広告代理店やコンサルなどを使っていないところは高感度高いのですけどね。

少し前に商材解析をさせて頂いたお会社は、B2Cでは無かったので、B2Bのカタログがある程度わかりやすく、それなりに技術の階層を読み取れて解析しやすかったのですが、そのお企業様のホームページを見歩いていると、一体、何を誰に届けようとしてホームページを構成しようとしているのかさっぱり解らない。「壊す人を募集中」みたいなことがリクルートページにあったりするのですが、それは納得する。このままで良いわけないと開き直っているのだなと感心する。

そのB2Cの商材も、とあるブームが去ってしまったので、これから注目度が下がってしまうのかもしれないが、鳥インフルエンザなどの対策にも活用できる商材だから、マーケティングにもうちょっと力を入れたら良かろうにと思ったりする。EVシフトで仕事が無くなっていく技術持ちの皆様には参考になる取組だとは思うのだけれども、内燃機関で薄利多売の癖で、数が出ないと事業部ごとつぶしてしまうという悪い癖が出ないと良いなと思っている。

物欲が無くなっても、睡眠欲、食欲、生存欲が失われるわけでは無かろうという仮説の下、ビジネスを考えたりするのだが、G7のトップたちが雁首揃えて何を語ったのかは分からないが、物欲があって国民が多い国の勢いはもの凄い。知恵を結集して平和と地球環境保全の為に全力を尽くすことしかやることは無い。量産化で鍛えた技術は確かに凄いが、武器だけは永遠に量産化が続くのかと思うとがっかりする。そんながっかりを無くすような働きがしたいものだと本気で思う。

立場

月曜日は迎え撃つ気分である。月曜日からすると迷惑なお話であろうが、こちらからすると「土曜日が来たとするならば、永遠に来なくて良い」のが月曜日である。国への申請の締め切りと言うものがあって、それに向けて考えて、駄目だの行けそうだの、結局、落ちるのだが、それでも挑戦しないといけない流れがあって、そりゃぁ、ちゃんと前向きに挑戦するのだけれど、最善を尽くすことは尽くす。

これを延々と繰り返す。そして、これはほんの一部なので、もっともっと血尿と下血がお友達になる。このあたりは国家のお仕事と言うか、日本人のお仕事の有り様が「おかしいのではないか?」と本気で思っているのだ。思っているのだが、思うようにはならないのが世の習いだ。ガマの油売り大学時代のお話だが、Dコース者がわがまま言ってハイキングに行ってしまったら「王様達がハイキングに行ったら文句は言えないやろ」と、大先生が仰ったと後で聞いたが、その信頼関係が欲しい。

当たり前の数字で議論するが、2023年4月に就職した者は、学部卒だとすると2020年4月と言う、コロナ禍真っただ中の卒業生だ。社会を出歩くな、ウエブ講義だという時代人だ。それを憐れむことはしない。何故なら、リアルであって、足を引っ張る連中にあふれている環境よりも、自らを純粋に鍛えることが出来るチャンスがあったからだ。その観点だけではなく言えることは、ライフワークとライスワークを明確に意識できたのではないか。

小生は職制柄、土日なく、一生の切れ目なく、大学と言う場に生き、自らを活かすことがライフワークであるが、当然のことながら、そんな奴はほぼ居ないのだ。バカンスに行ってきますと年休を取って頂ければ良いのだが、小生も、なんか、そんなチャンスがあったら良かったのにと、人生をそんなゲージで見ることが出来たら良かったのにと、もう、余命いくばくも無くなってから思うのだ。必死に考える。誰かの為に考える。そんな生き方に共感も賛同も無いことを感じていた。誰かの為に生きることをライフワークにするか、自らの満足をライフワークとするか。価値観が違ったのだな。小生はライスワーク人間に映るのだろう。どうぞご自由に。それを実感した。ここ、最近だ。

雨である。しとしとと降っている間はなんの問題もない。豪雨となると災害と勝手に呼ぶわけだが、人間の経済活動を基準に考えるからそう呼ぶのであって、濃尾平野などは大河川の氾濫によって出来上がっているわけだから、感謝するべきである。土砂災害は悪だと、エジプト文明をナイル川の氾濫によって出来たと教えておきながら、何を言うかである。

とある企業人のお話を聞かせて頂いたのだが、その価値が語られなかったことに対して、日本の有り様を感じたわけだ。自分さえ良ければ宜しい。これでは大学は要らないと言われても仕方がなかろう。自らの研究は圧倒的に素晴らしいと言うのなら、圧倒的驚きか、感動を与えて頂きたいものだ。遥か年齢が下の方から、あぁそうですかとなるお話は苦痛である。

自らの思考が古いのはわかっている。当然なのだが、そんな事があったのかと、驚きがあることに幸せを感じたいのだが、それ、ゴールが見えているでしょと言う事を研究だと言われてもね。税金を使うべき事ではない。自らを省みてどうであろうかと日々、思わねばならぬ。

今日が終われば、生きていれば明日が来る。歌舞伎俳優が何を思ったのか知らぬが、自らの能力を他の人々の感動のために使い続ける事に疲れたか?俳優と言う職業もその他の職業も似たようなものだなと思わせて頂いた。苦悩の中に光を見出さねばならぬ。お仕事とはそんなものか?光明とは上手い単語だ。そう思う。

いずこも同じ

ここのところ連続して似たようなお話を聞かせて頂く。投資先が無いというお話と、新規案件が無いというお話。新規案件とは新規事業のことなのだけれどね。これも同じ話があちこちで出るのだけれど、バブル時代の成功体験リーダーが存在している限り、製造業は挑戦しないだろうねと言うこと。某F社さんが各務ヶ原に新しい生産拠点を整備するとかね、現業が活況になりそれを増強するということではなくて、今までとは異なる場で現商材を生かすか、新規の商材を立ち上げるかと言う挑戦のお話が無いということだ。

家電や自動車などのスーパーマスプロダクトで生き延びたお企業において、価値のコア技術となっていない部材製造者が「今ある生産装置で作るものを教えてくれ」という問い合わせがあちこちで飛び交っている。「ありませんよ」とお答えするしか無いのだが、聞く時間があるのなら世界の趨勢を学び、技術レベルを桁違いに上げる必要があることに気が付くだろう。超が付くほどの技術が要らないわけでは無いのだ。工作機械で出来る物品は価格競争に陥るだけなんだけど、商材がゲームチェンジを始めているから、価格競争商材は無用状態となっている。

自動車が完全自動化されれば、個人で所持する必要は無く、シェアするものとなろう。そんなことは無い、活動できる土日は決まっているのだから、やっぱり今までと同じ台数が必要だ!と車両製造企業のバブル期のリーダーは息巻くけれど、製造の現場仕事をロボットとAIが成し遂げ、ほぼほぼ在宅勤務で価値を生み出し対価を得る時代も同時にやってくるわけだ。そうなるとその方々の楽しみ方を提供するサービスが商材となるでしょうし、移動のツールは車で無くとも良いわけだ。買い物なんてドローンで良いしね。

堕落するわけではない。勉強、運動、仕事、休息を怠惰にならない様に思考を巡らせる人だけがお仕事もあるし、生活の糧を獲得できる時代になるのだろう。自動車なんて生産量が千分の一で良くなるのではないか。一方で、空間でそれを制御する半導体やエネルギーとそれを一定時間蓄積するツールか、分散してエネルギーを発生するインフラとそれに繋がるサービスが商材となろう。そんな時代がもうすぐ来るし、根性論の旧態依然のバブル思考者の居場所は無くなろう。そんな時代の株主から黙るべきなのかもしれない。愉快である。

夢は現在進行形で

スタートアップとかベンチャーとか、お若い方々にチャレンジして頂きたいのだけれど、チャレンジという単語そのものにアレルギーがあるようで、それは一体、どうしてなのかなと悩んでしまう。意識した行動って、自らの活動の5%らしくて、その他は無意識の活動なのだそう。無意識に文章を構築している戯言は置いておくが、申請書の文章などは意識しないと書けないのは間違いないですね。「それは大変だ」と思ってしまう。恐らく、他人の評価を気にしたり、主人公が自分で無かったりするのだろうなと思う。

こんなことをふと思うのは、お年を召された方々の意識の硬さにがっかり来ているからだ。こうあるべきだということに、何故、そうあるべきなのですかと尋ねても、返ってくるのは、それが当たり前だからだという、自分の中にしかないルールで他者を潰しに掛かってくる。新しく成りようが無いのかなとも考え始めている。結婚したら苗字が変わってしまうとか、同性婚がどうだとか、女性天皇は認めないとか、古い方々が言い合いをしている以上、何も変わらないのだろう。

全部が変わる必要は無いのだが、お若い方々には自らを主人公にして人生を送って頂きたいのだ。そう思っているだけなのだ。レストランで食事が出てくれば、やることは写真撮影であって、熱い内に美味しく頂くことでは無くなっている。常に他者目線で面白いのか?心から望む自分らしさを何故求めるのか。今までの事は振り返ることは有っても良いけれど、囚われる必要は全く無いのだ。親が大企業に行かないと恥ずかしいと言うから起業なんて考えませんとかね?ほんの僅かの命を、他人の意識の下で生きるのか?

在りたい姿を描く思考の方向性として、願望しないという手法が有効だと思っている。何かをしたい、こうなっていたいと考えてしまうと、過去をベースに自分の機能を考えてしまう。そうではなくて「私はこんな人達が喜ぶコミュニティの為にこんなことをしている」という現在進行形が良い。未来進行形にすると、将来はこうなっているみたいで、やっぱり過去に引きずられる。単純だ。主人公は自分、現在進行形の在りたい姿を描く。すると起業するしか無かろう。そう思う。