生きる理由

古来、哲学者は人はなぜ生きるのかを考え続けることに生涯を費やし、その解答に到達することなく、それを繰り返してきた。そんなものだと思う。いろんな学びがあって、何故学ぶのかという学びもあるくらいだ。安全と思っている家屋を出て、その近所をふらっと散歩してみると良い。何故、そうなっているのか理解不能な物にあふれていることに気付く。しかしその物体は、自分ではない人間が構造構築を成したものであって、その者にとってはそれが解答であったはずだ。人は人の理解には到達し得ない。それが答えだ。

様々な土地を歩いてみると、案外、歴史が浅かったり、その逆に、恐ろしく古かったり。そして千年の歴史を重ねて挑戦してきたとか、それでも叶わなかったとか、そんな人が願うことの歴史に共感しようと思ったら、その地に立って、関わりのある地域の歴史を学ばねばならない。学んだとしても、その土地の、その時代の人間になれるわけでは無いから共感に至ることは出来ないが、今の自らの有り様と重ね合わせて、自らはどのように生きようかと、考え直すことはできる。

道行く先々で何故か声を掛けられる。有難いことだが、威風堂々の依怙贔屓を受けるとちょこっとどぎまぎする。それで良いと思うと、気が楽になる。そんな生き方が出来るほどの自信を持つことが出来ていない自分の愚かさに気付かされる。聖者の物語は、自らの生き方に絶対の自信を持っていることが骨格となっている。悟りとはそんな状態のことなのだろう。そんな状態にはとてもでは無いが到達できないのだが、年齢を重ねていくと、命をどのように消費していくと思考停止にならないのかを考えるようになる。

変化させることが出来るのは自らだけである。自ら行動できる範囲が自らが生きる範囲であって、今、自らを活かせる領域である。自らを活かせる領域で最大限の活動をしている人と出会うのは楽しい。組織の一員ならば、その組織の中で自らの機能を発展させ続け、それが出来なくなったと実感出来たら、その組織においては終焉ということだ。終焉に到達できたら、それが生きる理由であったということではないか?そう実感した。

本気に遊んで!

コンパクトな連休が始まりますな。今年はみどりの日が土曜日と言うことがあり、お休みが減じたわけだが、月~金にお休みが入るとその分を取り戻さないといけない教育の場においては、それはそれとして受け止めていくしかない。企業においてもT社カレンダーばっかりではないので、平常業務の月・火の後の、シルバウィークというところか。未だにChatGPTを使うとか使わないとかで盛り上がれる不思議な国だからね。無くなるべき作業を大切に持っている。

そろばんが電卓にとってかわられ、電卓がパソコンにとってかわられた。その流れでずっと来ているのに、AIに関しては人間は反抗的ですな。それが正しいかどうかわからないからというのが根本にあるのは、それはそうだろう。でもAIに騙されるなら、所詮、その程度の知恵しかないという証明であって、それはもう、人間がオワコンということでは無いのかな。そうならないように知恵に磨きを掛けない方々はご退場と言うことだよ。

休めない人は働けない人と言うのは小生の根本思想なんだけど、自らに言っているようで情けない。海外の旅行客をインバウンドとして迎えて、お金を落として頂いて、経済を活性化させようとする政府の大方針なんだけど、旧態依然の労働形態で、海外から呆れられるのでしょうね。都会も田舎も中途半端みたいなね。新潟の方が連休に東京に遊びに出掛けようとしたら、ホテルは高くて隙間無しで金券への旅行に変更したというニュースを拝見したが、小生的にはそっちのほうがずっと良いのではと思ったりする。

近場で良いのだと思う。日帰りで良いのだと思う。それでも見聞を広めるために出掛けては如何だろうか。朝寝坊していると、あっという間に一日が過ぎ去ってしまうから、気合を入れて早起きして、お仕事よりも必死に遊ぶのが良かろう。何でも懸命にならないと知恵は磨かれない。お仕事も遊びも中途半端な大人を見て、若者が未来に失望するのだろう。大人は身銭切って本気で遊ばねばならぬ。その分、思い切りお仕事をすれば良いのだ。やるかやらないか。そんな覚悟を持ったらどうだ。

別条と別状

現状と異なる様相を想定した時、それがなんらかの効果によって、想定の範囲内に入った時、上司に報告するときに「別条御座いません」と、多くの世界で使われるだろう。しかし、小生の活動の場においては「別状の無い範囲内です」という報告を得る。後者しか使っていない世界に生きていたので、前者の活字をニュースで拝見して「おやっ?」と思った次第。

どちらも正しく、辞書的には活用されている。しかし、いや、しかしではない。成程と感じたのは、決まったゴールがイメージされた時には「別条」であって、新しい出来事に取り組んでいる中で、幅広く、目標の範囲内に入っている時、要するに、未来指向で、想定する範囲の中に活動結果が入っていれば別状無いという文字列を使う。官僚にとっては別条以外は無く、新規に挑戦するる者にとっては別状ない状況が、次の行動への勢いを得るということであるのか。

想定外を己に許さない別条と、想定外こそ次の一手への勢いとなる別状とはまるで違う。NHKであるから別条があってはあるまい。しかしだ、世界の状況を鑑みるに別条無い状況は、この国が「つまらない生き方」に満ち溢れた民ばかりということだ。お役所が決めた方向性に対して別条ないことしか出来ない民は、もはや、世界に取り残された、新規性の無い税収を盛り上げるアイデアが無い組織のありようだ。

ひょっとするとだ。ミスがあって、リーダーが謝罪しないといけないような状況は「別条ある」状況ではあるが、それがあったからこそ、旧態依然を壊し始めることが出来る。別状を巻き起こしたいのだが、多くの民が別条を嫌がる。嫌がるどころか、別条発生者を反乱軍とばかりに排他する。圧倒的に動いているのだ、社会は動いているのだ。護るべき今は何か?それだけを考えるべきである。家族と言う単位では吹き払うことは困難であることは体験しているが、社会では変わらねばならない。圧倒的速度で。その筈だ。

国力を縮めるのは人

人口が減っていって生産性云々が騒がれるのだが、その前に、高付加価値で海外に活用して頂けるものを考えて創造することが先だろう。世界の人口が増えて、日本がシュリンクしていくわけで、人口最大、且つ、海外に買って頂けていた時代と同じ生産量を保とうということに無理がある。工場で作れば運ばねばならぬ。運び手も居ない、作り手も居ないで、どうやって同じ数を創り出そうとするのか。

食糧生産も同様なのだが、これなどは圃場の整備と自動化を真っ先に進め、未耕作地などは国が召し上げて、チャレンジしたい若者にどんどんと場を提供すればよろしい。農業こそAI、自動機械を投入していくべき場である。旧態依然の発想は止めて、ゼロベースで農業を考えるべきだ。地面が無い農業もあるにはあるのだが、自然と共生する経済は極めて重要である。適正な価格で売れて、税金もちゃんと払って頂けるようにする。単に政治家の票田と田畑を見る時代では無いのだ。

生産性をどう捉えるかだ。正直に「一人当たりの税収を上げたい」と言いきれば良いのだ。出生数はどんどこ減少するのだし、超高齢化社会において、数の論理は意味が無い。年金生活者から高額の税収は期待してはいけないわけで、となると、若者が生き甲斐を感じて高収入を得られる環境を作っていかないといけない。老害をまき散らして、逃げていくような仕事の場を旧態依然に護ろうとする国には未来は無いわな。

人口推計はかなり当たる。当たるから人の数だけで国力を図ろうとすると、当然の事ながら沈下する。だからこそ、挑戦が必要なのだ。挑戦もせず、若者のアイデアを盗んで、研究せずに利益だけ得ようとする国だから沈下するのだ。博士を小馬鹿にして、学者を低く見るから沈下するのだ。金儲けは知らなくても、モノの道理は解っているのだ。道理を引っ込めて、金だけ欲するから沈下するのだ。挑戦と努力。歯の食いしばりと血のにじみを知らない者は退場するべき国である。それだけのことだ。

Co-Being

ウェルビーイングとかマインドフルネスとか、新型コロナ禍が一気に噴出してきたと感じている。その昔から言われているのだが、在宅勤務とか、旅先勤務とか、知恵で社会に価値を生み出せる仕事の有り様であれば、個人の価値観を最大化させるようなビジネスの場になっていくべきだ。ChatGPTをどう使うとか危ないとか、極めて低俗な議論がこの国では延々と続くのだけど、電子機器が作り上げる者は道具なのだから、上手に使えばそれで良いでしょと思うのだ。

自分個人の幸せだけを考えるのであれば、もう、人間では無いくらいの思い切った発想が必要だ。ウェルビーイングなんて所詮、その程度の発想だと思っている。自分さえ良ければそれで良いという割り切り方は好きだが、それよりもCo-Beingを意識するべきだ。おひとり様満足であれば、社会と隔絶して生きて頂ければ良い。人との関係が最も疲れるのはその通り。でも、それがあるから人間なのだと思う。それが人が作り上げた文化なのだから。

ベンチャー企業がどんどこ生まれる社会になっていくのだと実感しているが、一方で、当該地域は安定した企業群が多く、ベンチャー意欲不活エリアと、我が国のエアポケット状態となっていることに危惧している。潰したら恥ずかしいとか借金まみれになるとか、そんな気持ちと、大企業に就職しないと親が恥ずかしがるからとか、なんだか謎のCo-Beingを振りかざす。他人の目なんて見ているようで見ていないものだ。尊い命を全力で活用すれば良いのだ。

食料自給率がほぼ無いとか、薬にしても輸入頼みだとか、そんな社会の痛みを何とかしようとお若い方々には思って頂きたいし、立ち上がって頂きたい。AI出現で消えていく職業等が研究結果として公表されているが、正に、それを加速するべきだと思っている。人が成すべきと考えられている領域ですら、どんどんと要らなくなると思う。それはそれで良いのだ。やるべきことはなくならない。未来を考え、ビジョンを描き、それを書き換え続ける事。それがCo-Beingの正体だ。

世代

技術経営の講義って、聴講者の世代に併せてしゃべらないと刺さらない。それは極めて顕著で面白くもある。その資料を見ていたら、隣席の若大将から「あんたの資料ではゆとり世代が広く取られ過ぎていて気分が悪い」とご指摘を頂いた。聞いてみると、さとり世代やしらけ世代があるらしい。それを聞いて成る程なとも思った。研究室を数年前まで持たして頂いていたのだが、ここ数年、明確に人種の変化を感じていたからだ。

切り替わりの年に明確なギャップがあるわけでは無かろうが、文献をいくつか調べてみるとゆとり世代は生まれが1987年4月~1888年3月までという学年歴で区切られた資料を拝見した。面白いので採用させて頂く。2023年現在で年齢が36歳になる方々だ。その次の悟り世代は第二ゆとり世代とも言われているらしく生まれが1995年4月~1996年6月からスタートで、2023年現在で年齢が27歳になる方々だ。この世代は人と対立しない環境で育ち、ガラスのようなメンタルで旅行に興味が無く、休日は家で過ごすという。成る程。

その後はご存知Z世代という事だが、1995年~2010年頃に生まれた世代ということで、このあたりは幅が広い。ご老人達が勝手に定めたカテゴリーだから、勝手に言ってろということだろうけれど、インターネットやデジタルツールの発達は、明かに、その前世代の方々とは違うと感じる。身の回りに存在する情報の量が圧倒的に異なっていることは間違いない。三つ子の魂百までだから、その時代に氾濫する情報に身を置いていたかどうかは極めて大きい。かるたで社会を学んだ世代とは隔世の感である。

今更のことなのだが、さとり世代やゆとり世代の方々が、Z世代の方々を教え、導く状況になっているわけで、価値観をZ世代に併せていかなと指導など出来る筈が無い。「そういうものだ」と押し付けられて納得させられた人生になど、何の価値も受け取って頂けない。団塊の世代が政治では幅を利かせ旧態依然で迫る一方で、Z世代が知らんぷりしている。世代間の対話が必要なのだが、核家族化した我が国ではそれは望みようが無い。結局のところ、自らは何を成し遂げたいのか。それはどの世代でも持っていて良い心の中身だ。変わらないのはそんなところだ。

若返りは?

1993年の事だから、既に30年も前の事だ。光陰矢の如し。自ら実感している。当時、HP100LXという電脳を持ち歩き、お仕事に、趣味にPCをどの様に活用していくのか、面白おかしく研究し合うというか喋り合うというか、そんな目的で名古屋携帯PC研究会を立ち上げた。Newtonデバイスという、今でいうタブレット端末もあり、不具合が多い故に面白さは格別であった。何かを成し遂げたいという気持ちが、周囲を巻き込んで動かしていく実感があった。

文科省が大学を3種分類して、それぞれに個性を出せと、いわば本社命令を下してきている。没個性はそのまま没ですよということだ。安定しているとついつい没個性になりがちである。それを今、一番恐れている。お隣には東山連合大学が聳え、常に捕食しようと虎視眈々と狙ってきているわけだが、同じ色に染まってしまえばそれで終焉である。次の一手が極めて難しい。難しさを加速させるのが受験生年齢者の減少であることは言うまでもない。

減少しても大学として自堕落せずに、教育も研究も有為な人材を育成するために全力を尽くしますと言い切って、地域社会の知恵のハブとなっていれば良いわけだが、ChatGPTをどうしようなどと言っているようではおぼつかない。AIを使いこなしてその発展に寄与して、どんどんと電脳を賢くしながら、自らの個性を発揮できるような世の中に変革していこうとする若者をリードする、教育と研究の有り様を作り込んでいくフェーズである。そうなのだが、なかなかにして難しい。

難しくしているのは自分達であるのだが、何というか、リーダーにしても我が国は何故かそれなりの年齢の方が収まってしまう。ほぉっと思ったことがあって、昨日の衆参補欠選挙で、30歳代が3人、40・50歳代がそれぞれ1人と若い方が立ち上がってくれて来たなと感じたことだ。大学なども思い切って40歳代中ごろくらいの方に立ち上がって頂きたいのだが、一方で、研究者として油の乗り切った方に政治をやってくれとはなかなか言いにくい。人は心を人の為に尽くして人だろう。年齢は関係ないのかもしれないが、思い切った若返りがどこかでやってくるだろう。そう感じる。

ゴールは見えているか?

そこそこ長く生きていると、なんとなくだがゴールが見える。何時縊死するとか、そんな終末を意味するのではなくて、お仕事において、こんなところが75点かなということが感覚として感じられるということだ。どこかに出掛けようという時に、今日、戻って部屋に入る時にはこんなイメージを持っているだろうとかね。こんな旅のルートにすると面白いとかね、そんなことをふと思いついて、行動できるようになってくる。

お仕事の場合においての75点と言うのは重要で、残りの25点分は75点を獲得する上で獲得した知恵を使って、更に継続していくうえで必要である。75点で満足するということではない。そもそも今の時代に終わる仕事など無いのだ。勘違いをしてはいけないのだが、多くの人は本来、AI等が自動でやってくれる筈の作業に時間を掛けているだけで、小生から見たらお仕事に時間を費やしているとは見えないのだ。どうやって自動化するかを考えるのはお仕事であり、100%のゴール結果が見えているものはお仕事では無いのだ。

常に終わりが無く、完成しないから疲れるのだ。永遠に終わらない、賽の河原の石積のように目的もなく続けることに疲労は無かろう。目的が延々と高まっていくからこそ疲れるのだ。自らの能力の無さに疲れるのだ。どうすれば良いか?簡単なことである。努力をすることだ。その努力をどのように成すかを考えることだ。独りで考えられないのであれば助けを呼べばよい。二人で駄目なら三人でというように、文殊の知恵に縋るのが良い。

ただし、ゴールを持たずに問いかけるのは許されない。それは単なる時間泥棒である。人に依頼をしておいて、それは受けられませんと言われると、だったら誰に聞けばよいのか教えろとか、代役を見つけろとかね、そうなってくるともう暴力である。そんな方々に責め立てられて辟易している。虎の威と呼べるほどの組織力で襲ってくるのだが、駄目なものは駄目である。そんなこともそこそこ長く生きてくると言えるようになるものだ。何時かは立ち止まるのであろうが、それは少し先のようだ。もう少しでGWである。気合が入る。

博士になろうよ

我が国の研究力が低下したから産業界が冷や飯を食っているのか、産業界が国内での大市場ばかりを狙ってこけ続けて、新規の研究成果を活用できなくなったから研究力が低下したと言われているのか。世界の論文数という指標を当てはめられると、我が国から発出される研究論文の凋落は確かにその通り。研究論文発出の担い手は、国際学会などでしのぎを削る博士課程学生なのだが、産業界が博士など要らんと言うし、自分で稼がないと人件費が無い状況の大学では教員ポストを作れないし。結局、日本人の博士学生がどんどんと減っていく現状に歯止めを掛けられていない。研究力の凋落の要因はそこにあろう。

ドクターコースと呼んでいる領域に入り込む前にはマスターコースというものがある。大学に依っては5年一貫で博士課程としているところもあるが、多くは前期2年、後期3年として、後期の期間をドクターコースとしている。マスターコースの時代に指導教員が、自らの評価書作りに時間をとられ、学内所作業に時間をとられ、予算獲得に走り回り、どんどんと国際会議から足が遠のき、国内の学会でも発表しないなんて状況に陥っているのを見てしまうと、後期課程に進もうとは思わないよね。

大学の人事枠は極めて少なく、ポスドクで5年や10年で職場を換わって、研究に没頭できないとかマスコミが言いまくっているから、それでも進学しようと決意する学生は少なくなってしまう。企業に就職させて頂けたとしても、4年生で卒業した同級生が、入社したら上司になって給料がそっちのほうが高いという現実の話を聞かされると、やってられるかとなるのは当然だ。チャレンジャーは海外に行く。これも当然のことだ。

研究は世界トップでなければならない。唯一無二の学理を探求せねばならない。学会を同窓会の如くの夜会の前座のように考えている者は若者の夢を奪っていることを自覚せねばならない。お前のやったことは信用できないから、全部、俺がやり直して再現したら認めてやるなんて状況で、自分も研究者になろうなんて思うはずが無かろう。信頼出来る人を育てることをせずに、学生を私物化しているような輩もご退場する時代である。研究以外の業務が多すぎる。それは感じている。思い切って削らねばならぬ。先ずはDXなのだが、大学というところはDXとはほど遠い。なんとかせねば。

起業のキー

毎年大略10万社に満たない企業が生まれ、そして廃業していく。近年は起業よりも廃業が多いと言われているが、大略どっこいどっこいで推移している。100年企業の廃業は、老舗旅館とか、サービス継続が困難になった等々、様々な理由があるわけだが、継続の困難さは、3年未満の廃業が相当数あることから、国がベンチャーの起業を促したいということに対して、無責任さを禁じ得ない。ただ、新陳代謝が必要なのは間違いないし、新しい時代に必要なビジネスは、その年代の者がリードするのが良いという観点からは、学生起業者の増加を望むのは小生も同様。

取り敢えず起業だけしようなんていう冒険家は少ないとは思うのだが、お作法があるのは間違いなくて、そのお作法を無視して「何とかしろ」という声が上がってくるのは、ご高齢の偉い皆さんからだが、お作法をお伝えしても無視されてしまうのが辛い処だ。アシストする組織に居るわけだが、MOTの流儀で議論して「こうして下さい」というベクトル合わせをして挑んでいこうということになるのだが、作れば売れると思っている者の耳にはなかなか届かない。

新聞等では「市場を創れ」なんて簡単に言ってくれるわけだが、GDPが低下しているということは市場がそもそも疲弊・縮退してきているからで、且つ、新規参入を拒む閉鎖性も相まって、我が国では「市場を創らせて大企業が盗む」ということが繰り返され、若者は海外に脱出して起業し、利益の獲得に繋げている。こんな状況を見ていると、イノベーションは益々我が国からは生じにくくなるのだなと、高齢者の投票率だけが高い我が国の未来を憂うるばかりである。

アウトカムズという単語を聞いたのはJABEEの審査員講習会でであったが、自らは何が出来るというアウトプットでは無く、アウトプットが他者にどのように働き掛けが出来、その他者が自らが元来持つ機能をアウトプットが高めることによって、更に他の者に幸福を伝播していく機能がアウトカムズであるのだが、アウトプット表現だけで「起業したい」と言い切ってしまう。市場も機能も評価できない状況だ。自らをアウトプット、即ち他律機能で表現する。そのトレーニングをする場は子供の頃からの教育にあるだろう。大学では遅すぎるのだ。