新酒

春の名物と言えば木曽谷方面の酒蔵開き。今年も無事に研究室の新歓ゼミとも言うべき中善酒造さんの蔵開きに出掛けてきた。木曽街道を走っていると、七笑となかのりさんの看板が目立つが、その後者のほうだ。今年もフレッシュな香りと味わいを頂戴し、一同、これからの一年に向かって元気よく乗り出せる。天の恵みから得られる尊いお酒を皆で笑顔で頂戴する。是非とも来年も集いたいものだと心から思う。

当然のことながら公共交通機関のみの活用である。運転手が居たらかわいそうだし、そもそも危ない。小ぢんまりとした研究室だから、朝一番のしなのが良く似合う。鶴舞駅を通過する時、いつも歓声が上がる。これが良いのだ。仲間での旅は直ぐに目的地に到着してしまう。今回はメンバーの内、奈良井宿に行ったことの無い者が半数を占めたので、早めに出掛けて散策としゃれこんだ。

木曽路切符の旅行チケットで無料で入館できた天保年間から残る塗櫛屋さんにてゆっくりと時間を取り見学する。実に充実した時間である。奈良井駅から各駅停車でバックして今回は26年の木曾福島旅行においてはじめての「牛乳パン」デビューである。食べ歩きながら「パンだな・・・」と語りながら和菓子屋さんへ。常連のコースとなりその後、麹屋さんにてそれぞれのお買い物。そしていよいよ目的地の中善酒造である。

天気良く、来客者も多かったが、メンバーのポジションを作り、じわじわと2時間近くのんべぇ談義である。今年は薫り高く、辛めの仕上がりで、小生は大変に良いと思ったが、お客さんの中からは「今年は辛いなぁ」との声もあり、小さな蔵故の毎年の微妙な味の変化を好まない方もいらっしゃるのだなと、そんなに同じ味が良いなら京都の千枚漬け屋にでも行けと思った次第。それはそれで凄いものがある。という出張の最中の一瞬の深呼吸を頂いてきた私であります。

本格的?

本格的共同研究の実施というお上の会議に出席するため、今日は再びお江戸に出ている。昨日は諏訪商工会を日帰りし、くたびれていたこともあり、早朝の更新は止めにした。帰路の新幹線で「今日の戯言」も一興であろう。また楽しからずやである。お上の会議をリークは出来ないが、そもそもなんでこんな委員会が立ち上がっているのか概観してみたい。

コモディティ化戦術が得意なというか、その程度の戦略しか思考し得ない大企業においては、バリューチェーンが余りにも広く深くなりすぎ、新規領域での事業展開など考えることは出来ず、それ故に社会的インパクトのある製品開発などは海外任せとなってきて久しい。自動車は1チャージで500㎞走行できないと駄目みたいなことを信望する役員や、頼みの株主など、挑戦への意欲はゼロである。中小企業はと言えば、自らが生み出す製品価値への理解を妨害され、二次元図面を三次元化するだけに終始し、自らの価値が理解できないよう川下企業に操作されてきたことにより、これまた新規製品開発など意識に及ばない。

子供達を見れば、砂場という真っ新なキャンバスに自在に立体物を作り、しかも友達同士で、いや、初対面同士であっても共にゲームを作りルールを構築し、楽しく遊んでいるではないか。そして次の日もまた、新たな構築に挑む。大人は何時からその能力を放棄してしまうのだろうか。同列教育の人間コモディティ化戦略は間違いなく戦後欧米の戦略であり、我が国から独立心が生まれないように仕向けられた成果が現代社会だろう。その社会に対して、大学はその発展に尽くし、企業は現状比3倍の資金を大学に投じろという。お上はその分、運営費交付金を減らすのだろう。

その為に生まれた会議体である。社会の人達に成果を約束することは大学のミッションにはなかったことだ。大学内に生産拠点など無い。今はルールに則って作ることは可能だが、校舎は巨大なラインを並べられるほど頑丈ではない。更に企業は営利団体であり、人材育成を主とする大学とはベクトルが全く異なる。国が亡びる前兆ではないかと思うのだが、我々は絶対にくじけない。アイデアは名工大にはまだまだ無限の泉の如く沸いている。一歩一歩着実に歩むのみである。気合で進みます。

真実?

弱と強者を論じたら、どうやら強者は悪であったらしい。あったらしいが裁判をおこすそうだ。そうなると当然だが声紋の化学的分析が行われるだろうが、それは極めて興味深い。マスコミの魔女狩り力と真実との闘いである。昨日はマスコミの力を鼓舞したのは事実だが、マスコミ力を信望しているのでは決して無い。

だからと言って、「力」が好きかと言われれば全くそうではない。真実を達観するのが宜しい。あまりほじくらず、人間的なところでとまっているのが宜しい。そうでないと酔っぱらうことすらできず、生きる喜びが失われてしまう。喜びはそれだけではないのだが、まぁ良いではないか。真実を受け止め作り出す精神的苦痛を分かち合う人々と、神の力で浄化する。これこそ人間のあるべき姿であろう。

こんな風に勝手な解釈をするのが人間というものであって、それが自分で自分のためという間は宜しい。他人の領域に乗り出した途端に宜しくないことが発生する。他人の為にと最善を尽くしたとしても、他人はそれを良いとは思わない。ましてや第三者は偽善者とたたきに来る。自らだけが正義である如くだ。

苦悩は分かち合うことは出来ない。だからこそ苦悩なのだと思う。かのパガニーニは弓を弦に置くことを恐れ、演奏の直前には弓を構えてコンチェルトを夢幻のかなたで演奏したそうだ。学問を技術にし、そして社会に還元しようとする時、恐怖のみがつきまとう。それで良いのだ。誰も信じてくれない。でもそれを突破することが出来ると、行動が真実となる。それだけが正義だ。マスコミが正義ではない。正義かもしれない。真実は一つ。それだけだ。

日没

弱者に強者を訴えろという。訴えられなければ犯罪者では無いのだから、知らぬ存ぜぬで通しますと、国のトップが叫ぶ国だ。選挙とは選んだ民が責任を共に取りますということだから、そのトップに投票した人は、画面の向こうで語っていらっしゃる方と一心同体、同じ考えでいらっしゃるのだろう。政党で考えれば数千万の皆さんがそうお考えなのだと思うと薄ら寒い。丁度、今日の天気に相応しい。

上司に訴えるなんてそう簡単に出来るものでは無い。相談ごとすらためらうのだ。それを公に訴えろという。マスコミが面白がって訴える人を一時のスターに祭り上げるのではなく、結束して庇ってあげられないだろうか。盾になり訴えを実現して欲しいとは個人的に思っている。盾なくして出来るものではなかろう。それを予見しての狡猾な計略はあまりにも醜い。

我が身を振り返って17年前。まだそれしか経っていないのかと少々驚くのだが、学内行脚されている学長が「何か言いたい事があったら言え」と仰るものだから、馬鹿正直にまくしたてたら青筋を立てられて憤慨された。その1時間後にお電話を頂き、俺を補佐して運営会議に出て発言せよと言われて17年だ。太い腹のお方だと学長室に呼んで頂き政治の事、学問の事、様々にご教授頂いた。

ただ、それとこれとはまるで違う。公開処刑を仕掛けられたようなものだ。そしてマスコミを逆に訴える勢いにも感じる。事の成り行きを見守るしかないが、正義が何処にあるのか。それでも変わらない日本であるならば、もう、明日は無いね。

10年待つこと

桃栗三年柿八年、檸檬の樹は10年掛かった。長い長い年月で、アゲハ蝶の幼虫に葉を食べつくされ、雪にあたって葉が萎れ、様々な学びと共に10年にして漸く花芽を付けた。まだ実のったわけではない。蕾をつけただけだ。それでもそれこそ毎日眺め手塩にかけて漸くの蕾である。

社会は真逆だ。少しでもコストを下げて儲けを大きくしようと、早く安く作って利益を上げようという考えで何が起こったと言えばリコールの嵐。しかしそれに懲りず、何かありそうだなとなると、意地汚く上から目線で無償で奪い取る。そんな企業に多々出会う。

しかしそうでは無い大企業のとある部署もある。10年のお付き合いで、真摯に待って助言をして頂いて、蕾になったら肥料を与え選定し、共に開花を目指そうと痛みを分け合う。そんな出会いも世の中にはある。捨てたものでは無い。

任せると言ったら任せる。私は10年は待つ。世間は狭い。根本的に逃げるところなど無い。無いけれども最初からそのつもりもない。企画を提案し、任せられたら貫くのが良い。しかし、自分だけしか見えないのはよろしくない。常に鳥の目を持たねばならぬ。常に挑戦しているのが宜しい。机上には仕事は無い。身は大海にあり。そうありたい。

一つ一つ

既に上四半期は過ぎちゃいましたねと、先日、国の方々とお話がでた。そう、あっという間である。更に4月も半分過ぎてしまった。何をやったのかと問われてもほぼ何もないぞと言わざるを得ないのが情けない。新しい講義が始まったり、なんやかやあるのだが、プレッシャーばかり大きく感じてしまって空回りしている雰囲気あるなぁ。なんとかしなきゃってことが山ほどありすぎて、されそろそろ何処から手を付けようかというところ。

先週は外回りが半分で、正しい週の過ごし方という感じでしたが、その延長で今日も午後から出掛けてきます。外回りこそ小生の本分である筈なのですが、妙に机に縛り付けられてしまっていて、これでは露出が少なすぎる。細胞分裂的に同時多発的に社会で見かけたよというくらいでちょうど良い小生でありますから、だんだんそれっぽく、夏に向かって細胞分裂しようとは思っている。

気が付くとなんだかアポブックが灰色の世界になっていて、自由の無い国みたいな世界で、やっぱり働き方改革なんてものはこの国には無いのでしょうね。そもそも論で、弥生文化なんて一緒に稲を育てようって、みんなで努力して汗水たらして生き抜こうって遺伝子が組み込まれた人民ですから、ついついがんばっちゃうんですよね。ぶったおれそうになってもなんとかしちゃう。

いろいろやりたいことが沢山あって、どれから手を付けようかなという状況が続く。まぁ、例によって一つ一つ、丁寧にやっつけるしか無い。そうやっていると新たな問題が列をなしてやってくる。やってくるがやっぱり一つ一つである。焦るべからず。家康もそう言っている。

リアル

久しぶりにPCを持ち歩いている。意外と思われるかもしれないが、お仕事用のPCは怖くて持ち歩けない時期があった。その時期からテキスト端末のポメラだけを持ち歩き、iPhoneと接続して情報のやり取りをしていた期間が結構長い。今も、そうしたいのだが、様々なファイルのやり取りが日課となってしまっている現状で、少なくとも日中の会議が終わった後は「呑まず」に真面目にPCに向かわないと、メンバーからひっぱたかれそうな気がするので(気がするだけだ・・と思いたい)頑張ってホテルのデスクに向かう。持ち歩き様のPCはクラウドに繋ぐだけだ。データは持ち歩かない。便利だがお仕事を担いでいるようで楽しくない。

本の数年前までは、関東圏のホテルにおいてWiFiが使えないホテルが多かったように思う。オリンピックを迎えるにあたって、その辺りは猛烈な勢いで改善されていると実感する。今回、活用させて頂いたホテルにおいては、ネット情報ではケーブル活用だったのだが、到着してみればWiFiパスワードを渡してくれる環境にあった。まぁ、こういう時代なのでしょうね。電子的ネットワークから逃げようとしてもそれは許されない。世界中、どこに行っても「仕事しろよな」ということだ。

学びと実践。様々な意見があろうが、PC上で繰り広げられる世界は、リアルな情報から作られるものではあるが、願ったことが実現する世界だ。一方、実践においては委員長だろうがなんだろうが、異文化の方々と強烈にぶつかり合いゴールを作りそれを成果とする実践の場だ。どんなに場数を踏んでも、常に進化する社会において現れる場においては過去の繰り返しは認められず、新しい判断を瞬間瞬間に求められる。鍛えられる。

頭が活性化し過ぎてほぼ眠れない夜を過ごした。横になってもリアルが映像が浮かんできて、これでは頭の中にPCが埋め込まれたような状態だなと苦笑いする真っ暗な部屋。こんな時は本来は山歩きをするに限る。ぼぉっと純粋に歩くことだけ、滑落死しないことだけを思って、頭の中をまっさらにして歩く。見上げれば梢から青空。そんな世界とお別れして久しい。今日も缶詰だ。帰りの新幹線での自分ご褒美を目指して頑張るとするか。そんな今日である。

新幹線の効能

新幹線が猛烈に発達した結果、都内近郊で朝9時半スタートの会議は前泊が出来なくなった。名古屋からだと十二分に間に合う。始発などに乗る必要はない。名古屋は大阪、東京に時間的に極めて近く、前泊してちょっと一杯などと優雅な出張は何時の事だろうか。これがリニアになれば8時開始でも余裕だ。まぁ、小生には関係ないが後輩の諸君、頑張ってくださいな。

2月、3月と実験装置を自ら動かす時間がほとんどなく、昨日、珍しく装置を動かしたら、なんだかおかしな具合である。結局のところおかしかったのは市販の部材であったわけだが、すぐさまそれを修正できたのは長年、体に染みついた実験の感というやつだろう。本社のお偉いさんのアテンドをさせて頂いたのだが、大変に驚いて頂き、恐悦至極である。頑張っていると何か良いことあるなというところだ。

若い方々の研究風景も拝見し、美しき目の輝きに感激する。時代時代で新しいテーマが産まれ、それが次の時代を作っていく。間違いなく価値の伝承がなされ、そこからさらに新しい人が現れ、それが繰り返されていく。有難いことである。どれだけのフレッシュな現象を体験できるか、そんな夢を見せて頂けることに感謝である。

今日はお上のお仕事で、久しぶりに宿泊である。予算の関係で3日続けて東京にいるのだが、2泊するわけではない。恐ろしい事である。こんなところに四角四面のルール適応の弊害を感じる。一泊三日。国内なのにそんなお仕事環境がある状況に、働き方改革も何もあったものではないなと、それでも頑張り続ける自分に苦笑いする私であります。

碩学

講義が始まった。この講義は職業としての学問の象徴であると、教育学の中で学んだ。受ける側が職業の対象であり、生産物は生き物という、今、考えれば恐れ多いのだが、学生の頃はひたすらに学んだだけである。その学びの貯金を今になって漸く引き出し始めている、そんなところだ。無垢の心に一滴の雫を浸透させる、それが講義である。そして授業である。

講義は出来ても授業は出来ない。成る程、漸く判り始めてきた。一方的にしゃべりまくるか、聞き手に理解という境地まで到達させるのか。これは極めて難しい。寄り添うというわけでは無い。その考えではやる気の無い99%に照準を合わせることになってしまう。そうではない。やる気がみなぎり誰もがトップと認める努力家にこそ照準を合わせるべきだ。それ故に全員の質的向上が図られる。それが授業である。

多くが寝ている。昼休み後の科目と言うこともあるが、大学に対する不信感の表れでもあろう。どうせそこに居たとしても全く持って無駄であったと感じているならば、何を論じても聞く耳は無かろう。いや、そうであったとしてもぐんと杭を飲んだ如くに伸びる背筋を提供しなければならない。そうなっていないのであれば、語り手に落ち度がある。

いずれマスプロ教育は無くなるのではないか?いや、集団で効率が高くなる一次産業分野においてはそれは必須なのだが、ものづくり産業などでは通信教育だけになってしまうかもしれないと思う。ほんの数人が大学に通い、学理を探求し突き抜ける。その二分化が始まっているのではないか?威風堂々と寝込む人間を前にして残念な思いである。碩学。美しき言葉である。

三寒四温と言う季節は過ぎていると思ったら、宵の口、夜明けとぐっと冷え込む日が続きますな。どうせなら桜が咲き始めた頃にこんな状況を期待したかったのですが、どうもうまいこと行きませんね。チューリップなどは既に花を落としていたりして。短い花の季節をどう楽しむか。目を凝らして大学に通う朝です。

御器所から大学に向かう途中に、藤棚を作っていらっしゃるお宅があって、毎年、楽しみにして棚の脇を巡らせて頂いています。小学校の頃、校庭の脇にある藤棚から巨大な熊蜂が、窓を開け放ったそこから教室に飛び込んできて、阿鼻叫喚、ぎゃぁぎゃぁ状態になったことを思い出しますが、熊蜂はスズメバチと違っておとなしく、滅多に人を刺したりしないということを知ったのは大学で土壌学を学んでいると時に教授から聞いたくらいで、何も大騒ぎする必要は無かったのだなと苦笑い。尤も、がきんちょですから、騒ぐことが楽しかったのだと懐古。

その藤棚は例年、連休前に見頃を迎えていた筈なのですが、既に満開。おやおやと、藤までも既に満開ですか。こうなってくると連休中にお花見などを求めるには相当に山奥に行かないといけない。三河の低山というのではだめで2000m越が必要になろう。面倒な気がする。花を愛でがっかりするということがこれから毎年続くのかもしれない。もしもこれが本格温暖化の開始なのであれば。

藤棚と言えば御作町の藤の回廊を思い出す。何気なく立ち寄って、一口付近でがっかりして、それでもと思って奥まで行くと、これは見事な藤棚で回廊の名にふさわしい。連休の初めころに以前は見頃だったのですが、今年は恐らく来週末位に前倒しになるのではと、様々な観光の名所において、呼び物ががっかりトリガになってしまうのではと妙に危惧する私であります。