爛漫

業を卒えると書いて卒業。卒の文字を調べてみると様々な故事来歴が出てきて面白い。大学であれば4年間の業を終了し、卒業ということなのだろう。4年間。良い区切りである。産学官連携センター長をお引き受けさせて頂いてこれまた4年間。一区切りである。次はいよいよ機構としての区切りの新年度。弛まず一歩一歩進むのみである。

満開の桜、見事なものである。一方、足元の下段に目を転じればそこにも綺麗に花壇が百花繚乱。これまた見事である。上ばかり見ていないでしっかりと足元も見よということか。学ばせて頂ける。大仙院に舟石という銘石がある。大海に乗り出していく若者はかくあるべしとの表れだが、まぁ、小生の戯言に依らずその目でご覧あれ。そして学びなされ。

名古屋市公会堂が未だに工事中で、今年も金山に出掛けねばならぬ。大学と結構離れてしまい、卒業式の気分がやや薄れるのが残念だ。やはり鶴舞公園の桜の園が良い。桜はやはり良い。良いのだが、ソメイヨシノの寿命は大略100年。そろそろ初期の桜は枯死を始めるだろう。それもまた道理である。人の手に依るものはすべからくそれで良い。

卒業しても次の業を身に着け活用し、社会の役に立つ必要がある。卒業など永遠に無いのではないか。生ある限り卒業は無い。だから努力しなければならない。それもまた一歩一歩である。人を羨むことなく蔑むことなく、ただひたすらに努力し続ければ良い。立ち止まっても良い。しかし、また一歩進まねばならない。それが人生である。

工学

学理の探求から得られた結果を、どの様に社会にとっての価値に転換していくかという学問が工学であろう。様々な捉え方があって良いとは思うが、小生はそう考える。どのように成果に繋げていくかそのストーリーこそ工学人が描く物語だ。より多くの人が関わる物語を描いていく。完成する事の無い物語。今日できた物は既に次の瞬間には既に過去の遺物。それが工学人の宿命。それを面白がる余裕と先人への尊敬こそ持つべき意識だ。

関門トンネルも青函トンネルも、先人の偉大なる技術の成果だ。老朽化が問題となっているが、それが工学だ。明日のために過去を学び、常に刷新を続ける。その歩みは止めてはならぬ。根幹は基礎学理の探求である。何故こうなるのか解らないということがあれば、それは今の理解が間違っていると、自然に頭を垂れねばならぬ。それを数の論理で押し通すようなことはあってはならぬ。ノートの書き換え、データのすり替えみたいなことが起こってくる。

たとえ散ったとて、そこには桜があり、また咲いてくれると期待する。それと同様に人はあるべきだ。だからこそ日本人であり、信頼し合う民である。咲いてくれた桜に「おかえり」と声を掛ける優しさと包容力を抱くべきだ。倒れてもひっくり返っても、歯の食いしばりと血の滲みに敬意を払う。それが工学だ。真理の探究から産まれる学術を、笑顔を産む価値に変えていく。それこそが工学人のあるべき姿だ。

大きな組織を求める声が上がり始めていて、小生の耳にも入ってくる。それは違う。組織ではなく、何を成すべきかの理想を問うべきだ。寺子屋が民主主義を作り得た様に、学び知恵に変えていく為に大きな組織とは異なる指向性を持った組織が必要なのだ。供に活かしあえる。尖った技術を持ち、大きな組織とも堂々と会話が出来る。供にポジションが異なるのだ。同一視してはならぬ。

斯くの如し

いよいよ名大の拡大路線が新聞報道された。時期的に特区大学を目指した打ち上げ花火だ。当然のことながら本学にも様々な影響があるだろう。法人化時の遠山ショックは記憶に新しい。一緒になったらどうだという声掛けの向こうにあったのは、第二工学部の看板と人員90%減。「論文が何報無いと解雇」だとか、キャンパスの移設だとか、様々な雑音が入り乱れ、結局、鶴舞の地で毅然と工学教育の礎と成っている。

少子化になる、だから教育者は不要という、財務省の圧力に屈する我が親方だが、胸を張って仰って頂きたいこと。国家の根幹は教育にあると。少子高齢化だからこそ、一人一人に固有の「智」を教育しあうチャンスだ。学校を減らす、教師を減らすのではなく、教育者を育て少人数で個々を伸ばし合う教育を実現する機会到来である。100歳まで働けというのであれば、伸びたい若者に超技術(工学だけではない、全分野である)者を招聘し、学び合う場を構築する好機到来である。

大学個々の外部収入を昨年度末比3倍にしろという。東海機構で見たら3倍なんてまやかしは通じないだろう。学校名を残すと言うが、それで統廃合と文科省は認めるか?今のところモデルとされてはいるが、次のステップは言わずもがなだ。遠山ショックを体験した者にとって、甘い言葉はこの世に無いとトラウマとなっている。ポストと土地。徳川時代の江戸時代は未だに終わっていない。維新など遠い遠い。

大切なのは研究者が良い研究を行って科学研究費をじゃんじゃか獲得出来ること。それをどのようにアシストさせて頂けるかに尽きる。産連機構でなせることは、目に見える形では大小の研究機器を論文で通用できる精度で維持管理、そして発展させ続ける仕組みを作ること。更には様々なファンドの情報をいち早く入手し、関係各位に広め、エディットに関与させて頂くこと。その為には様々な裏方仕事が必要になるが、まだまだ到達していない。これまでに様々な黒船がやってきたが、今回も強力だ。私の信念は斯くの如しである。

新しいこと

最初に磨製石器を創った人はどんな人だったのだろう?それを創ってリーダーとなったのか、リーダーにせっつかれて何が何でもの気持ちで創ったのか。それは最早知る由もないのだが、どんな時代にも行けて誰に何を聞きたいかと言われたら、何故石器を思いついたんですかと聞いてみたい。割るだけではない。偶然の産物でもない。何らかの目的で、そしてその行為がどのような結論をもたらすのか、考えていたに違いないのだ。

何処にも教師など居ない。正に、自然そのものが教育者であり、そこから閃いて自らの手で形作ったのだ。偉大なる行為である。教育とはすべからくそうあるべきである。こう成し遂げたいと思った時、その最適任者が居るのであればその方にお願いしてみようではないか。しかし、どうも、官僚となるとそうもいかないらしい。政治家にたてつくと永遠につつかれる世の中は住みにくい。

智に働けば角が立つと仰ったのは漱石先生だが、石で口を漱ぐという漱石という名も相当に社会を斜めに見ていらっしゃる。性善説で真っすぐに前を向く人と、性悪説で斜めに見る人と両方が必要だ。簡明直裁に生きてみたいが、世の中はそうはいかない。人の数だけ思いがあるから想いは通じないと考えた方が宜しい。しかし、通じないから諦めるのも馬鹿馬鹿しい。諦めるなら考えなければ宜しい。何か決断したのなら実行すればよろしい。他者の批判など無視すれば良い。

今も稲穂を刈り取る程に鋭利な磨製石器。黒曜石の打製石器に負けず劣らず、人の細工は物凄い。その目的を見出した感性も素晴らしい。我々はその遺伝子を受け継いでいるのだ。自らの手で何かを生み出す。それこそがネオジャパネスク。一歩進まねばならぬ。今日はそうしよう。

開花

開花した。春である。小生は名古屋において基準僕を決めているが、今朝、そこに5輪の開花を認めた。花曇りとは良く言ったものだ。今日からやや気温が下がり3日ほど陽が陰るらしいから、満開までは大略10日程だろうか。今年も賑々しく、心晴やかにして頂きたいものだ。桜力の物凄さよ。

一時前に、最初期のソメイヨシノの絶滅が予言され、人工的創造物の儚さをおもったものだ。何も勿体ないというものではない。やはりそんなもんだろうという、所詮、人間如きが神の創造の様に永遠に輪廻出来るというものでは無かろうにと感じたのを覚えている。しかしながら、やはり大樹となったソメイヨシノ程、「わぁ」という得も言われぬ心持にさせてくれるものは無い。瞬間瞬間の煌めきと潔さ。

つい、一月前には大雪で福井路が遮断されたのなんだのとニュースになったわけだが、ひと月経ったら雪は消え桜である。日本は明確な四季がある国だと改めて感じる。記録的な寒波の年であったが、一気に加速し、暦通りになってくる。暖かくなる速度が大き過ぎるとも思うのだが、薄着で活動的になるのは悪い事ではない。今年こそ、低山であろうが、山に行ってみたいものだ。日程表を見てため息が出る。

毎年毎年やってくる正月のようなものだが、決まっていないからこそ期待は大きく、そしてその期待は裏切られることが無い。桜花爛漫。人もかくありたい。そう思う。

久しぶりに戯言っぽい

今日では無くて昨日のお話で恐縮である。

文科省のお仕事が終わった。帰りの新幹線は唯一のご褒美時間と捉えている。時刻的にメールがじゃんじゃん入るし、季節柄、A席に居る小生には西日のアタックが厳しい。某省庁との「友好的対話」(としておこう)が一段落し、次の提案を定量的に思考しつつ、落陽に向かうN700のなんと勇ましいことか。まもなく日没であるのだが、小生の心の中では日没など一度も無いのだ。宇宙空間に漂っていると、常に何処かの太陽が、眩しさを演出してくれる。そんなもんだ。

オブラートに包まねばならないところがもどかしいが、我が国の置かれた状況は極めて厳しい。この戯言に対しても、複数の某省から「お手柔らかに」と言われてしまうと「このすっとこどっこい!○○○×△□・・・」と言いにくい。大人になったもんだ。腹立たしいので、Y先生が機構長弟子の戯言とか言っちゃって、天下煽動組織への辛辣な暴言展開があればよろしい。密室では言うのだが・・・なんて自分が悲しくもある。

そもそも論だが「○長のたわごと」は、平成5年にNiftyServeで始まった愚痴掲示であって、今ならツイッターみたいなものの先鞭かしら?よく解らないけれど、学者があるべき姿と言うか、てやんでぇべらぼうめぇみたいなスタイルでスタートしたものだ。某出版社がそれをトレースしていて「今こそ紙媒体で!」・・冗談では無い。

霞ヶ関のビルの一室では、間違いなく国を憂いている民が未来に向かって議論している。その隣どころが現場において、「忖度」という単語の元、自ら命を絶つ程のことが起こっている。有権者よ、人の命が絶たれても、将来につけを回して作った銭に頭を下げるか。極僅かな人生を基準として、うごめく若者に釘を刺し切り捨てるか。小生も同様である。自らの無能を恥じ、若者の新しい社会にエールを送ろうでは無いか。しかしそこに言いたいことがある。小生の首を欠き切ってみよ!逆下克上を受けるが宜しい。応援する。そう言えないベテランは退場の季節である。世界の流れだ

結果と成果

喫緊の課題と言ったらどの程度のスピード感なのだろう。猛烈な勢いで動いている世の中で、ミクロな振動は無視するとして、マクロなうねりを様々な兼業の中で創り込んでいかねばならぬ時、ルールはルールと言われてもより良く改善と思った時、それが門前払いされる。教育は国の根幹、礎であるから、それを受け、将来を担う若者に託すべき最高の物語を(今、出来るということだけなのだが)送ろうと考えても、それは知らないと言う。高い意識を持った人間が大学を作り私学と名乗るわけだなと思った。

研究と開発は全く異なる。開発におけるエビデンスが研究によってもたらされるわけだが、そこにはマネタイズシナリオなど無いのだ。一方、国が地方大学に働き掛けているのは成果を出せる人を創れということ。特に国立大学法人教員は研究によって自然の作り出した神秘にアプローチしているわけで、得るのは結果。成果ではない。製品開発に求められるのは成果。この両方を会得している人間は数少ない。300名あたり1,2名だろう。そんなところで開発云々はいかん。

小生の親分が仰って記憶に刻まれていることの一つに、就職したら友人同士でも腹を割って話せない。しかし、研究室の同窓生だけはちゃう。ここで話して腑に落として口から出ないようにして、そして解散すれば良いと。同業他社に相談などできるはずも無いが、異業種間交流であれば、まぁ、これとて気をつけねばならないのだが、こんなことが出来ているという会話同士から、新しい気付きを得ることができるかもしれない。産学官金連携機構が行っている、他分野ワークショップは正にその実践である。4月以降も開催するので、是非ご参加頂きたい。有料講座にして運営していかないといけなくなるかもしれないので事前告知。

大学で開発者の種として伝達できることは、学科という学問分野の壁を取り払って、横断的なOJTを実践することだろうと考えている。その中において知財も含めてマネタイズまで教授しようとするわけだが、うまくいくかどうかは分からない。その段取り中で様々なことが起こるので、ひっくり返そうかなと思っている私であります。

有料コンテンツ

日本企業が最も苦手なのは新規事業創造だろう。当然のことながら、例えば自動車を一般民間人に販売している企業であれば、タイヤが4個付いているから価値だと思う。ハンドルが付いていればなお良しと言ったところだ。安全基準を満たしてみたいな当たり前のことは何処かに飛んでしまって、より安くという観点のみでモノづくりを進めていく。工程のそこかしこにロボットが介入し、動きを記録することでフィードバック可能としている。フィードバック可能が目的化されて、何をやっているかは二の次だ。

何をやっていると論じることができるのは設計者、即ちTier0企業のみだ。基本、やってくる図面の通りに物を作る。中小企業殿の勉強会において、御社は何を作っていらっしゃいますかと問うと、99%の企業殿からは、図面の通りに作るから俺は偉いと返ってくる。ふぅんと思う。既に、日本製の最高級の工作機械は中国にあり、我が国には無いのだ。一つの屋根の下に数百台のそれらの機械が並び、整然とモノづくりをしていく。それが世界だ。

機械が優れているだけではない。それを動かす人が受けた教育水準は、間違いなく世界の頂点にある。戦後、欧米から下卑た国と呼ばれた日本が、1970年台に先人の努力によって、モノづくり日本と世界に呼ばせたその状況は、今、お隣の国にある。と、なると、100年後を見据えて成すべきことは教育の大改革以外にない。国家の法を宇宙から俯瞰した日本に定められる人間を軸に、世界に向けて何を成すことで評価されるかを語ることが出来る政治家が出現せねばならぬ。

企業も学びに「銭」を投入するべきだ。大学をフリーペーパーの如くに小馬鹿にするのは、国家に唾するのに等しい。モノを作って売っているから偉いと勘違いも甚だしい。その中で名工大は有料の講座を設ける。無料以外興味が無い方は一切不要だ。それなりのものは身に着けて頂く。それは誰にも奪われない。小学校から教育は無償と思っている。大間違いだ。皆、税金を払っている。それは最低限の国家の水準だ。それを越えようと思う者は、自らを刮目し、身銭を切るが宜しい。正しい時代だ。

眉月

眉月を見てふとモーゼの若かりし頃の逸話を思い出した。後のエジプト王と共に学び合ったわけだが、その設問に「次にハレー彗星がやってくるのは何時か」という現代人でも相当に困難な問題があったという。それをモーゼは容易に解いたという。月の満ち欠けと地球と太陽との関係を頭の中で描いてみて、自転がこうで、地球と太陽と月の位置関係の難しさを思った時、次の彗星がいつやってくるなんてことは途方もない問題だなと、モーゼ凄いというか、その回答を見て正解と判断した教官がとんでもなく凄いと思った次第。

御器所から大学に向かう途上に様々な庭木を見ることが出来る。これは季節に応じていろいろな姿を見せてくれて愉快である。庭木であるからその家主の想いが籠っているわけだが、塀を越える背丈になれば一般民間人もそれを見て季節を感じさせて頂ける。今朝は桃の開花を見た。おぉ、昨日の暖かさが正に春を呼んできたかと。満開のまんさくに出会えば間もなく春だなと感じるが、桃に出会えばいよいよもって春である。

東京などは20℃を越えるらしいから桜開花も間もなくというところだろう。その桃の花を見て、モーゼはなんと答えるのだろうかとなんだか旧知の仲のように思ったのだが、とてもでは無いが、あれほど辛い人生を歩むことなどできるはずはない。週末に雨が降るらしいが、何時どんな気象がやってくるかなどは分からぬ時代に、数万人の命を背負ってまだ見ぬ土地目掛けて歩むなどとてつもない意志である。

しかしながらだ、世界の情勢がリアルタイムでやってくる今においては、分からぬ時代よりも厳しいとも感じる。まだ見ぬ時代であればそれに呼応するだけだ。狭い世界しか知らない人は、自らの知恵を世界そのものだと思って後追いの人を叱りつけ威張りまくる。見える世が広ければ広い程、必然、謙虚になり首を垂れる。毎朝、昇る月と季節に応じて咲く花の有難さ。身に染みる。

やっぱり3.11

西尾君が「津波が来ています」とPCの画面の向こうでの実況中継に見入り、忘れた頃にきちんとやってくる自然に恐怖し、また、これが土地紙様ということなのかもしれないと感じた。大地に感謝することなく傷つけ威張る輩を一掃しにやってくる。ノアの洪水もそうだが、人という人種が感謝の気持ちを忘れると、何処かで神の怒りが大爆発する。この「何処か」というところが問題なのだが、今はたまたま地球の上で、日本近傍で4つのプレートが衝突しあうという地域になっていて地震が必然となっている。

なっているのだからと言って、人工物で津波を避けられるだろうという天狗の鼻折れもいいところ、先人が「これより高いところに住め」という碑を日本中で見出すことが出来るのに現世日本人は己惚れの極致、地震雷火事台風に見舞われる。亡くなられ、ご遺体も見つかっていない関係者各位には心より哀悼の意を表します。残された我々は自然とは何か、生きるとは何かを真正面から見つめなおさないといけません。

地震のお陰でとんでもない無理をしているのだなと実感したのが原発。超新星爆発で生まれた超重元素。そのエネルギーを蓄えた元素を集めて、人間が利用しようというのだから、そもそも宇宙の神への冒涜であろう。人間がなんとかなる代物ではない。身体が取り込みやすいストロンチウムが放射化すれば、それはどうなるか自明の理。なのだが、高度経済成長という、人が作った金が心を蝕む状況は、自明の理すら破壊する。

汚染物質を押し付け合うが、元来、そうなったのは国民の政治への無関心が原因であり、天に吐いた唾が自分に戻っただけのことだ。マスコミなどは偉そうに浪花節を騙るが、政治の圧力に屈している単なる太鼓持ちではないか。無理を通せば道理が引っ込む。偽善者ぶるわけではない。学者として出来ることを粛々と行うだけだ。3.11はこれからも重要な一日だ。何故、それを真摯に想い、人が活き合うことに感謝する国民の日に制定されないのか。不思議でならない。