大雨の後

暗渠から伝わってくる振動で昨夜の大雨を感じる。この振動が好きだ。何とも街が綺麗になった気になる。実際のところ砂ぼこりなどは綺麗さっぱり押し流されて清々しい。一雨ごとの暖かさで、寒さも和らぎ、適度な湿気を含んだ空気を深呼吸する。今週も金曜日がやってきたが、明日、明後日もお仕事だからちっとも週末感覚は無い。まぁ、そんなもんだ。

地方創成という言葉が躍っている。愛知県も地方だと思っているのだが、いかんせん、工業出荷額日本一の県であって、企業立県であるから県が何を言おうがお構いなしだ。数億円の補助金など埃にもならない。ならないのだけれど、中堅・中小にしてみれば一つの研究開発に充てられる額ではある。しかしそれらのすり合わせで巨大産業を作り出している大企業にとってはやっぱりゴミみたいなものだ。

ここに愛知県の難しさがある。普通の地方であればカンフル剤が効果を発揮するのだが、この愛知県という巨象にはそんじょそこらの注射は効かない。となると、倒れるまで何もできないような状況で、デトロイトみたいになってしまうのではないかと思ってみたりする。他山の石と思っているのだろうが、いつでんぐりかえるか、案外、近いような気もしないでもない。

組織が強くなりすぎるのも考え物だ。足元が見えなくなって、力でごり押しするようになる。抜け道を創ってちゃっちゃとやってしまうようになっては、その組織にとってアリの一穴。それを創らないように地道に努力を積み重ねる必要がある。挑戦すらしなくなって、談合でこそこそし始める。なんだかそんな気配を感じるが、まぁ、私は私で地味にじわじわと参ります。やっぱり単純と堂々が一番。そんな私であります。

合格発表

前期日程入試の合格発表が昨日行われた。本学においても御同様にして発表が成された。無味乾燥な数字が発表されるだけなのだが、その数字にはそれまでの頑張りが表され、合格者の笑顔を引き出す。アメフト部の胴上げが名物となっていて、男子高校生が宙を舞う姿にほほえんだ。なんと素晴らしい情景であろうか。自分にもそんな時代があったなぁと遠い記憶を遡ってみたりしたが、懐かしんでも仕方が無いので、さっさと仕事に戻る。

昨今、入試の判定ミスのニュースが踊る。マスコミにしてみれば格好の餌食であって、社会悪の権化のようにたたいてくる。確かに阪大の事例は異質に感じた。あれはまずい。判定ミスなどあってはならず、採点ミス、問題作成ミスなど様々な人為的ミスを減らす努力をしている。ただ、それは研究等に掛かる時間を大幅に削っていることに直結する。大学で勉強しようと頑張った者に対してどんなに丁寧にしてもしたりないのだが、実はそれが大学に入った者の前で教壇に立つ人間から多大な時間を搾取していることにも繋がっている。

入試は一発勝負。体調不良でもアウト。小生も思い出すのだが、上野駅で電気機関車が壊れて動かない。ご同輩っぽい方がうろうろと車内を不安げに歩き回る。運不運というものはあるものだなぁと妙に落ち着いていたのだが、結局、5分の遅刻で済み、無事に入試を受けさせて頂き今に至っている。暢気な時代であった。バスからの眺めを今も覚えている。水を張ったばかりの田んぼに白鷺が舞っていた。

大学は一つの通過点だが、思いっきり勉強すると間違いなくその後に役に立つ。頑張ったことが役に立つ。詰め込み教育は否定されがちだが、詰め込んで柔軟に膨らむことが出来る時代に詰め込むべきなのだ。合格者諸君、君達は今日現在は受験というゲートをくぐり抜けることが出来たのは間違いない。しかし人生はまだまだ長い。こつこつ一歩一歩、進んで頂きたい。努力は自分に宿る。それは誰にも奪われない。

務め

国立大学が平成16年から無くなり、今では国立大学法人というなんだかわかったようなわからないような。法人というのであればなんらかを目的とした私的な金稼ぎ集団であるはずなのだが、これが思いっきり縛られた形態をとっている。もっとも、財務会計の素人集団が法人なんて運営できるはずもないのだから、縛っておかないとあっという間に倒産ということになる。それが今の国立大学法人である。

国もこのままではお抱えの法人が多すぎて切り捨てていかないといけないとようやく気付いたらしく、特定国立大学法人という、これまた枠の外の蚊帳の中みたいな、なにがなんだか分からないグループを作って、土地を貸しても良し、投資しても良し、金で金を稼いで良いという、およそ教育組織にはなじまないことをやらせ始めた。東大などはどんどこ稼ぎはじめ、金持ちは無限に金を稼げるという時代劇みたいな状況を作り出している。見事なもんだ。

純粋な研究の府が、基礎から製品化までやってのけるという、TOYOTAも真っ青的な活動を展開し始めた。基礎を持ったものが分散せずに社会価値まで作りだしてきたら、これは国営営利企業のあるべき姿だなと感心している。本学ではなかなかこうはいかない。社会と一体となって高度人財を創造するというのが本学の務めだとは思うのだが、果たして今の状況はそれを牽引しているかと言われれば、そこまで割り切って頑張って無いというのが社会の評価であろう。

不具合解決では無く、理想からモノ作りをしていく。それこそが名工大の有り様だとするならば、便利と思われそうなスマホのアプリを作ったり、ネットありきのサービスで稼いだりというのはターゲットとしては違うと思っている。心の底から信頼できる、いや、疑うことすら想起しえない、人に寄り添う技術こそ挑むべきで、これは10年、20年と積み重ねていくものだ。そのページをゼロから作り出す。それが務めだ。

人工

こんなものいらないなぁと思う巨大人工物が多々ある。諫早をはじめ、誰かの都合で自然を破壊してしまう構造物がその代表だが、長良川河口堰などもその一つだ。これは小生の想いだけだから、政治的に欲しい人は沢山いるんでしょうけれど、世論一般などと大それたことは考えない。大きな土木事業を行うと、大きなお金が動く。名古屋の大深度においてもお金が飛び交う。金まみれの構造物作りは一体、いつになったらやむのだろう。

ガキの頃は大きなもの、高速道路など、なんだか夢のような世界であった。何処までも続く平たい世界に、忽然とビルが現れ道路が空中で交差して、無限の数の車が走り回る。電車はどんどん早くなって、丸い顔の新幹線が登場して、近いうちに車も空を飛ぶのだろうと本気で思っていた。人口が恐ろしい勢いで増え続け、川の流れが変わり、橋が無くなり平地に変わっていった。その頃からなんだか変だと思い始めた。

近所に呑川というのがあって、これが高度経済成長期にヘドロがわんさか。浚渫が大変だと川底をコンクリートで固めてしまった。これが決定打だった。世の中おかしいと。大地に手を加え人が住むくらいならまぁ良かろう。自然に湧き出た水が海を目指す。バクテリアなどが浄化しながら水を海に運び水蒸気となって再び雨になる。その循環を破壊する人間の浅はかで愚かな行為だと、小学生ながら思ったものだ。

水が必要になるから河口堰を作ったと言う。しかし、誰も使ってない。閉じると決めた官僚がいるから閉じる。学者を呼んできて生態系は変化しないと言わせて、閉じる。学者も金に頭を下げちゃうから、札束が必ず勝利する。日本から自然という資源を取り去ったら何も残らない。心を支える文化の源流は天と大地だ。その間に人は生かされる。生きることに謙虚でなければと、まだまだ硬い桜の芽を見てしみじみ思った朝であった。

不漁

もう3年前になろうか、鰻の完全養殖を目指して「こんなことやりませんか」と呼びかけた。名物を崩壊させるのかと見えない力が何処からともなく真正面からやってきて、あっという間に潰される。その昔、潮力発電やりませんかと言うと、やはり何処からともなく力が掛かってアイデアそのものが無かったものになる。地方大学なりのことを頑張ろうとすると、やはり核の雲の傘がやってきて寄ってたかって潰される。自分のためにと思ったことは一度も無いが、どうも世の中は暴力的な力がお好きなようだ。議論なんかない。

鰻がスーパー不漁らしい。そりゃぁそうだろう。取りたいだけ取って、ぎゅうぎゅう詰めで育てて、全部オスにして、しかも親鰻を海に戻さないんだから減るに決まっている。人為的な不漁と断言して良いだろう。マリアナ海溝近傍の海流が変わった云々はあるかもしれない。そりゃぁ自然のやることだから突然の絶滅だってあるかもしれない。しかし鰻に限っては人為的だろうね。これはもう仕方が無い、今年の夏は鰻レスだ。

満月の潮力と光、恐ろしい程の水圧によって粉砕され、そして不要なものが海に溶け出した残りを鰻の仔魚は食する。その部分を実現しないと完全養殖は成り立たない。完全養殖とは、今、瑞浪地域で流行り始めている人工海水による養殖の事で、海水を使ったら完全養殖とは言わない。だから鮭は完全養殖では無い。勿論、瑞浪においてもその昔の浜辺のミネラルを含んだ淡水に塩分を混ぜるから海老が陸で育つ。100%の人工というわけではないが、自然の力をお借りして、知恵で命を育む。

権力と言う恐ろしいものにどんどん流されていく。仕組みを都合よく変えて延命する。そりゃぁついさっきトップに立った人が「これやりたい」と言っても無視されちゃうのかもしれないが、世界は常に新しいのだ。その新しさを受け入れてアシストしながら交代していく。それが知恵のある者のすることではないのか。お金がないから潰しちゃう。教育なんかいらないと叫ぶ。そんな馬鹿どもに食われてたまるかと、鰻も何処かに行ってしまったのだろう。そう思う。

労働とは?

裁量労働制云々を経団連が旗を振ったというのが嫌らしい。国立大学法人教員はとっくの昔に裁量労働であるが、これは誠にもって的を得ていると思う。お役目として週40時間の仕事範囲に収まっているかと言えばそれは明らかに違うと叫びたくなるが、大略、束縛は会議と講義ということだから、週の労働時間が設定されて、それ以上に働けばという流れになる。この「それ以上に」というのが、一般民間人の方々にとっては間違いなくブラックになるだろうと想像する。

大学生時代のアルバイトを思い出すと、例えばビル一棟の蛍光灯を土曜日の午後に全部取り換えるとなれば、それがノルマであって、早かろうが遅かろうが賃金は一緒だ。家庭教師などは自給いくらになるから、時間に縛られてそれで賃金を頂ける。裁量労働はどちらでもない。後者で前者の条件になるのだろう。40時間分の給料はこれね、だけど労働は1000時間やれよなというのが、まぁ、経営者側の考えなんでしょうね。労働時間が少なくなるという物凄いデータを信じて話す人の頭の中を疑いたくなる。

体調不良の時もあれば絶好調の時もあろう。ノルマに縛られればゴールは遠かったり近かったりだが、仕事に長けている人に裁量労働を適用したら、みんな辞めちゃうんじゃないかな。同じ時間に人の3倍仕事をこなそうとも給与は同じねって、それはどうなんでしょう。法律提案が流れてしまっても無理はないかな。

みんな、何か良いことしたいに決まっているのだと思う。人が何故生まれたのかってなところに帰着するのだろうけれど、労働って何かということを天下国家を論じるには、きっちりと定義していかねばならない。きれいごとではない。どろどろとした人間社会だ。心底頑張って成果を挙げている人を妬む社会だ。人間は弱い。弱い者同士助け合えばいいのにと思うのだが、質の高い教育組織を築こうとしても日の丸が抑え込む。情けなくなる。

到春

ドアを開けたら春が来ていた。夜中十の嵐が雨戸を叩き、春を告げていたのは感じていたが、もわっとする暖気は正に春のものであった。とは言え、しばらくはぶり返す寒さもあるだろう。気を付けねばならない。ここ数日来満開になった梅が気になったが、思っていたほどの被害は無く、メジロを呼んでくれる満開は維持されていてほっとした。楽しみが一気に無くなってしまったかとひやひやした。昨年は正月頃から暖かく、春一番で梅が無くなったが、今年の寒さは花を守った感がある。

名古屋地域は久しぶりのお湿りで、乾燥が続いて風邪やインフルエンザが流行っていたが、これで少しは終息するかもしれないと、これまたほっとしている。驚いたのは御器所の駅を地上に出た時だ。どうも徳重の方面と御器所方面では空気の流れが明確に異なっているらしく、空気感が全く違う。明らかに御器所がヒヤッとする。それ模様もなんだか寒気に満ちているっぽくて、緑区ってそんなに南か?と南国ムード満点の故郷から秋田に出張したみたいな感じがする。

日本海を低気圧が進んでいただけでは無く、閉塞全線を伴った低気圧がアベックになって本州をサンドイッチしたらしく、寒冷部と暖部が入れ混じって今朝の嵐になったのであろう。緑区ではとっくに上がった雨で、桜山あたりからびしょ濡れの男子高校生(っぽい)達が乗り込んできて驚かされたが、御器所の空は厚い雲ではあったが雨はやんでいた。西の空は明みて、ほっとして歩き始める。

叩きつける雨と風で妙に綺麗な町並み。これが大変に好きである。気分爽快とはこのことで、吸い殻、空き缶、紙くずなどまで吹っ飛んでいる。いや、これらは何処かに吹き溜まっているだけだろうから、積分的には綺麗なったわけでは無いが、目の前からそれが消え去っただけで良しとしよう。関東や東北はこれから嵐の本番らしい。春が来た。そう宣言しても良さそうな朝に心地よさを感じる私であります。

パソコン考

学生の頃から一体何台のパソコンと付き合っただろうか?メインフレームから入ったから孤立端末の凄さは実感出来ているのだが、今でも感じる「不安定」さである。今朝も立ち上げたら「なんだこの画面は?」という状態であって、さっきまで考えていた高尚な(うそ)戯言のテーマなど一瞬にふっとんでしまった。戯言なのでどうでも良いのだが、パソコンが普通に立ち上がらない時ほど面倒なことは無い。いや、他にも面倒は沢山あるのだが、私的に面倒だろうと言われれば20本の指には入るだろう、うん、たぶん入る・・と思う。

立ち上がらなければ、そろそろ新しくするかなで終わってしまう。昔と違ってお仕事データはクラウド上に上がっているから他の端末を立ち上げればそれでおしまい。なんと美しい事か。だから「なんだこれ」となっても別になんてことはないのだが、腹立たしいのは間違いない。紙と鉛筆を想えばその自由度は素晴らしい。素晴らしいがその紙を持ち忘れてしまうとアイデアそのものを思い出さねばならず何と面倒なことか。と、なると、やはり、パソコンは普通に立ち上がって欲しいのだ。

昔のパソコンの思い出を語っても全く無駄なので端折るが、ウエブの情報に溢れた昨今と言うか、はっきり言って脳みそがウエブの一部にも満たない今、要するにネットに繋がる一つの窓としてのパソコンが妙なことになると困るというだけだ。この時になんとネットに依存していることかと、ゲーム小僧と同様の状態に陥っている自らがへたれに感じるのだ。ネットの上の情報密度のなんと大きなことか。そしてそれが無尽蔵に増え続ける凄さだ。

自動運転になると一日のドライブで車内・車外で生まれて、そしてやり取りするデータ量は4テラバイトに到達するという。そんなものがどんどこ積み重なってビッグデータとして社会に活用されていく。その勢いでも人を跳ね飛ばしたりするのだから、個人が入出力するパソコンなんてものはもはや社会的には何の価値も無く、立ち上がりの画面が妙な状態であろうとも「ふぅん」くらいで終わってよろしい。宜しいのだが、こうやって戯言をほざいているところをみるとどうやらパソコンは立ち上がっているらしい。ちょっと前なら大騒ぎだが、お仕事データのクラウド化。これは必須であろう。心の平穏はそんなところが第一歩だと感じた、朝の「おやっ」であった。

感冒

某テレビ局が主催するアイデアコンテストの審査を依頼され、休日出掛けていた。日曜日だったからなのかなんだかわからないが、少々寒く、過労困憊の小生にとって厳しい環境であった。月曜日の朝、見事に鼻声になり、1階の皆様の笑いを誘うことが出来、それはそれで良かったのだが、なんだか調子が悪くていかん。熱が劇的にあるわけでもなく、まぁ、感冒であろうと古来の自己治療に取り組んだ。医者はいかん。医者は金のために嘘を付く連中だ。

血行を良くせねばならぬ。基本、代謝を猛烈に上げてへたった体細胞に引退頂いて、中から新しくしてしまえばよろしい。基本は風呂だ。体力が落ちたら風呂はいかんと医者は言う。医者が言うなら逆を行く。彼らは薬剤を高価に投与して稼ぐ。ただ、確かに風呂だけでは駄目だ。風呂は体力を奪うというのは恐らく間違ってはいない。その後、栄養を取ってとっとと寝るというのがポイントだろう。従って風呂上がりの準備をしておかねばならぬ。

血行向上のためには玉ねぎがよろしい。ただ、細胞から有効成分が溶け出すのは20分程度置かねばならぬ。だからこそスライスしてから風呂に入ってしまうのがよろしい。スライスして、すし酢とそばつゆを併せて、一味で整えた玉ねぎが湿る程度に味付けをしたらタンパク質の下準備に移る。玉ねぎは出てきた汁分を摂らないとなんにもならないので、味付け液はミニマムでなければならない。病の時は豚肉が良い。消化を助けるにはヨーグルトなど発酵菌が良い。麹も良いがちょっと酸味が欲しかったので、ヨーグルト、レモン汁、醤油とみりんを併せやや火を通し、それを混ぜて豚肉を漬け込む。ここまで来たらじっくりと入浴だ。

徹底的に暖まる。心底暖まるのが重要だ。中途半端ではいけない。骨髄まで血行を上げねばならぬ。上がったらそれが熱的に下がらぬ内に先程の食材を仕上げ頂く。豚肉は広げ打ち胡麻を振り片栗粉を薄くまぶし、オリーブオイルで焼く。玉ねぎとあわせながら頂く。主食はお好みだろう。病時は日本人は米が宜しい。食休みの後横になっていると、どかぁんと汗がでる。面倒がらずに下着を換えて再び横になる。明け方復活である。まぁ、病とはこんなもんだ。人間の野獣性に従って治す。自然と共に生きるべし。

マラソン

奥三河に設楽という町があってそこの岩古谷山などは面白い山だ。それで駅伝で設楽選手が登場した時には応援をしていたもんだ。その人が昨日、マラソンで日本記録を更新した。駅伝で活躍の後、トラック競技で頑張っていたが、漸くマラソンにも挑戦を始めてくれた。元来、箱根駅伝は、先人達が日本陸上界にも長距離で戦える選手を育てようと始めたものだが、区間当たり大略20kmだからか、あるいは、駅伝出場が目的化されてしまって燃え尽きてしまうのか、日の丸を背負って戦ってくれる選手がちっともでない。

こちらは見ているだけだから勝手なもんだが、40kmを走るとなると常人を逸脱した肉体と精神力が必要となろう。そのマラソンの「ソン」を使って、アイデアソンとかハッカソンとか、行われている。昨日、その審査を依頼されて一日潰してきたのだが、形まで創り込むのでジャストアイデアより遥かに良いのだが、本当にこれで良いのかと疑問を抱くこと多々ありである。

名工大は昨年から全学の学生が初頭知財教育を受講するようになり、加えて、大学院では更に深い知財教育が展開される。思考そのものが財産であって、アイデアはただ取りという日本企業の風潮には吐き気がするが、学生諸君に起業の意欲が芽生え始めているのは素晴らしいと感じる。それぞれの分野のある意味プロが集まって、ハード・ソフトを形にしていって賞金を稼ぐ「ソン」荒らしみたいな雰囲気が無いのが良い。

今朝ほど、画面の向こうでお役人殿が「生産人口減少に向かって生産性向上は必須のことで、まだまだ出来る」と仰っていたが、じゃぁやってごらんと言いたい。何かのデータを使えば2000億円の市場が生まれると叫んでいるが、世界は100兆円のレベルでものを生み出しているのだ。単位が違う。大きな目的も無く、単に「ソン」やってみようかという企業根性には呆れかえる。「貴方は誰を今日、どんな能力で幸せにしますか?」そう自ら問いかける私であります。