ビジョンをお持ちですか?

モチベーションという単語は好きでは無くて、全て全力で取り組むというのがスタイルである。手抜きをするなら何もしないのがよろしい。そう思っている。それでも案外というか、そこそこ一日の計画を立てて、ToDoリストの再困難なものからやっつけることと、長期目標を持っていないと、毎日、何をやっているのか分からないというか、お仕事に追いかけられて、本来やるべき組織的なことがお留守になる。多く「若者が離職して困っている」というお企業様には「長期ビジョンの共有が全社で成されていない」状況にあると感じている。

実際に、お企業様に「御社のビジョンは」と図々しく尋ねるとホームページに掲載されていることを聞かせて頂くこととなる。いや、あのですね、あれはどこのお企業様でも同じこと・・だから改めてお聞かせ願いたいという事なのですけどねとなる。そんなお企業様は特に離職率が高い。もう一つ、ビジョンを共有しようとしないミドルがいらっしゃるところも同様である。この場合はピンポイントで鬱になって離職されるパターンが多いようですな。これもとても残念なことだと思っている。

その昔、キャリアパスについて講義をしないといけないことがあって、いろいろとお若い方々と同席をさせて頂くことがあったのだが、理想の自分って何?とばくっと聞くと、何も返ってこないことが多かったですね。ずっと一人で居たいとかね、それはそれで立派な回答なのですよ。自分からオリジナルな回答を出せるという状態は、もう立派なキャリアパスを語っていますよ。企業殿も同じで、依頼された仕事を確実にこなすことが仕事と仰るところが大半。消えゆくのだろう。

自らの理想状態になっているとは感じていない。だからこそ、必死に頑張る。必死って簡単に書くのだけれど、多くの人がそうは言うものの、どこかでこんなところで良いか?とか、無理だから止めようとか、小生からすると意志薄弱に見える。がけっぷちに立って、それでも一歩踏み出して初めて見えるのが必死の結果である。モチベーションなんて意志薄弱者の言い訳にしか小生には見えないのだ。やらない言い訳は簡単だ。全力でやってみる。こけてみる。それで良いでは無いか。そんなもんだ。

ウサギを起こせる?

石川洋先生の「寝ているウサギさんを起こしてあげるカメになりたい」という作品は素晴らしい。これを知ったきっかけは、某小学校の会議室の壁に飾ってあった、この誌の石川洋先生直筆の色紙を拝見した時だ。引用させて頂くと「空いっぱいに空があるように 心いっぱいに美しい心を育てよう おくれてもいい 寝ているウサギさんを起こしてあげられるカメさんに 私はなりたいな」。ウサギとカメの逸話は、常に、さぼる奴より丁寧にコツコツ積み重ねる奴が必ず勝つというものだ。とても違和感があったのだが、妙に納得したのだ。

そもそも論として、ウサギとカメとはフィールドが違う。陸上と水生だ。ゾウガメのように陸を主体として生活する種もいるが、日本で出会うカメは、大略、池の傍に住んでいる。水の中ならカメは圧勝だ。それをウサギのフィールドにカメを持ちだして、脱兎の如くのまま永遠に走り続けられると、勝負にならない条件設定をしている。これこそプロパガンダである。それぞれが快適と思う空間で、思う存分、命を全うすれば良いでは無いか。何故、ウサギとカメを競走させる必要があるのだ。

「寝ているウサギさんを起こしてあげられるカメ」の余裕ある姿に感動したのだ。どっしりと構えて泰然自若。目先の利害にとらわれず、目的地を定めて突き進む。真実と信じた地を目指して一歩一歩歩んでいく。その素晴らしい土地を共に目指してくれるのであれば、寝ているウサギさんも一緒に行きましょうと起こして上げる。現代社会に必要な姿はウサギさんを起こすカメさんではないか。

間もなく、海外からの旅行客が、円安の日本を蝕みにやってくる。目先の利益に終始して、粗製乱造な商品を売って、金儲けしようとする輩が闊歩し無いか心配である。コロナ禍を生き延びた辛さはあろう。しかし、それから解き放たれたからと言って、その分を取り返そうとすると、脱兎のごとくに突き進み、別の疲れで寝込んでしまうのでは無いか。同種の生命体の競走には起こしてくれる他種は居ない。同種はみんな先に行く。ご用心。

経験者考

誰かが知っていれば良いだろうという組織は、既に組織の体を成していない。知の共有が組織の一丁目一番地と思っている。多く、ベテランは経験値で「自分は初心者の頃からそれを解っていた」と部下に圧力を掛けるわけだが、単に慣れているだけで、解っていたのと出来るのとは異なると言われるように、経験知になっていなければ、何も組織として共有できないわけだから、そんな経験値は要らないということになる。

「あの人のやり方は真似できない」と初心者は熟達者を見て思うのだが、これは一理ある。真似できるものを積み重ねていくと、要するに「その人には真似が出来ること」をその人の味と共に重ねていって、新たな微妙な「真似のできないもの」が生まれることは良く有る。「本当に真似の出来ないこと」を持った人は強い。余人をもって代えがたいとはそのような人のことを指す。

真似ようと思っても、個人の価値観は個人の分だけあって、全員違うわけだから、完璧にトレースなどできはしないし、その必要はない。真似るところは「何故その人が他の人をどのように喜ばせようとしているか」という方向性。それさえ真似が出来れば、プロセスは如何様にも変化させることができる。むしろ、同じ方法を取る必要など無いのだ。組織構成員全員が当事者意識を持てれば、それがもう「真似た」ことになって、全員が知を共有したことになる。「何故」を教えずに「形だけを真似ろ」という者は組織には不要である。

オープンが重要である。経験を知に作り込んでいく。それをオープンにして共有していく。自分が損をするのではなどと考える必要は無い。そもそもそんな輩の知は共有されても迷惑なだけだから。組織構成員がお互いの意識を高めあう知の共有を成すべきである。組織の中で、何をさせて頂くことが全体最適となっていくのか、それを考え行動に変換していく。その時に気付くはずだ。もっと良い場を作り込まなければならないことを。社会は生き物だ。今の組織はその生き物にとって居心地が良く無ければならない。組織人が居心地が良い組織は無用の長物である。そんなもんだ。

太陽の季節

凄まじく暑い一日を体験すると、これが温暖化の結果かと単純に感じてしまう。温暖化、温暖化と連呼されると一気に海面が上昇して、都市部に甚大な被害が出るのかと思ってしまうが、東京が高潮で水没したという話は聞いたことが無い。タワマンの地下の送電施設が水没して、階段の上り下りが大変になったという話は聞くが、まぁ、運動不足のお金持ちの方々には、適度な運動機会が与えらた位の前向きさが必要だということだ。貧乏人の冷や水だけどね。

工業製品と農産品を交換して生きている日本にとって、コロナ禍とロシア・ウクライナ情勢はとてつもなく大きな影響を受けたのだが、それに対応した動きが何処にあるのかさっぱり解らない。じゃんじゃか国債を発行して、自国の貨幣価値を下げまくっているわけだが、それで海面上昇と差し引きゼロとか言い出すのでは無いかと、国の浮沈がリアルな浮沈に重なって未来を暗く感じてしまう。

インドでは3月頃から50℃近い気温を記録しているとの事だが、太陽エネルギーという外部から付与されるエネルギーが、海洋と大気の循環によって、何処に集中して、何処が足りなくなるかのバランスで、暑さばかりが強調されてもいけない。雹が降り注いで一気に寒冷化しているエリアだってあるのだ。地球が蓄える太陽エネルギーの「確かな定量的数値」というのが何処かにあるのだろうが、新聞やマスコミ報道で拝見したことが無い。人が生息しているエリアがどうかということで、それは種々のウイルスが何処に生き残っているのか解らないということにも繋がる。

見えているようで何も見えていないのでは無いか。DXが叫ばれているわけだが、世界中の詳細なデータは何処かにあるのでしょうけれど、それが正しく可視化されているかどうかは解らない。今日、何を成すべきで、明日は何時から会議があってということは解っても、どこでどんな問題が発生しているのか、全てを把握できているわけでは無い。不確実な中で、自らが最善と考える行動を具体的に起こす。それの積み重ねでしか明日を迎えられないわけだ。具体的に活動する。粛々と行う。それだけだ。

情報確度

TVやネットの報道が一致していたとしても、それが正しい判断材料になるとは限らない。有識者ヒアリングみたいなところに呼び出されて、お偉い方の旗の振り方を目の当たりにしてしまうと、報道は見せかけで、一面だけをクローズアップしているのだなと実感出来る。見ると聞くとは大違いという奴だ。所詮、報道は加工品であって真実では無い。いや、伝え聞いたものに真実は無かろう。発生しているものを「見た」り「体験」したりして、その第一人称だけが自分にとって真実である。客観的になど見ることは出来ないから、報道は全て嘘を含むということになる。含まれた嘘が限りなく少ない報道がスポーツ報道ということになろうか。これとて、怪しいかもしれないが、金メダルを誰が獲得したかなんかは正しいしね。

最初から虚栄と大法螺の選挙時における演説なんかは、これはこれで面白く聞いていられる。どうせ、言ったことはやらないことは分かっているので、少なくともこんなことを問題視している人がいて、それなりにお金を動かしているのだなということは分かってくる。逆に、公約なんてムキになって叫んでみても、大国が小国にミサイルを打ち込んだ時点で全てがひっくり返りますからね。局所核なんてものが、本当に使われでもしたら、コロナ禍どころの騒ぎでは無い。でも、そんな今だからこそ、2~30年先を見据えてやるべきことをやる思い切りが必要だ。いろんな意見がご尤も。しかし、人の社会の真実というものがあろう。他人の命を直接・間接、奪ってはいけないということを前提に置かねばならない。

なんらか検討するのであれば、仮説検証では無いけれど、その仮説を何故置いたかというところに、前提条件が必要となってくる。その前提条件を考える上で守られるべきは、関係者に届いてる情報の質が等しくて、しかもそれが真実に近いこと。それが狂っていると、何をやっても胴元が勝つことになって、挑戦者は常に敗北を食わされることになる。公募の胴元が要領を後悔して、それを解釈して申請書を作り込むわけだが、多くが、出来レースで、血を滲ませた努力は報われない。それでも自らの行動は真実であるから、それを前面に押し出すのがだ、受け取る側は異なるゲージで評価してくるから、そのボタンの掛け違いは正されることは無い。

昨日、書斎で物書きをしていて、「暑いな」と感じて温度計を見てみると、室内で28.5℃を示している(14時頃)。この温度計は高校生の時に、気象庁の購買で購入したものなのだが、これなどは信じて良いものとしてずっと身近に置いている。疑っても仕方が無いし、別途購入した湿度計にくっ付いている温度計と同じ温度を指し示すから、まぁ、大丈夫だろうと思っている。情報源はシンプルで、疑いようが無いものが良い。報道などは、所詮、時の為政者のプロパガンダによってどうにでもなるということが証明されている今、自分のやろうとしていることは正しい事なのだと、自信を持つことすら難しい。だから単純なところから進んでいく。それしかなかろう。

ものづくりデジタル産業

中小企業様がロボットを導入される目標はそれぞれのお会社によって異なるでしょう。利益の上げ方に拘るのか、製造製品の生産性、精度に関与させるのか、まぁ、それはいろいろおありでしょう。アナログからデジタルへの最も大きな変化を感じるのがロボット活用というところだろう。ギアという、バックラッシュが発生することから、超精密というところには入りにくかったのが、人工筋肉を活用したアナログなアクチュエータに依って、その壁は無くなった。後は人間の使い方次第というところ。

DXは既に市民権を得ていると思うのですが、GXとかね、グリーントランスフォーメーションとか、一瞬、聞き間違いか?と思うような、まぁ、これも聞きなれてはきたものの、「X」を付加すれば良いというものでは無かろうて。温室効果ガスを発生させないグリーンエネルギー転換ということなのだが、こうなってくると「なんちゃって感」を小生は強く感じるのだ。石炭を間伐材に置き換えて、暖房をクリーンにしました。山から人間が担いで降ろしてきたのですか?重機やチェーンソーなどは使わなかったのですよね?

太陽電池など、それを製造するのにどれだけCO2を排出しまくるか。鉱石を掘りに行って、生成して、輸送して、溶かして、削って、スライスして、磨いて、プロセスを経て屋根の上。それを無視してクリーンとかね、笑わせてくれるな。木造水車で、その動力をそのまま機械的動力に返還して、紡績をしていた時代。イギリスがまだまだ綺麗だった時代。結局、そんな時代に戻ろうとしているのか?そこで停まっていれば、隣の国にミサイルを撃ち込んで、自国のものにしてしまえなどの狼藉は怒らなかったのかもしれないけれど。

今、アナログの森からデジタルの森に移り住んで、そこでの暮らし方に暗中模索している人類という状況なのだと思う。その暗中模索の一助がものづくりデジタル産業におけるロボット活用という事だと思う。共生型ロボットによる独り家内制手工業で、人の笑顔を作り込むベンチャーを生みだしたりしてね。大袈裟では無く、丁寧で地味なものづくり。鶴舞大学のロボット塾はそんな挑戦者に門を叩いて頂きたい。是非ともご活用の程、お願い致します。

10週遅れ

徹底的な自動化とか、理想論だと無視されるのだけれど、無視しているのは日本人だけで、どれだけ真面目に巨大な向上において、まばらにしか人が介在していない状況を思い描けるかだ。開発の現場こそ、どうやったらAI任せに出来るかということを考えるフェーズにあって、それを教育出来る仕組みが高等教育機関にあるかが、競争優位性ということになる。経験からなのだけど、人の幸をもたらそうと、「ある幸」を定めて、そこに向かっていこうとすると、大略、世界で同一目標を異なる手法で三者が同時にスタートし始める。

満漢全席デバイスを目指したものがことごとく沈没したように、一早く、幸を提供できた者が勝ち残る。アジャイル時代であるから、それはより顕著である。また、上手な広告という事も勿論重要である。プロパガンダでは無く、真実をどれだけ早く拡散させ興味を引くか。兎にも角にも幸を提供するところまで駆け上がらないといけない。柱をどんと社会に出して、肉付けはアジャイルで太らせていく。その辺りがとても下手だった日本企業だけれど、Z世代諸君が社会をかき回してくれているのが頼もしい。

これを形にするのは、昔からの関係でここに義理立てしてなどという事は無く、旧態依然の事業に拘っている方には、ご退場願わねばならない。しかしながら、本当に図抜けた機能をお持ちの方には、新たな場が提供されることになるから心配はいらない。有名企業の工作機械を持っていますというだけのことでは、それはZ世代が望む幸のバリューチェーンからは外れていくだろう。必要なのは価値の実現に寄り添えることであって、バリューチェーンに選ばれる為には、従来のアピールでは全く役に立たない。

要するに、旧態依然のMBAやMOTの考え方では成り立ちませんよということだ。完全自動化が創り出す幸最大化を本気で目指すベンチャー、スタートアップがタッグを組んで、必要な要素技術を提案する。そこに選ばれる為の、自らが他の為に成し得ることを定量的に示せること。過去のお付き合いは明日の他人認定である。厳しい言い方だが、今、日本はそちらに向けて歩き始めなければならない。それでも世界からは10周くらい遅れているけどね。

路傍の石

恐ろしいのはそれが当たり前だと思ってしまうこと。他国の人の命をミサイルで消し去って、領土を蹂躙することを正義だとリーダーが言って、それを信じる国民など、まさにその事例だ。これは異例と言えばその通りなのだが、大なり小なり、それが充満していると感じる。これが当たり前のやり方だと思ってしまうと、それ以上、進化は無いし、また、その恐ろしさは、それを受け入れない人への排斥になってしまう。研究であれば、新しいアイデアを受け入れないと言うことになる。

ものづくりを延々と続けているわけだが、単純に、カッターの刃先のような、いわゆる「尖った」先端を、金属の棒に作り込もうとしよう。カッターは俗称「ハイス」と呼ばれる硬くしなやかな素材でできているのだが、これなどは砥石で作り込むことができている。包丁をイメージして頂ければ良くて、素材が柔らかいから、柔らかい砥石で仕上げることができる。金属にダイヤモンドが練り込んであったらどうだろう。砥石で擦っている間に、ダイヤモンドだげかごろっと落ちてしまう。ダイヤモンドと柔らかい金属の両方を均等に削るにはどうしたものか?

組織って恐ろしくて、ダイヤモンドを落とさずに、磨かないといけない。磨こうとしているのに、反発されて砥石が壊れてしまうこともある。こんなことが出来たら理想的だななどと、生意気にものづくりを進めてきて、最近、漸く、何となくだが、ものができるようになってきた。まだまだなのだが、狙った形が得られるようになってきた。「押してもダメなら引いてみな」と、その昔、白黒のブラウン管の向こうから聞こえてきたことを思い出す。柔軟な時代だったのだなと。

当たり前なのだが、これが絶対に正しいなんて形はないのだと思う。小学校の先生は、上流の石はゴツゴツしていて、下流になればなるほど、丸く角がなくなっていくと、人生を語った。たまたま、とある富山の海岸で、そんな丸い石の集まりのような海岸を見た。恐ろしい程に丸く揃ったその石の平原は、妙につまらなく、そして恐ろしく感じた。自分だけが異物であると感じた。それで良いではないか。組織にどっぷりの丸い石より、割れたばかりのフレッシュなゴツゴツの石でありたい。これからもそうあり続ける。それだけのことだ。

リアルプロセスインフォマティクスは何時?

マテリアルインフォマティクスの次は、プロセスインフォマティクス。それが動き出すと、その中から再びマテリアルインフォマティクスへのフィードバックが掛かる。モノづくりはその検査工程も含めて無人化されるべきだと思っている。そんなものが出来たら雇用が無くなるではないか!と罵声を頂くのだが、後、数年はそうはならないから、そんなに慌てる必要は無い。しかし、はっきりしていることは、無人化になるということだ。そこまでエンジニアはサイエンティストと共に歩み、ワクチンを作る機械まで、作り込んでいくような流れになる。

断言しているのだが、まぁ、そうなるでしょくらいのところですよ。未来を見たわけでは無いからね。でも、ゼロ細菌室というところが出来るとすると、その中に人が入るなんてことはナンセンスで、完全無人でなければならない。確率的に滅菌されているだろうなんて評価では駄目だから、なんらか、ウイルスの可視化技術なんてものも発展させなければならない。こう考えていくと、開発しなければならない案件だらけだから、仕事が無くなるなんて事は無い。ただ、多くの作業は無くならねばならぬ。

作業は更なるオートメーションとなるのでしょうけれど、それこそイーロンマスク氏が目指してこけた様に、今のところは人がやった方が良いよねというところは、それはそれで取り敢えずはいくのでしょうけれど、細菌があっても良い処は許されるのでしょうね。それでも重たい金属の塊の中で人が働いているというのはどうなのかなとは思う。徹底的な無人化に向けて、更に発展していくべき技術は何か?実に興味深いのだ。

プロセスをAIが作り込んでいく。その為には社会のニーズをAIが正しく解釈して、人間が思いもつかなかった関係性を導き出して、ニーズ価値最大化までもっていって、そのニーズに応える場・こと・ものを描き出し、そこに必要なモノづくりのプロセスを弾き出す。そこで使わる理想の素材まで考えて、マテリアルインフォマティクスを当てはめていく。ロボットが専用機を創り上げ、専用機が量産に必要な部品を作り込んでいく。出来た傍から組みあがり、売れていく先に自動で配送されていく。そんな時代を早く見てみたいものだ。旧態依然の陳腐な今などいらない。そう思う。

断捨離継続中

断捨離を進めると実に心地良い。十五、六年前の物が出てきて、なんでこんなものを保管しようと思ったのだろうと思うのだが、その時の決断力の無さが、タイムマシンのごとくに、その当時を蘇らせてくれるところが面白い。勿論、今となってはおさらばしていくわけだが、半年掛けて、当初目標に到達した現状を踏まえて、次の目標を考えている。どこまで削り込んでいこうか。

職業が良くなくて、職場には居室というのもがあって、そこに山のように書物が並んでいる。これをどうするのかということを考えると、その退避場所を作って置かないといけない。どうせ活用しなくなった書物など破棄すれば良いのにということなのだが、未だに情けないことに、ハードな書物の断捨離の決心が付きにくい。学術誌などは、古いものは断裁してPDF化をかなり進めたから良いのだが、とてもお世話になったハードカバーに対して手を振る勇気が湧いてこない。

片っ端から捨ててしまうというのが最も効果的なのだろうが、今の所、そこまで切羽詰まっていないということもあって、ダラダラと進めている。ものを増やさないというフェーズに入っているのだが、それには間違いなく電子化の恩恵というのがある。それと円安で、とてもでは無いが、趣味のレコードを海外から輸入する気になれないというのが幸いして、レコードの増加を食い止めている。電子化の恩恵は、CDを買うならネットワーク経由で良いやという時代のお陰である。無限に増えるのではと恐怖していたCDの増殖がピタッと停止している。

良書を揃え、悪書を駆逐する方針で書棚を埋めてきてしまったから、こちらを廃棄して・・とは容易ではないのだ。そこから得られた知恵の恩恵へのリスペクトというか、廃棄するという決断には当分到達できそうに無い。その一方で、断捨離は継続していくことになる。残った命を考えると、いつ無くなってもおかしくない状況にあるわけだから、さっさと進めないといけない。一つの引き出し、棚を空けるたびに「なんでこんなものを入手したのか?」と不思議に思うが、その時には必要と思ったのだろう。捨てきれないものがある。最後に残るのは何なのだろう。楽しみだ。