遥かなるお盆休み

五月連休の恐怖は、それが終わってしまうと、お盆まで大きなお休みが無い事だね。まぁ、正月と五月連休とお盆休みがあればそれで良いじゃないという昭和のビジネスマンはそれで良いのでしょうけれど、文化的空気に触れてみたいとかね、精神的に落ち着く時間が欲しいとか、あるいはそっと独りになりたいとかね、そんな休息が欲しいと願う人には、実に厳しい五月連休なんだな。羽を伸ばした後って、次のお休みは何時だろうって無いものねだりをしてしまったりね。幸い、今回の連休は、特に先週、2日と6日の平日が入ったし、その他にも「どうせ宿舎に居るんでしょ、Webミーティングしてよ」という魔の手に襲われているので、休んだ感が無いもんだから、まぁ、五月病にはならなくて済んだ。済んだけど、なんだか妙にくたびれた気がする。

そんなことはどうでも良いのだが、書斎に並ぶ本を見返したり、新刊を読んだりと、随分と活字に触れることが出来た。コロナ禍で獲得したWebミーティング環境だが、Skypeなど、それ以前のツールを使いまくっていた人には当たり前環境なんだけど、様々なツールがそれなりにユーザーの声を反映して進化したものだから、随分とお気楽に顔が見えるようになった。とあるお役所は、こちらの顔は要求する癖に、あちらは絶対に顔を出さないとかね、なんだそりゃ状態になるのだけれど、顔を見せ合いっ子するというのは必要だなとは思う。書斎からの中継になってしまって、背景をぼかしたりはするのだが、プライベート空間が大衆の眼に晒されるというのは気持ちの良いものでは無い。

Webミーティングの時刻が決まっていれば、その時間帯だけベランダにイスとテーブルを持ち出して、青空会議を決め込むとか、それ専用の個室空間がある喫茶店などにもぐりこむとかね、働き方改革というか、この職場で働き続けたいと思うような環境付与が可能になるのかもしれないが、いきなり「今から良いですか?」って言われて、「あわわわわ」となって、ちょっとまちぃやと、急いで背景をぼやかしたりとか、カメラの角度を調整したりしてね。かなり慣れてきたとは言え、今からと言うのは如何なものか。うっかり受けてしまって、流せば良かったと思いながら議論をするのは若干の苦痛を伴うね。ちょっと考えて頂けないだろうかとは思うのだが、相手も切羽詰まっているのだろう、その鬼気迫る目つきに吸い寄せられて、必死に受け答えしてしまう。

連休の後半というか、天気が良くて、窓越しの青空が憎らしく、Webカメラを見つめるわけだが、ネットワークの進化というのは有難いやら恐ろしいやら。有難い方が多いのは間違い無いのですけどね。連休明けから目いっぱいのリアルな対面会議があり、背景を気にする必要は無くなるのだが、猫の額より狭い鶴舞大学キャンパスとは言え、移動を伴うミーティングは、心の疲労を肉体の活動で活性化するという様に前向きに捉えないとやっていられない。会議開始時刻には移動していくので、10分前に到着しましたよなどと言う電話は掛けてこないでくださいね。これもWeb時代のマナーだと思っている。

天下に泥棒あり

FRBがいよいよ本気で金融の在り方を示してきた。我慢に我慢を重ね、そして機会をとらえ敏に動く。羨ましい限りである。この国はと言えば全てにおいて指をくわえて見ているだけ。部品大国であって、結局は「ものづくり」のポジションから脱することはしない。他国の「ことづくり」と「場づくり」を支えて心地良がっている。まぁ、それは正しい選択なのかもしれない。世界に物が無かった時、他国の技術を持ってきて、量産化に向けた工夫で外貨を稼いだ。その量産化の工夫は、両々加工機械や多くの自動化機械製造にそのノウハウが受け継がれ、一部の企業が国益となって残っていることに安心しないといけないのかもしれない。

その昔は大企業の専売特許だった「弱者の知恵泥棒」が今や中小企業においても実行される。特に弱小大学に対してその傾向は甚だしい。「農民は生かさず殺さず」の江戸時代の思考で、知恵を無償ではぎ取っていくその在り方は、煉獄に落とされた弱者を痛めつける悪魔そのものだ。経営に関与する人間がその体制であれば、まぁ、その先が見えてこようというもの。ご注進してみようかなとは思うが、世界が大国の恫喝に指をくわえてみているだけの景色を思うと、なんだかばかばかしくなる。正義などどこにも無いのだ。連休中にニュースで見るのは、行動制限が無くなったから、人の移動で景気が良くなったという事ばかり。結局、それしか無いのだね、この国は。

変わらないのだ。DXなんて意識を変えないと進まないのだが、旧態依然のDXなんてほざいているわけだから、それこそ何も変わらない。意識・無意識に限らず旧態依然を私物化し、「何か変だ」と感じる正しい精神状態を駆逐していく。贖い続けるが、何時かぷっつんと切れるかもしれない。コロナ禍がもたらしてくれた在宅勤務の素晴らしさを、この連休期間中に存分に味わうことが出来た。何やってんだと言われるかもしれないが、職位的に求められたら討議をさせて頂くわけで、恐らく、コロナ禍以前なら、出てこいということになったのだろうが、先方もWebでということで、ラフな雰囲気で深い議論を展開できたことはとても良かった。30分と時間限定を守るお相手だったことも幸いした。

まぁ、そんな前向きな議論もあるわけだけど、多く、中小企業が「困っているから無償で知恵をよこせ」というのはもうお断りだ。精神的に不快でしかない。鶴舞大学に対してそうなのだから、他の下請け企業にも同じことをしているんでしょうね。図面は無償だとかね、持ちつ持たれつみたいな気風が、そりゃぁ、戦後の全て無くなった状態ではそうだったでしょう。ウクライナの惨劇を見るにつけ、胸が痛くなり吐き気がしてくるわけだが、あんな状況から這い上がった諸大先輩の方々には勿論、首を垂れる。当たり前だ。しかし、バブルを謳歌して、リメンバーバブルみたいな連中殿には辟易だ。ご免こうむる。

ゼロの国

雨は天の恵み。連休初日に何処かに行こうかと思っていたが、大雨となって何処にも行かず。それ故にのんびりと骨休めが出来た。こんな時こそ必要である。まぁ、骨休めと言っても不断よりはのんびりと思考し、BGMの中、キーボードを叩くみたいな過ごし方なのですけどね。切羽詰まらないといろんなことを考えるもので、それが休日の価値という事なんでしょうね。ちなみに暢気な休日に最初に聴く曲は決まっている。だから余計に楽ちんだ。選ぶ必要もない。

その昔は飛び石連休とか言って、大型連休なんて概念は無かった。土曜日の授業が無くなって、4日が休みとなり、何日か休暇を獲得すると大きな連休となる。日本人は勤勉だと言われるが、確かにその一面はある。勤勉なのに給料は上がらず、物価だけ上がる国になっているのは何故だろう。原材料が高騰しているのに商品の価格に転嫁出来ない。必死に自国通貨の価値を下げたがる一味によって、資源活用のお仕事は上がったりだ。これをどのように捉えればよいか。国内資源を精査し尽くして、新たなモノづくりに挑めという事か。それも良い。

電力という極めて便利なエネルギー源を熱から取り出している現状から変えねばなるまい。何を作るにしても動力が電気エネルギーであって、それが海外由来の化石エネルギーから変換されている以上、それらがシャットアウトされたとして、この国で何が出来るのか考える必要がある。簡単ではない。しかし、そんな極端な考え方に立たないと、何をなすべきかが見えてこない。その状況において、世界から買いたいと言って頂ける「何か」を作り出さない限り、この国の未来は無かろうね。

食糧も入手できない。エネルギー源も無い。下手をすれば永遠に休日となってしまうかもしれない。人間だから知恵は生み出せる。しかし貧すれば鈍するに陥るもんだ。観光させてお金を還流させるくらいが関の山だ。投資をしろと叫んでいるが、貨幣価値がゼロの国家の企業に誰が投資するのか。リアルな投資価値を作り込んでいかないと、仮想も成立しない。単純では無いが、ゼロから数字を生まねばならない。そんな切羽詰まった国なのだなと、休日になるとしみじみ思う。

連休がやってくる

永遠にやってこないのではないかと疑ってしまった連休がやってくる。過労困憊な状態が続いていたから、ちょっとは静かにさせて頂く。前半は雨の日が多そうだが、天気予報的には後半に晴る日がありそうだ。雨が降ったら降ったで、まぁ、庭でBBQなどしてやろうかななどとは思うが、やるかどうかも解らない。草臥れ切って何もやる気がしないかもしれない。とか何とか言っているが、やらないといけないことは沢山あるから、まぁ、何かをするのでしょうね。時にはじっくりと読書も宜しい。そんな気分でいる。

がきんちょの頃は、祝日はもっと少なかったし、連続して休暇を取得するという考え方そのものが無かった気がする。働きバチであっちの世界に旅立った親を思い出すのだが、社会の構造がそうだったと思う。ましてや研究者に5日間は必ず休暇を取得せよなんて指導が降りてきて、一方では研究成果をあげていけという。没頭してはいかんのか?まぁ、電子雑誌にアクセス出来れば、宿舎で論文検索などはかなり出来るような時代になっているからね。でも結局、職場としての大学に出てくるかそうでないかの違いであって、没頭していることには変わりが無いのだ。労務管理的には職場に来るなということなんだけどね。

休みが続くとは言え、永遠に続くわけでは無いから、きちんと考えて時間を消費しないと勿体ない事になる。休日の時間って異様に早く過ぎますからね。連休初日の夕方が来ると「あぁ、もう休日が終わってしまうのか」となんと切ない事でしょうという気持ちになる。だからと言って、あれもこれもなんてことを決めておくよりも、適当に、こんなものかなくらいの方が気持ちが楽になって良いのかもしれない。休日思考貧乏みたいなものかな。

何はともあれ、五月連休というのは国民のイベントと言っても良いくらいの代物だから、これだけはやっておこうということを決めておくのは悪い事では無い。小生もそれは一つだけは決めてはあるのだが、それとて別に、折角の連休中にやらなければならないことは無いし、だらだらするのも悪い事では無かろう。親が死んでも食休みでは無いけれど、のんびりぼけっと世界平和を祈ってみたい。まぁ、やることと言えばそんなことかな。

挫折せよ

どうやったら出来るのか。それを考えている時が一番幸せである。出来ないことを上から目線でねちねちと叱り続ける上司もどきが多いが、そんな輩は作業人であって、仕事をしたことは無いのだろうなと思ってしまう。経験で出来るようになったのなら、それをそのまま伝承して、皆が同じレベル感で作業が出来ればそれで良いでは無いか。ところがそんな輩に限って、経験値の私物化に走っていく。現状の自分を越える作業をしようとも思わない。哀れなお話である。

何かを成し遂げる、当初に設定したゴールに到達することは容易な事では無い。夢を描いて進んでいくわけだから、当然の事ながらハードルは極めて高く、そして足を引っ張る方々に囲まれているから容易なことでは進められない。紆余曲折、一歩も進まず三歩下がったりしてね。チーターもびっくりだ。それでも諦めないで粘り腰で踏ん張っていると、なんとかなっていくものだ。まぁ、相手にも依るけどね。

結局、思った通りに成らなかったなぁという時は、まぁ、諦めることにしている。いつまでも引っ張っても草臥れるだけだからね。面倒だからやりたくないという人とは組めないね。しかし、それはやっていながらでないと見えてこないのが欠点である。突然「あっ、この人は実はいやいやながらの参加だな」って何処かで見えてきますよね。二枚舌で見事に騙される。基本、性善説で生きているので、この手の方は苦手なのですよ。

夢に向かっていると挫折がある。挫折が無いような夢なら見ない方が良い。自分を育ててくれるレベル感の夢を見ないといけない。そこには必ず挫折がある。だって夢だもの。夢を見ない人は、夢を見ている人を見守ってやらねばならぬ。必死に足を引っ張るのは止めて頂きたい。文句は誰でも言えるが、夢を見て進む勇気はなかなか湧いてこない。恐怖で一杯だ。その者を尊敬し、見守ってやるのが良い。そうでなければ君は一生、卑屈未練である。

新三つ子の魂

今の中等教育の現場を拝見したことが無いのが宜しく無いのだが、小生の遠い昔を振り返ると、小学校では『糸のこ盤』で木材を切って、彫刻刀を使って、何か彫り物をしたような記憶があったり無かったり。中学校ではボール盤を使って、木材にほぞ穴あけ加工をして、ブックスタンドを作った記憶が、こちらは明瞭に残っている。強力な機械に触れて「こりゃ、凄い」と感じた体験は忘れないという事だ。いや、単に、ロボットの様な(ボール盤だが)機械が、ロボットアニメを見ているようで楽しかったのかもしれないが、貴重な経験である。久保先生というお名前の先生であったことを覚えている。感謝申し上げたい。

何が言いたいかと言えば、可能な限り若年時代に「ものはこうやって作るのだ」という体験を沢山させて欲しいということだ。
ナイロンの合成というか、屈折率の異なる液体間をピンセットで摘まんで、その先を回転、巻き上げていくと、なんとナイロン繊維が出来てくる。これなどは化学反応の学習ということなのだが、中学生の時に見ていたら、そっち方面に進んだ人間になったかもしれない。創薬に興味を持っていたかもしれない。要は、質の高い体験を、なんだか解らないけれど、見せることってとても大切だと思うのだ。出来たものを触って、リアルが目の前で出来上がる経験を、数多くさせて欲しいと願うのだ。

STEM教育とかね、高校でやっているんだけど、小学校低学年でやって頂きたいものだ。「先生にスキルが無い」というなら、文科省が高校や大学から実践するような仕掛けを作れば良いのだ。大学発ベンチャーで、特にディープテックを増やせなんて言うけれど、種まきは小学校3年生頃までだろうと思っている。大学の研究室で見出したものを社会に出せとか言っているけど、こんなことをやってみたいと小学校の頃から思っていないと、そう簡単に挑戦者には成れない。挑戦者を潰すことに懸命な大人が待ち構えた社会だからね、この国は。

延々と一票の格差とか言って、何十年経っても民意反映が不平等だとか、戦争が始まれば防衛予算を増額しましょうとか直ぐに動くとか、そんなことには入れ揚げるんだけど、イノベーションを起こせとか言う割には、その種まきに頭を使おうとはしない。工科系高校という仕掛けはあるのだが、ものづくりの楽しさと大学進学の両立を図っている学校の何と少ない事か。ものづくりをしない人が工科系大学に入り、その人が教員になって指導していく。本質的なところが見えているのだが、さてさて、どんな荒療治が必要か。長く掛かるがやる奴がやらないとね。そう思う。

知床の悲劇に思う

「こんなものがこんな価格で入手出来るのか?」と世界から物を買ってみると驚かされる。逆に「一年足らずで劣化が目に見える製品がメードインジャパンか」と、特にエレクトロニクス製品の凋落振りは凄まじい。そんなものなのかもしれないが、この格差が何故生まれたのかを真摯に受け止め考えないと、作ったものが海外に流通して行って、外貨を獲得出来る国には永遠に成れないのではないかと不安でいっぱいになる。そうなってはならないのだ。

メタワールドがやってきますと、それはそうなのでしょう。新規の仮想通貨がTVコマーシャルで現れるくらいですからね。日本が最も豊かだった縄文時代においては仮想通貨は無かったとは思うが、シャーマンが居たくらいだから仮想という概念はしっかりと存在したと思う。火焔土器などはその存在そのものが魂の叫びであり、実態の向こうの思想が具現化されているのだと、全国宝火焔土器に囲まれた展示会で震えたのを覚えている。遺伝子が繋がっているのだなと実感させられた。この感動が重要だ。

LSI製造において、我が国は要素技術では貢献出来ているが、トップレベルの最終製品を作り出すことは出来ない。中古の露光器が飛ぶように売れて喜んでいる体たらくだ。開発コストが掛かり過ぎるから挑戦しない。ビジネスとしては当然の判断だが、技術しか売る物を作れない国において、その判断は正しかったのか。知床クルーズで悲しいことが起こって胸を痛めるのだが、その船は以前にも座礁経験があり、その船が行方不明になったのだという。修理が真っ当ではなかったのではと疑いたくなる。修理が出来ない技術しか無いのかと、そこに哀しみを覚える。

小生は異端児である。改革と挑戦に挑み続ける人種であって、八方美人の政治家諸氏とは真っ向対立する思想にある。沈む観光船で国民の命を奪うGoToなんとか(名前が変わったらしいが、興味が無いので覚えていない)を推進する政治家とそれを尊ぶ国民とは決別してしまいたいとは思うが、民主主義で、国民と名乗れる国家は日本しかないから仕方が無い、ここに居るわけだ。技術をもっと高めなければならない領域は沢山ある。あるが、高める土壌がこの国の何処にあるのか。それを見つけるGoToなら何処にでも行く。そんな気分である。

アイデアタダ取りは嫌だ

研究不正という行為があって、捏造、改ざん、盗用なんだけど、学会なんかで「面白そうなことをやっているな、自分もちょっとお試しでやってみよう」位は盗用では無い。その方の発表等をきちんと引用させて頂いて、周辺の研究も調査して、その後、独自の視点を作っていけば良い。論文で発表出来れば、まぁ、査読を潜り抜けるから、クオリティの高い論文誌であればその人のアイデアということになっていく。

全部だめなのだけど、共同研究等で第三者に評価される環境に身を置くと、そんな意識から遠くなってくわけで、特に工業系の大学研究者は、全員が共同研究で第三者の目に触れる状況になって頂けると良いなぁなどと思っている次第。オリジナルの研究テーマって、過去はなかなか世に出ず埋もれるのだけれど、それを社会に還元していくチャンネルはベンチャー等も日本で当たり前化してきたので、様々な可能性が出てきたわけですよ。

研究不正なんてものはする必要は全くなくて、アイデアが枯渇したらテーマを換えれば良いだけの事。生きている限り何かやることがあるのですよ。西洋では神様が見ているからとか言いますけど、日本なんて八百万の神様だからね。それでもやる人はやるんだからどうしようもない。論文なんて嘘ついて作るものでは無いですからね。きちんとした装置を使って、あるいは作って、誰がやっても再現することを書けば良いだけなんだから、不正など全く必要無いのだ。

企業もね、時々リコールネタでお騒がせをされますけど、人の命に関わるようなことはリコールでは済まされないわな。商売不正とでも言うのかもしれないけれど、これも全く頂けない。凄い技術が出来ましたと見せつけておいて、実はファンド集めだけだったとかね。あるいはアイデアをタダ取りしていくとかね。そんな行為に出会うと、研究不正みたいなもんだな、この人はと思うわけですよ。願い下げで塩を撒きたくなる。塩がもったいないからやらないけどね。

幅広い学びのゴールは?

大学は学生に幅広い学びをさせろと言う。幅を狭くした覚えは全く無いのだが、親方も産業界も言う事が猫の目よりも激しく変容し、教育の現場に疲労感だけを与える。幅広い学びをさせろと言うのだから、何らかのタイミングで「こいつら、知識等の面において幅が狭いな」と実感されたに違いないのだ。幅広いというくらいだから、何か基準があるに違いないのだ。幅と言ったら「何センチ」とか「ナゴヤドームの直径」とか、定量的に言える筈なのだが、「広い」というマジックワードを使っているところが汚らしい。

そうかと思うと、就職活動において、それ以前のインターンシップでの評価を就活の評価に加えて宜しいとかね、そんなもの使っていなかったところがあるんかいな?と疑問に思うところもあったりとかね。そんなところで「幅が狭いな」ってレッテルを貼っているのでしょうけれど、こんな事を言い出す人はよっぽど幅が広い御知見がおありなのでしょうね。精神的にもお釈迦様的というかね、大きな大きな方なのでしょう。メタ空間よりも広い方々なのでしょうね。

大昔なんだけど、ガマの油売り大学で学ばせて頂いていた時に「大学卒と高校卒で何が違うか?それは高校卒は何でも出来ると思っている、大学卒は自分は何も出来ない人間であると解っている」と仰ったことが耳に残って、何かの講義の時にはそれを学生諸君に披露したものだ。その前提が「幅広く学ぶから」であるのだが、Z世代諸氏は「疑問即検索、そして回答」が条件反射で成されるわけですよ。Web上にある情報を、自らの価値観で取捨選択して回答してくる。そんな時代になっているということを認めないといけない。

ここで問題は「自らの価値観」である。価値観は親族や自らの歴史を時間軸にして、その間にどのような人との関りがどれだけあったか、自らがどれだけ創造してきたかによって決定づけられるが、それが極めて少ない情報から成り立っているのではという事であれば「幅広い学び」によって価値観をマルチに広げろとかね、幅広い学びでどんなゴールに誘って欲しいとか、そこまで言ってくれないと、「お前のキャンパスの蝉がうるさいから黙らせと」という方と同類と捉えてしまう。ゴール設定が無い言動は慎むべきである。新聞記者諸氏に猛省されるべき。

ビジョン検証はアジャイルで

フォアキャスティングとバックキャスティングの両方を組み合わせて企画を立てていくことを、オールキャスティング型って言うそうなんだけど、ここまでくると「当たり前でしょ」と言いたくなる。言いたくなるのだけれど、案外、どっかが抜けているから油断は出来ない。フォアキャスティングは料理作りであって、順番に作っていって最後は食べてみて感想が決まるってやつ。バックキャスティングは食卓の笑顔、その後の会話等々、最高の幸せを描いておいて、そこから今に辿り返す方式で、これはコツがいる。

バックキャスティングでって最近はいろんなところで聞くのだけれど、バックしてくる未来の確からしさをどのように検証するかは決まった作法があるわけではない。僕などは性善説で生きているから誰かが笑顔になったイメージからスタートして、時間的に思考を前後させながら検証していく。ゴール的にはそこまで到達しないことが多いのだけれど、それはそれで幸いなことで、まだ、何かが足りなかったことに気が付くわけだ。ビジョンを構成するなんらかの要素が足りなかったってことになるのだけれど、フォアキャスティングよりは足りない要素は少なくなるのは間違いない。

ただ、バックキャスティングで語ると「絵空事」とかね、出来ないことを言うなと偉い方々から怒鳴られたりするんだな。そんなもん、出来ないよとかね。私はそれには批判的だとか。じゃぁ、何故そう思うか言ってみろと尋ねても、これまた怒鳴り返されるだけで、時間の無駄となる。過去にしがみついている方々には本当にご退場願いたいわけだ。ちゃらんぽらんで無責任なほうがよっぽど救われる。まぁ、良いんじゃないと言ってくれた方が、頑固に理由もなく反対されるよりずっとまし。あいつが嫌いだとかわけのわからない理由を聞かされるとやる気が消える。

バックキャスティングは当たり前の思考なんだけど、現在起こっている現象を、元に辿って行くと、バックキャスティングの確からしさの検証になるし、思考のトレーニングになる。ニュースを見ていて「なんでこんなことに成っちゃったんだろう」と思う現象を時系列を遡ると「なるほどね」なんて考えることもあったりする。バブルが弾ける前に大儲けして、その病から抜け出ていないとかね、もうそんな時代じゃないんだけど。理由無く反対される暴力者にはご退場願いたい。