三寒四温

三寒四温、良く言ったもので、温暖化になってもその傾向はあるようですな。共通テストの二日目に、ぐっと冷え込んで、日本海側ではかなりの雪になった。初日においては北海道で会場閉鎖があったとのこと。その日に合わせてベストの調整をしてきたのにと、悔しい気持ちもあるだろうが、自然相手に誰も何も言えない。厳粛に受け止める、それしかない。

遥か遠い昔になってしまいましたが、当事者の時もあったわけで、あの時は薄曇り、時々雨みたいな天気だったなと、毎年、一番気候が悪い時に実施する入試に、大人のいじめか?くらいに思ったもんですよ。電車に乗って大きな大学の階段教室で受験したのを昨日のことのように思い出しますな。一期、二期校制度が廃止された直後くらいだったわけだけど、あまり変わっていない雰囲気に不思議な気がする。

記憶から考える力を評価するなぁんてお上は仰るわけだけど、考える力って一体なんなのでしょうね。今ではGoogle先生と呼ばれるネット情報から得られる大衆の声に辿り着くのが考える力みたいになっていないだろうか。その昔の図書館での文献検索力もそれに近いのかもしれない。考える力って何かと問われて、これがそうだと言えないですよ。小生にそんなものがあるとは思えないというか、それがなければ生きられないなどと悩んだこともない。

独りで何かに没入出来る人って、結局、考えているんぢゃないですかね?誰もやったことが無いのに、なんだかじゃんじゃか生み出すとかね。AIがシンギュラリティを突破したら、そんなものは求められるのかしら?もう数年経過してみると、人間が生き抜く組織を形成出来るかということが重要で、それを地球規模で考え続ける力が必要になるのかなとは思うけれど、まだ数年は共通テストみたいなものが続くのだろうなと、入試はそろそろ雪に閉ざされない季節にやってあげたらと思う私であります。

因果応報

明け方の路面凍結にビビって、最近、地下鉄通勤である。11日にどばっと乗客が増えたわけだが、昨日から急に減少した。緊急事態宣言効果か?とは少しは感じる。良い傾向である。出勤している小生はどうなのだと言われそうだが、お許しくださいとしか言いようがない。

各地の医療体制がひっ迫している中、先の成人式に続き若者が集う共通テストである。なかなかネット受験というわけにもいかない。若者同士の感染だけではない。試験監督者を守らねばならぬ。急のことで人的対応となってしまっているのだが、試験監督をAIにさせるとか、配布・回収もロボットにさせるとか、人員削減方策も必要と考える。

やれば出来るのだと思う。出来ないのはやらないからで、その向こうには直ぐに経済効果という言葉が付いてくる。少品種大量生産で薄利多売路線で突っ走ってきた我が国だが、そろそろ方向転換をしては如何か。多品種少量生産が世界の潮流である。笑顔の数は間違いなく増える。

人により良く生きて頂く。それが願いだが、どうもそんな世の中に向かっていかない。何故なのだろうと思うとき、結局は「お金の奴隷」なのだなと思う。20兆円を動かせる一人も居れば、まるっきりというこの差。因果応報なのだが、何が因だったのか。じっくりと考えたい。そんな週末である。

エチケット

1983年だか4年だかだったと思うのですが、世界の加速器関連施設をネットワークで繋いで、Unixのキャラクターベースで、英語だけでやり取りが始まった。英語ベースだったために、日本での活用がべらぼうに遅れたのだとは思うけれど、国のトップが黒船に気付かずにいた結果が、今のIoT未発達国家に至っているのだと思う。

それはそうなのだけど、未だにTeams会議の開催と実施でトラブルがあるのは頂けない。主催側が「私は出来ています」と間違った入室タグを撒いておきながら反省が無いところに悲しさがある。主催者が威張ってはいけない。参加者の立場が一番大切だ。当然のことだが、そのヘッドには猛省がある。

新しいツールの導入ということであれば、これは確実に甘えなのですが「ごめんなさい」も受け入れて頂ける面がほんの少しだけはあると思う(あまあま・・)のだけれども、既に数十回も繰り返している中での凡ミスはいかん。ミスがあった時に「自分は正義」と言ってはいかん。

パソコン通信でカプラーでやり取りしていた時代、如何に接続先の時間を奪わないかが、世界中のエチケットであった。スキルというよりもエチケットこそ共有するべきではないか。ツールはどんどんインタラクティブになって使いやすく進化する。一方、エチケットという単語が欠落していると感じる。SNSの暴言の拡散などもそれであろう。大切である。

再宣言

東京近郊に再び緊急事態宣言が出されたわけだが、どうも世間の状態が変わったように感じない。昨日、地下鉄は始発でも混んでいたし、11日までお休みにして12日から出勤の皆様がどっと繰り出した雰囲気である。街中の混雑も見慣れた雰囲気だ。愛知県もどうなるかという状態ではあるが、緊迫感は感じない。これで感染がストップするのか、極めて怪しい。

夜の会食が問題だと叫ぶわけだが、連れ立って昼食に立つ人達はどうなんだ。安全なのか?体温を測定し、体調は変化有りませんということなのだけれど、自覚症状が全く無いディフューザーが沢山いらっしゃるわけで、そんな方が斜め前の席にいらっしゃったら?そんなことを言っていたら何も出来ないと言われるわけだが、With コロナなんてまっぴらごめんである。

1カ月で改善させるのだそうだが、魔法か?と言いたくなる。生類憐みの令でもあるまいし、凄まじい罰則があったとしても、人はそうそう、思うようには動かない。寒くなって抵抗力が弱まった体は、新型コロナウイルスにとっては、とても居心地が良いわけだ。季節的なところもあろうが、この寒気の厳しい時こそ、気を引き締め時なのは間違い無いのだが、経済云々、雇用云々が前に出ると、重症患者の列が短くなることは無いだろう。

ロボットに仕事を奪われるなどと言っているモノづくり屋さんは、考え方を大転換する必要がある。申し訳ないが、ロボットがやってくれるものはロボットにやらせるのが正しい。スーパーエンジニアであれば、必ず存在場所が現れる。自信を持ってロボットをパートナーにして頂きたい。それだけで感染リスクは激減する。デジタル未開国故の苦しさに見舞われている。これを乗り越えないと、日本に未来は無かろう。そう思う。

鏡開き

神様の依り代を割って頂く。何とも風流では無いですか。何日に何かということなどはどうでも良く、新しい年を迎えることが出来た感謝と今年の踏ん張りを神様に誓う、そんな風習が、小生の年齢位の民には根付いているところが良い。当然の事なのだけれど、親がやらなきゃ子はやらない。七草粥なんてしらないという25歳以下では殆どということも、まぁ、そうだろうなと思うのだ。正月行事なんて自己満足なのだろうと思うよ。

言葉で言うと「物心付いたあたり」となるのだけれど、お節料理だとか松の内だの七草粥だの、なんだか、呪いの呪文みたいで、それをやらないとそこから先、悪い事しかおこらないみたいなすり込みで生きてきたものだから、それらの行事を当たり前に実行するのだけれど、TVなどを見ていると、七草なんか知らないという若者がほとんどだ。知らなくても何も悪くない。知っていても偉くない。地球人類からみたら何%が知っているのか?マイナーである。

それを絞り込んで、日本の国ということであったとしても、元服の式が成人式に化けるの如く、その意味合いは時代と共に変わるし、意識も変わって良いのだ。食べなきゃいけないということはない。おせち料理なんて、何十万円もするものを購入するのが主流だが、新豆を茹でるとか五穀豊穣を祈るとか、そんなことを語りながら作るのも食べるのも、まぁ、数年も経てば消え果る伝承でしょうね。

一子相伝で伝わる伝統芸能の如く、折角、下田領事館で有名な「ハリス」氏が、日本の美学を残したいと言ったのに、明治維新で廃仏毀釈とかね、育ってきた伝統文化を完全破壊するような連中がやった明治維新から続く今の政権と日本文化だからね。たった100年そこそこの歴史の上の伝統だから、鏡開きなんぞやらんで宜しいという事だ。若い方が時代を作る。そうは思うが、まぁ、後、30年くらいは、年寄りの冷や水を許しましょうよ。それも寛容の文化なんて思うけど、甘ったれているかもね。まぁ、そんなものでしょう。

貴方待つのも松の内

歯をくいしばって、なんとかしようって、思い悩み、血を流し、必ずや「誰か」を笑顔にしようって頑張るのですよ。ある瞬間に「笑顔」になって頂ける空気が漂えば、それで良いのです。確実とか、そんなものではない。たまたま、そこでお話をさせて頂いた方に「あぁ、成る程」と仰って頂ければ良いのです。

朝、起きるとしますよね。カーテンをあけて、東の空を見る。今なら真っ暗である。職場に出てきて、非常階段から東を見る。紅くなってきている。だからなんだということではない。その時刻から、何かを形にしようと、命をすり減らしている者が存在するのだ。。言いたいことはあるが、言わない。無駄だから。

何度も言うが、歯の食いしばりと血の滲みだ。それが、唯一、生きている理由だ。なんだかんだと仰るが、一言、申し上げれば、何故、貴方の存在に拠って、世界は生かされたのか?100万年前にいろいろあった。それぞれが前向きに思考したのに、隕石が落ちてきたり、地軸が変わったり。今は絶滅する理由は無いのに、明日に向かって言い訳する人々だ。

言い訳って何かと言えば、今の理由が無いからなんでしょうね。みんな言い訳で肥えている。気持ちが悪い。じっと考えてみよ。生まれる前の、そして遥か先祖の生き様が聞こえるだろう。その時、思う筈だ。新しい、自分こそ新しい。そう思えないのであれば消えて無くなるしかなかろう。それが「ポストコロナ」だ。過去に存在を求めれば、それはもういらない。そんなもんだ。

価値デザイン社会?

かなり古いが、2018年6月に内閣府から出された「知的財産戦略ビジョン」に『価値デザイン社会』という文言があり、2030年にはそうなっていたいということが述べられている。夢×技術×デザイン=未来とあり、なんだかなぁと安直さに苦笑いである。大切なのは何を実践するためにどのように学ぶか?学びながら実践にどう結び付けるかとは異なる。勘違いをして頂きたくない。目的があるから学ぶというのでは「文芸者」。文化に触れ、それを「芸」として人に伝えることが明日の工学者であって、今の工学者は学者である必要は無い。常に考えているから学ぶことが出来る。それが言いたい。別に何も理解して頂く必要は無い。例によって戯言だからね。

加えて古いお話で恐縮だが、まだ松の内だから許して頂こう。今年の駅伝競走には深く、強く、学ばせて頂いた。思い出すと『未来/夢=技術×デザイン』というのは、なんとなくだが当たっていそうな気がしたのだ。人それぞれの受け止め方があろうが、常日頃思っていたことが形になるとこうなるのだなと、勝手に受け止めさせて頂いた。勝負事である。どんな気合も、相手が上回ればそれまでのことである。しかし、200kmを超えるレースで、10人が戦い、それをバックヤードがどう支えるか。伝統とは何か、歴史とは何か、時代とは何か。奥深い。

もう一つ、眺めていて気になったのが先頭を走る白バイ。海外製のオートバイが日本最強の大学駅伝レースを先導する。排気ガスを出さない仕掛けである。随分前からそうなれば良いのにと思っていたが、漸く、それが実践された。ホンダ車によれば興味が無いそうだが、CO2排出ゼロを目指すと政府が言っても、企業がそれを実践する気が無いと、要は、海外に頼るかということになる。

技術があるとか売れるとか、そんなことではなかろう。みんなで地球の生末を考える。次世代に繋いでいく。その実践レースにおいて、国内企業の車両が先頭に立てない。この国のあり様を恥ずかしく、惨めに感じた。作ろうと思えば作れる?本当か?日本人は減少していく。間違いない。この国で売れないから作らない?世界に技術を広めないのか?そうであれば世界と技術を競う企業に立ち上がって頂きたい。そんなベンチャースピリッツを持った若手を応援したい。そう思った。1年生、2年生が多く活躍した二日間。学ばせて頂いた。感謝である。

アンチ他人主義国

プレス加工が出来て、強度が高く、軽量。言わずと知れた短繊維CFRP素形材製品である。気がつけば10年ほどの歳月が流れてしまっているが、その当時「何の役にも立ちません、そんな研究はバカバカしくて見向きもされないでしょう」と、大学内外からけっちょんけちょんに小馬鹿にされたのを覚えている。「実際に触ったことも無い人達なのに口だけは達者だな」と思ったことだけ、ふと、想い出した。某大阪のお企業様から、短繊維CFRPのプレス成形によるモンキーレンチが製品化され上市された。

そのお企業とはなんの関係もないのでこうして書いても問題なかろう。PCの画面上からしか解らないのだが、とても綺麗に出来ている。短繊維を開繊し、サイジングして硬化させ、型抜きしたからこそ、その良さを受け止めることが出来る。実際にやった(今もちょこっとやっている)。だから解る。まぁ、自動車関連企業の皆様とそれに関わる研究者の皆様は、高価だ、ゴミになる、弱すぎると仰ったが、100年もって、軽量で、そこそこ頑丈、金属の上に落としても火花を出さない、酸・アルカリ中でもなんともならないという優位性は認めない。

10年前の事だから、まぁ、常に早すぎるということなのだが、こんな企業群の中だから、東海地域でものづくり系ベンチャーの若者が育たないのだろうなと、改めて思うわけだ。身の回りの不具合を解決しましょうという「アイデアもの」はそこそこ受け入れられるが、本質をがらっと変えましょうなんてチャレンジングなものは排斥されるだけである。それ故に、そんな挑戦者を応援したいのだ。

そのお企業のホームページで、商品の写真をまじまじ眺めて見るわけだが「あぁ、なるほど、行き着くところは同じアイデアだな」と納得出来るわけである。思考の結果行き着いたことが、誰の手に拠ってということはどうでも良くて、それが商品として登場していることに思考は成立していたのだなと納得できるわけだ。少なくとも足を引っ張る習性は捨てても良いのになと、これからの若者にはそうあって欲しいと願う、私であります。

失敗は駄目か?

昨年4月以来の緊急事態宣言の声が聞こえてきた。聞こえたと言っても箱根の向こうだが、新幹線や高速道路が繋がっていて、誰でも自由に行き来できる。というか、日本中の何処にでも感染爆発源があるわけなので、仕事始めで経済活動が再開している現状、まぁ、相当の確認者数となるのでしょうね。国民全員が在宅勤務ということは無いわけだから、抑えようがない。

こんな現状を大学に入学前の人達はどう思っているのだろう?その声を聴いてみたい。過去を振り返るのではなく、こんなになってしまった社会をこうしてみたいとか、こんなことに挑んでみたいとか、素直な声を聴いてみたいのだ。コロナ禍が収束したら経済活動再開によって株価が上昇してボロ儲けだという意識が経済界を動かしているわけで、世界にどんなものを売って国力が高まっているのか不明確なのだが、円がどんどん高くなる。株価も高止まりで凄いことだなと思う。

冷静になって何を創れば良いのかと考えるわけだが、立冬を過ぎて日が長くなりはじめ、春の気配の空になってくると、寒気が入ろうが気分は明るくなってくる。そこにコロナウイルスが存在していようが、外に飛び出したくなるわけだが、それは迂闊というものだ。風邪だから適当に共存すれば良いと、この状況においても公言する方が跡を絶たない。世界においてもそうなのかしら?

結晶欠陥がどうのこうのとか、原子レベルでものが見えると威張る人でも、空気中のウイルスの浮遊状態を直接可視化出来たとは聞いたことがない。原理的には出来そうだけれど、花粉をカウントするようなわけにはいかない。様々な分野の若者に「こうやってみたい」という声を出して頂いて、それに投資する企業が現れても良さそうなのになと、出来ると決まっている大企業のクラウドファンディング提案には金は集まるが、挑戦的な夢には投資しない。ベンチャーって成功しないといけないのか?謎である。

考えているから学ぶことが出来る

大切なのは何を実践するために学ぶか?学びながら実践にどう結び付けるかとは異なる。勘違いをして頂きたくない。目的があるから学ぶというのでは「文芸者」。文化に触れ、それを「芸」として人に伝えることが明日の工学者であって、今の工学者は学者である必要は無い。常に考えているから学ぶことが出来る。それが言いたい。別に何も理解して頂く必要は無い。例によって戯言だからね。

今年の駅伝競走には深く、強く、学ばせて頂いた。人それぞれの受け止め方があろうが、常日頃思っていたことが形になるとこうなるのだなと、勝手に受け止めさせて頂いた。勝負事である。どんな気合も、相手が上回ればそれまでのことである。しかし、200kmを超えるレースで、10人が戦い、それをバックヤードがどう支えるか。伝統とは何か、歴史とは何か、時代とは何か。奥深い。

もう一つ、眺めていて気になったのが先頭を走る白バイ。海外製のオートバイが日本最強の大学駅伝レースを先導する。排気ガスを出さない仕掛けである。随分前からそうなれば良いのにと思っていたが、漸く、それが実践された。ホンダ車によれば興味が無いそうだが、CO2排出ゼロを目指すと政府が言っても、企業がそれを実践する気が無いと、要は、海外に頼るかということになる。

技術があるとか売れるとか、そんなことではなかろう。みんなで地球の生末を考える。次世代に繋いでいく。その実践レースにおいて、国内企業の車両が先頭に立てない。この国のあり様を恥ずかしく、惨めに感じた。作ろうと思えば作れる?本当か?日本人は減少していく。間違いない。この国で売れないから作らない?世界に技術を広めないのか?そうであれば世界と技術を競う企業に立ち上がって頂きたい。そんなベンチャースピリッツを持った若手を応援したい。そう思った。1年生、2年生が多く活躍した二日間。学ばせて頂いた。感謝である。