おせっかい考

「いやぁ、よく気がついて下さいました!」と有難がられる(形式的なんだけどね)場合と、「何だよ、解ってたよ、おせっかいだなぁ」と煙たがられる場合と。これって紙一重、タイミング次第。そうなんですよ、結果は同じなのですが、隣の人の顔面筋肉の硬直具合は、タイミングによって全く違う。結果は同じなのであれば、笑顔だけの結果で良いのに、選択肢があるところがややこしい。

アマゾンで買い物をすると現れるオススメというやつ。あれなんかは画面にズラッと出てきて、間違いなくおせっかいなのだけれど、イラッとしたことはない。有り難いとも思わないが、何故なのだろうと考える。小生的な反応はどうでも良いから省くとして、なんか加賀屋の接待なんて書くと、その筋のファンの方からどつかれそうだが、先回りしてそれとなく、気づく、気づかないのギリギリの気づく方向でのサービス。

日本古来のあり方のような気もするのですが、それが全面的に押し付けられると、有り難くても、おせっかいの気持ちの割合が強くなる。誰でも知っているダイヤモンド結合の混成軌道という単語だが、何が混じり合っているかと言えば誰かのためだけにある電子と、お互いを橋渡ししてくれる電子との通り道がある割合で重なり合っているということなのだけど、有難うとおせっかいというのも、なんか、ある割合どうして常に共存している感じがするのだ。

純粋に感謝の場合も、おせっかい!という場合も有りうるが、人付き合いの中ではそれが共存しあっていて平和を保っているのではないか?時にはおせっかいは止めて欲しいと言わねばならぬ時もあるのだ。政治の世界では沢山ありそうだけど、それを言わないでほったらかして、どうしようもなくなっていることに出会うことが多い、悲しいことにね。その度に、そんなところに首を突っ込んで、おせっかいな馬鹿だなとは想うのだが、まぁ、それは仕方がない、キレイが一番だ。まぁ、そんなもんだろう。

お正月は休暇を取ろう

トップの生い立ちなどなんでも良いのだ。出身はどちらですかと尋ねる人が多いが、大嫌いである。どこでも良かろう。地球のどっかだ(本当か?)庶民派?どうでもよろしい。庶民って誰だ?意味不明である。どんな人でも庶民である。まぁ、国王と他の人達ということかもしれない。そんな意味ではみんな庶民だ。一般ピープルである。

まぁ、どうでも良いのだけれど、戯言だからほっておいて頂戴という事なのだが、人間という単位でお互いの気持ちが通じ合えるような、そんな魔法の様な出来事って無いのかしらと心底思うのだ。自転車で走っていれば跳ねられそうになるし、クラクションを鳴らされたり、怒鳴られたり。余裕が無いというよりも、同類にもっと優しく成れないものですかねと悩んでしまう、同じ種族として。

ひょっとするとその前提が間違っているのかもしれないが、なんか優しく無いのだ。年末年始に三密を避けるために1月11日くらいの範囲まで、休暇を取っては如何だろうかということがお上から下りてくるわけだが、そんな一言が無かったとて、1月4日から出勤しなくても良いと思うよ。じっくりお休みして、いっぱいお酒頂いて、元気にリフレッシュしてから出てくれば良いではないですか?それくらい優しい国になろうよ・・とは思うのだ。

勿論、立場に依りけりだけどね。ネットワークでお仕事が認められる時代になったのだもの。旧態依然はいい加減に払しょくしませんかと思うのです。お上が指導してくるのでは無くてね。とは言うものの、まだ10月で、冬至にも至っていないわけだから、まぁ、じっくりいきますかね。丁寧にこつこつと進むしかない、それだけの毎日ですな。

凍結

「それは貴方が作ったプレゼンシートですか?」と尋ねられた。小生と長く付き合いがある人ならそんなことを聞くはずはない。当たり前であるからだ。誰が何を受け止め変化したいかを講演の依頼者と共創し、そこに向けてゼロベースで組み上げていく。勿論、使い回しの資料は多いが、細部においては手を入れていく。締めくくりの一言を決めたら骨格は出来上がる。その時点で顧客満足を満たしていなければ失敗である。

小生の研究スタイルも同様で、原子(原料ですな)を集めるところから、最終的に活用される部分まで、各セクションで抜けること無く自らが制御可能に何年以内に到達できるか、途中でどれだけのファンドが必要かを設計し10年後のゴールをめがけて動き出す。設計図の一部を担うことと、原子から顧客の笑顔までのストーリーを描くことは全く異なる。顧客は何故笑顔になれるのか。それはその顧客が誰かを笑顔にするからだ。顧客が誰かに良い影響を与えるその状況をビジュアル化できれば、その研究は必ずゴールに到達できる。今、解っていないから挑戦したい程度ではファンド獲得は無理だし、そもそも挫折する。

師の教えは勿論大きいのだが、やはり幼少期からどんな風に育ったかに依存するのだと実感している。無理をせず、育てて頂いた通りに生き抜けば良いのだろう。タイムマシンには乗れないのだから今更で無責任な発言だが、実際の所それに尽きるのだ。偉大な恩師に巡り合ったとしても、その偉大さを太くするのも捻じ曲げるのも、過去からの連鎖に他ならない。出会って最初の行動、言動でゴールが見える。

作れそうだからやってみるのか、人々の笑顔の連鎖を描いて作ろうと思ったのか。ストーリーを描く俳優の一人としての工業的生産物はあるのであって、それがどのように使うのかはお客さん任せでは所詮行き詰まる。高度で複雑で、人の命を預かるモノづくりであれば尚更だ。いや、人の命に関わらない工学は無いわけだが、ゴールは遠いのだ。常に上があるのだ。もっと良いモノは必ず生まれる。社会が進み技術も磨かれ、新しいものが生まれる。それも見越してストーリーを描かねばならない。スペーつジェットの凍結を見て改めて感じた。

漱石に夢十夜という著作がある。大それた例を見るまでもなく、夢というのは不思議な世界を創り出してくれる。大抵、夢で良かったということで終わるのだが、「夢とは深層心理が・・」どうのこうのと仰る専門家もいらっしゃって、夢を語れるなんてなんて素晴らしい学問なのだろうと思うのだが、夢の時間まで仕事に追いかけられ続けていると常に疲れ切った状態になる。

打ち合わせをすると鞄が無い。ホテルに置いてきたことに気が付く。ホテルに戻ろうとするのだが、何故かそこは3つ隣の駅のホームなのだが、線路が沢山あって、乗るべきディーゼル車(何故かディーゼルであることが多い)はたった今出発した。焦ってホームの反対に停まっている車両に乗り込むと、山が見え始め当初の目的地とは全く違うところを走っているのだが、それでも落ち着いて、次の駅で降りて歩けば環状七号線の〇交差点に出られるななどと思っている。

改札口を出ると廃工場の中であり、施錠されて出られなくなってしまう。構内を見渡して、隙間を見つけて抜け出して立ち上がる。布団に立ち上がる自分を見つめて「あぁ、夢であったのだな」と気が付く。妙にリアルなのだが、鞄を忘れるとか試験の時間に間に合わないとかそんな夢ばかりをみるのだ。ずっとそんなことを気にしてばかりいたことの記憶が、それこそ深層心理として結像するのかもしれない。

その昔、決まった日に決まった夢を見た。最近は見なくなってしまったが、恐ろしい程にリアルで、夢の風景が脳裏に刻まれている。起きている方が楽だ。自らの意思で進むことも諦めることも出来るから。夢は恐ろしい。否応なく現実が迫ってくる。それは必ず悪い方向に行く。夢の中で夢であることに気づいても、まだ夢であって、そこから脱出してもまだ夢であった。夜は恐ろしい。眠らないのはそのためだ。

移動断捨離

ちょっと思い出し気味の事なのですが、先日、久し振りに出張に出かけたわけですが、PCのアダプタを持たず、大容量のUSBバッテリでお仕事をこなしました。PCアダプタは小さくなったのですが、ケーブルが基本的に嫌いで、それをバッグに入れないだけで、随分とすっきりするのです。銅って原子番号的に鉄よりも重いのだから、重量軽減にも効果があります。

ちょっと前に普通のノートPCなら2回は満充電できるくらいのものを購入していて、それを使ってかなりの時間、お仕事をしておりました。PCの電池寿命もかなり長くなっているとは言え、既に4年ほど経っている機械故に、内臓バッテリーは3時間程度しか持続しない。電池切れですよ~というメッセージの段階で、外付けバッテリーを繋いでお仕事をこなしました。

小型のバッテリーも持ってはいるのですが、それはWiFi端末専用にしてしまっているわけで、移動中にもしも必要であれば取り出すのですが、移動中には長時間のエディットはしないわけで、使う機会が減ってきていますな。ホテルでWiFiが無いところを探す方が大変な時代になりましたしね。

久し振りの一泊出張だったのですが、荷物を一つ減らせて嬉しくなりますな。どこまで持ち物を減らせるか。これから先も永遠の課題の雰囲気ですが、より軽く、より少なくを目指して、日々の荷物も減らしたいなぁと、久し振りに実践して気持ちを新たにした、移動断捨離の私であります。

入試考

コロナ禍下での共通テストの実施方法というか、流れというかに、小生としては違和感が強い。知っていることを確認するから、教えてもらっていない範囲の差で合否が決まるのは不公平だという主張だ。所詮、教科書は学年当初に配布されているのだから、自ら進んで学んだらと思うのだ。範囲は解っているのだ。それはとっくに公開されている。それが本質か?と問い直したいだけだ。

要は、過去の暗記で大学って合否が決まるものなのですかと問い正したい気になってきたということだ。過去の図抜けた理解は当然なのだが、未来での利他主義のほうがよっぽど大切では無いか?未来の他人の笑顔の為にどれだけ思考出来るか?そんなもの判定できないと言われてしまうのだろうが、国立大学の入学者とはいったい何者なのか?

国公私立関係なく、税金の支援を受けて学ぶわけで、国の将来を背負って立つ若者が、今まで学んだ量を競うのが受験と感じる。科挙の時代からずっと変わらない。飛鳥時代から変わっていないのだ。恐ろしい仕組みである。それが続く限り、忖度政治もずっとそのまま、過去の改善、他国の物まねがずっとそのまま維持される。まだ見ぬ未来の道しるべを作ろうなんて考えもしない。

どうやるのかと言われれば、その答えを持っているわけでは無いから黙っていろということなのだが、未来志向の入試があって良かろう。それは一発で答えが出るわけでは無く、複数年かけての人材評価が必要となろう。国の将来を考えるのだ。それだけのコストが必要である。記憶量の均一化では無く、人々を笑顔にしようという意欲の大小で決めたら如何か。何も出来ない人間だからこそ、共に何かを成し遂げたいという人を応援したい。それだけのことだ。

出張に想う

ほんの少しだけですが、平準化に向かっているのかなと自ら感じる。天竜浜名湖線のジャングルクルーズ感は凄まじい。路肩と言うか谷間の雑草に体当たりしながら進む勇姿である。コストダウンの極みの姿と言って良いだろう。車内は綺麗で、ついさっきまで速さを威張っていた新快速の汚染感など全くなく、車窓からの浜名湖のなんとも地中海気分。どどっとご老体の皆様がマスクもせずに大挙して乗り込んできたのには辟易したが、一駅でこちらが下車したので後は知らない。

元来、浜名湖は超えないという約束事は破ってはいない。ギリギリのラインでとどまっているところが面白い。ホテルであるが、これがGoToのせいか超満員。半年前から決まっていた国のお仕事なので宿泊できたが、普通の出張気分でいたらそれは無理であったろう。急けんの皆様の遊び力は凄いなぁと感心するばかり。恐ろしくなって部屋にそそくさと閉じこもるばかりである。

表に出ると言ってもお昼に出て翌日のお昼には戻るという、まぁ良くあるパターンであって、ひたすらにお仕事だけをこなしていく。当たり前の状況が久し振りに目の前に戻ったなというところ。で、前日の出張の準備に手こずること。いろんなものをキット化して、会議ならこれ、講演ならこれみたいなながれにパッケージ化していたわけだが、この9カ月でその出張「勘」はどこかに行ってしまいてんてこ舞いであった。

なにはともあれ移動は有難い。孤独、孤立になれる清々しさということか。様々な思考が巡り、血液がいきわたる感触が有難い。しかし、しかしだ、この移動と言うものはやっぱりもう要らないものの代表選手でば無いのか?狭い日本だからいつまでも続けているが、世界の孤児の活動様式では無いのか。久し振りであるが故に、過去の行動に疑いを持つことが出来た。そんなもんだ。

美談?

美談は苦手である。特に偽善的要素を多分に含んだと、小生自身が感じてしまうと、もうどっちらけてしまう。あんまり深くは言う必要は無いが、そんな出来事が山ほどある。忖度なんて見方を変えると美談だしね。こればっかりは難しい。本当に難しいと思う。美談の判断基準は余りにも難しく、基準が百人百様で、何が美しいのかさっぱり分からない。これが話をややこしくする。

正しい依怙贔屓というのもあるのだと思っている。何でもかんでも平等が美しい、それこそ美談だと言われるし、まぁ、そうかもしれないのだけれど、小生は意を決した依怙贔屓をしなければ組織は存在しえないと思っている。そりゃぁ、全員おんなじだよと言って世の中が丸いのであれば、それに越したことはなかろう。ここにも美談のややこしさが付きまとう。

ちょっとことが大騒動になって、結局崩壊に向かいつつあるのであれば、リーダーは何とかせねばならぬ。その時に平等ねと言っていたら、必ず組織は無くなる方向に行くのが現代の日本だ。そんなことは無いと思っていらっしゃるのなら、その方は余程の中枢の、しかも頂点に近いところにいらっしゃる方だ。親企業の方向付けが子分の命運を簡単に分ける現代において、みんな一緒ねなんてどこのお話でしょう。

火傷は何処からともなくやってくる火の粉によって生じるのだが、その時に、自分は悪くないと思った時点で負けである。今も昔も何があっても諦めず、腐らず、何とか見返そうと努力を重ねるしかない。その時に、みんな平等ねなんてことはあり得ない。崖から落ち始めていたとしても、偶然に出ている枝に手が届いて重傷で済むかもしれない。あちらの世界に行かなければ何とかなるのだ。経験してみると分かる。そんなもんだ。

ステークホルダに捧ぐ

第4期はステークホルダに評価される活動をしなさいとの、本社からのお達しである。顧客は沢山いらっしゃる。その皆様に対して契約をし、その履行状況で店じまいかどうかを判断しますというのが本社のご意向である。今までのスポーツクラブ方式とは趣が違う。オリンピックはどうでもいいから、逆上がりが出来るようになりましょう、次は・・というように、それが達成できれば合格という評価を頂けた関係が、ステークホルダが求めるゴールを設定して、それに到達したかを判断しますということだ。

この指標づくりは簡単ではない。化石燃料利用を止めましょうと社会が訴えたら、それを実現する工学のアウトプットに繋がる教育・研究が出来る仕組みを構築し、実行し、アウトプットを見せなさい、あら駄目なのね、それではさようならというものだ。大学を潰せないと思っていらっしゃる方が大勢だが、運営費交付金が停められたら即死である。簡単に潰れる。誰も無休で活動して頂けないでしょ?

倫理的、社会的、そして法的に品質保証をしなさいということだ。小生もそうなのだが、博士課程中に就職活動をして、たまたまポストを頂いて研究を継続させて頂き、講義を担当させて頂いた。その集合が大学の品質保証に繋がるんですよと言われたことは無い。良質な論文に掲載されれば喜び、上等の国際会議でお話をさせて頂く機会を頂戴出来たら感激した、そんなもんだと思う。それがステークホルダに対して品質保証をして、その実効性を見せろという。

見せろと言われたら見せないといけない。目の前のハトを消してみろというマジックでは駄目だ。これはなかなかにしてハードな要求である。そうなのだが、絶対に成し遂げないといけないのだ。でも、明確なターゲットではあるのだ。やれと言われたらやらないとしょうがないし、どうやれば出来るかを熟考すれば良いのだ。皆様からのご指導をお願いするところで御座います。

そもそも響かない

打っても響かないコミュニケーションギャップ。永遠に乗り越えられず、いや、乗り越える必要は無いのではと感じるようになってきている。独りよがり防止の為には、ストレートに文句を仰って頂ける方だけでは無く、「何で解ってくれないのよ!」と宇宙的地球人の存在が重要である。芸術の解釈などという高尚なものではなくて、「これって〇〇だから良いよね」って話しかけた途端、相槌を打ちながら顔の筋肉が硬直する人。こんな人は大切な方である。

ギャップを逆手に、これは理解されないだろうということを前提に、遠回りして本音を引き出すということもしてみるのだが、相手の本音が、今度はこっちが分からない。ギャップがあるのだ。そりゃぁそうだ。全てが違うのだもの。社会では「法の解釈」などと、決まった条文に見えても解釈が異なっても良いことになっている。そもそも論としてギャップが前提に世の中が構築されているのだ。

釣鐘を打てば響くだろう。大なり小なりの音がする。鐘が鳴るなり法隆寺ということなのだが、どんな鐘の音か?法隆寺で聞いたことがあるという人が居るかもしれないが、聴覚神経の問題もあるが、その空気感、日頃からの感受性などで、どんな音色ですかと聞けば全く違う答えが来るだろうし、情景を絵に書いてみなさいと言われれば絶望的だ。比喩を使ってもその比喩の解釈がそもそも違う。ギャップがあるのだ。

人が笑顔になる価値をゲージとして小生は利用するのだが、「自社の利益だけが生きる喜びで、他人の幸せを見るのが不幸だ」というアンチ他人的企業軍団のお偉い皆様に、「国家国民の笑顔の実現から始まって・・」みたいな演説をぶっても全く無駄である。誰にも響かない。偽善者と言われるだけである。とは言うものの、コミュニケーションとは人生の一丁目一番地であるから、なんとかならないかとあえぐわけだが、なかなかどうしてうまくいかない。だから戯言を言う。それだけの事だ。