備えあれば患いなし?

地下鉄から出ると強い雨。天気予報とは異なる状況である。カバンに潜ませている折りたたみ傘で難をしのぐ。備えあれば患いなし。あらかじめ準備をしておけば少しも心配事が無いということなのだが、ふと思った。昨今、研究にしろ授業にしろ、患いの無い諸君で溢れている。備えをすることを全く意識せず、何も考えないから患いが無い。備えする気がないから患いなしというのが現代流だ。

自らに能力が無く、だからこそ学ばねばならぬ。それだから患いが無いように備える。その順番だろう。やる気が欠落し、後悔という単語を持たない人種には患いと言う単語は無い。日頃の努力は無意味であり、刹那的にやり過ごして生涯を終えることを良しとした教育を受けた人々の社会に、歯の食いしばりと血のにじみだけが価値という教育を受けた人間は無用だ。

それでもやぱり備えてしまう。何かを期待されればそれに応えようと踏ん張る。勿論、満点はあり得ない。限界の努力。それが重要である。これでいいのではないか?と自分で思ってしまうのは間違いだ。失敗して良いのだ。自分の今を最大に出せたらそれで良いのだ。そこまで行って、漸く先人の努力の意味が解る。何故努力するのか?それは限界の努力を積み重ねる者以外には絶対に伝わらない。

熱意は伝わるものと思っていた。しかし、人種が既に変わっている。新しいサピエンスの時代が来ていることは間違いない。ネアンデルタールとホモサピエンスの共生時代、彼らも同様に感じたのだろうか。そして消えていったのだろう。備えがあっても患いがある。しかし、それでも備えるのか、それとも無駄と思って備えないか。備え続ける、それしかない、それが私であります。

一日一歩

一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる。名曲である。一歩でも先に進んでいる勘定なのがとても良い。なかなか一歩の確保は出来ないものだ。ほんわか世の中を眺めているのが良い。かつかつでいると、これがなかなか進まない。進まないと焦ってきて、結局、一日一歩ずつ後退していることに気が付く。そんなものだ。じっくり後退していくと、もう、元には戻れずに、そこで居心地良くなってしまう。これはとても恐ろしい現象だ。

岡本太郎先生の座ることを拒む椅子は良い。背筋がぐんと伸びる。心地よさを求めがちだが、そうではない哲学もあるのだ。拒んで何が悪い。その通りだ。拒否と書くと拒んで否定することになってしまうが、否定はしないけど拒むことだって許されて良かろう。嫌は嫌である。何故と言われると困る。嫌なものは嫌だと言える付き合いが良い。一歩進む為に他を拒む事もある。

選択肢が無い道であっても黙って進まないのが良い。その道は自らにとって謝った道かもしれない。そもそもそこに道があるのは、誰かが快適の為に作ったものに違いない。そうであるならば、その道を辿ったとしても自らにとって後退する道かもしれない。失敗を経験と言うが、反省して定量的な解を導き出せたら経験にもなろうが、おおよそ、そんな解を出せたことが無い。何も成らない。

生きている限り活動がある。その活動は誰かの為になっているか?一人の世の中では無い。社会に生かして頂いているのであれば、何かお役に立つべきだ。しかし、これもまた、とても難しい。感謝の気持ちで溢れかえる。それは日々そうなのだが、果たして自らはどうなのだろう。あがき悩む。相変わらずの青春模様である。苦笑いだ。

無くなっていくもの

中途半端なものはいらない。世界中の人々がデジタルカメラに突き付けた最後通告であろう。Nikonですら突破できなかった。写メという文化が生まれた時、そこは箱根であったが、電波にのっけて異空間を共有するという概念の発達は、繋がらない文化を完全に駆逐した。綺麗に記録出来れば良いという時代から、共有という文化が生まれていることに気付かなかった企業が消えていった。

次はタイヤだろうか?自動運転で最適経路をたどり、渋滞がなくなりブレーキ回数が減ったら、タイヤのすりへりが劇的に減少する筈だ。そうなるとタイヤメーカーも生きていく方策が無くなる。タイヤが激減したら生ゴムの生産も減るから・・産業とはそいうものだ。今T社は図面を回してくれるが、近い将来、それも無くなるだろうとなると、図抜けベンチャーかトップ企業以外は誰も残らない。

ただ、そんな事例が滅多やたらとあるわけでは無くて、今のところ、分かって居いる無くなるポストは限定的だが、連鎖反応的に爆発的に増えるのは間違いない。大学の講義などはその最前線であろうそして誰も居なくなる。まぁ、そうだろうなぁ・・

その前に、研究開発費を一切掛けない企業が無くなるかもしれない。上から目線の究極を行く。ゼロ円食堂という企画はよくやったと思う。企画にとてつもなく金は掛かるが、ゼロ円のイメージは素晴らしい。捨てるものが生きる。その感覚が良い。身の回りを見てみれば無駄な物体がごろごろと・・。そうならないように今日も頑張るとしよう。それだけだ。

生きているってこと

歩いていてふと思った。自分にもしも明日があって、それを今、この瞬間に、手繰り寄せることが出来たら未来は決まっているということになってしまうのだろうなって。でもそれが出来ないから、未来は自分で作り出さなきゃいけないんだって。なんだか巡り巡ってしまうのだけれど、結論とすると、決まっていないから愉快であるということ。自分だけが決まっていないって言われてしまうと、ちょっと・・なんだけど、全ての人が決まっていないから生きているって愉快だ。

突然、車にはねられて全身不随になった時だって、考えることは何かしら出来た。自分の名前すら思い出せなかったけど、まぁ、しょうがないなってなもんだ。一人で生きているわけでは無いから、思い通りなんて絶対にならない。ならないから、まぁ、自分を一所懸命に貫くだけ。頑張るってことだね。それしかできない。

大切なことは命があるってことだね。得体のしれないことを考えるのも命があるからということなんでしょ?まぁ、まっ黒で曲がった物体をあっちから見てきた自分とすると、命しか無いってことになるのかもしれない。三途の川は渡ったことは無いけど、こっちに居る限りは、猛烈に瞬間瞬間に挑み続けるってことで良いと思う。

浅薄な偽善、堕落なんてばかばかしい。誰にも平等にやってくるこの瞬間を自分自身で受け止めるには、過去の経験を自分で納得なんかしないで、強烈に一歩を進めるだけ。今日もそんなふうに歩くのだろう。そう感じた。

ブロック塀は悪か?

地震でブロック塀が倒れる。子供の頃、1960年台後半だが、塀は大概ブロックだった記憶がある。お金持ちが生垣で中産階級がブロック塀で、貧乏長屋は塀が無いか板葺きだった・・気がする。今では板葺きは随分とおしゃれな雰囲気だが、当時は、戦後に建ったバラックを分解して出てきた板を再利用していた。住所板が塀に変な向きで付いていたとか、キンチョーの看板がくっついていたりと、ある意味、にぎやかな町並みであった。大阪万博の頃にはそれらの板壁は放火対象になるとかで、下水の整備と共に、これまたブロック塀に変身していった記憶がある。ブロック塀かコンクリートのスレートである。

塀が倒れて小学生が亡くなった。しかもそれが守ってくれるはずの小学校の塀だ。プールの目隠しということで高く積んだのだろうが、その施工において手抜きが見られたことは許しがたい。ブロック塀が悪なのではなく、施工のいい加減さが悪なのだと思う。ブロック塀が全て倒れたわけでは無かろう。機能的で軽量、断熱的にはどうなのか専門家にお任せしたいが、数年で風化するという代物ではなかろう。手抜き工事は常にいかん。そちらを糾弾するべきであって、ブロック塀を悪者にするのは、なんか、視線を逸らしているようでいやらしい。

以前、務めていた大学には塀が無かった。塀を巡らせるほどに小さくなかったということと、まぁ、南軽井沢入口の南東北の片田舎だから、塀なんか無くても関係ないやってなところが本当のところだろう。雑木林にはマムシが沢山居たし、天然の防御壁みたいなものかな。鶴舞大学は城壁に囲まれていて、都会のおどろおどろしさを感じるのだ。閉塞感に満ちている気がする。地方出身者からすると、領域を明確にしていることで、外への防御というよりも内に閉じこもっている気がしてならない。

今朝、地下鉄の駅から路地を巡ってみたが、ブロック塀はいたるところに存在している。東南海地震でどうなることやら。やっぱり吹っ飛ぶのかそれともしっかりと施工されていて、ブロックだって大丈夫さというところを見せてくれるのか。根尾谷断層が出来た時の地震では墓石が同一方向に倒れたという。どちらに揺れるかにも依存するだろう。墓石や塀の近くに、地震時に留まっていてはいけないということだろう。日頃から何処に逃げるべきか。改めて考えさせられる。

企業家は若い

明日から天気は再び崩れるらしい。束の間の晴れ間を楽しみたいとは思うが、例によって気がつけば深夜だろう。まぁ仕方がない。今週は起業希望学生の積極さに感動させて頂いた。何をやったら儲かるかしか聞いてこない企業の皆さんに、ほんの少しでも挑戦の気持ちを抱いて頂きたいと心底思った次第。まだまだ明るい部分もある。深淵ではない。

学生起業の場合、あまり元手がかからないアプリ開発が主になるのだが、ハードだけに偏る中小企業群との連合的なコラボが出来るとすると、一気にB2Cビジネスに繋がる素地は我が国にはある。新しいサービスから発想を持ち込むから、旧来のコーディネートのやり方を真似てはならない。我が身も旧人類。新人類軍に期待するところ大である。常に身の丈を知ることである。

話を聞いて頂いている様子からも、まさに砂に水が染み入るように理解している様がわかる。教育者冥利である。社会の状況が飽和してきている今、こんな学生がじゃんじゃか増えるのではと、妙に元気が湧いてきた。面白い。実に愉快である。君達はもっともっと幸せになる、そして周りを巻き込んでくれる。間違いない。

世界が猛烈に変わっている一方で、規制の為に手を出せない部分が沢山ある。頑張っても親に蹴飛ばされる。それでも立ち上がって前に進む。慣れたことは捨てていく。それで良い。新しく生きる。毎日がその連続である。

満足化

東海道新幹線の一日乗降客数が46万人。島根県の人口は71万人だから2日間で島根県民全員を県外に連れ出せる勘定だ。それだけ多くの乗客の中に一人の暴漢が現れる時の阿鼻叫喚たるや凄まじい恐怖であったことだろう。恐らく、利用者の誰もが思うことだろう。自分だったのかもしれないと。移動体としての安全と、それに伴う安心は偉大な新幹線であるが、その中身となるとそうもいかない。

安全は工業製品であれば当たり前に実現しなければならないのは言うまでもない。安全・安心などと軽々しく書かれた記事を見るが、安全と安心はまるで違うカテゴリだから併記することが異様である。先ずは安全。それは何故ならばこうだからと定量的に説明成されなければならない。それでも人知の及ぶところではない未知がある。それはその後に解明改善すればよい。それもまた人の世のあり方だ。

安心して居られるということは一切の恐怖・疑いを持つ必要が無いということだ。その意味では登山などには安全も安心もあり得ないのだ。自己責任のみが与えられる。慎重になる。それで良いのだ。人間は勝手だから、様々な前提を勝手において安心してしまう。冗談ではない。安心など当たり前にあるはずがないのだ。

最近、思っているのが満足、あるいは何かを満足化させようという指標の導入だ。名人芸は自己満足も他律満足も大変に大きい。持ったことは無いがグッチのバッグなどはその最前線であろう。海に投げ出されてもグッチのバッグは海水が入らず沈まない、壊れない。正に持つ満足がある。今あるものを満足化していき、その結果、安心な世の中が出来合っていくのではないか。マスプロダクトはもう良い。当たり前には満足は無い。そう感じる。

捨てられない

大量の本に埋もれて亡くなった方のニュースを見た。御冥福をお祈りする。教授室や宿舎の書斎を眺めると同じ運命が待っていそうだなと、テレビが宙を舞ったと仰った三菱電機の先輩のお話を思い出した。備えあれば憂いは無いのだが、本を無くせと言われると、まぁそれは無理だなって思う。活字があって生きているみたいなところがあるからね。書棚だけは固定しているけど、本そのものは狂気となって宙を舞うだろう。

書棚をなんとか空にしたいと、雑誌などは断裁して電子的にスキャンして読めるようにしているのだが、これがかなり決断が必要なのだ。学会誌などはえいやと出来るが、太陽みたいなものになると「いやいや」となってしまって書棚に鎮座し続ける。いずれ死んだらゴミになるのはわかっているのだから処分するべきだが、未練と言う人間臭さがそれを阻害する。

毎日一つ捨てようと決めて頑張るのだが、捨てても捨てても何かが現れる。断捨離を格好付けてやっているわけでは無い。なんだか長い事生きてきて、あちらが近づいてきたので、整理をしておこうかなと思っただけだ。しかしながら未練の塊だから、それがなかなか進まない。きっぱり捨てられる人は偉大な人だ。心底そう感じる。

言い訳はいっぱいある。まだ講義をさせて頂いているから参考書が必要だ。新しいモノを作っているから原子の結合に関する書籍はあればある程良いなんて凄まじい言い訳だ。一つの言い訳はありとあらゆる方向に応用できてしまう。これが厄介だ。引き出しの中には無限の小銭がある。これまたマーケットで使おうと思うのだが、これが気合を入れないと必ず増える。そもそもネットでのお買い物は小銭を減らさない。特に50円玉は減らない。山の頂の心地良さはこんなところにもあるのかもしれない。水平位置に何もない。独特の美しさだ。かくありたい。

慌てない

東京駅と小田原駅間で何故通電を停止しなければならなかったのか?停車中にアナウンスがあるわけでなく、ニュースで何かあるわけでなく。現場の関西方面は理解出来ますが、何もなさそうな関東で止めてしまうのは何故だったのか?さっぱりわからない。

豊橋手前で、車内の掲示に関西方面で震度6弱の揺れと出た時に、下り線が名古屋辺りで詰まりそうだから、少しは遅れるかなと思っていたら、送電停止のアナウンス。がっくりである。前入りしておけばと思っても後のお祭りですな。緊急停止である。最初はカーブの地点で止まったので、傾いていてこれはきつい。5分くらいで動き出し、平坦路で停止。すると静岡駅まで行くという。

その昔は何があってもドアの開放は無かったけれど、様々な事象で学んだのか、静岡駅でオープンとなった。一方で、何時、動き出すか全く分からないという。コーヒーを買いに表に出たりしながら、偶然に持っていたPCでお仕事などしながら過ごすこと2時間15分。出発した後は新横浜までそれこそ脱兎のごとくだ。出し過ぎじゃないのかと思う程の勢いで、新横浜まで。東京駅付近は動かないというアナウンスの下、殆どの乗客が品川で降りた気がする。払い戻しの列は物凄く、また、改札の外も大混乱状態。

帰路がこれまたえらいことだ。12時過ぎに下りは動き始めたようだが、ダイヤの乱れどころではない。まずは腹ごしらえと改札を出てゆっくり座って食事だ。これが大切。これが出来ない奴は山で遭難死する。落ち着きは満たされた腹から来る。構内はすったもんだだが、動き始めているのでホームには隙間が出来る。遠距離ののぞみは満員だから、近距離のひかり狙いで自由席に着座出来た。経験の成せる技と言えるかもしれない。窓の外を見ていたが、すれ違いは名古屋まで4本のみの異常事態。車両が足りないのだろう。名古屋駅の阿鼻叫喚、凄まじい。まぁ、そんなこんなの週の頭の出張でありました。

繰り返すのは何故

20年と聞いてそんなになるかなと、トヨタのルマンへの挑戦にモータースポーツを愛する小生として、なんだかんだで嬉しく思った。市販車とレベルが違いすぎるけれど、世界一は素晴らしい称号である。ハイブリッドによる全速度域でのトルクの伝達の正しさを漸く証明しましたねと、魔法みたいな仕組みでよくもまぁ頑張ったものだと感心する。

繰り返しの努力は必要で、何か頑張っていると突然閾値を超える時が来る。それまで頑張れるかが重要で、周りの理不尽な妨害などにめげずに続ける根性が根幹になければならない。それに加えて自らの創意工夫を凝らし、壁を超える時、自分のものに、なにかがなる。 

柳の枝にカエルが飛びつく事が本質ではなく、何故カエルが柳の枝に気がついたか、飛びつく事でなにが得られるかを思ったかが重要で本質だ。与えられたから努力するなどという事は度外視で、今を続けるだけの人も問題外。

新しい世界を開くのは創意工夫しかない。扉を開くのではない。既に扉がある世界などに拘る事に興味はない。世界を作り扉を開けて人々を受け入れるのが良い。受け入れたらまた次の世界を創れば良い。それだけの事だ。