出張取り止めにつき

一日中ネットワークを通じて会議に参加したのだが、雑音が入らないのは良いなと思った次第。そしてこちらの雑音もあちらに流れないのも良いなと思う。思うだけで、ざわざわ感があったほうがリアル感があるとは思うのだが、熱心に聞いているのに隣や後ろの席のひそひそ話が入ってくるのは本当に嫌だ。それが無いのはウエブ会議での利点と思う。

直接会ってお話も、当然のことながら有難い。阿吽の呼吸があって良い。話を飛ばしまくった挙句に新しい事が出てくることがある。まぁ、ウエブでもそれが出来るはずなのだけれどね。ネットの記事を見ていると、雑談の場を設けなさい見たいなことが書かれているのだけれど、時間を削り出していらっしゃる人の中では、それもお願いしにくい。リアルに会えるなら会ってしまった方が良い事もあるのは事実だと思う。

リアルが良いの代表は花見かもしれないけれど、今年の名古屋の開花予想は3月24日だそうで、卒業式前になる。リアルもどきのイベントが企画されるわけだが、それはそれで良いと思う。一区切りを感じるのは自らであるから、そんな意識を持てるように育って頂ければ良い。自立というか自律というか。更に進んで他律となると、これは大変だ。ウエブを通じて他律的能力を発揮できるようになるというのが、DXの本質だろう。

コロナ禍が無ければ、久し振りに富山県に行っていた筈なのだが、残念ながらのウエブイベントになってしまった。もうしばらく遠距離の移動が無い。自粛というか、行き先が無いということだ。これはこれで移動時間が無くなって良い。本心、そう思っている。お仕事での移動は無い方が良い。DXにより得られた正解だと思っている。

遥かなる太陽

悩むのは辛いです。考えるのは楽しいです。悩むのはゴールが自らの主張と相反するから。でもそれが進まないといけない方向にあるならば、悩むのは無駄ですよね。だってそこに行くんでしょ!だったら考えようよ。どうやったら良いのか。それだけなんですよ。だけど人は悩む。困る。今そこに立ち止まりたいから。でもね、みんな動き続けているんだな、特に世界は。いや、日本を除く全ての国々が。

悩んだら、太陽を想うと良い。太陽って無限のエネルギーを提供してくれているんだけど、見返りを求めないでしょ。そんな人間であろうよ。ばばぁん!ってエネルギーを出そうよ!ぐんど大地をふんばって、胸を張って「私は太陽だぁ!」って。自分に影が出来ない。そんな自分になれば良いんじゃない?

ちまちま、誰が得をするとか、誰かの為に働くとか考えるからいけない。欲から入るからいけない。いやいや、そりゃぁ、欲はありますよ。あるんだけどさ、でもそれって結局自分だけの気持ちを満たすだけでしょ。そんなちっぽけなことにエネルギーを使うの?そんなの吹っ飛ばして前に進みませんか。どうせ目は前にしか向いていないしね。後ろ指を気にしたって見えないから。

便利に出来ているんですよ。前に進むように出来ている。有難い進化の結果ですよ。「結果、誰かが笑顔になった」、それでいいぢゃないですか。最大の力を発揮して、自己満足。それでいいんだって。だってそれ以上のことは絶対に出来ないでしょ。そんなもんだって。気楽にいこうよ!

絶対値は無い

完成したとか、出来上がったとか、そんなものは世の中には無い。妙なお話だけれども、例えば火炎土器という縄文時代の芸術品ともいえる「土鍋」だって、様々な思考を人々に与え続けている。それに関わった全ての人の営みも含めた代物であって、完成してはいないのだ。完成という単語は簡単だけれど、それは永遠に得られないものだと思っている。

論文を書いてみても、少し時代が進めば陳腐化して風化していく。その意味合いはどんどん変化するのだから、完成では無いのですよ。表現は難しいなと感じます。骨格というか軸はぶれないのかという問題もあるけれど、それすら変化していくものだと思っている。「絶対にそれは譲れないのだ!」と迫ってくる方々が大勢いらっしゃるわけだけれど、譲れないのは「変わる」ことであって人の立ち位置ではない。

社会相対論とでも言おうか、座標が様々に変化して、相対関係が変化していく。共通なのは時間軸であって、過去から今に、そして未来にという軸の流れの考え方はそうなのかもしれないけれど、それも怪しいのでは無いのかと思ったりもする。経験と言うけれど、それは自分自身で感じることであって、それとて、経験したことが今は異なる感覚なんだよねなんてことはしょっちゅうである。

結局、その瞬間瞬間を猛烈に強烈に受け止めて、自らの心に刻み込むということを繰り返すしか無いのだと思う。価値観?人の数だけあるわけで、絶対指標なんて意味すら無い。為政者を見たまえ、賄賂だのが横行し続けるではないか。それがその人達の価値観だし、私と違うと思っても、その人達を選んだ人々が数万人以上もいらっしゃるのだ。一人の価値観など塵に等しい。いやそれ以下であろう。存在すらない。だから自分自身、しっかりと大地に足を付けて踏ん張る。それしかない、そんな時代だと思う。

デジタルトランスフォーメーションは結果です

デジタル技術によってもたらされる革新・革命、それがDX。ツールを導入しても、それから生まれる未来に繋がらないのであれば、それは革新でもなんでもない。折角、国民一人当たり10万円も使ってマイナンバーカードを持たせたのに、その後、それを活用しようなんてお話が全く出てこない。企業が言い出したって良いんですよ。お上に任せておく必要は全くない。10万円を目当てにカードを取得した国民がどれだけになったのかさっぱり分からない。結局、日本の国そのものがDXに到達していないのだ。

PCR検査を受診した履歴なんかはマイナンバーと紐づけしても良い。保険金にまで反映しても良い。国民皆保険と言うならば、そこまで突っ込んで良いのだ。前に進もうとすると、必ず後ろから引っ張る、足を引っかける人々が現れる。国民に選ばれた人達が自信を持って進めれば良いのだ・・なぁんて、度胸良く前に行くことは中々出来ることでは無いことは承知の上だ。それでも前に進まねばならないのだ。それが政治だ。

折角あるものを活用していないのはとっても勿体ないと感じるのです。買いためた、いや、別にためるつもりは無かったのだが、CDなどはiPhoneの中にデジタル情報を移送して通勤途中などで楽しんでいるわけだが、こんなノリで不遇なマイナンバーカードを活用できないものか。定期券も身分証明書もキャッシュカードも1枚で済んでくれないかなと思う。財布が薄くなって有難い。

自分は本当にこの国の国民として認識されているのかななどと思ったりする。結局、国からIDが与えられていないからなのだが、いや、それがマイナンバーということなんだろうけど、持っていない人が一人でも居る限り、それは成立しない。マイナンバーを持っていないと行政サービスを一切受けられませんというような、冒険をする自治体は現れないのか。引っ越しても良いけどな、サービスが面白ければ。そんな気がする。

アスリート

現時点の五輪代表選手から、選手としては参加したいが、人間として開催するべきでは無いという、胸が熱くなる言葉をTVで聴いた。一部、いや、一人の意見とは思うが、思い切った発言だと、流石に世界的アスリートだなと感じ入った次第である。何が何でも開催すると、国民が支援する政党が推し進めるわけだから、まぁ、多数決の論理から言えば、実施するのが妥当ということになるのでしょうね。一方、世界に目を転じて、今年の7月までにコロナ禍が終息するのか、そして、日本で開催した時に、世界中から他様に変質したウイルスがやってこないということを約束できるのか?

昨年から急速に広まったIoT活用だって、最近はその活用率が低下していることが新聞等で報道されている。報道されている数字を信じてはいけない時代ではあるが、日本のIoT活用率の報道がそんなに沢山あるわけでは無いので、仕方なくそれを信じることになってしまうが、まぁ、昨年4月の緊急事態宣言時よりは帰宅時の地下鉄は常に満員で、明らかに人が出回っていることを実感している。出回っている一人として申し訳なく思うのだが、この調子で感染者数や無くなられる方が激減するとは思えない。

これまた報道によるPCR検査被験者に対する陽性率が減少してきていると、少しでもハッピーな方向への誘導が見受けられるが、ここ数日来に得られている数値は、日本における「お正月期」の罹患者でしょ?多くの皆様が職場には行かず籠っていたわけだから、そりゃぁ数値的には下がるわな。本来はもっと下がるべきだったのでしょうけれど、年越しイベントなどの報道結果が、昨今の「あまり下がらない数値」となって出てきているのでしょう。

最近の土日はマーケットで食材を購入するくらいのお出掛けで、雨となれば散歩もままならない。椅子に座って読書だの執筆だのと、血流が悪くなること甚だしい。「どろどろ血」は着座時間が長いと発生することが医学的に証明されているそうで、在宅勤務は小学校の時間割程度に休み時間を取るべきだなと思ったりもする。ついつい熱中してキーボードにしがみ付いてしまったり、活字を追いかけたりしてしまうのだが、コロナ禍以外にも健康上の危険は潜む。人が健康であってこその経済活動である。本末転倒であってはならない。アスリートの一言は重い。そう感じた。

公人

まぁ、またかと言うことなんだけど、有罪であっても議員を辞職するわけでは無い。議員と言っても人間だからと思うのだが、有権者の代表がルールを無視してはいけないのは当然だ。民度という言葉がいっとき流行ったが、それが低いのでしょうね。お辞めいただくのが宜しかろう。


脱私物化が公人の基本だ。ついつい私物化に走るのだが、精神的にそれを跳ね返す強さが必要だ。冷徹と言われようが、やらねばならない時があり、実行しか前に進む事が出来ない。いろいろ言うのは簡単だ。でも実行はなかなかやりきれないものだ。


出来ないのはやらないからなんだけど、人間には言葉があるもんだから、やる前から言い訳を考えてしまう。打ち明ける前に嫌われるのが純情と言ったのは所さんだが、やる前に失敗をイメージして進めない。未来の私物化である。


政治家なんだから、未来は民のものだと思っているのが当然だが、どうもそうでも無い。全体最適が出来ない人々の群れがいやらしい。皆さんの顔を直接見たいと、ウエブ会議を否定する流れが今もある。既に時代は変わったのだ。ゼロから数字を生むべきだ。それだけのことだ。

生きること

生きている内に最も尊いことは、間違いない、健康であることだ。健康とは何か?これは難しい問だが、命懸けで目指す方向に、がむしゃらに進めたら、それは恐らく健康だ。いや、へそ曲がりは、命懸けの方向が、まぁ、例えば、この国の様に、殺人ウイルスよりも皆で三途の川の向こうにGoToみたいな、そんなのではなく、人の笑顔に向かって挑戦できる国で有りたい。

最近、本当に最近、明後日に判定して欲しいから会議に参加して欲しいみたいな注文が来る。ちょこっと調べてみると国から支援金が出ていて、有識者を集めないとお金が国から落ちないから手伝えということで、全部断る。バカバカしいのだ。圧倒的に低次元な貴方に、何故、小生が仲間に貶められるのか。笑えるのだ。

化けの皮は必ず剥がれるのだ。この時期、やってくるのが卒業という単語だ。卒業出来ないのはおまえのせいだ。まぁ、正しいかも知れないけど、あんたには何も無いのか?多くの方はこれで吊るし上げられて、未来の挑戦権を略奪される。コロナ狩りだな。それをマスコミ等々、みんな認める。天下国家の方向が気に入らなくても、悪い奴らは糾弾せねばならぬ。

まぁ、いっか!笑顔は誰も奪えない。このやろうと、むきになるわけだが、こちとら、そんなもの、笑って過ごす。それが地球上に広がればいいのに。天下は、笑顔である。みんな笑顔になろうよ。そんな気持ちだ。

チャーター機

先週末のニュースなので古くてつまらないのだけれど、テニス全豪オープンのお話。『チャーター機』なのに感染してしまうんだと。移動前にPCR検査はあったのか?世界的なアスリートが集う大会に選手を集めるわけで、その為のチャーター機だったろうに、それでも感染するのねって、TVニュースを見ていてしみじみ思った。何の対応も無い満員の地下鉄で、市中感染が発生しない方がおかしいわな。

まぁ、全数チェックですみたいな工業製品でも、一定の割合で壊れてしまうわけで、それは「使い方が悪い」となるのだけれど、想定された使い方しかされない道具ってどうなんでしょうね。その昔、生徒の頭を叩いても壊れないように出席簿は出来ているんだと、S先生に叩かれながら怒鳴られた記憶が蘇る。まぁ、ネガティブなことばっかり考えていては進めないということもあるけれど、どんどん重症になる事例が多くなっている現状において、安全サイドに振るのは間違っていないような気がする。

日本でも漸く、政府サイドでワクチン云々の具体的なお話が出てきたわけだけど、変異し続けるウイルスに何処までワクチンが効果を示すのか。インフルエンザだって、型が異なれば予防接種なんて何の効果も示さないわけで、予防接種よりも環境改善というほうがましな段階にあるのではないか?ワクチン接種をしたかどうかをマイナンバーカードと紐づけするということは結構だ。積極活用するのが宜しい。でも、ワクチンが効果が無かった時には謎の情報になってしまうけどね。医療行為の履歴をこれから全て紐づけますってくらいにしては如何かな?

全豪オープンテニス大会に出場する程の選手の安全を守るためのチャーター機ですら、きちんとした対応は出来なかったという事実は、所詮、人間が小手先で作った安全対策なんて、サブμm世界の生き物には通用しないという事だ。謙虚であるべきだ。そう思う。

修正を厭うな

定量的なビジョンの無い企業に未来は無い。ビジョンがストーリーとして語られない組織に未来は無い。いや、今も無いかもしれない。既に存在価値が無くなっていることに気が付かないだけかもしれない。気付かないのは何故か?考えないからである。当たり前から脱却できないからである。

クリティカルシンキングとかロジカルシンキングとか、まぁ、いろんなことが言われるわけですが、筋道立てて論理的にということなんだけど、どうも、その筋道が「一本道」だと信じているんでしょうね、日本のお企業。これだけ世界のあり様が変わっているのに、今のままで良いとか、それが社風だとか言ってしまう。真面目で愚直みたいなのは残しておかないといけないけれど、その方向性は多面的仮説とその検証によって見いだされなければならない。

検証方法から考えては駄目で、どうやったらそれが出来るかというのは、理想的仮説の後から考えないと、検証できそうな仮説という、本来目指すべき方向から大きくずれる。ものづくり現場が「そんなの出来ない」ということから当初の理想が達成されない日本のものづくり業界の思考はまさにこれだ。逃げ道を作って挑戦という言葉を使う。挑戦には逃げ道は無いのですよ。無いから挑戦なんです。

ベンチャーもこれだろう。失敗するからベンチャーであるが、失敗したら後ろ指どころか将来まで否定する日本のあり様。良いものが出てくれば真似して安売りして共倒れに持って行く。仮説と検証。思った方向に行っていないのであれば仮説と検証方法を疑う必要がある。仮説と検証、そして修正。それを面倒だと思うならば組織は解散せざるを得ない。延命は必要ない。今、そんな時代であり、スピード感である。立ち止まれば終了。それだけだ。

歳入と歳出

歳入と歳出の差を黒字にしますよということで国会がスタートしたわけだが、何をもってそれを言うのか。某大臣殿の御持論は、平成19年度末において日本の対外資産が約1100兆円で、負債は約734兆円だから黒字でしょということなんだけど、その考え方で本当に良いのかしら?株価も堅調でいけいけどんどんの予算組で今年も進んでいくようだ。

確かに、次年度に関しては、コロナ禍で破壊的ダメージを受けた国家国民を何とかせにゃならんということかもしれないけれど、業界によってはウハウハなので、それらも含めた公助を考えて頂かないといけない。それは地方の些末な組織においてもそうで、「信じられない程金を持っている教員が居る」という赤門大学と鶴舞大学と同じでしょ?と言われても困るのだ。

アフターコロナ、アフターデジタルという言葉が躍っているだけで、様々、見ていても、結局、ビフォーに戻りたいという人達だらけなのではなかろうか?「どうしようも無い」&「出来ないから」という言葉が合唱され、「どうすれば出来るのか」という発言が抹殺されていく。ベンチャー云々は、ネット上での様々なファンドサイトで回っていて、東海圏の公的支援がどれだけアイデアの社会実装に役立っているのか?

国債をどんどこお札印刷所が買いまくって、あたかも価値ある紙幣の如くに動いているこの国だが、いつまでそれがもつのでしょうねと、予算発表の度にびくびくするのだが、負債が対外資産と同じになるまで、この調子を続けるのでしょうかね?踊ることなく地に足付けて一歩一歩。どんな時でもそれが身の丈である。それで良いのだ。