年末になると考える

インドネシア周辺は歴史的に巨大噴火が何度も発生し、それによって火山の冬が発生し、生命種の絶滅のトリガにもなってきた。東日本大震災以来と言っていいのか、単なる連続した歴史の中のどれをトリガと認定するかというだけなのか、それは300年後くらいの方々が評価するのだろうが、太平洋を覆っているプレートが大きく動いたのだから、それに連鎖して様々な変動が起こらないと考える方がおかしい。ジャワ島での巨大噴火はしょっちゅう起きてはいるが、ここ数か月間に亘る日本での噴火や地震活動と何等か関係があるのか、無関係なのか。宇宙から見たら極めてちっぽけな地球の上の出来事ですら、現代の科学力は理解できていない。

理解できないことは面白い事という事が、学者の生き様でもあるわけだけど、何故に日本は新しい挑戦を拒み続けるのか、そんな文化が何時から固定されてきたのか、想像はするが答えが見つからない。少なくとも、世界に類を見ない縄文土器や1万年にも及ぶ世界最長の文化を築いた縄文人の遺伝子は全く残っていないように感じる。あるいは、大陸から入ってきた弥生文化人によって塗り替えられたのか。こっちの方がなんとなく救われて、塗り替えられたのなら塗り替えすことは可能では無いのかと、例によって能天気な考え方をしてしまう。

天皇と言う階級が天武帝によって確立されたわけだが、少しずつの変化ではあったが、それまでの合議制から一人の言葉が集合体の方向性を定めるようになって、その権力の座に憧れをもつ連中に忖度が始まって、皆で生きるという文化が、自分さえ良ければという方向性に変わり、それが全ての方向性を決めて行く。地球と言う小さい星の上であっても、更にドメスティックなルールが支配していく。職場などと言うものもそうなのかもしれない。勝手気ままな独自な文化が生まれるのかもしれない。

大地の下で起こっていることは全く見えない。地上の事は人工衛星映像で何となくだか分かるようになってきて、分かったようになっているわけだが、そこに住まう人間の方向性までは天気予報の如くに予想できない。予想できないなら挑戦せずに、じっとそのままを保っていくのか。作られた支配階級にしがみ付いて、その階級を護ることだけに一所懸命だ。太陽と地球の回転で必ずやってくる明日を知らずに、今だけに留まる文化を選んでいるこの国。何を一体、どうすれば良いのか分からない。分からないから立ち止まるのか、分からないなりに、経験を軸に一歩を踏み出すのか。年末になるといつもこんなことを考える。いきなり富士山が大噴火するか分からない。その時慌てないように。準備をしておこう。そんなところだ。