路傍の石

恐ろしいのはそれが当たり前だと思ってしまうこと。他国の人の命をミサイルで消し去って、領土を蹂躙することを正義だとリーダーが言って、それを信じる国民など、まさにその事例だ。これは異例と言えばその通りなのだが、大なり小なり、それが充満していると感じる。これが当たり前のやり方だと思ってしまうと、それ以上、進化は無いし、また、その恐ろしさは、それを受け入れない人への排斥になってしまう。研究であれば、新しいアイデアを受け入れないと言うことになる。

ものづくりを延々と続けているわけだが、単純に、カッターの刃先のような、いわゆる「尖った」先端を、金属の棒に作り込もうとしよう。カッターは俗称「ハイス」と呼ばれる硬くしなやかな素材でできているのだが、これなどは砥石で作り込むことができている。包丁をイメージして頂ければ良くて、素材が柔らかいから、柔らかい砥石で仕上げることができる。金属にダイヤモンドが練り込んであったらどうだろう。砥石で擦っている間に、ダイヤモンドだげかごろっと落ちてしまう。ダイヤモンドと柔らかい金属の両方を均等に削るにはどうしたものか?

組織って恐ろしくて、ダイヤモンドを落とさずに、磨かないといけない。磨こうとしているのに、反発されて砥石が壊れてしまうこともある。こんなことが出来たら理想的だななどと、生意気にものづくりを進めてきて、最近、漸く、何となくだが、ものができるようになってきた。まだまだなのだが、狙った形が得られるようになってきた。「押してもダメなら引いてみな」と、その昔、白黒のブラウン管の向こうから聞こえてきたことを思い出す。柔軟な時代だったのだなと。

当たり前なのだが、これが絶対に正しいなんて形はないのだと思う。小学校の先生は、上流の石はゴツゴツしていて、下流になればなるほど、丸く角がなくなっていくと、人生を語った。たまたま、とある富山の海岸で、そんな丸い石の集まりのような海岸を見た。恐ろしい程に丸く揃ったその石の平原は、妙につまらなく、そして恐ろしく感じた。自分だけが異物であると感じた。それで良いではないか。組織にどっぷりの丸い石より、割れたばかりのフレッシュなゴツゴツの石でありたい。これからもそうあり続ける。それだけのことだ。