ビジョン考

ビジョンを描くのはとても難しい。常に想っていること、こんな風になったら良いなってことが誰にもあると思うのですが、それを誰もがこんな場に居たらこんな幸せな状態になるのになってレベル感になっていくと、ビジョンっぽくなってくる。「核無き世界」と為政者は叫ぶが、悲惨な状態を作り出すから核はダメという事なのだけれど、それでは発電は良いのですかと、ベストミックスと言う綺麗な単語でエネルギーを生み出す国の発言に説得力があるのか?

ピジョンの元にあるのが成し遂げたい目的、あるべき姿ということなのだけれど、これに関しても、そう簡単にゴール設定が出来るものでは無い。ご相談が多くある「弊社の工場の装置を使って、新しい仕事は出来ませんか?」というご質問に対しては「ありませんね」と答えることにしている。装置を使う事がビジョンとなってしまった方々に、誰かを喜ばせるという発想は生まれない。無理も無いのだけれどね。図面だけで生きてこられた日本だから。

中小企業が誕生した政策的なものを書面で学んだだけなので、真相は解らないが、仕事を与えお金を稼がせる仕組みとして大企業の下の中小企業と言うポジションにおいて、その源泉は大企業からの指示である。図面待ちと呼ばれる強固な体制が、活動し続けても粗利がマイナス、だから補助金という繰り返し。社会のビジョンを描き、利益が上がるものづくりをさせてこなかったこの国の仕組みにこそ、超赤字体質があるわけ阿が、日本株が上昇するという状態にバブルが恐ろしく感じられる。輸出赤字で株価が上がる。

「信頼」なんて単語はビジョンになり得ない。それは「当たり前」であって、幸せを誘発する願いでは無い。この当たりをはき違えると、似非コンサルに金だけふんだくられて、結局、何も目的を抱けないままゾンビ状態から脱却できない。ビジョンは定量的すぎると、叶ってしまう。叶わないからビジョンであるともいえる。目指す過程でどんどんと大きく成長していく。掴める夢は所詮小さい。掴めないから夢である。夢が大きくなるから苦難を楽しいと思える。その為のビジョンでありビジョンがあるから夢も見れる。寝てみる夢よりも起きて観る夢が良い。そう思う。