人災

これまた人災だなと感じたものに、大雨による洪水に工場の重油が混じって農作物を全滅させたという事件がある。九州地域はここ数年来、度重なる豪雨に見舞われ甚大な水害に遭っている。手塩にかけた作物が自然の猛威によって全滅することの悲しさは、その当事者に対しておこがましくて何も言えない。ただただその生産物の恵みを受けている国民の一人として残念ですと思うしかない。

単に真水が大地に覆いかぶさったというだけの事ではない。工場から重油が洪水に乗って流れ出し、大地の生命を奪ったのだ。これが人災で無くしてなんであろうか。これまた省庁得意の規制は無かったのかと、嫌いな規制に対して憤懣やるかたないのである。一年の実りを得る間近であっただけに無念さは言いようがない。

大地のバクテリアが重油を食べてしまうまでにしばらくは掛かるだろうから、次の作付けが何時できるか、その土地が食物を栽培するのにどれだけの時間を要するのかわからないが、バイオテクノロジー研究者の出番であろう。様々な知識で国難を乗り切って行くことこそ、今の日本に求められるところだ。是非、そのような挑戦に補正予算を組んで欲しいと願うのだが、新聞を飾るのは戦闘機の価格のみである。

お盆の最中、台風10号が中国地域を縦断したわけだが、台風がじゃんじゃんやってくるのはこれからである。台風シーズンとかそんなことお構いなく、豪雨災害が頻発している。なんでもインド洋からの熱気が日本までやってきているらしい。その昔に習った気候風土を、もう一度、学び直さねばならぬと、科学技術のみならず、地球環境においても最新知識が欲しいなと感じる、豪雨災害であります。

AM放送終焉にて

ラジオは携帯で聞くものだと感じている。NHKの朝の番組を聞きながら職場に向かうのが日課になっている。真実が語られているかどうかは自己判断なのは、いかなるメディアに対しても同じであって、「日本」誌を信じて戦争に突っ走った愚は繰り返してはならぬ。自らの判断で、大局を判断し、前に進まなければならない。単なる批判に乗ってはならない。これはどんなメディアに対しても同様である。

話が大きくなってしまったが、AMラジオ局の経営環境が劇的に悪化していて、AMシステムを遮断したいという悲痛な叫びを、漸く、総務省が受け取ったらしい。NHKだけは国内基幹放送を行うと決めたとのことだが、そりゃぁ、財源がありますからね。勝手な言い分だなと思いながら、非常用、手回し発電&太陽電池発電式の、非常用ラジオを捨てずに済んでほっとしているのは事実である。

5G放送が米国では本格的に始まり、完全に水をあけられた日本の状況で、国民として最先端技術に置いてきぼりを食っている感満載なわけだが、AMラジオ局が消えていきますよというこれまた寂しいお話だなと感じるわけです。とても広い電波領域がぽっかり空いてくる。折角だからこの周波数帯を使った新しいサービスを誰かやらないかなと思ったりもする。

AM波は建造物内に侵入しにくく、地下街で楽しもうみたいな事には向いていない。様々な理由があって消えていく技術である。いい加減なモノづくりの結果消えていくわけでは無い。割れる台車とは意味合いが違うのだ。それにしてもふと思うのだ。どれだけの人がFMチューナーを専用に持って、オーディオ機器などに接続し、聞いているのかと。小生は化石人だから当然持っている。ラジオは永遠の友達であって欲しいと、オーディオファンとして願っている。

堕落の象徴

8月の終わりの頃のニュースで、南海特急ラピートの台車に30cmの亀裂が見出されたという記事を見た。本来であれば大騒ぎになっても当然と思うのだが、ニュースバリューが今の日本では無いという事か、大した騒ぎになっていない。大量輸送機器の足回りの「割れ」である。これが重大ニュースでなくてなんであろうか。ほぼ、騒ぎが収まったら、御堂筋線で、同じ会社が製造した車台で割れが見つかった。

その申請を受けた国の運輸安全委員会は重大インシデントに認定しなかったとのこと・・・日本の工業製品に対する認識が確実におかしくなっている。地下鉄に乗っていて、いきなり車軸が折れて、数秒で停止するとしたら、どれだけの運動エネルギーが解放されるのか。乗客は宙を舞い、壁や支柱にたたきつけられ粉砕するだろう。そのきっかけとなる状況を「重大」とは認めないのが日本らしい。

割れていいんだと思ったら、どんどん割れる製品を作るだろう。何故、米国ビックスリーが地の底に堕ちたか。あの会社がこのレベルの製品で売れているから、うちもそこまで落とそうよ。その落とそうよ合戦の結果、気が付いたら誰も買わない車になった。売れていたのが日本車だから日本を叩こうとなったわけだが、工業の基本は安全である。当たり前の話である。

モーターを支える部分で亀裂があったそうだが、極めて重量の大きいモーターが、もしも走行中に脱落して、民家の屋根でも突き破っていたら・・恐ろしくて想像も出来ないが、モノづくりとそれを管理している団体の堕落さには得も言われぬおぞましさがある。これが日本なのだなと寂しくなってくる。堕落してはならぬ。そう思う。

出張に想う

旅芸人程では無いにせよ、動き回っておりますな。まぁ、お仕事ですから当然の事なのですが、移り行く季節を車窓から感じる、そんな一時を味わうなんて旅をちょっとはしてみたいと思うようにはなってきましたな。人生も残り少なくなってきて、どれだけの事が出来るのかさっぱりわかりませんが、オーバーレブしているのは感じます。そんな毎日ですよ。

最近の大学は8月、9月が講義はお休みで、まだ半分が過ぎたところではありますが、小中高校生は既に夏休み明け。まだまだじめじめ暑い中、もっとゆっくりさせてあげれば良いのにと思ったりします。最近では夏休みは嫌いだという小学生が増えているそうで、家に居るとつまらないということなんだそうですが、小生のガキンチョの頃とは随分と変わった世界になってきたのだなと、ちょっと残念だったりします。野山に行って遊びまくれと言いたい。

昨日のHP電卓ではないですが、モノの良さというか、品格というか、そんなモノの質感を感じ取ることが出来るためには、自然の美しさに感動できるセンス、人の丁寧な仕事に敬意を表することが出来る気持ちの醸成が必須であり、それはゲームいじりでは身に付かないものだと思っています。古い人間ですからね。

AIがどんどん進化して、社会生活の中におけるジャッジを任せることが出来るようになってきたら、いや、既にそうなっているのかもしれないけれど、古い人間ですけどねなんて考え方は許されないというか、社会悪の元凶になっちゃうんでしょうね。そうなった時に何をさせて頂けるのだろうかと悩むことは悩むのですが、その時でもはっぱり丁寧にじっくりとモノを創って人と繋がりたいと、心の何処かで思っているんですよ。様々な出会いに納得はあったのか?そう悩み続ける4日出張があった今週の私であります。

HP電卓

逆ポーランド法電卓として親しまれているHP電卓。と、言ってみても恐らくだぁれも知らないかも・・小生が田町の高校生だった頃、生協で10万円もしたウルトラ高価な電卓で憧れの的でしたよ。ガシガシしたキータッチというか、ぼきっ、ばきって感じで、プログラミングも出来るというか、それが売りの機械だったと思います。大学に入って欲しかったけれど、余りにも高価すぎて、計算尺とカシオ計算機の組み合わせで生きておりましたな。クロックアップしたりなんかして、まぁ、そんな時代でした。

最近は携帯のアプリでHP48のエミュレーションツールを使わせて頂くことが多いのですが、引き出しにはHP50電卓が控えていてくれています。エクセルシートで数値を入力して関数処理というのも便利ではあるのですが、何となくというか、もう数十年付き合ってきているのでHP電卓の結果を信じて、それと合致したらエクセル演算も信じるようにしています。

原子核同士の衝突距離を求めるとか、まぁ、普通の人は決してやらない計算を普通にする人なので(最近はやらないけど・・)HP電卓はとてもというか、絶対的標準なんですよ、小生にとっては。そんな信じられる友達というか、相棒というか、これ無しでは生きられないみたいな電卓で、そんな商品開発が出来たら素晴らしいなと思う原器でもあります。

ガマの油売り大学の研究室に一台置かれていて、流石大学の研究室だなと、とても嬉しかったことを思い出します。1974年にプログラミング電卓を世界で最初に手掛けたHP社でありますが、未だに電卓を作り続けているという、世界の電卓戦争の覇者と言っても良いかも。今、どれだけ世の中に販売されているのかわからないですが、電卓というアナログチックで手の中に納まる優れた機械を創り出す企業にはこれからも頑張ってほしいなと思う次第です。質感を電卓に求めるのはどうかと思いますが、品格を感じる機械はやる気を出させてくれると、そんなものづくりを小生もしたいなと意識させてくれる、そんな逸品ですな。

食料自給率

農林水産省が食料自給率を公開している。お上のホームページなんだから本当なのだろうと信じるしかない。所謂客観データであると信じるべきであろう。戯言とは大違いだ。それによると、昨年度のそれは、天候不順で小麦と大豆の国内生産量が減少し、カロリーベースで37%となっている。1人1日当たり国産供給熱量(912kcal)/1人1日当たり供給熱量(2,443kcal)=37%ということだ。

一人が一日辺りで2443kcal分働いていることになるそうだという定量的な数値で割り出されているところも面白いなと感じる次第。椅子に座って会議に出て、それだけの生産をさせて頂いているかは疑問だが、国民としてはそれだけ活動しないといけませんよと言われているようでやや辛い。まぁ、それはほったらかしておくとして、明確な数値が出されている中において、米不足で急遽輸入して補った年並みの食料自給率なのである。

日本の国は戦闘機などは喜んで購入しているわけだが、国民を本当に救ってくれるのは食料である。サンマも不漁が続いているようだが、食料自給率は低いけど、諸外国から買えれば良いと思っているのでしょうね。農業産品輸出が盛んな国々が、温暖化の影響を受けて不作が続くようになっても、快く他国へ輸出してくれると安心しきっているところが恐ろしい。

身の回りでリタイアされたかた、あるいは、若くして農業に従事される方が増えてきている。株式会社的農業従事と、未耕農地を借りて趣味の延長で作物を生産されていらっしゃる方々であるが、郊外を自動車で走っていると、農地がどんどん宅地化していく様に背筋が寒くなる。食料自給率向上という政策を掲げる政治団体も居ないこの国に、本当に未来はあるのだろうか。

ハーメルンの笛吹き男に思う

グリム童話でおなじみのハーメルンの笛吹き男のお話は、世相を反映していて実に興味深いと感じている。あくまでも小生はそう感じているということで客観的に何かを語ろうという事では無い。童話のお話は「お金を上げるからネズミを退治してくれ」という町民からの依頼でそれを請け負った笛吹き男が、笛を吹いてネズミを溺死させたのに、町民は笛を吹いただけではないかという言い掛かりを付けて、対価を支払わなかった。それで笛吹き男は130人の子供を連れ去ったというお話だ。

1284年6月26日に生じた、人口2000人の城壁都市から130人の子供が一夜にして消滅するのだ。明らかになっているのはこの事だけであって、子供達の消息は不明ということになっている。具体的な資料としては事実のあった日から100年後に口伝を書面化したものだけである。ねずみのお話は全くなく、城壁外からやってきた男子が笛を吹きならして子供を連れ去ったという記載が残っている。

丁度、ヨーロッパでは飢饉や疫病による大量死の時期と重なるので、様々な憶測が飛んでいるわけだが、子供達がその後どうなったとか、何よりも何故そんなことが起こったのか全く不明のままであるが、事実は子供が130人いなくなったという事と、今でもハーメルンの街には音楽等禁止の通りがあるくらいだから、笛吹き男は居たのかもしれない。

何が言いたいかというと、情報が正確に伝わっていかないと、社会に不信感を持たれるなということである。組織として何処に向かっているとか、事実として何が発生したとか言う事を議事録をしっかり残し、つまびらかにしていく今の機構の推進会議のやり方を堕落させては決してならないということだ。どんどん改革を進めなければならない。「報連相」がおろそかにならないようにと思った、ハーメルンの笛吹き男であった。

生涯スポーツ

100歳現役人生と叫ばれているわけだが、その根底には精神と肉体が健康で健全な状態にあることであろう。ドライブレコーダの普及であおり運転が注目されているが、あおり人生を食らっているようでなんだか厳しい。一つのミッションをこなすと、確実に厳しいミッションが襲ってくる。ミッションのドミノ倒し、あおられ続けてどこまで耐えることが出来るのか?

食は勿論だが、体を動かすことの大切さを体育講義で毎年認識する。生涯学習とか、生涯スポーツとか言われるわけだが、昼間に行われる講義で練習場に出向くと、昼日中にご高齢の方々が力みのないスイングで真直ぐにボールを飛ばすその技量に驚くと共に、その健康振りに感心する。運動時だけではなく、食事の際の笑顔に感動するのだ。

工学者である以上、常に発展的思考をし、新たな発想に至ることが求められるわけだが、その為にはスポーツはとても優れていると感じる。企画、立案、実践、評価の繰り返しは、正にスポーツ競技の中では定常的に行われることであって、体験学習としてこの上ないものである。

友人達と助け合いながら競技を続けていくうちに、自らの頑張りがチームそのものの強みになっていることに気付き、それを喜びと感じ始めることに触れられることは、コーチとしてこの上ない喜びの瞬間である。マナーやエチケットという生活環境の中で必須の事柄も、自然と理解し納得していく様は、教育者として存外の喜びであった。メンバー諸君に感謝である。

異界は何処に?

子供の頃に周囲の者から所謂異界の話を聞かされ脅された者は、生涯、その恐怖を抱き続けるのだという。侍は5歳まで、決して異界の話を聞かさなかったそうだ。侍ほどの者であっても、いや、だからこそ、異界は恐れるべき世界であったのであろう。刀で切れないその相手は、あってはならないものであろう。

人知の及ばないことは、人の手によって発生することは無い。もしも何かわからないことが生じることがあるとすれば、それは単に理解出来ていない出来事なだけであって、異界の仕業であることは無い。だから努力によって解決される。これは人の世の在り方である。

競争を強制され、戦いを強いられ、人の気持ちが獣化していくと、それは異界の生き物になっていくということなのかもしれない。組織が大きくなればなるほど、組織的戦いを強いられる。疲れ果て、人の心が薄れていくと、もうそこには乾いた異界の者のやりとりだけが残る。

どんな状況に追い込まれても、そうはならない人も居る。この人がどのようにして構築されてきたのかそれは謎であるが、それも人が相手だから成せる業である。魔物は怖い。しかし、異界は無い。あるのは人の世の魔物である。浮世の鬼である。退治するべきは人ではない、人の心の鬼である。組織が鬼を作り人がそれを退治する。なんとも恐ろしい世の中だなと、出来損ないであっても人でありたいものだと心底思う、私であります。

人間ドック

病院というところは、人の魂と肉体が分離する確率が、どっかそこらの喫茶店に比べたら格段に高いところだ。生きている人達の集まりでは何とも感じないが、亡くなってしまった、例えば親であったとしても、何かしら異なる世界の人なのだなと感じてしまう。縄文時代の世界観は忘れてしまったので魂の輪廻を信じることは無いのだが、感じることはある。

誰でもあるとは思うのですが、デジャブ―というか、これって何処かで体験したのではと感じることってないですか?病院においてそれがしばしば起こる。起こると言ってもそうそう病院などには出掛けないから、滅多に感じることは出来ない。病院に向かっているときから、何故かそこを歩いている、無意識に病院に近づいている。更衣室で一人で着替えていると、必ず誰かがそこに居る気配を受ける。

廊下を歩いている時など、必ず誰かが隣に居る空気を感じる。波動となって現れる。病院などには行くものでは無い、そこから出た時の安堵感たるや半端ない。病院は小生には似合わない。似合わないが、この年齢になると、人間ドックなる強制収容所にも似たところに年に一度は通わねばならぬ。通うと謎の目線に出会う。

結局は自分の気持ちの持ちようであるから、何があるわけでは無い。何かあるとしたら、それは命がもたらすモノだろう。命が亡くなった肉体に、何か、異様さを感じてしまうのは、既に気持ちが通じなくなっているその状態故であろう。人同士であれば恐らく気持ちは通じるのだろう。そんなことを想いながら、今年も健康診断の追試で病院に出掛ける羽目になった。段々、あちらの世界に呼ばれている。そんな気がした。