遥かなるがらんどう

週間掃除ネタということではないのだが、古い紙媒体はドキュメントスキャナを用いてどんどこ電子化していっている。ドキュメントスキャナを使い始めたのは相当に古く、既にソフトウエアなどはメーカーサイトからダウンロードできない機種まで現役で生き残ってしまっている。取り敢えず動く限りは使ってしまおうということなのだが、セキュリティホールになったらまずいなとは思いながら、それなりの価格がする機械だからおいそれと交換できない。

機械のお話では無くて、スキャンする紙のほうのお話。博士課程学生の頃からの古いファイルケースから出てくる、語るも涙の古いデータ達。方眼紙に1mmごとにプロットしてあって、それが精緻に並び、誤差範囲を考えてもぶれることなく、整然と並んでいる様を見て、丁寧に研究を重ねてきたなと、我ながら感動するのだ。光記録の原点になる奇跡のナノ秒領域の振動波形など、涙が滲んでくるほどだ。

まぁ、そうなんだけど、それを価値と感じるのは自分だけで、あの世迄その感動を引っ張ることは出来ないわけだから、スキャンしたらあっさりと廃品回収に回すのだ。それで良いのだ。想い出は必ずゴミになるというやつで、どんどこ思い切っていくわけだ。スキャンするのが面倒なものは、そのまま束ねてさようならである。

什器の廃棄の時点で停滞してしまっているのだが、それもまぁ、進んでいくでしょう。それにしても25平米の部屋をがらんどうにする事の大変さに参ってしまう。30年ため込んだ結果なのだが、前の職場から持ち込んだ書類までもが立ちはだかってくる。終活は大変である。早め早めが肝心だね。

環境

工場見学をさせて頂くと感じる事なのだが、ミクロなオイルが舞っているなと。コロナ禍が始まった頃に、いろんなシミュレーションが展開されていて、中華料理屋さんなどで、厨房の空調の場所を変えたら気流がどうなって、ウイルスはどうなって、調理における水蒸気やオイルミストがどうなってという報道がなされていた。曰く、オイルミストを室外に完全に送り出す空調は無い。

オイルミストの表面活性は高く、物質に触れれば吸着するし、密度が上がれば合体もする。隙間があれば環境に漏れ出してくる厄介者だ。その発生源があれば、必ずそれは拡散して、何かに吸着して異変を発生させる。床が滑らないからこの環境にはオイルミストが無いということではない。少ないというだけだ。その少なさの影響を理解せねばならぬ。

大気1リットル当たり、2.69X10^(22)もの分子があるのだ。仮に、オイルミストがppmオーダーですよと言ったとて、大略、10^16個/リットルもあるのだ。あっという間に表面を覆ってしまう。ビニール袋でカバーしたよと言ったって、そのビニール袋にオイルミストが入っているでしょということだ。清浄環境を創り出すのは極めて難しい。

この季節では黄砂が舞い、オイルミストどころでは無い。気管支炎も気を付けるべきという濃度のミクロな砂が舞っている。発生源から遠ければ遠い程、大気分級によって細かい砂塵となって襲い掛かってくる。オイルミストも同様で、発生源から遠くなればなるほど、ミクロなミスト粒子が舞ってくる。ものづくりは難しい。環境を整えるとはどういうことか。考えねばならない。

お屋敷にて

鶴舞大学の周辺は古いお屋敷が密集していて、数年前から更地化と新規建設が続いている。通勤途上において、素敵だなと感じていた木造住宅が取り壊されはじめた。段々と外壁が剥がされ、間取りと言うか内装が見え始め、床の間等々、立派なお屋敷で勿体ないなと、毎日の事、経過を眺めていた。

昨日、いよいよ更地になったなと眺めてみたら、隣の住宅が良く見える。回り込んでみると境界となっていたブロック塀が根元からばったり、一枚岩となって倒れ込んでいた。ぎょっとしたわけだ。神戸震災の際、倒れるかもしれないブロック塀を点検して、倒れて人が下敷きにならないようにとのお触れがあったような気がしたのだが、古い住宅の奥にあるようなところには手が入らなかったということだろう。工事中に人災が無かったろうか?心配になった。

ふと、組織のルール等々、眺めてみると、善かれと思って創った特別ルールの継ぎ接ぎになって、根本から改定するべきところがそのままになっていたりすることもあり、これはまずい。鉄筋が土台から立ち上がっていないブロック塀と同様ではないか。新しい作り込みということの難しさを感じたのだ。手が入らないからそのままにする。面倒だからそのままにする。

人のやること、誰かが責任をかぶらねばならないこと。責任をかぶれば宜しいだけの事だ。気が付かないことは難しいが、気が付いても「面倒だから」と隅に追いやっていることは無いか。すわ一大事に下敷きで圧死ということにならないか。倒れた瞬間に居合わせたわけでは無いので、その惨劇は妄想するしかないのだが、万が一は起こるものと考えて行動するべきと、自分事と考えたお屋敷の解体であった。

展示会にて

先週、ポートメッセで行われたものづくりワールド名古屋に出掛けてきた。会場内でとてもお世話になった方にもばったりと出会い「大学の椅子に座っているようではだめだ。出歩いていること、良し!」とエールを頂いた。まぁ、定年まであと少しだが、外回りを積極的に継続していこうと。そのポジションを活かすうえでも、職場の外の窓口として活動せねばと意を強くした。

そんな当たり前のことを言いたいわけではない。会場を巡って感覚的に感じたことなのだが、一つは出展社数が減ったなと言うこと。もう一つは中国や台湾、韓国からの出店がべらぼうに多いなと言うこと。円安だから日本の主要と思われる展示会への出店の敷居が下がっているということもあるでしょう。いや、それだけではない。

ブースに並ぶものを拝見すると、その出来具合は、近隣の日本からのブース上の品質と全く変わらない、いや、アイデアと言う点では先へ行っていると感じる。日本のカンコツ対DXという感じがする。顧客の声に寄り添って、カンコツでそれに丁寧に応えるという日本のうたい文句だが、その文末には必ずと言って良い「廉価・短納期」が躍る。

差別化できる良いものに対して値下げ要求などせず、その開発にリスペクトする海外と、何が何でも値下げさせ、技術を生み出す知恵をリスペクトしない我が国製造業。この行く末は見えている。3D技術にしても、相変わらず機器は海外製が主力である。また、それを用いたキラーアプリケーションの提案も無い。工学部教育を根本から変えないといけないのではと思うのだが。はてさてどうなることやらである。

空き地造成計画中

居室の大掃除の第一ステップKPIを達成できそうなところまできた。一度でも小生の研究居室を訪れた方がいらっしゃるとすれば不可能と思われる机とテーブルの撤去なのだが、どうも、それが現実味を帯びてきた。凄い事である。ただ、昨年暮れから少しずつ開始していて、それが漸くここまでかと呆れられそうだが、まぁ、そんなものである。

どんどこモノを撤去していくと、その下から歴史的遺物が湧いてくるのだ。遺物なのか異物なのかは難しいところだが、なかなかにして楽しい発掘である。ただ、いきなり廃棄と決断できないものが、他の場所に引っ越ししているだけなので、そちらもやっていけていかないといけない。

発掘数からいうと、クリップ類が圧倒的に多数を占める。そこかしこから湧いて出てくる。如何にDXが成されていない環境にあるのかが、この紙を束ねる道具の数によって明らかになるのだ。一つの部屋の、一つのテーブルの上からだけでも無限に湧いて出てくるのだ(やや大げさ表現)。事業所全体には一体、どれだけのクリップが存在しているのだろうか?

紙資料をスキャンする際に外すホチキスの針も大いに不快である。紙を神格化して資料を作れば作業はおしまいということが慣例化してきたことの表れであろう。まだまだ戦いは続くわけだが、一区切り迄到達したい。そんなところだ。

noteにて

noteというネットツールというか、知恵の発信源と言うか、公のたわごと?の場というか。そんなものにもちょっかいを出し始めた。始めたからには続けないといけなくて、面白がって続けられる内容にしないといけない。所詮、小生の戯言であるから、読者が現れるとは思えないのだが、そんなこともやっているとということを喋っているわけだ。

技術経営に限った戯言なのだが、例によって書いている内に過激になるのだ。それがいかんのだが、どうしようもない。面白がっている内にかっかしてくる。習性である。その内に収束するのかどうかは分からないが、今のところカッカし続けている。

旧来の技術経営って今ある技術を活かしましょうみたいな、コンサル業向けの収入源みたいなもので、役に立った事例はごくわずかの気がする。それを打ち破るMOT2.0を提唱しているわけだが、提唱しているだけで、教え子がわずかしかいないから、もうちょっと増やしていこうというところだ。

有償の講座をそのまま無償でばらまくと、パートナー氏が発狂するのが恐ろしいので、それは避けることにしている。そもそも文字だけだしね。パワポ資料だって見ただけでは絶対に理解できない状況を文字だけで提供している。書いている当人は書くことで確実にスキルアップしている。自分用の実践道場である。

散り際

大雨で散った桜を懐かしみながらというか、来年を楽しみにしようというか、ソメイヨシノの見事さだなと、豪快な地理際に「こうありたい」と思うのは小生だけではないだろう。見事な散り際と言えば、ピンピンコロリだろうが、これはなかなかにして難しい。

例によって研究室の大掃除のお話になるのだが、数年来、通電させていなかった機械が反応しなくなっていた。いろんなものの下敷きになっていて、存在すら忘れてしまっていて、電源を入れても無反応。箱を開けてみるとガラス管ヒューズがあり、その両端が湿って白く濁っている。錫メッキが酸化して半導体状態となっている。これでは起動しない。

ケース内部の鉄のネジにも錆が来ていたから、湿度がそこそこ溜まってしまっていたのであろう。通気口を塞いてしまっていたことと、通電して温度を上げなかったことが要因であろう。磨いてスイッチを入れると元気に動き出した。これなどはピンピンコロリではなく、病床からの復活というところか。

天気予報を見ていると、どう見ても梅雨前線と思わしき空気感であるが、大雨が峠を越えるということは、梅雨では無いということか。四季を感じなくなってはいるが、桜だけは春を想わせてくれるのだが、その期間の短さが気候変動かと思い込んでしまう。往生際を綺麗にしたいものだと思うのだが、こればっかりは難しい。そんな想いで散り行く桜を眺めた。

変容の受容

周辺事情が変化してきて、お仕事が本来の姿に戻って来た。リハビリ期間中であるので、勘が戻らないというところもあるのだが、まぁ、なんとかなるでしょう。常に背水の陣で戻る船はぼうぼうと燃やしてしまったわけで、戻る気はさらさらないのだが、前向きな人脈を断ち切ったわけでは無く、丸木橋くらいは落としてはいない。

安定は嫌いである。安定は無精に繋がり、新しきを生まない体制に向かっていく。真っ赤に焼けた鉄板の上を突っ走っているのが宜しい。考えてみると良い。身体からは常に水分が放出されているわけで、焼けた鉄板に足が降りていく瞬間、それが膨張し、身体を浮かす瞬間があるだろう。鉄板に触れずに走れそうだ。

まぁ、実際にはそんなことは出来ないのだろうからやりはしないが、そんな気持ちでじたばたしていれば、何かが起こるに違いないということだ。何かに気が付きそれをトリガにして進めばよろしい。気付きのトリガ程、有難いことはないのだ。

25℃を超える夏日が来たかと思ったら、雨がやってくる。気象庁によれば今年の菜種梅雨は南海洋上の水蒸気が梅雨時並みに多く、梅雨と等価の雨を警戒するべきという事らしい。強い雨で桜も散るのか。それも外的刺激に耐性が付いた桜誕生のトリガなのか?変化は有難い。そう思うべきだ。

祝入学

名古屋市の小学校は入学式だそうで、ちょっと天気が下り坂で、濡れる初登校でなければ良いのだが。なにがしかは覚えているが、明瞭に思い出せることがかなり少なくなってきてしまっている。記憶の隙間が出来たということだから、新しいことを産みだして記憶すれば良い。誰かと同じ道を歩むつもりはさらさらない。二番煎じはまっぴらごめんだ。

流石に、地下鉄の始発に制服姿の小学生に出逢うことはまれだが、制服などと言うモノに縛られたがきんちょというのは、もう、それだけでアレルギー反応である。かぶけとは言わないが、同じゲームで点数を競ったり、我先に座席に駆け込んで座り込む同種性を見ると、将来は派閥でも作って、やっぱり同族性を発揮しているのかなと、弥生時代の遺伝子を感じるわけだ。

将来、どんな仕事を選択するのか?どんな仕事が、今日の入学生にあるのだろうかと、大卒まで16年先、それすらどうなっているのやらなのだが、どんなお仕事があるのか、その有り様も想像できない。想像できないから無理やり考えるのだが、それが愉快ではないか。答えなんていらない。いずれ将来が不安に思えるようになってくるだろうが、不安にならないのは学びが足りないからだ。

「学びなさい!」とエールを送ろう。足元を見ていると本当に学ばない。何故?と思う程に学ばないのだ。学ぶことがあるのは素晴らしい。不安と言う思索にふけるのは学びつくしてからで十分である。温暖化が進み、熱帯性の日本になっているのかもしれない。生活の有り様が変われば商売も変わるだろう。どんな仕事で三方良しを叶えているのだろうか。20年後、小生にとっては見ることが出来ない未来だが、それを作り出してくれる諸君に喝采を送る。堂々と歩んで頂きたい。

暗視野

人は気持ちを落ち込ませる生き物であるから「暗い気持ちになる」というのは自然な事である。自然であるのだから落ち込まないように努力するなどというのは不可能に挑戦する愚かな行為である。明るく楽しく感じられることに挑むというのは気持ちが一点集中、精神のエントロピーを極限まで下げる行為であるから、そう簡単に実現はしない。あれこれと悩む状態は、熱力学的に安定な状態であるのがいやらしい。

駆け込み寺担当となると、いろんな方の悩みが襲ってくるわけで、聴いているだけでどよんとするのだが、お話をお伺いすると人の世の切なさというか、全く世情は成長しないなと感じるわけだ。辿ってみると老人力の破壊的精神構造が、旧態依然万歳と叫ぶことに、若者が挫けていく構図が見えてくる。

どこぞの知事殿では無いのだが、強大な老人力を背景に我が国の発展に待ったをかけるとかね。老人力の恐ろしさは、SDGsでは無いのだけれど、それが絶対に正しいでしょ?と、それを批判すると批判した側が悪と感じる世論を獲得することにある。知力はあっても背後霊力を持たない若手は心を折っていく。

心は折れるのだが、折れた箇所は、骨折とは違って以前より強くなるなどということは決して無い。暗い淵から立ち上がることなど出来ようが無い。だからこそ、誰かが耳を傾ける必要があるのだが、耳を傾ける者の価値観が、弱音を吐く人の価値観と方向性がマッチしていないと伝わらない。価値観の相違者が相手だとエントロピーが更に増大するだけだ。何が言いたいわけでは無いが、そんなことがありましたよという、年度の変わり目の出来事である。