暗視野

人は気持ちを落ち込ませる生き物であるから「暗い気持ちになる」というのは自然な事である。自然であるのだから落ち込まないように努力するなどというのは不可能に挑戦する愚かな行為である。明るく楽しく感じられることに挑むというのは気持ちが一点集中、精神のエントロピーを極限まで下げる行為であるから、そう簡単に実現はしない。あれこれと悩む状態は、熱力学的に安定な状態であるのがいやらしい。

駆け込み寺担当となると、いろんな方の悩みが襲ってくるわけで、聴いているだけでどよんとするのだが、お話をお伺いすると人の世の切なさというか、全く世情は成長しないなと感じるわけだ。辿ってみると老人力の破壊的精神構造が、旧態依然万歳と叫ぶことに、若者が挫けていく構図が見えてくる。

どこぞの知事殿では無いのだが、強大な老人力を背景に我が国の発展に待ったをかけるとかね。老人力の恐ろしさは、SDGsでは無いのだけれど、それが絶対に正しいでしょ?と、それを批判すると批判した側が悪と感じる世論を獲得することにある。知力はあっても背後霊力を持たない若手は心を折っていく。

心は折れるのだが、折れた箇所は、骨折とは違って以前より強くなるなどということは決して無い。暗い淵から立ち上がることなど出来ようが無い。だからこそ、誰かが耳を傾ける必要があるのだが、耳を傾ける者の価値観が、弱音を吐く人の価値観と方向性がマッチしていないと伝わらない。価値観の相違者が相手だとエントロピーが更に増大するだけだ。何が言いたいわけでは無いが、そんなことがありましたよという、年度の変わり目の出来事である。

夢見ようよ

自分の行き先が、何か、ぼんやりした空間だなと感じていると、人は不安に思う生き物かもしれない。小生的にはほんわかして、適当で良いではないかと思うのだが、ゴールテープというか、そこに到達しましたと言う境界線を欲するのかもしれない。何でこんなことを思ったかと言えば、何か、小さくまとまった国だなと感じたからだ。

GDPを大きくしなければと内閣府が何かを考える時に、そうだ、ベンチャーだとかね、目先にあるツールを使えば何とかなるだろうみたいなことを考える。そんなにうまくいくはずは無いのにだ。ディープテックに撒く金を増やせばすぐにアイデアが出てきて、ユニコーンが生まれて、外貨がじゃぶじゃぶと入ってくると思ってしまう。そんなわけは無いのだ。

夢を見ろと言うけれど、夢で終わってしまうと失敗者のレッテルを貼って、二度と立ち上がれないような雰囲気を作り出す国民性において、真の夢など見ることは出来無い。経験があるが「偽善者!」と大声で罵られて、あらぬ噂を立てられて、苦しい思いをさせられる、そんな国だ。

個性尊重とか言い始めているけれど、政治家が変わらないからね。男性の老人が牛耳っている社会において、呪詛の飛ばし合いが政治の方向性を決めてしまっている。世界の中の一つの国家でしか無いのに、個人の感情に引きずられて国の方向性までが決められてしまう。愚かなことだ。それでもゼロから数字を生み続けようと奮闘していく。それだけのことだ。

18歳人口について

令和元年に117万人台だった18歳人口が、令和6年には極端に落ち込んで106万人台である。来年は109万人に上がり、それが令和8年まで続き、その後、令和15年には97万人台となる。令和22年くらいまでの推計人口はかなり正しく読み解けるので、各大学の入試改革、構造改革を求めてくるのは当然である。夫婦同姓なんていう世界唯一の法律を振り回しているようでは、受験生全員が佐藤さんになる日も来るのだろう。

昨日、大学改革というけれど、何を目指したのかと問われたので、それは「基礎研究において科学研究費を獲得して頂ける大学」を目指したとお答えした。小さいけれど、研究の乗り出しは出来る程度の学内再配分経費を若手中心に設け、それを活用して頂き、そして、ハゲタカジャーナルを除いた雑誌に投稿して頂ければと思った。日本語のペーパーでも投稿して頂き、広報される仕掛けも作った。

鼬の最後っ屁的に、研究者ごとの論文業績の公開なんちゅうことをやってみたが、強い賛否を頂いて、意識は御持ちなのだなと、気持ちが届けばそれで良いと思う事とした。基礎研究が無いと、将来のオープンイノベーションの種が生まれない。もっとも、企業の皆さんが新規事業構築に向けたチャレンジをされる国であることが前提なのだけれどね。

5年~10年後に新規商材が市場に出てくるとして、18歳をターゲットとすると、大略100万人規模の購買層ということになる。平成4年には204万人だったのが、100万人の減となっているわけだ。世界をターゲットというだけでは無く、我が国の若者が夢と希望を感じる商材を適正価格で生み出し、こんなに素晴らしい国!と驚くような流れが起こらないと、人口反転は起こらない。大学人は基礎研究を創造するべきだ。

新年度

4月である。年度が進み、令和6年度ということになる。だから何だということは無いのだが、お役目が変わり、注力するところが変わってくる。例によって全力であたるので、よろしくお願い申し上げます。

足元を見ると、昨年度末より続く、居室の大改修を進め続けている。第二フェーズと言うか、増え続ける方向性であった室内物品を、とことん絞り込み、それもどんどんと減らす方向に向かう。第三フェーズ突入を連休後に設定したいので、4月もてんてこ舞いのはずである。

地域の皆様のお立場も変わり、連携の有り様も変わっていく。社会が変革しているのだから当然のこと。内向きな変化しかしない方々とはお別れの季節である。補助金、助成金頼みの活動の社会構造は終わらねばならない。

政治そのものが、男性ばっかり、老人ばっかりでとても民主的な政治とは言えない。一企業の恨みつらみでリニアモーターカーが開通しないとかね、国家の私物化はなはだしい。こんな国ではいかん。もう少し頑張らせて頂く。そういうことだ。

年度末

年度もいよいよ今日で勤務日はおしまいである。年度が替わるからどうだということは無いのだが、事業所的には学校であるから、学生さん達にとっては学年が変わるし(変わらない者も居るが・・)勤務者としては所内での配置換えもあるだろうし。いずれ、てんてこ舞いが発生するというのが年度代わりである。

部屋の引っ越しをやってみたのだが、ネットワーク環境などが変わり、接続をばらして組み直した結果、妙な動きになってしまい、PC環境でてこずることになってしまっている。古い器械を後生大事に使っているということもあって、屋移りに弱いなと感じるところである。

2か所にあったオフィスを一ヵ所に統合したのだが、荷物の多さに驚いた。大したことの無い量だと思ったのだが、広いところから狭いところに移動すると、驚くほどに荷物があふれてしまう。まぁ、実験室のてんてこ舞いさ程では無いのだが、それでも必死に捨て直すことになる。気持ちが良い。

新年度、大学に残留させて頂けるかどうかが全く分からず、なんとか滑り込みで残留と相成った。窓口業務を続けていくので、鶴舞にお越しの際にはお立ち寄りくださいませ。よろしくお願いいたします。

リメンバー

国が5兆円の支援をすると、水素飛行機は飛ぶのだろうか。とあるところでMSJの撤退は、単に飛べなかっただけではなく、飛ばせるための人も辞めていったことが最大の問題であると指摘された幹部の方がいらっしゃった。その通りである。加えて、エネルギー問題という点において、水素を海外から購入しようなんてことを言っている段階で、飛行機を飛ばすたびにいったい、海外にどれだけのお金をまこうというのか。政治家諸氏の本気度ということなんだろうけれど、この国ではそれは全く感じられませんな。

知的財産アクションプランとか言っても、知的財産を生む知力を蓄えた博士人材が圧倒的に少なく、仮に、博士を取得したとしても、思い切ってその思考力を活用しようという企業が現れないのだから、徹底的に学んでやろうという学生が出てこなくても無理はない。この国に資源は人しかいないのに、親ですら子のよこっつらをひっぱたくと訴えられる時代である。学問は詰め込む時に詰め込まないと、後にいくら頑張っても無駄である。それがわかっているにもかかわらず、お上品に育て上げてしまう。

個性の教育をしている諸外国に対して、みんな同じことが出来ることが美しいなどとのんきな時代をいつまで過ごすのだろう。これもとある方にお伺いしたのだが、中堅企業が自らの強みが分からず、本来、獲得できる対価を獲得できていない状況に、なんとかしていきたいのだが、力を貸してくれないかと。それは勿論、出来ることは何でもさせて頂くわけだが、技術が生み出す価値を考える、考え方を学び、実践するということを、本来、身に着けるべき小学生ではなく、企業人が学ぶ機会が求められてきている。

高校に文系・理系クラスなんてものを作っている間は、この国はどんどこおいて行かれてしまうのだろうなと感じる。その内に、日本は人件費が激安だから、海外企業がこぞって雇用し始めたりしてね。ただ、そうであっても世界の標準的な文化も知識も身に着けていないのであれば、それもかなわなかったりするのか?一生涯、学び続けねばならない。そのはずなんだけどね。これから水素飛行機を作るという。リニアモーターカーのように、水問題ならぬ水素問題をクリアできるのだろうか。水素をじゃぶじゃぶ自給できる国になって欲しい。心底、そう思う。

民族を語った人

何よりも独自性を重んじ、客観的に民族学を語った折口先生の文章は素晴らしい。比較検討ではなく、一つ一つ真実を掘り下げ、日本人の民族としての学理を追及されたその切り口が好きである。小泉八雲先生も素晴らしいのだが、それは出雲と言う領域と相まって、場を必要とする民俗学であるのに対して、日本人とはなんであるかと言う、神話では無い日本人の民族DNAの決定因を追求し、それを断定していく表現に引き込まれる。

強烈な文章と言えば小林秀雄先生だが、氏の文章は推測を許さず、一点の濁りを感じることすら許さない、なんというか、文字に触れている間に全身の筋肉が硬直し、血が通わなくなるのを感じる程であり、文章をこのように創るのだという学びには最適だが、読み物として楽しむには、極めて質の高い教養が必要であって、これを読解したと言えるには、あと、何年の修業が必要なのだろうかと絶望を感じる。

中庸が良いのだろうけれど、気が付くと近代文学者の作品をちっとも読んでいないなと恥ずかしくなる。まぁ、天邪鬼の読まず嫌いということなんだけど、AIで作文が出来てしまう時代において、なんとなくだが、機械に楽しまされているようで気持ちが悪い。これも極めて食わず嫌いであるのは間違いないのだが、ゲームなどを受け入れない精神構造もそんな価値観から来ているのだろうと分析している。

結局は古典的人間だから、古典しか受け入れないということでは無いのだが、研究ネタは新規しか興味が無く、研究開発に取り組まないお企業様の支援も絶対に嫌だ。コスト削減とか自動化とかね、そんなネタは御免被るわけだ。オープンイノベーションって、意識が未来に無いと取り組めないし、それは未来の幸せに感動できる人にしか出来ないし、一流の文学に感動出来ないような人には無理なのだろうなと思う。明日を迎えられるか否か、これも価値観だろう。

終わりは始まり

熊本方面では春の大雨で、降雨量が観測史上最大だという。梅雨前線の如くの前線が大陸から伸び、とても春とは思えない空模様の中、卒業式である。どうもここのところ、卒業式に傘を持参していることが多いなと自覚する。参列者はそれなりの衣装の人達だから、別れの涙雨とはいえ、天のいたずらにお灸をすえたくなるが、こればっかりはどうしようもない。今までの苦渋を綺麗さっぱりと洗い流してくれる清めの雨と歓迎しよう。

お役目故に卒業式に参列した回数が多くなったが、それもこれで納めであり、卒業式の卒業を迎えることが出来たことはとても嬉しい。卒業式はしんみりする要素があっていけない。舞台の上で背筋を伸ばし続けるのは結構堪える。老兵は去り行くのみで、きれいさっぱりと別れの気持ちでいられよう。レンタルの松をじっくりと堪能しようではないか。あの松もしっかりと育ってきていて、継続して眺めていると微妙な変化がいとをかしである。

公会堂の工事があって午前・午後の二回制になったり、コロナ禍のお陰で中止になったり、学科代表者との対面式だったり、バリエーション豊かな経験もさせて頂いた。コンターマシンの導入があったりと、まぁ、海外では当たり前の仕組みを古式ゆかしい場に持ち込んだりと、座っているだけなのだけれど、壇上の微妙な変化も愉快であった。

学生としての卒業式から三十年以上が経過して、檀を見上げる側の気持ちを学生さん達から毎年もらってきて、学生気質の変化も感じさせて頂いてきている。空気感と言うか人柄と言うか、時代の変化を確実に感じている。もう、こんな老人が経営者側に居る時代では無かろうと感じるわけだ。卒業と言うのは区切りの意味である。終わりは始まりのためのものである。単純と堂々と。終わってそして始めたい。そんなところだ。

朋友

朋友との時間はあっという間に過ぎていく。遠方より来りて去っていくわけだが、去り際も寂しくなく、またこのひと時が来るだろうという予感もない。当たり前のひと時であって身構えることもない。良い関係である。だから朋友というわけだ。そんなひと時を過ごせる人間味が残っていたのかと、自分に少々驚くくらいである。あっという間感が良いのかもしれない。雨の中、集まって、そして去っていく。良い空気感である。

集まった場所は、かれこれ15年くらい前に出掛けていて、もう二度と来るものかと思ったところなのだが、情報によると経営者が女性となり、雰囲気ががらりと変わったとのこと。Netでの評判も上々で、これなら今一度、試しに覗いてみるのも良いなと、果敢にチャレンジしたわけだ。まぁ、メンバーがメンバーだけに、どんな状況でもなんとかなるだろうくらいの気持ちではあったが、良い意味で大きく裏切ってくれた。また行きたいと思う。

そこでも話題になったのだが、この入場料金でこれだけのサービスを提供してくれるという、日本の「安さ」を感じてしまった。フロア係殿は、適度な距離間で煩くなく、必要な時にさりげなく出現して去っていく。求めたい、自らもそうありたいと思う身のこなし。女性経営者の細やかさを感じるわけだ。店舗の中もサービスカウンターも雰囲気が良く、有り勝ちな「あそこがああだったらもっと良かったのに」という気持ちに全くさせない爽快感であった。

それにしても、何と言うか、久しぶりに会ったとしても、その久しぶりの時間は瞬時にどこかに行ってしまって、ずっと継続している感覚である。当たり前すぎて「お久しぶり」の挨拶を忘れてしまう程だ。そんなスイッチを持っていることは幸せである。まだ、本決まりでは無いのだが、まだそんな関係が続きそうな気配もある。油断は禁物である。慎重に進む。

三月は速過ぎる

3月は物凄い勢いで動いていて、あれよあれよと2周が過ぎてしまった。桃は開花をはじめ、いよいよ春を迎えるのかというところだが、寒い日が続きそうで、桜は遅れて卒業式での満開は無さそうだ。年度の切り替わりで、挨拶だのなんだの、御免被りたい内容ではあるが、長年、お世話になり感謝を申し上げないといけないという気持ちはちゃんとある。節目ということだ。

某人から伺ったのだが、長年、同一の組織に継続して所属していると、いざ「卒業」と機械的に決まったとしても、気持ちがそれについていかないという。なんらか、区切りの挨拶等を実施すると、いよいよ終りがやってくるのだなと納得出来るということ。小生などはちゃらんぽらん故に、ぱぁんと辞めるというところに至れないのだが、それも「はい、おしまい」ということが無いからか?薫陶は有難い。

最近、時々話を出している部屋の掃除なのだが、いよいよキャビネットの中身を空に出来て、それを廊下に出したところで、部屋の床の上の物体はマックスになったかなと感じるのだが、いよいよドアに向かって通路が出来た。いよいよ本丸の取り壊しに入っていけそうでほっとしている。何事も地道に進めていかないといけないと思うところだ。

自分に厳しくとは思ってはいるものの、時間という誰にも平等に分配されているものを最大限に活用しようと思っても、ミッションを放り出すわけにはいかず、遅々として進まない。進まないことを時間が無いという言い訳で逃げるわけだが、何時までも自分に甘いことが嫌になる。オフィスの紙資料などは纏め終り、運べば何とかなるところまできた。何事も一歩一歩である。そう実感している。