眩暈

三岳で震度4の地震。火山性の揺れだそうだ。御嶽山という80万年にもわたって噴火を続けてきた火山の周辺だから、地震が起こっても不思議はなかろう。不謹慎な表現だが、自然の営みに文句は言えない。太平洋プレートが伊豆沖で沈み込み、南アルプスを押し上げながら更に沈んで、中央アルプス付近で急降下。その際の、大陸のプレートとの摩擦で発生するエネルギーが起源とか言われても、あぁそうですかとしか言いようが無い。地下鉄の駅からの路地を作り出す家々を見ながら、平穏だなぁと感じる次第。

揺れで思い出したのだが、はねられた後に少し頭を動かすと猛烈に世界が回った。あの時の眩暈を思い出すと、それだけで目が回る程の凄まじさだった。体験して欲しいとは思わないが、あれこそ眩暈というものだろう。横になっているのだが、おへそのあたりを中心にして身体が立てに横にぐるんぐるんと回り続ける。それが収まりそうになるとぐぐぐぅんと地下に落ち込んで、それが終わりそうになると今度は空に向かって飛んでいく。それが繰り返される。思い出したくもない。

揺れとは人間に不安な気持ちを起こすものだと、つくづく実感した。実感してみると、人の気持ちになれるものだ。様々な苦しさや厳しさがあるが、自分自身でなんとかするしかないというのが答えだ。誰もあなたの代わりにはなれないのだし、自分の代役を誰かに頼むこともできないのだ。そんな当たり前のことを「揺れ」という単語を聞いたり見たりすると思う。何度でも思うのだから、心の底では誰かに変わって欲しいくらいのことを思っているのだろう。しょぼい話だ。

今朝も道すがらの駐車場の自動車は霜で真っ白だ。なんだか随分と寒さが続いている気がする。日本海側では大雪で近代的な生活が困難になっている。その昔はどうだったのだろう。自動車など無い江戸時代の生活などは分からないのだが、その知恵は何処に行ってしまったのか。山に雪が降り、それが地下に沁み込んで何年もかけて地上に出る。そのミネラルを含んだ水の恵みで生きているとするとそれを活かした生産活動で暮らせる社会を創り上げるべきだろう。恵みをアスファルトで塞いで現代人とふんぞり返る。ふんぞり返るから少しの揺れでひっくり返る。じっと踏ん張る。そんな日にしてみようではないか。

リノベーション

1970年台初頭に建てられた公共の中規模施設の未利用荒廃が進んでいるらしい。大都市圏においても見受けるが、少し離れてみると車窓から「見たくない」元リゾート物件と思しき建屋が目に付く。名古屋圏では知多半島などその代表格ではなかろうか。下手に手入れをしようとすると、当然のことながら税金が投入されるわけだし、上下水道・エネルギーインフラなど新規敷設の方が余程安上がりなのだろうなと、荒廃に任せて大地震で粉砕を待っているのではと勘繰ってしまう。

街中の小学校などが人口減少で統廃合による廃校になり、その後、第三者による改築と貸し出しというリノベーション物件はそれは幸せな部類かもしれない。一方で、学校というそれなりに大きな面積を有している施設をそのまま残すというのは、都市部のあり方として難しい面もあろう。防災施設としての活用は維持されねばならないだろうし、あくまでもついこの間まで学校だから許されていたことも、そうでなければ怒髪天を付くみたいなことだってあると思う。人が創ったものを永遠に使えると思う方がおかしい。

そこに住む人達が有効に土地を利用できるということが、まずは国家であるということだろう。元気に頑張って活動できる。マーケットが無くなるのは困るということではなく、そこに住み税金を支払っているのであれば、それはなんらかが成されなければならないだろう。とは言うものの、公共サービスにも当然のことながら限界がある。人口減少まっしぐらの我が国であれば尚更だ。良いものが安いということにも限界がある。一方で、日本社会が陥っている罠も感じる。

1980年台前半のバブル前は良いものを安く海外に出し、日本たたきまでやられる程の元気があった。太陽電池等の半導体製品の日本の優位性は素晴らしかった。過去形である。今や、単に世界で最もコストの高い代物に成り下がっている。人件費だけではない。製造機器の古さからくるコストアップによって、世界が2020年に到達するであろう火力発電コストと自然エネルギーコストの逆転を日本は2030年を見込むという。地産地消エネルギーの活用は生活スタイルも変えていく。太陽に従う生活で良いではないか。それでも原子力か。公共財とエネルギーという国家根幹の問題も先送り。先送りされるのは今の大学生以下の人達が背負う世界。日本らしい。

ポスト問題

昨日も東京に出掛けたのだが、品川で降りるホームのなんと大きな荷物を引いている海外からのお客さん達の多い事か。1970年代のハワイ日本人観光客の爆発もこんな目で見られていたのかしら。ジャルパック爆弾と呼ばれ、いたるところで弁当を広げ、日本人はマナーがなっていないと叫ばれた4~50年前。どかぁんと長い足を投げ出して頂く光景は、美しいとは映らない。今の若者から見たらどうなのか分からないが、そんだけ歳月を重ねちゃったと言うことかなぁとしみじみしてしまいました。

帰り際に東洋経済の「大学が壊れる」という見出しに引っかかって、久しぶりに一般雑誌を買ってしまった。新幹線で読み始めてみると、当たり前なんですけど一方的な見地で、文科省が財務省から金を取れないから学術技術が育たないのだという論調。また、東大を始め、帝大機構(小生が勝手に言っているだけでそんなものは現実には無いですよ)にどどぉんと金が落ちている割には論文が出ていない、だから細かく地方に金を撒けという偽善的発言のオンパレード。

撒き方よりもむしろ文科省に財務省にアピールさせるネタを出さない大学が悪いのであって、それを差し置いて金だけよこせと言ったって現実味はゼロだね。ポストが無いということで、それは事実だけど、法人化されているから大学だけにポストを作れというのもこれまた無理な相談だ。任期制は確かに厳しい。若手が元気に研究出来ない状況は実感しています。妙な会議が無尽蔵にあって、また、カリキュラムが細分化されていて、教育貢献を相当に求められる現状は、小生の20代後半とは随分と異なっている。

もう一つ感じているのは、国際的に学会活動が下火になっているわけでは無くて、それぞれ尖がって深い議論、広い議論がなされているのだけれど、それらに横ぐしを刺す活動が無いこと。現代の中国では人口とお金の両刀使いで一国で世界の問題を扱えて、しかも政府の後押しで横ぐしを刺してくる。そうすると新しい発想がどんどんと生まれてくる。結局、最後は政治に行きつくのだけれど、若い当事者たちは無関心を決めつけているからね。ポストが無いとか言っているなら、国をどうしたいのか発信もせずにぶぅたれるのはナンセンスだ。ただ、発信しはじめるとあっちからもこっちからも色々とお話を頂いて、結局、やっぱり、きつい毎日の私であります。

シングルナンバー国道にて

大雪で道路閉鎖、そして物流停止が二日間。日本のシングルナンバー国道でこんなことが発生するとは思わなんだ。ひたすら土木工事に巨費を投じ、政治イコール土木工事だったのではないのか?高速道路の天井が落ちたりなんてことは、まぁ、ひょっとすると何かの手抜きがあったのかもしれないが、まさか平時に雪で立ち往生した車が原因でほぼ丸二日、シングルナンバー国道が閉鎖になるとは。日本の屋台骨が折れた、そんな感じを受ける。

加えて、日本を代表する産業の牽引車である自動車が雪で動けなくなったのだ。北陸で活動する自動車が雪で止まって良いのか?良い筈はない。車検と言う自動車関連業者が生き延びるための政治的活動は、まったく役に立っていないということだ。ユーザーのためとかなんとか言いながら、実は単に業界を助けているだけである。もっとも最近のリコールの嵐を考えると、車検制度が無かったらもっととんでもないことが起こるのかもしれない。車軸が折れるなんてことが日常茶飯事だったりして。

小生が物心ついたころには首都高速道路は存在し、新幹線も大阪まで繋がっていた。上野駅ではまだSLがごうごうと煙を吐いていたが、それもやがて消え、そして日本列島改造論である。今もあの考えは貫いて欲しいと思っているし、日本の土木工事は世界の中でも優れた技術レベルにあると信じてはいる。ただ、下水管やガス管の交換が頻繁に必要な地震頻発国故にアスファルトは薄いとか年中掘り起こしているとか、土木技術とは異なる理由でネガティブなイメージがある。雪に弱いということだって、ダブルナンバー以上の国道なら気にならない。そうだろうなと思うだけだ。

ところがそれがシングルナンバー国道となれば話は別だ。県任せのエリアだったかもしれないがそんなことは言い訳にならない。国は一体なにやってんだと、極めて腹立たしい。40時間も車で過ごしている日本人の忍耐には感動するのだが、そんな状態に国民を置き去りにしている国っていったい何なのだ。自衛隊の出動も極めて遅い。物流が止まる、その国の不利益たるや甚だしい。それを大雪だからと済ませられるのか?日本の生末は極めて危うい。救われたのは名古屋高裁が1.98倍の一票の格差は憲法違反と判断したこと。少しは真っ当な裁判が成されるのだなとほっとした。ましてやおひざ元の名古屋でである。なんと素晴らしい事か。立腹したり納得したり。なんとも気持ちが飛びまくる、今日も一人民族大移動の私であります。

美濃市駅

美濃市駅にいくにはいくつか経路があって、最も簡単なのは名駅からのバス旅程である。一方、鉄道を使おうとすると、これがなかなかにして険しい道のりだ。高山本線で美濃太田まで行き、そこから長良川鉄道に乗り換える。止まっているのかと錯覚するほどの鉄路であるが、旅情は間違いなく満点であろう。駅前にはその昔の路面電車が行き場を失って並んでいる。そんな美濃市てお仕事をしてきた。

前面株安となり、資産が一気に目減りする。半導体や自動車の最終組み立て関連企業は堅調で好調であり、純利益を社員還元が可能だ。一方、株価や金融相場で資産の目減りのみに気を遣う企業は、仕事はあっても利益が全く無くなるという状況が続く。ベースアップなどとんでもない。とんでもないから街にお金が回らない。回らないから閉塞感たっぷりだ。それがうだつの上がる町並みの本質だ。うだつなんて上がらないのだ。

起業を考える学生が増えているのはこんなところに起源があるのではと思ってしまう。隙間だろうがなんだろうが、やる気が他人の喜びに変わっていってそれを体験できるのであれば、それは素晴らしいことだ。六本木ヒルズに住もうなんて考えなければ、それこそうだつの上がる町並みに居を構えることだって夢ではない。ネットと運送会社があればどこだって暮らせる時代である。都会でなければならないなんて化石の頭だ。

長良川鉄道はおっそろしく北まで続いていて、北濃という車でしか行ったことの無い、九頭竜湖よりも北に位置するところまで行っている。一度、のんびり出掛けてみたいと思っているのだが、ちっとも実現しそうにない。ただ、行きたいと思っていればいつかはいけるだろうという呑気な気持ちでいるのだが、ひょっとすると突然廃線になってしまうかもしれない。沿線には温泉もある。そんなゆっくり時間を過ごしてみたいが、今日も一日ぎっちりのスケジュールだ。製品開発は一区切りだが、新たな一歩を踏み出し続けなければならない。それが私である。

セメント

足元を見ておやっと思った。電線を地中に埋めて、安全と世間の美しさにこだわって、アスファルト道路という仕組みを構築したのは、灯りを創ったエジソンであるが、セメントってどこの誰が商用というか工業的に使うようにしたのかと。調べてみても9000年程度前に使われた痕跡があるということしか分からない。カルシウム成分は大地に豊富にあるから、なんか使ってみようかみたいな感じで使われたのかもしれない。研究よりも先に開発が行われた事例のようだ。

縄文期以前からトイレがあったり、竪穴式住居があったりと、ホモサピエンスは頑張るなぁと最近妙に感心する。科学と技術という点において、例えば木を切るという当たり前の行為ですら、人為的に木材の繊維を断ち切るという極めて困難なことを当たり前のようにやってのけている。メソポタミア文明とてBC3000年程度だ。1万年以上も前に石を削り木を断ち切る。そんなことを我らが祖先は行っていた。

自分だけの安住のためでは無く、皆で皆の快適さを作り合っていた。なんと素晴らしい事か。セメントで固められた道路を見ていて、人間っていろいろとやるものだなぁとしみじみと思ったのである。こんなことを実現したら面白かろうという見方と、こんな社会に暮らしたいからこんなものがあったら良かろうという見方からのものの創造は、随分と価値が変わる。後者の残念なのは大概、儲けに繋がらないことではあるのだが、皆が幸せになるのだから、まぁ、我慢するべきか。

今朝も随分と寒い。駅から大学までの間に建築現場があって、セメントでべた基礎を打っているところに真っ白な霜が降りている。ほうとなかなかの景色だなと思って少し行くと別の現場があって、こちらには全く霜などは無い。霜が降りるか降りないか、なんかその上に建つ家の風景が浮かんでくる。寒さで凍えるか平穏に暮らせるか。良いものは良いのだろう。これでどれだけの対価が支払われるのか。相当に違っても良い。そうでなければならない。それに対価を支払わない人種は、正に1万年以前の野蛮人だろう。セメントの一角をみて妙に熱くなった私であります。

良い黒子

立春を過ぎ昼間の日差しは確かに春の気配を感じるのだが、今朝などは上弦の月の周りに重い雲の層。良くみると、駐車場の車のボンネットにはちらほらと雪の粒が乗っている。温暖化による寒気はやむことなく、一体、いつまでシベリアの空気を日本に送ってくるのやら。日本海側各地は大雪が続き、一晩で1m以上の積雪を観測するところが出ているよう。そう思うと、名古屋というところは台風も無く大雪も無く、地震も無く、なんだか妙に天から無視されているような一抹の寂しさもあったりして。

先週は東京、岐阜と所を変えて司会業に勤しんだ。最近は研究からとんとご無沙汰なものだから、司会だけに引っ張り出される始末。今週も東京で司会業。だんだん職業が変わってきたのではないかと、Youは何者と聞かれた時に返答に困る。そもそも論で、教師なんてものは壇上で司会をしているみたいなものだなと、改めて思ったりもする。相手が大学の総長だったり、お役人だったり、企業の社長殿であったりと変わるだけで、聞き手のパフォーマンスを引き出して全員がそれぞれの底力を上げていくお手伝い。あくまでも黒子なんですな。

それが市長とか知事とか学長とかになると違ってきて、これは自らの意思で向かう方向を示さねばならぬ。大学は質が悪くて、その昔の調整役で言うことなんか聞かなくても良いと考える構成員が殆どだから、中央政府とかみ合わないこと甚だしい。研究費も自分の金みたいに思っちゃったりして。勘違いをし続けるとそれが正義になってしまうのが人間の弱さだな。そもそも神様と違って人の意思には絶対値が無いからね。昨日は基地に反対して、今日は銭をよこせとなる。年中、道路に穴を掘っている日本だ。公共投資という名の税金の無駄遣い。

科学の探求と技術の活用。それがお勤めであった時代を懐かしむなんて気持ちはさらさら無い。むしろ、雑音が消えて純粋に思考に徹することが出来ているかもしれない。そりゃぁ、紙と鉛筆を持って図書館にこもっているほうが幸せだ。古いインクの匂いに酔いしれて、果てることなく古い学理を貪る。多くの科学を技術に換えて自動車などは出来ているわけだが、それにしてはリコールの何と多い事。技術を金と天秤にかけて利益を追求した結果だろう。真理の探求こそ学生は突き進むべきで、教育者はその黒子に徹するべき。良い黒子の歌舞伎は美しい。出しゃばりの黒子が世の中を崩壊させる。そう思う。

人口減少

ふと気が付くと朝が明るくなっている。真っ暗な朝が既に明るく感じるようになっている。確実に冬を越えたのだなと感じる。寒さはまたぶり返すらしいが、今朝は数日前の刺すような寒さを感じない。今年はどんな夏になるのだろうかと、気の早いこと甚だしい。つい先日、お正月だったのに、もう2月である。カレンダーをめくらなければならない。カレンダーを眺めたら、2月12日はお休みだ。なんだか有難い。買って読めていない本が山積みだ。静かな読書としゃれこもう。

日本中、至る所に歴史を体験できるところがあって愉快である。府中でお仕事をしてきたのだが、先週の大雪での新幹線の遅れにびびって、1時間前倒しにしたらすんなりと到着だ。まぁ、有難いのだが、折角、時間が出来たので、以前から気になっていた大國魂神社なるところに参拝をさせて頂いてきた。1900年の歴史を刻む、111年創建の古いお社だ。建物そのものは4代将軍の代に出来たそうで、文化財に指定されている。武蔵野の森が残り、大木が数多い。

前九年の役で有名な八幡太郎義家がこの地でお参りし、その結果、大勝したということで(諸説あるが、それは無視)欅の並木を奉納したそうだが、ここが武蔵野国の中心地だったのだなと思うと、新宿からえっちらほっちら電車に揺られてやってくる遥か彼方なのだが、実はこっとがその昔は中心地だ。大國魂神社からは品川や新宿の方向に一間程の古道が残っていて、これが大変に愉快である。名古屋と言えば旧鎌倉街道だが、東京だと様々な旧街道が残存して驚かされる。

何しにそんなところということはどうでも良くて、大國魂神社を擁する府中なのだが、デパートなどは廃業寸前の状態らしく、大会社の凋落によって町がゴーストタウン化してきているとのこと。確かに駅で乗り降りする方が妙に少なく感じた。調布や八王子のほうが随分と賑わっている。中心地のみが活況で、その周辺が欠けてくる逆ドーナツ化現象。噂では聞いていたが体感出来るとは思っていなかった。日本全体の人口は間違いなく減っているのだと、大混雑の東京だからこそ実感できる、そんなことを思いながら、終電近くに戻ってきた私であります。

そこにある

「月がとっても青いから・・」と真逆の宇宙のイベントに参加できたのは久しぶりだ。その間に日食などもあったから、もう忘れてしまった。ひょっとすると月食などは、まぁ、そこそこ出会うことが出来るので、見ていても感激すらしなかったのかもしれぬ。それだけしらけた年寄りになったということかもしれないが、今回の赤い月はそれなりに楽しめた。下弦の月の状態で欠けていく様は、なんだか愉快であった。太陽が西から登るような、そんなイメージだ。

白色とまではいかないが、白み掛かった月が、僅かな時間の間に赤く変わった。日陰でありながら空気によるレンズ効果で、大気を透過した赤い成分が月を赤く染める。原理はそうだが、実際にそれに出会うとなんとも愉快だ。赤い月を取ってくれと言いたくなる。薄曇りの名古屋地方、なかなかにして良い鑑賞空間であったと感激する。月夜見尊もなかなかやるわいと、冬の空に赤い月とはなかなかにしておつである。

と、闇夜にカラスでは無いけれど、皆既日食だがそこにあることがわかる。巨大な星と強烈な太陽光の成せる業だが、これが日中の星であればどうだろう。近所の火星や金星の闇夜の輝きですら消されてしまう。あるのに無い。いや、あるのに見えない。見えないけれどある。これまたなかなか面白い。駄目なものは駄目という理屈は好きだ。ただ、それには精神的に受け入れられる場合に限る。現実の問題となれば、駄目と言っているのはあんたの都合でしょ、定量的な評価結果を示して頂戴と言うのが普通だ。

闇夜だから見える。明るいから見えない。大声に消される正義の声に似ている。気に入らないから気に入らない。僕はあいつが大嫌いだからその組織も嫌い。そんな会話を思い出した。夜空であっても見えない星も、実はそこにあるのだ。あるのであれば、それは何かを為すために必然的に存在しているのだから、見えないからと意識から消してはならぬ。一人には思いつかない。しかし、真っ当な多くの声があるからこそ救える心理があるやもしれぬ。それを大切にせねばならぬ。強い声だけに従っていては政は成り立たぬ。無い星は見えないだけ。心が曇っているだけと、自らに言い聞かせる私であります。