アンチ他人国家にて

自立した国家であった縄文時代。三内丸山遺跡など、1500年も同所に人々が暮らしていた形跡が残る。長期政権の江戸時代だって300年だ。どんな風に助け合って生きていたのか思いを巡らすだけで愉快である。かなりの遠方と交易を行いながら集落を、即ち生活を維持していたことは驚きを禁じ得ない。平均気温は2~3℃高かったわけで、海面は今よりも5m程高かった時代である。青森の遺跡であるが、今の気候と比較は出来ない。

クリなどは栽培され、古木は建材として活用され、サーキュラーエコノミー社会の走りであろう。仏教が入ってきて貴族がふんぞり返り、命令に同調させる社会の確立から、日本は一気につまんない国になり果てたのであろう。図抜けることを認めず、為政者だけが甘い汁を吸う。国民は知らされず、世界のコロナ明けで低迷しきる様子になっても、同調している人達は全員が低迷しているわけだから違和感無かろう。

違和感が許されない不思議な世界である。必死の努力で世界の頂点に立った途端に、国民と同調せよと、負けたらブーイングである。そんな国にまともな精神の若者が居着く筈はなく、優秀な方々が海の外に出ていく様は、まだ、まともな世界が残っているなと感じる次第。協調しないと仕事が回らないとかね、そんなところは同調で良いんだけど、DXなんてマイナンバーカードですら国が手出しをするのを恐れる程の謎の状態だ。

65才以上の方は、一気に重篤化する恐れがあるからワクチン先行接種となったわけで、余ったワクチンをそれより年齢が低い人が接種して何にも悪いことは無い。我慢しているんだから誰かが幸せになるのは許せないという、アンチ他人主義、正に貧相の同調主義国家と言えよう。自主規制を他人規制にすり替えて、他人の足を引っ張りまくる。文明人のやることか?恐ろしい社会である。

一歩を

方向性って大事だなと思う。何かに向かっているとか、近づいているとか。自分目線か相手目線かにも依るんだけどね。結局はビジョンに向かっているということが大切で、そのビジョンは身の丈一杯とマッチしているかはもっと大切で、それを見誤ると間違った方向に向かっていく。出だしが肝心なんて言うけれど、ゴールの方がもっと肝心。

さて、方向が決まったけどどうやって進もうかってことになる。道なき道を進むには、直感頼みの無鉄砲というのも艶っぽいのだが、こけたら悲惨な大けがになりそうだ。誰かが伴走してくれれば有難いが、そんな奇特な奴はそうそう居ない。だからこそ伴走者の価値は高い。進みたいと願う者と伴走者はビジョンの共創者ということになろう。より確実に短時間にビジョン目指して進んでいく。

共創と言うと聞こえが良いんだけど、どうも丸投げ、任せっぱなしパターンが多いように感じるのだ。額に汗してアイデアを出して、その実現に向かおうとすると、面倒だとか恐ろしいとか、突然、活動量が減る者が何故か多い。これも最後までやる抜いた経験の無さなのなせる業なんでしょうけれど、一歩を踏み出さない奴と、途中で投げ出す奴のどっちが多いのかとすると、なんとなくなんだけど一歩を踏み出さない人が増えていると感じる。

やってみると何処からともなく評論家がやってきて、無駄なことをするとか、そんなことをする金があるならこっちに回せとか、なんやかや言ってくる。そんな経験が重なってくると、新規挑戦なんかしたくなくなるし、夢を描くなんてことも虚しくなってくるのかもしれない。年齢を重ねても何か新しい事を思い描いて進んでいく人の頭の中がどうなっているのかしらないが、そんな人も間違いなく居る。ひょっとすると一歩を踏み出す若者よりも多いのではと感じる。こんな国ではいかん、一歩を踏み出そうよ、伴走するからさ。

シベリアにて

心臓を取り出して弁を人工のものにするという手術があるんですが、体温をゆっくり下げて冬眠状態にさせてやるんですよ。身内でやった人がいらっしゃるので知っているんですが、人工冬眠で宇宙のかなたに旅をするっていうのが、現実に可能なんだなって実感したのはその時からでした。もう、かれこれ20年近く前ですけどね。

一昨年くらいからシベリアの永久凍土が溶けて、人類誕生前から氷漬けになっていたウイルスが活性化して空気中に放出され始めているというニュースに時々出会うようになり、最近ではTVのネタにもならないくらい。今を騒がす新型コロナもそんな奴なのかなって思ったり。なんせ、目に見えませんからね、恐ろしいったらありゃしない。それより大きな生物と呼べるレベルのものが凍っていて、そして蘇るってことは無いのかなと思っていたら、ロシアから発表がありましたね。

100μmもある多細胞生物が、3万2千年の時を経て「起きた」とのこと。既に餌に食らいつき、活発に運動している様子が動画で公開されているのを拝見したのですが、ちょっと何と言って良いのやら。それまでは7億年前後にあった全球凍結の時代の、それこそウイルスれべるものが生き返りましたってお話というか映像を見た時は、生命って凄いものだなって実感していたのですが、100μmという目に見えるサイズの代物が冬眠から覚めるってなんだか凄いなって。

この研究グループの方々は人体の冷凍保存のキーとなる、細胞や臓器が冷凍状態で破壊されない物質を、このワムシさんから抽出して、人間の冷凍保存に応用したいんだそうで。遠い未来で目覚めたとして、何か面白いことありますかね?一週間前のことだって、えっらく昔に感じる程に時の進み方が激しいわけだしね。今、この時に体験するから尊いわけで、無理して未来に飛んでいく興味など無い。それにしても永久凍土の解凍ってこれからも何だか目が離せないなって、人間が免疫を持っていない殺人ウイルスの解凍だけは勘弁して欲しいと願う私であります。

精神世界の異端児

先日、某所で対面の講演をさせて頂いた。講演というか講義というか、名目は講義になっている。年齢差、最大43歳である。何が伝わるのか?恐ろしくなる。こんな所に出てきて良いのか?そう考えてしまうと「教師」の積もりがいつの間にか「説教坊主」になっているのかなと、教壇の無い教室で、ここに居てはいけないのでは無いかと、正直、思った。教わる側の気持ちにどれだけなれるか?「解釈不能だろうな」という気持ちはわかる。彼らの頭の中の咀嚼具合が伝わってこない。

自分が同じ年代の時、大人の言うことに従うという概念が無かった。要はいきがっていたということなんだけど、同様に考えれば、講義など引き受けてはいけないのだ。人生100年時代なんて、要は、年金を渡すことが出来ないから、自分で稼げなくなったら死ねということなんだろうけど、とてもではないが、そんな思想に付き合ってはいられない。付き合う自信などどこにも無い。80歳を越えた国政のリーダーに従っていたら、この国、一体、何処に行ってしまうのか?

勿論、教育や研究に長けた方に政治をお願いする事が正しいこととは思わない。それぞれ役割があって、年齢分担をすれば良いのだ。若くして政治向きの方も時々出現するわけだが、全ての人がそれに当てはまるわけでは無いから、無理をする必要は無い。世代の枠組みは重要で、フリック入力で論文を音速で書き上げる人種と、機械式タイプライターで育った人種ではSDGsと聴いた時に、真っ先にこう取り組もうというベクトルは異なるだろう。若い思考のベクトルに委ねたい、そう思う。

受け取った感覚が一つあって、それは思考のステップが妙に細かいこと。全てが与えられているわけだからその範囲で生きていれば良い人種なんだなと強烈に感じる。思い切り思考をすっ飛ばす小生と、そんな事、何故考える必要があるのかと、道の無いところに分け入るなんて考えもしない人種と、もう、同じステージに立つことはお互いにとって精神上良くないのではと思ってしまう。君達には君達の幸せがある。どうぞ、その幸せに突き進んでくれと言いたいが、どっこい、こっちの世界は世界で、あっても良いだろうと、精神世界の異なる国民の生存を認めて下さいねと、そんなお願いはしないで勝手に突き進もうと思った私であります。

今昔マップ

元来が人文地理学の研究者でいらっしゃる埼玉大学の谷先生に公開して頂いている「今昔マップ」を愛用させて頂いている。全国くまなくということでは無いのだが、明治以降の街割りの変化を見られるとともに、「今との比較」が出来ることが極めて痛快。ツールの公開に関わる皆様に深く感謝申し上げます。

宿舎を建てる段になって、その土地は一体なんだったのと気にし始めたのがきっかけで、図書館に行ったり、江戸の古地図とかを買ってみたりしていろいろ眺めて面白がっていた。とあるところで「名古屋の古地図展」に出掛け、現在の居住地近くの地形図を明治時代の陸軍が作図していたことを知り、きっと探せばあるだろうと、探していたらツールの公開が始まったというタイミングの出会い。求めよ、されば開かれんってなもんですな。

日頃、自転車で通っている道とかね、明治からというか、きっと江戸時代からあったんだろう道路だったりすると、それなりの石仏様がいらっしゃったり、やたらと曲がりくねっていたり。神社などは位置が変わっていないことが多いですな。故事来歴を調べてみるには、戦前の街割りを知るのが一番。漱石の小説などは明治の町割りを見ながら読むと実に楽しくなる。

川越市などはコロナ禍明けの観光狙いかどうかは知らないが、古地図アプリなどを作られたとか。名古屋に居るとなかなか川越に行こうとはならないけれど、地元のアプリが出来たら面白かろうと思う。どうも愛知県の方々は誇るべき地元なのに、地元観光をしていらっしゃらない方が多いと感じる。まずは今昔マップを活用させて頂いて、ご自分の住まい周辺をタイムトラベルされては如何だろうか。

身の丈

身の丈に合うと言うと、日本人は「分相応に生きろ」ってなんだか悪い意味に捉える傾向があるように感じる。身の丈を考えろとかね、悪口にしか聞こえない。それではと、自分の身の丈一杯って何処にあるんだろうって考えたことありますか?相手の身の丈なんて見下して発言していませんか?各自の身の丈って、結構高いと思いますよ。粘り強くてストレスに耐え、何かを成す。発言者にとっては「くだらない」と感じることでも、言われた側の世界においては「ナンバーワン!」かもしれないよ。身の丈を甘く見てはいけない。

組織となるとこれは更に難しい。「これは無理です」とか、「出来ません」って平気で言うんだけど、組織力こそ甘く見てはいけない。組織の身の丈ですよ、これはかなり大きい。だって、大きくするために組織化しているんだもん。自分達の組織の力を目いっぱい社会に向けて発現させていますという組織体を見てみたいものだ。多くの日本企業が消えていくのも、自社の身の丈をしっかり見極めなかったからだよね。身の丈の力をリーダーが引き出し切れなかったから。

組織の身の丈を構成しているのはやっぱり人なんですよ。一人の人は勿論の事、その繋がり、そして繋がりの連鎖が作り上げる身の丈は凄い。大学の学科なんて、何々の学問を身に着けたから卒業証書を出すってライセンス認証してしまえる程だ。最近はその質保証も求められるようになっているわけだが、そこに携わる人々は、それに恥じぬ働きをしないといけないのは勿論だが、お互いを高めあう工夫を新しくし続けないといけないし、それが組織力となって承継されているかも感じなければならない。

何かね、東京でオリンピックやるよと決まった時には、福島で溜まり続けるトリチウム水をどうすんのかななんて思って大丈夫かなと感じたものだが、今はコロナ禍対策が不十分なまま実行すると決定されたわけで、身の丈、解ってないなぁと思ったわけですよ。身の丈に合ってない決断をした国家の気がするわけだけど、まぁ、粛々と、身の丈をしっかり見定めて、挑戦を続けようと思うだけの私であります。

自律たれ

小生が学生の頃に憧れた企業が、数多く失われている。GDPの世界ランキングも大幅に下がった。最早技術立国でも何でもなく、後追いもしない技術途上国となっているわけだ。ワクチンの提供に関してもこれだけ遅れたことは、ワクチン生産国からは「あの国の将来には期待するものが無い」と判断されたためだと考えている。あくまでも小生が考えているというだけで一般論では決してないが、暗い気持ちになっている。

ワクチンを誰に打つのか?という点の議論においてもなんだか情けないではないか。予約者が会場に現れないから、廃棄するなんてとんでもない、可能な限りの方に接種したら、そんな順番飛ばしは許さないとか、マスコミに吊るしあげられるとか、一体、どれだけ品格のお下劣な国民なのだろうと悲しくなる。税金を稼ぎ出している人に投与することがそんなに悪い事か?そもそも論だけど、ご老人が扱いにくいアプリで予約させるとか、国民のIT教育をほったらかしておきながら、そんなことをやらせる。マイナンバーカードだって法制で縛って、まともに使えないものにしたまんま。国会なんかさっさと閉じるしね。

無くなった企業は何も大企業だけではなくて、このコロナ禍で多くのお会社、店舗が失われましたな。知事の方々が「非常事態だ!」って補償もせずに閉めさせちゃうから、赤字赤字でそうなるのは当たり前。今度はオリンピックをやることになっちゃったもんだから、それに日程を合わせて非常事態をフェードアウトさせないといけないから、まんぼうに換えるとかね、病床の状況なんかほったらかして言い出しちゃう。珍しく西村担当大臣殿が軽々に解除を言うなという真っ当なことを言うもんだから驚いてしまった。

全くもってその通りで、非常事態が安直に出され、そして取り消される状況になっているなと感じる。ワクチン接種にしても事業所で接種しろ、でも接種出来る人は事業所で集めなさいよという、丸投げもここまでくれば大したもんだと、言われた側としては諦めの境地に達しますな。打ち捨てられた感満載。事業所のミッションは必ず果たす。それによって国の発展に貢献したい。その想いは変わらないし、より発展させたいと気合を入れている。それしか無いんだろうな。まぁ、そんなもんなんでしょうね。自分で進む、それに尽きる。

夢見てますか?

ぐるぐる回る刃物のようなものが、どんどんと硬い金属に穴を開けていく道具を作った夢を見た。片手で持てて、鋼鉄の板を自在にくり貫いていく様は心地良く、目が覚めて誠につまらない思いをした。まぁ、上手くいきすぎて、目覚めた方が気が楽だったかもしれないが。何を言いたいか、人は何故、子供の頃の夢を捨てるのか、忘れるのか、そして子供の頃に夢を見ないのか?

理科教室で出会う小学校1年生の夢多き事!そして斬新な発想であること!なんと美しい目であることか。それが新社会人になると、なんだか曇った顔でおどおどして、おはようございますも出てこない。上司から目を逸らし知らんぷりして、足早に部署に散っていく。一体、いつからそうなってしまうのだろう、そして何故なのだろう?

小生など、がきんちょがそのまんま巨大化しているものだから、未だに小学校に上がる前に「こんなことが出来たら良いな」って想いを忘れずにいますよ。だから粘り腰で研究を続けているものの、そうしている内に、新しい素材などが出てきて、やっぱり面白がってあれやこれやといじってしまう。そしてまた、新しいアイデアが生まれてくる。その繰り返しだ。

金太郎飴なんですよ。根岸に未だに金太郎飴屋さんがあるのには驚いたが、教育の仕組みが金太郎飴で、そして教育する意識も金太郎飴製造なのだから仕方が無いか?子供の成長目線では無く、指導目線での金太郎飴製造教育の被害者が社会に溢れているのが日本の現状であろう。良い驚きを自らの意欲の連鎖に繋げ、そして失敗してもくじけずに笑顔で前に進む。そんな教育の意識改革こそ重要であって、政治家があれをやれこれをやれとレールを敷くおぞましさよ。夢、あって良い。それで良いのだ。

納得すること

気が付けば6月第三週目に入っている。1日1日はものすごく長いのだが、実は実感しているだけで客観ではない。こんなところに毎日の過ごし方と言うか、残った人生、どう生きるかみたいなものが関係してくるのだろう。結局のところ、どうのこうのという事はなく、地球の回転に従ってその瞬間瞬間を必死に、猛烈に考えて過ごすと言うだけなんだけどね。

一つのことに集中するのが良い。あれもこれもと考えることはシングルタスカーの小生には土台無理で、一点集中、やっつけては次に向かっていく。室町前期までに許された戦法なんだけど、一件一件が強烈な軍勢で押し寄せてくるから、1番近い対象に向かっていくしか無いのだ。あれもこれもと目を転じている間に懐に飛び込まれて壊滅する。そんな姿をしょっちゅう見かけるので、そうならないように対象を一点に絞る。

これも実は曲者で、1番近いと思っていたら、実はそうではなくて、遠いと思ったものが実は真っ先にやっつけないといけないものだったりする。何となく関数関係かと思っていたら、実は因果関係だったりしてね。原因をやっつけるのが順当な戦術何だけど、うっかりしていると結果に突っ込んで激甚被害を受けるわけだ。精神的ダメージは大きいですよ。それでも立ち上がって前に進まないといけない。

戦の相手が大きくて、次から次へと場のルールを変えて来る。これはインチキだろうと思っても、胴元は強いのだ。場のルールが変わっても、惑わされない為には、自らの状態を常に最善化しておくことだ。最適化ではない、最善である。最善と言っても主観だから本当に正しいかどうかは解らない。しかし、自分自身でこれで良かろうと思っていれば外圧を納得して受け入れられると言うものだ。満足なんてあり得ないのだから、納得するだけで十分だ。そんなもんだろう。

頑張ってみようよ

100万個売れないと製品になんて出来ない、最低でも100億円売り上げが立つ見込みが無いなら事業化させないと堂々と仰る。そりゃぁ、否定はしませんけどね。やれるならやって下さいよ。ものづくり屋さんがそれをやり続けて頂けるのであれば、この国の政府も、ギリシャよろしく、観光だけで食っていく国にしようとは思わなかったのでは無いかな?観光プラスものづくりくらいの政策が出てきていたのかもしれない。ものづくりは海外に任せて、おこぼれを頂戴しようとした結果が、ワクチンが無い、半導体が無い国だとやっと気が付く。輸入が絞られて、とある食品の値段も上がり始めたしね。

スタートアップとかベンチャーとか、それらを支援しましょうってお話があって、マクアケとかね、そんなものが活発に使われている。大企業がマクアケでものを売るのはどうかと思うけど、まぁ、欲しいものが出てくるのであれば文句は言わない。そのモノづくりなんだけど、己惚れるようなんだけど、最後までやり抜くぞって強い意志が必要で、それは過去の人生の中で何かをやり切った経験がものを言うんだと思っている。縄跳びを引っ掛からずに100回飛ぶとかね、小さい時のやり抜いた経験、大人でも良いけど、それは絶対に必要。それが無い人の話は、何処かで折れている。

ソフトウエア開発は図抜けた能力の方が一人で開発出来て、これは本当に羨ましい能力だと思います。凄いですよ。目に見えるモノづくりだと、最終商品まで持って行くには一人で頑張っていると千年くらいかかっちゃうから、誰かとご協力ということになる。そうなると団結をもたらすリーダーシップとか、和を展開する心の力とかね、それは間違いなく必要だ。これは若手の中にも見えて、なんだか知らないけど、その人の周りで何かが起こっているってありますでしょ。これも羨ましい限り。

それでもやっぱり根幹にあるのは社会に目を向けさせる被適応力なのだと思う。凄いだけでは売れないし、見向きもされない。スタートアップだから100年後の製品では無く、今、売れていないといけない。社会の目をその商品で塗り替えるくらいの力が必要だ。これは意志が強かろうがどうしようもなくて、きちんとした裏付けというか、根本原理が必要だ。情熱は勿論大事なんだけど、被適応力が無いと、バージョンアップも出来ないしね。これらが揃っていれば100個の商品だって売れば良いのにと思うのですよ。そんなところからやり直さないと。スタートアップ支援に携わる人達の意識は何処にあるのか。大企業の見下し目線にあるようで、気分が悪くなる。