リアルに転換を

1991年という、バブルが弾けていよいよ日本の国にお金が無くなり始めるから、お荷物の国立大学を、設置基準から見直そうぜって、国立大学にとっての大転換年があったわけです。給料なんてどん底で、その年に教員に手を挙げる奴の顔が見たいと言われたほど。悪かったなと言いたいが、まぁ、過去のお話だからね。今だからわかるのだけど、若手のご当人には解る筈もない。

2004年になっていよいよ法人化がスタートしたわけです。その前にはどっかに吸収されるとか、いろんなお話が出てきていて、結局、単独で行くって何度も挑戦の道を選んできたわけです。ただ、ここには甘えがあって、文部科学省という財源団体がいらっしゃるから大丈夫みたいな甘えがあったのではないかしら?大切なのは大学が突如無くなっても、そこに居る学生さん達にはちゃんと卒業認定が与えられる仕組みがあること。大学そのものは経営破綻したから、何処かに吸収されるか解体されるかなのでしょうね。

企業などは明快で、潰れてしまったら、その時の経営者の方針が間違っていたから即刻退職金無しで解雇、沈没させたのはリーダーの責任は大きいけれど、そこで稼ぎが悪かった人達にも平等に責任があって、まぁ、若干の退職金込みで解雇。その覚悟が必要なんだと思います。だからこそ、大きな転換点がやってきた今は大変革のチャンスなんですよ。そこそこも上手くいっていない社会だからこそ、イノベーションに寄与できる大学は変わるべき。

大学院が一本化したとか、凄い改革なのだけれど、それによって横断的新分野が走り出したかと言えば決してそんなことはない。箱が変わっても中身が一緒ではね、それは改革とは言えない。一斉に同じ状況に陥っているわけです。傷をなめている場合ではない。その筈です。

近場のマーケット探訪

何処にも行けるところが無いものだから、東郷町に出来た巨大マーケット開店日に出掛けてきた。国の縛りが無くなったわけだから、遠慮せずに何処にでも行けば良いのだが、遠距離移動は暫くは止めておこうということで半径10km以内の移動に限っている。まだ感染がゼロに為ったわけではなく、ワクチンが出来たわけでもない。感染した際の種々のダメージを考えると、まぁ、そのくらいにしておこうというところだ。

既に数週間前から地元の方々に向けた内覧会的オープンはしていたので、それ程混雑は無かろうと午後から行ってみたのだが、想定の通り、渋滞など無く、すんなりと立体駐車場に入ることが出来た。なんだか見慣れた店舗が並ぶ様子に、最近の流行りはこんなところなのだなと理解するには良いところかもしれない。町の出張所的なところもあったりして、近隣住民に優しい建屋造りは好感が持てる。なんだかんだ言っても人は多く、小一時間でぐるっと回った程度であった。

車の動線が良く出来ていて、駐車場から脱出する際に、人の流れによって留め置かれることが少なく、近所に先行するマーケットの悪いところをちゃんと見ているなと、ユーザーの想いを意識した作りになっていることを感じた。勿論、その分、建設費用は上がるのだろうが、リピーターを呼び込むには必要な構造だなと思った次第。一度しか行かないマーケットは寂しい限りだからね。まぁ、コロナ禍が余程収まらないと行かない気がするが・・

徳重のマーケットに行ってみたら、これがまぁ、ガラガラで影響が出ているのかなと感じる。こちらとしては空いていて気分は良いが、集客という点においては暫くは頑張りどころかなと。コロナ禍で客足が鈍り、近隣の巨大マーケットでこれまた客足が遠のいてしまって、応援はするのだが、どれだけの影響があるのやら。数キロメートルのところに「街」みたいなマーケットが出来てしまうと様々厳しいだろうなと思う半面、どんなマーケティングが成されるのか興味もある。なんだかんだ言っても最近接のマーケットを応援する。なかなか賑やかになってきたなと感じた、本の前から殆ど動かなかった連休でありました。

とりあえず

「はっきり言って口下手だし、歌もうまくないけど、唄わせて頂きますと、まぁ、松本出身の彼はそう言った。誰が誰に忖度ではなく、貴方が国家をリードするためと、まぁ、国はそうなった。なった以上、従うしか無い。これが大切だ。どんなに腹が立っても決まったら従う。

でも、いや、お願いに上がった人達は全く違う。ダメはダメだと、社会の人々の心が入ると思うと、全部反対。ふぅん、でもそんなものなのだけれども、反対した人は全ての人の心が分かっているのでしょうね!凄いなぁ。最近、思うことなんだけど、蘇我馬子の時に、既に死んでいた聖徳太子とかね、何が言いたいかと言えば、過去を基準に威張るだけでしょって言いたいのだ。消えた過去を基準にされると、基準にした人も困るだろうな。

未来は解らない。過去は見えている。見えている過去に比較して、未来を見たふりをする。さて、どうしましょうかね。命を掛けて、頑張ったとしても、あぁ、そうだねと、無視されるのがゴールである。それがゴールで良いのか?

頑張った先に何があるかなどは考える必要はないです。只々頑張る、それだけなんですよ。こんな風になったらいいなぁと思うけど、まぁ、ならないね。それは孤独では無い、否定して頂ける社会に生きているではないか。今日もやっぱり頑張る、それだけの事だ。

漆工芸

石器時代からもので、残って掘り出されているものと言えば「漆」。縄文時代前だから一万年よりも前だけれど、そんなころから、今、日本と呼ばれている土地に住んでいた大先輩達は、漆を見出し、それを固め、生活で用いた。凄いことだ。漆工芸を、例え真似事でもしたことがあったら、それがどれだけ凄いことか解るはずだ。発掘されるものにおいて、竹に石のやじりをつけて、葛で巻いて漆で固めてある。その部分だけが一万年を超えて残っているものだから、その時代の大先輩が漆を接着剤として活用していたことが解るのだ。

漆って面白くて、その土地の環境において最も乾燥出来る、即ち硬化するのだ。漆チオールが完全に抜けた状態になった時、それが漆が乾いた時だ。この漆の乾燥というのが面白くて、十数度から四十度くらいまでが乾き、次は八十度を超えないと乾かない。愉快である。また、湿度が七十%程度ないと乾かない。濡れていないと乾かないという天の邪鬼さである。こんなものは他に知らない。

乾いた漆は酸・アルカリにも耐え、ガラス工芸のエッチングにも用いられる程だ。面白いことに、不純物があると乾きにくい。だから、割れた茶碗の掛けた部分を漆と砥の粉を混ぜたもので整形しようとすると、一ヶ月くらいほったらかさないと、次の工程に入れない。極めて上等の、純度が高いものであれば一日もあれば乾く。尤も、塗った厚さが精々、0.1mm位のところだが。この乾きにくさ故に、筆のムラを自然と隠してくれるのだ。

いきなり漆工芸がなんじゃいなと言うことなのだが、仕上がるまでに相当の忍耐が居るのだ。これは正に教育に似ている。国家百年の計であり、大臣が「明日からこうやれ!」って叫んで講義をすると、そこからコロナウイルス感染が発生しないとも限らない。事実、大学生の感染の3%が講義室感染だ。教育の場は漆工芸よりも時間が掛かる。効果が見えるのは次世代、自次世代だ。焦ってはならぬ。それが教育である。

オンライン人

常に周りに人が居ないと寂しくて仕方がないという、若者からのアンケートが上がっているが、一方で、SNSで繋がっていればそれで良いという声も大きい。教育・研究の効果が下がり過ぎるから、オフラインでの講義を実施しろと本社は叫ぶわけだが、世界的企業に置かれては、完全にオンラインで業務に取り組むことが出来る学生を大学は排出せよと仰る。まぁ、そりゃぁ、そうだろう。

視野は狭くなるのかもしれない。生きていくうえでの思いやりの幅を広げるためには、様々な現場における不可思議なやり取りを体得しておくことは無駄では無かろうと感じている。何等かを思いつくのは、そんな経験が役に立っているからだろうと、年を重ねてきたからこそ納得する。

それではオンラインだけで生活している人は、思いやりは無いのか?そんなことは無い。炎上しないような発言は出来るし、いや、炎上させる仕掛けも生み出せる。凄い能力である。一個人が関わることが出来る人間の数を遥かに超えた影響力だ。新しい思いやりの形であろう。それを思うと人と出会ったことが無い人が起業して、多くのサービスを提供していく時代に入ったと思うのだ。

今までだって「誰が買うんだ」というものは沢山あった。全ての人に価値があるなんてものは無くて良いのだ。前提を根底から変えないといけないのだ。それなのに、日本人だからこうあるべきだなんて考えなくて良いのだ。自分の満足は何故生じるのかを定量的に意識出来て、それをオンラインで共有して頂く発信が出来れば良いのだ。オフラインで逢えないと人の為に自らがあるという意識が生まれないというのは化石的発想であろう。時代は劇的に変化している。そんなところだ。

箱モノ

異なる意見の人は飛んで頂きますと言った人が、近い将来首相になるらしい。う~ん、まぁ、全国的に支持が集まったのだから、日本はそのような政治的運営が認められる国なのだなと納得するしかないのですね。これからもどんどん謎の箱モノが建ちまくるのでしょう。まぁ、今回も結果が分かっていて、その通りになったというだけなのでどうってことは無いのですが。

箱モノってなにも、巨大な校舎みたいなものばっかりでは無くて、身の回りにも落ちていませんか?クローゼットなんかを引っ掻き回すと、あれ?これは何だろうと箱を開けるとタオルが出てくるとか。そうやって部屋にある箱モノの整理をしたら、これが結構、隙間を作ってくれるわけですね。時々、狂ったようにやってはいるのですが、見落としがあったりするわけですな。

箱を取っておくと、その中に何かを入れたくなってしまって、それの蓋を閉めるともう大変。数年間は沈黙の世界を作ってしまう。これがいけないのです。何かちょっとこちらに避けておこうとすると、永遠の待避所になって、数年後には全部廃棄となることが分かっていながら空間を占拠する。箱だけでなくともルールも似たようなところがあります。まぁ、時代に即して変化させる勇気があれば問題ないのですが、それがなかなかままならない。

見えないところに見たくないものを収めてしまう。余程、気を付けていないとついうっかりになる。うっかりが数年の無駄を生む。だから丁寧に考えることが必要なのだが、なっかなかそれが出来ない。人間の限界なのかもしれないけれど、後になって捨てるものが国だったりすることの無いように、じっくり考えたいですな。

断絶

輸送用機械の赤字学が8700億円超えで、運輸業に至っては1兆円超えの赤字である。失業率が6.2%ということであるから、これはとてつもない数字であると言わざるを得まい。ただ、これはコロナ禍だけのせいでは無かろうと思うのだ。当たり前の事を後ろ倒しにしてきたことが、急激に表出しただけのことだと思う。身の回りで変だなと感じることは、間違いなく変なのだ。こんなはずは無かろうと思うことはきっとそうなのだ。

大学というところは奈良時代からあり方は随分と変容して、官僚を育てるだけの場所では無くなっている。まぁ、それは人口も増え、将来進むべき場所に置いても、得ていなければいけない知識が膨大に増えたからということなのだが、我が国において、その膨大に増えた知識を十分に体得出来て実社会での実践に直ちに役立つのかと言えば心もとない部分が多くあると思っている。社会ニーズの指数関数的な増加をどのように先取りしていくのか。特に、情報を扱う分野においてそうだろう。

全世界で同じエアコン、TV、冷蔵庫、自動車を求めていた時代は、世界中の工学部が同じことをやっていれば良かったのかも知れない。それでも春、秋の学会では発表内容はべらぼうに進化していたし、関わっていたシリコン半導体で言えば1997年にご法度だったシリコンと銅との融合、所謂象嵌(ダマシン)技術がIBMから発表された後から、それこそ指数関数的に集積度は上がり、プロセスの困難さも高くなり、それでも様々なプロセス技術の精緻化が進み、情報分野の進化に追いつこうとあがいている。これを地道に教育できている機関がどれだけあるのか?年寄りの教授以外、やっていない現状が恐ろしい。

産業の中核が情報を産み、扱うところになってどれだけの年月が経つか。それなのに我が国では遠隔授業となった途端に小学校では何も出来ませんというだけではなく、大学でも四苦八苦だ。最早、旧態依然に戻ってはならず、税金の投入先も自ずと決まってくる。思いきらないと世界社会と断絶されるのでは無かろうか。そんな恐怖を感じる。そんな前記講義がほぼ終了した大学で感じたことである。

隠さない

伝言ゲームって番組が大昔にあった気がする。伝わるうちに違う事が生まれてくるのを面白がった訳だが、結局、今現在、全ての出来事に当てはまるのかなと感じている。政治なんてまさにそうで、マスコミの忖度具合で全てが決まる現状においても、違和感を唱えるマスコミはない。

消費税を上げますよと、絶対勝つ状況になって言う。もうこれは確信犯なのだが、国民は皆賛成するのだろう。反対するなら歳を取るなと言われても、こればかりは仕方が無い。足りなくなったら取れるところから取る。誰でも出来るなって、そんな政治である。

大臣が思いついたように何かをいうと、怒涛の勢いで、全てが動いていく。組織的には正しいのかもしれないけれど、てっぺんが辞めると言った組織においても継続される。国民が選んでいない内閣なる存在が、全てを決まる。責任者が居ないのにそれを認める。マスコミは何も言わない。

綺麗な言葉、リズムは怪しい。なんだか解らないけど何か命令されて動く。悩みながらベクトルを決める。決めても変だなと思う。それは正しいのだと感じる。変な事は変なのだ。変と言えない現状は変なのだが、周りが正しいと言うから自分を隠す。私は嫌だ。変は変。変な小生が言えるわけでは無いけれど、悪あがきもしないのに税金をあげると公約する人を総理大臣にする。凄い国だと思う。

遥かなるワクチン

突然暗くなり雷鳴轟き土砂降りになる。映画のワンシーンだなと窓の外を見る。地響きのような雨音に驚かされる。毎日同じ様に繰り返される。

人間は良い加減なものだから、なんだか今年はこんな天気ばっかりだなどだ思ってしまうのだから始末に悪い。しかし、暑かった日々はなんだか短く、ようやくの秋の気配なのだが、ずっと天気が悪かった様に感じるのだ。

気象図を見れば、列島上に秋雨前線が横たわり、梅雨前線がずっと残っていたのかと錯覚してしまう。台風の威力は凄まじく、いきなり前線を連れてくる。極地の寒気を引き摺り下ろしてくるのだから凄まじい。

コロナ禍すら自国の自慢話にしようと言う昨今、人類にも秋風が吹いているなと感じるのだ。元々居たのはウイルスの方だ。後から来た人類の都合ばかり考えてはいけない。遺伝子を悪戯にいじってはいけない。数年後にワクチン病で絶滅なんてことになりはしないかと、しばらくは注射などはしないでおこうと思う私であります。

いちご王国

栃木県農業大学校にいちご学科が設立されます。これには「やられたなぁ」と思った次第。ここまで地域色を出し、特定産品による自立経営者のための学びを「学科」としてプログラムを組む挑戦的取り組み。これには勇気を頂けますよ。勿論、親方にがんじがらめにされている状況に置かれている身において、同様の取り組みは法的に難しいわけですけれど、この思い切りに感動致しましたよ。地域の特色とはずばりこれだと。

各県で同様の取り組みを持ったら、日本に本当の地方の時代が来るのではと夢見てしまいます。地方の時代って、何も国が地方にばんばかお金を落とすことではないですからね。様々な県が、その県の特色でお金を取得しているわけですが、お金が降ってくるからなぁんにもしない、切り株を大切に守っていこうみたいな地方になってはいけないのですよ。自立経営者を育てる教育の仕組みをしっかりと持つ。

教育は百年の計でありますから、直ぐに効果が期待できるかどうかは分からないわけで、そこをとやかく言うようなことが無いことを祈ります。いちご王国・栃木をリードする人を育てるという目標が素晴らしい。勿論、イチゴだけに限ることは無いのでしょうけれど、それを農業経営学科とか、陳腐な命名をしなかったところが図抜けている。ここに「やられた」感があるわけです。

帝国大学が出来た時から、西洋から学理名称を和訳して学部や学科を立ち上げてきたわけです。産業戦略工学なんて結構、ぶっ飛んでいたほうだったとは思うのですが、いちご学科には惨敗ですね。愛知県だったら何になったのかはわかりませんが、国産農産品で健康増進、国民健康保険料が下がるとなれば、これはもう国家的偉業ですよ。健康を内製化する。これこそ国家の基本だと思うのです。それを教育から取り組んだ栃木県に拍手を送りたい。そんな気持ちの私であります。