変えてはならぬもの

実によくあるお話。決まった形の懐石料理を提供する純和風老舗旅館。その居住まいとお料理の空気感で馴染の固定客が利用してくれる。それがメインターゲットで、SNSなどで興味本位でやってくる一見さんの富裕層は二次的顧客。日本文化を体験しようとするインバウンドの皆様にもそれが受けるから、変化させる必要など無い。

それが永遠に続くと思っていたら、オーナーが文化的サービス、居住まいは保つが、食事として「ビュッフェ形式、お酒もドリンクもアラカルトでインバウンドを獲得します!」と言い出した。オーナーは毎食後の御膳に残された大量の「和食」の有様が悲しくなり、顧客に応じたサービスを展開しようと相談し、それを実行できる番頭を雇用した。それは老舗に傷を付けると老舗を誇りに思ってきた料理長をはじめ仲居さんも辞表を出した。

成る程なと思う。大学と言うところも同じだ。変わるべきだが変われない。今に拘泥するというか、時代の流れに逆らって、基礎・基本を学ばせるのが大学と、正しい一面を捉えて変わらない。学科の壁にも拘泥して、ベルリンの壁以上に強固な壁を築き上げ続ける。城塞都市よろしく、外の世界が見えなくなる。強みを伸ばすと言っても、内側の強みであって絶対値では無い。

変わらぬ味は良い。しかし、食べる人は変わっていくのだ。我が家の味と言ったって、永遠不滅のものでは決してない。塩味や甘味を抑えた今風に変化してくのは、三が日、そればっかり食べ続けるという必然性がなくなったからでもある。
大切なのは次世代を育成する機関であることを忘れないことだ。偽善では無い。決して忘れてはならない。未来をイメージして次世代のあるべき姿を描き、自らを変化させていく。第五期中期目標中期計画に取り掛かっている方々は、肝に銘じねばならぬ。

干物

立冬を過ぎてぽかぽか陽気で、先の日曜日など、移動中の車中でクーラーを使ったりした。11月の半ばで25℃に到達するとはなんということであろう。それが漸く寒く感じるようになり、次の日曜日くらいまでは最高気温が下がり続けるらしいという。北極からの寒気の吹き出しがあるようで、流石にこれは寒くなるのだろうという気がする。昨年よりも今年のほうが、冬の季節になったと思われる昨今に、いよいよ日本の気候が四季から二季に変化したなと体感出来ている。

11月初頭からマーケットでは正月飾りが登場したりしていて、なんとも不思議な光景だなと他人事だったのだが、寒さを感じてくると、そろそろおせち料理の食材が入手できるのだろうかとやや不安になったりもする。新聞広告を見れば、満漢全席か?と見紛うばかりの、恐ろしい金額のおせち料理の宣伝が並び、こんなものも貧乏日本人では無く、海外インバウンド向けなのではと醒め切ってしまう。正月料理など地味で良いのだと開き直ることにする。

11月20日は「いいかんぶつの日」ということで、乾燥食材である干物の日という、語呂合わせもここまでやったらお見事だなという、笑って済ませる口上が気に入っているのだが、昨年は身欠き鰊はネットで購入したし、今の日本人で一週間かけて鰊の昆布巻きを作る暇人が居ないということなんだろうけれど、干物を活用した食材がどんどんと遠いところに行っている気がする。流通の勝利と言うことなのかもしれないが、日本の食文化って本当に守られていくのだろうかと不安になる。

実のところそんなものに拘泥するわけでは無いのだ。変わるものは変わっていけば良い。ただ、沁みついた文化と言うものは、心から離れていかないものだなと、古めかしい自分が嫌になったりはする。欲とはことなるものだから、なんというかね。執着でもなく、続けてしまうことがある。「いいかんぶつの日」から気温が下がってくるということも何かの巡りあわせか?年中行事に疲れ果てたので、どうなるかわからない。そんなのも良い。そんな気がする。

ふんどし

当たり前なのかもしれないけれど、なんというか、生きることへの執着と、なんというか、欲の葛藤というかね。他者を葬ってまでも自分だけは生き延びようとかね、敵失を欲したりね。そんな状態にあって、ビジョンを語れないと、どんどんと焦りと言うか、ますます功を焦り執着と葛藤が色濃くなっていく。色即是空空即是色。見事な八文字であるといつも思うのだが、他との比較はノーアイデアの裏返しだし、今ではなく未来でありたい姿を思い描くべきだと何故、気が付かないのか。

未来へのバイアスもあるのかもしれない。学び続けない者は日々落ち続けるわけだから、努力し続ける者を引きずり降ろさないと、今すら獲得できないわけだ。最近、大流行のネタの一つが103万だか106万円だかの税金控除の壁なのだが、そもそも論、男子が表で働いて、女子は家庭に籠って子育てしていろという貧困な知性から生み出された政策であるのだが、それを未だに愚かな国民は守り続けようとしている。労働対価の賃金において、その場を維持する国家に納税せよということなのだから、そもそもそんな定額控除の思想そのものがバカの戯言である。

戯言論者にバカ呼ばわりされたくは無かろうが、事実であるから仕方がない。必死に今を生きる場が与えられているのであれば、正しい政府に対してであれば納税は当然である。生きる場はそこだけではない。ビジョンの中にこそある。与えられた地位や、金銭に拘泥する愚かさをかなぐり捨てねばならぬ。到達したいビジョンを高め続け、生きる意欲さえあれば良いことに気が付く。

他人のふんどしで相撲は取れぬ。一方、自らのふんどしで相撲を取っている輩を見るのは哀れで仕方が無い。哀れで気分が悪ければ退場するのが最良の選択肢である。ものづくりの時代は遠く去り、ことづくりも幻想である。ことを活かせる場をビジョンとして描き、そこで溌溂とことを成す若者と、ものづくりを成す。場づくりこそ生きる理由である。執着と葛藤を捨ててこそ浮かぶ瀬もある。

情熱

薬師寺第124世管主 高田好胤氏に出逢ったのは14歳の時だから、50年近く前ということになる。未だにその情熱溢れる語り口を、そのご尊顔と共にはっきりと思い出せる。生意気なガキだから「北枕は寒い方に頭が配置されるから健康に良いのだ」とお釈迦様の涅槃と合わせてされたお話に、わずか2mの距離で影響があるわけが無かろうと思ったのだが、隙間風が当たり前の修業の場においては寝所において、北風が入り込むのは当たり前で、なんとなれば北枕の意味があるなと、漸く悟った。

生意気ということに執着していたわけでは無かろう。終着など何もなく、行き当たりばったりに生きていたに違いないのだが、それでも高田氏のお話に引き込まれたのは、その人の熱意だったのだと思う。熱力学の講義では無いのだが、熱はエネルギーであり、高い場所から低い場所に移っていく性質がある。熱意が人を動かすのは、自らよりも明らかに熱意が高い人と何等か共鳴したからに他ならない。どうでも良い輩は、人を説得できないのは、共鳴が無いからともいえる。

選挙なんて正にそんなものだろうと思う。言っていることはそれぞれにしっかりとした主張があって、それこそ熱意を持って立候補するのだが、候補者と共鳴するチャネルが無ければ「何か言っているな?」で通り過ぎてしまう。これには聴き力の無さも関係する。利己主義で他者を想う気持ちが無い者には聴き力が無い。聴き力が無いものに何を語っても無駄だし、他者と共鳴出来ない無聴き力者は哀れとも感じる。

昨年、久しぶりに薬師寺に出掛けたのだが、高田氏が情熱を掛けて浄財を集め西塔を建立され、その後、国宝東塔が修築され公開されたからなのだが、その地に立つとその時の講話が鮮明に蘇ってきた。それ程に強烈に魂に刻み込まれた講話だっということであろう。共鳴出来て良かった。そんな方と対面出来たことを今更に幸運と感じている。魂を磨かなければ。そう思う。

本社考

気温が上がったり下がったりで、全国的に体調不良者が多く、コロナ・インフル・肺炎という三重苦患者が急増しているとの事。皆様、ご自愛のほどを。時節の挨拶は似合わないからこれくらいにして、本社と大学改革の関係性のお話。これはあくまでも小生がY学長に連れられて文科省のお役人部屋に連れて行って頂いた時からの経験談なので、別の方の経験談とは異なるので要注意。

気が付くと20年以上も前なのだけれど、当時は国立大学を減らそうという圧力と言うか、それがトレンドとなっていて、名工大ならではのというか、領域横断思考が必要な工学部としてはこうだろうなという思考で改革案を持って行くのだけれど、本社の皆様は改革せよと言っておきながら「それではダメですね」と撥ねつけてくる。若気の行ったり来たりで「かっ」っとなるのだけれど、やり取りの度に良くなっていって、最後は財務省と戦って頂けることが解ってから、本社って凄いなと感じた次第。

何でこんなことを言い出すかなのだけれど、本社に成す提案について、きちんと腑落ちしたものを持っていくわけで、そうであれば、本社の狭いテーブルで複数名が眉間に皺を寄せて提案書を睨みつけ、いじめの様に迫ってくる。それは決していじめでは無くて、大所高所から「もっとこうした方が良いのでは無いの?抜けがあるのでは無いの?」というご指導であったわけだ。その時に、自らが主導的に考えた案で無いと直ぐにばれるし「そんな提案にはお金は付けないよ」となる。

「そこまでこちらの意を理解して、思考された方に出合ったことが無い」とお褒めのお言葉?を頂戴したことが1度だけある。褒め殺しかと思ったけれど、ちゃんと億のお金を頂戴出来たからお役目を果たせたなと、後でほっとしたことを覚えている。どんなポジションにおいても、リーダーであるならばそうあるべきだ。押し付けられた提案リーダーであったとしても、自分事として受け止め、そして責任を背負って本社のエスカレーターを上らないと、帰路には真っ暗な視野しか生まれない。これからの皆さんへの花向けの一言である。

ゲート機能は?

内省ということを考えると、人材育成の出発点にこれがあるべきだと思うのだ。もっと言うと、内省の数だけ大学があるべきなのだろうけれど、一人のために、更に、その学生が博士課程まで進学したとしても9年間しか維持できない大学と言うのは経営的に成り立たないから、しょうがないから大くくりな学問体系を用意して、志望者を向かい入れることになる。それが今の大学ビジネスである。

ゲートビジネスとでも言うのだろう。ゲートを潜りたい人に「こんなゲートがありますよ」というゲートを用意しておくと、ゲートの出口を想定した顧客が手を挙げてくる。入場倍率が保てるゲートは幸せで、昨今、60%未満の占有率にも満たないゲートがあるようだが、こうなってくるとゲートの運営と言うか、管理がずさんになってしまう可能性がある。戦後の日本再興のための教育分担者として私立大学の協力を得てきたわけで、もうそのゲートの出口が無くなっていますよとなったとしても、もう閉じろとはなかなか言えない。

国が管理するゲートにおいても同様であるのだが、今のところ多くのゲート管理企業は、自らのゲートのあり様を根本から見直そうということには手を出さず、最長6年のゲート管理者の任期の間、なんとか凌いで次にバトンタッチしていく。美国の大統領が変わると貨幣価値ががくんと落ちる国において、そうならないための一つの手段として、ゲートの高度化があるのだろうが、資金難はいかんともしがたい。

社会人博士課程者を増やそうということは、ヨーロッパ諸国における企業人の対話が、博士取得が前提となっているから、その前提を満たすためにライセンスを売ろうというゲートを設けるということなのだが、ゲート価値というか、アウトカムズを生み出せる人材となってゲートを出しますよと約束できないといけないわけだ。アウトカムズ評価を苦手とする我が国の文化の中で、大学がゲートとして存置しきれるのだろうか。挑まねばならぬ。

研究会考

研究会とか講演会とか、まぁ、聴く側にとってみれば聴きたい内容をしゃべって頂ける方が壇上に立って、なんというか、紅葉見物というか、そんな気持ちもあるでしょうが、会を作る側はそうはいかない。お願いした人がN賞獲得が決まりましたみたいになっちゃうと、どうやってガードするんだみたいな恐ろしい案件が発生したりするが、まぁ、そんなことは一生に一度くらいだろうから笑い話になるだけなのだが、知恵をお持ち帰りいただこうと考えるわけだ。

会を構成する場合、聴衆からお金を頂くのか、とあるファンドからこちらが開催費用をお預かりし、その趣旨に沿った会を形成するのかでまるで取り組みが違ってくる。お金を頂いちゃうほうが案外気は楽で、そもそも学会などで実施するものは学会の看板で運営されるから、お金を支払う側も、それなりのレベルが担保されていると安心して頂けるし、こちらもそれをイメージして構築するから何とかなる。もちろん、大勢のご支援あってのことですけどね。

こんな会を開催することが、ファンドの胴元にとっては有難いでしょ!と提案を書き、採択を受けて実施するわけだから、胴元を喜ばせないといけない。それだけではなくて、もちろん、参加者も喜ばなくてはいけなくて、開催場所もそれなりの特徴を出さなければならないから気苦労が多い。思い出してみると、過去、新幹線の駅から在来線、在来線の駅からバス、バス停から徒歩で15分くらいみたいな会場で講演をさせて頂いてきたが、会を創られた方の苦労は凄まじかったろう。今更ながら感謝するしかない。

感じるのは「完成されたお話には誰も乗ってこない」ということ。ひたすらファシリテータが問いかけまくるということになる。新規のテーマを創出するための化学反応は生じにくい。「大家」が現れちゃうとどうしようもない。その方が何かに挑戦しようとしているならまだしも、モナリザに一筆加えてみろ見たいなことを言われてもね。研究会構築の難しさ。永遠の課題である。

活かされることを楽しむ

楽に生きるか楽しんで生きるか。同じ漢字でもこれ程に異なる意味を表現できる。漢字の楽しさである。長く生きるか活かされることを楽しむかという方が、小生的には感性的にマッチする。なんか、ず~っと似たようなことを繰り返し、少しずつ上手になり、そして慣れていくことに喜びを得る方々も多い。政治家なんて正にそれじゃぁないかな?古い講義ノートにしがみついて、百年一日の如くに、教壇で念仏を唱え続ける方もその部類か?

今は過去であり、思い描く未来もまた過去になる。思い通りの現在であれば、それは描いた時点において既に過去であったわけだ。思い通りにならない日々こそ未来であって、そこにこそ人の楽しさがある。それが楽しんで生きる正体であって、予定調和の中に安寧を見出すことに、時を費やしたくない。それは小生の有り様では無い。

想定通りにならなかったからなんだというのだ。次期米国大統領候補として彼の方が手を挙げた時点で勝敗は決していたわけだし、その直後から円安に振れガソリン代が高騰し、更には、温暖化対策が片隅に追いやられることは目に見えていたことである。平均気温が短期間に上昇するということは、農水産物の有り様に劇的な変化をもたらすのは当然で、その対策としての工学の有り様も大いに変化してくることも見えていた。小学校ではその事前教育は成されているのか?

子供たちの未来に付けを回すな!という叫びは美しい。正しいからね。でも、延々と繰り返されてきた人類の歴史である。過去を学び未来に挑むことしか出来ないわけだ。10年前の地球環境と比べても微分値は大きい。インドネシアで巨大噴火が発生して、粉塵が成層圏を取り巻いたとしても、劇的に気温が下がるわけでは無かろう。それも楽しんで生きねばならぬ。所詮はそんなもんだろう。活かされることを楽しんで生きてみようと思う。

志望時期

素直な喜びと驚きなのだが、高等学校生が進路として大学を選択するとき、その基準の筆頭が「学びたい内容の授業があるから」というアンケート結果。喜びは勿論、学ぶために選んで頂ける「可能性がある」ということ。驚きは「就職が良いとか卒業が簡単」みたいな、なんというか、現場人間からすると二次的価値が選択するための筆頭にこないことだ。どうせ政治は変わらないと、投票行動に移らない大学生を見ていると、自らこうありたいという願望が無いのではないかと思ってしまっていた。

もっとも、志望の第二位以下は就職に強いとか資格が取れるとか、まぁ、大学卒業後のキャリアパスに関してだから、大学と言う場所を学問で満喫と言うよりも、就職予備校と言う意識が高いことも見て取れる。勿論、学生さんたちの自己都合だから否定などするはずもないのだが、これだけ世界が動いている時に、高校生の時に描いた5年先の社会情勢ってそのまんまかな?と気を付けなさいよと老婆心が出る。

もう一点気になるのが、何時、その大学を選びましたか、気になりましたか?ということなんだけど、ピークが高校1年生の4~6月なんだよね。勿論、3年生の4~6月というのももう一つのピークになるのだけれど、決定するのが1年生の入学直後というのも、これまた素直な喜びである。将来を描いているからこその気になる大学と言うことなのだろうと、勝手に信じたい。

有名だからとかブランドがあるからという理由も、親が薦めるからという理由もあってよい。奨学金がもらえるからという経済的理由も当然である。そうなのだが、若者が「学びたいことを意識の中に置いている」という事実には鼓舞された。嬉しい限りである。

学びは

アンテナが高いお企業様は、要するに嗅覚が鋭く、新規挑戦案件に向けた無料で高品質の講座が受講できるとなると、とことん、学びそして智慧を高めていく。知恵と智慧は違った意味で、この戯言では活用しているのでご注意を。世の中には大きなファンドで社会変革に挑戦する企業や大学をアシストするものがある。その成果は挑戦者が最初に活用する権利があるわけだが、そこだけに閉じてはもったいないので、御上はそれを活用して新たな事業創出に挑戦する人を育てる仕組みを持っている。

その存在は秘められているわけでは無いのだが、受講する敷居は高いのは間違いないのだが、Youtubeを活用して講座を公開していたりするから、無意識に見ている方もいらっしゃるかもしれない。しかしそれでは勿体ない。勿体ない理由は、講座に出席すると、ビジョンは違っても、同じ機能を活用しようとする人との交流が成されないからだ。教育の価値は人同士が活性化させあうことにある。

ネットワーク大学もそれはそれで良いのだが、学ぶ他人を見て、学びの成果をあんな風に使おうとしている人が居るのだと、自らとの違いを知り、そしてそれを認め、納得し、自ら活用できる考え方があれば、それを活用させて頂く交流の機会が少なく、また、交流密度が低いことが残念なところだ。卒業したら二度と同級生と会わないというのはもったいない。

年末調整で、扶養者控除の傘の下に入る金額などが問題になっているが、そんなルールそのものを吹っ飛ばして、一人一人が思いっきり活躍できる社会に向けて動いてく為には、質の高い学びが広く、学びを他の人のために活用しようという志を持った人に届くことが重要だ。どんな立派なお神輿も、蔵の中で大切にされても価値は無い。人々の活性化と言うOutcomesを生んでこその価値である。学びは価値を持たねばならぬ。そして学んだ者はOutcomesをもたらさねばならぬ。