セルフヘルスケア

2030年には存在自体が怪しいが、本社の予測によれば個々の体験を感覚情報や心理状態なども肌感覚で記録出来て、それを編集・伝達・体験・共有できるメディアが出来るとのこと。出来るのかもしれないけれど、そんなものを欲しがる人がいるということに驚いてしまう。有識者会議で出てきたお話だから、有識者はそれを欲しているということなのかもしれない。

人が旅先の話を延々とされて、それを聞かされるのは苦手である。それこそ、感覚情報などが全く共有できないからなのだが、そんなものを共有させらるよりも、興味があったら自分でそこに出向くし、そうでなければ右から左へ出て行っておしまいである。他人の心理状態など、押し付けられても困るし、自分の心理状態なども解っていただきたくない。千差万別の考え方があって愉快である。

ただ、体調不良など、自分の情報は分かって欲しくは無いのだが、公共交通機関で席を代わって上げたいなと、人の体調不良は分かって上げたいと思うことがある。これは身内にそんな人が居たからなのだが、自然と目の前の人の不調が分かるようなセンサーというものが出来るのではなかろうかと思ったりする。身に着けている携帯がセルフヘルスケアステーションになっている時代は直ぐに来るのではと思ったりする。

生命は必ず老いるのであって、非侵襲診断機器としてのAIにはもっと発達していただきたいと思っている。医学・生理学・心理学・工学等々の横断的知識がキャッチボールしながら、早急に作っていただけないかなと願っている。たった5分の問診のために病院に呼び出されて、それじゃぁ2か月後ね、みたいに人の時間を奪う行為にさらされたくないからなのだが、そんな時には「こちらの嫌がっている気持」が伝わらないかなと思う我儘さである。人間の勝手に笑ってしまう。

休暇にて

鶴舞大学に奉職させて頂き、気が付けば30年の齢月が流れたわけだが、某所では30年続けて頑張ると、なんと土日を除いて連続10日間のお休みを頂ける。その権利を行使すべく、今日よりお休みを頂戴することになっている。従って、戯言もお休みを頂くことにするが、あくまでも、これも戯言だから真実かどうかわからない。気分次第だな。

休暇申請すらやり方を知らなかったものだから、危ない危ない。危機一髪で無断欠勤となるところであったが、拾う神に救って頂き、無事、休暇の獲得に成功したわけだ。人に厳しく冷たい人事課であるから、そう簡単に休ませるものかと、様々なトラップを準備している。そもそも「気が付いたら貴君は休暇獲得の権利がある」というレベルでの通達だからね。

これ以上連続で労働にいそしんだら死んでしまうというところまで来たので、折角の機会だからぼけっとさせて頂く。戦線離脱の予行演習というところだ。もう、その場から去りなさいと天から声が聞こえてくる。その声に応えようとしているわけだが、辞めるのは良いのだが、次がどうなることやらということで、ずるずるとしているわけだ。

そんなことを考えながらお休みを過ごそうと思う。作業ではなく、思考し企画を立て実行し続けてきた。DXが一気に進んで、作業が職場からなくなってくれれば良いのだが、未だに、印鑑だの手書きだの、旧態依然の縛りが襲い掛かってくる。去るべき時だ。そう思う

暑い

原発が良いとか悪いとかそんなことを言いたいのではないのだが、創エネの観点から、この灼熱の状況でもエアコンが使えませんとか、アラートが出てこないのは凄い事だなと。東北震災の後、50Hzエリアで電力不足に陥り、計画停電などが行われたわけだ。工場が間欠運転状態となり、生産性が著しく低下した惨劇を乗り越えたのだろうと、創エネと送配電、そして電力消費者の省エネ努力の結果であろう。あろうというのは、何も定量的なデータを持っているわけでは無いから、勝手な想像の範疇であるからだ。

海外から多くの観光客が安い日本を求めて大挙して訪れていらっしゃる。安いから取り敢えず行ってみようということで、いらっしゃるのだろう。海外客に併せた価格設定では、日本人は何も食べられないわけだが、それでバランスしているのかどうかは解らないが、オーバーツーリズムという混雑のお話は聞くが、それによるエネルギー不足と言うのは航空機の燃料が不足したこと以外には聞こえない。大型ホテルがフル稼働しても、電力不足には陥らないということだろう。

民生機器の省エネ化は、蛍光灯がLEDライトに置き換わったことだけではなく、エアコンのコンプレッサーなど、乾いた雑巾から泉の如く水があふれ出すように進んでいる。もう、これ以上は無理なのではと思っても、半年経過すると、この部分がこれだけ省エネになりますという、もはや手品も真似できないであろう位の余剰電力があふれ出す。ベース電力の原発を停止させていたとしても、超高効率火力発電によって電力を賄ってしまっている。

勿論、CO2排出量の増加は免れないわけで、国内で産業機器を稼働させるためにはそれなりの巨大な電力が必要になるのは当然のことである。世界から見た日本の技術のプレゼンスが下がっている状況において、巨大な電力を買ってくれないものづくりに費やすことは、地球環境の破壊行為ではないのか。灼熱の夏だからこそ、静かに考えてみたいものだ。

学びませんか?

本社の急速な少子化に伴う将来を見据えた高等教育の在り方というとんでもなく長い物語を拝見するに、民間企業殿はリスキリング・リカレントに対して、専門業者に委託する割合が、地域大学に委託するよりも遥かに多いとのこと。要するに社員に期待する変化速度を気にするのだろうなと考えたりする。ちょっと勉強してこいという時に、期待するのは、戻ってきたら「この作業が出来るようになっている」ことなのだろう。自分で考えて、問題を見出し、その解決に向けて提案するということは期待され無いのだろう。

諸外国では全く逆というか、数年ごとに大学で基礎を学び直し、新規を学ぶということが給与の中で当たり前の如く行われている現状がある。それはそうだろう。知恵ある者を雇用している方が、30年前に大学を卒業して、古い知識のまま、そこに座ってエクセルを開いている者よりも収益効率が上がるに決まっているのだから。学びたい欲求を閉ざされ、自動化によって無くなるべき作業をやらされる苦痛から解放されるには、転職しかないというこの国の何処に未来があるというのか?

ただ、本社としても答えがあるわけでは無い。国際競争力35位というポジションに甘んじているのではないが、どうやったらそれを効果的に上げていくのかは、学びと経済という単位時間の異なる世界の出来事に対して、支社に強制的指導はしにくいであろう。地域の特色もあるしね。悪い方向に回り始めたコマは倒れるまで悪い方向に回り続ける。経験的にはそう感じている。破壊的イノベータによってのみ、そのリセットは叶うのだが、多くの場合、それは期待できない。

知の総和を上げるということなんだけど、現状、企業の皆さんが新たな学びを求めているとは思えない。更に言うと、一週間の大学を除いた場所での学びが5時間以下という大学生が過半数という現状から、この国には未来は無いなと、正直思うのだ。必死さが無いというかね。美術館や博物館が満員御礼で入場制限が掛かったとかのニュースは見たことが無い。夏休みの小中学生諸君。君達に期待する。学んで欲しい。とは言うものの、こんな駄文を見てはいかんよなと、自虐してみる私であります。

台風シーズン到来?

台風の活動がいよいよ見えてまいりましたな。直ぐに東海地域に影響があるというわけでは無いのですが、灼熱の夏が来れば、海水温度がべらぼうに高まって、必然、台風がやってくる。上昇気流があると台風が来て空気と海をかき混ぜてくれるわけですな。上昇気流が無い、平穏無事な景色であるならば、そこには台風が起こらず平穏無事。なんとなくなんだけど、どこかの政治状況に似ているなぁと、まぁ、平穏無事というのか何も発生していないのか。台風が発生しそうな天気予報を拝見していて思った次第。

梅雨明けから突然体温越えの気温とか、何と申しましょうか、歩いているだけで日干しになっていくのがわかりますな。吹き出すよりも乾いていく汗に危険を感るわけですよ。熱中症一直線と言うかね。ここまで暑くなってくると、表で何かをしようと言う気持ちになれないわけですよ。ステアリングを握ってみても、パネルに浮かぶ39℃の文字に眩暈がしますな。給油で外に出ている間に、干からびていくような。日中は出かけないのが吉でしょう。

小中学校は夏休みに入ったそうですが、公園の横を通っても、遊んでいるお子様が皆無。エアコンの効いたところにいるのかもしれませんが、友達同士のコミュニケーションが無い状態で、社会人になっちゃうんだろうなぁ。まぁ、VR空間で友達と対話しているのかもしれないけどね。まぁ、これからのコミュニケーションというのはそんなものなのでしょう。世界とも繋がりやすいからね。悪いことでは無い。時差の少ない国の人達と仲良くなるというのはとても素晴らしいことだと思う。思うけれど、実際のところどうなってんでしょうね?

コロナも新しい種に生まれ変わり、どんどこ拡散していく。地下鉄などでゲホゲホしているおじさんをお見掛けするわけだが、検査などはしないのかしらと、密閉空間の恐怖を味わうことになる。台風は沖縄の南をかすめ、週末には大陸に上陸するようだ。本州への強い影響はなさそうだが、海水温度が30℃を超えているそうで、上昇気流によってどんどんと成長するだろう。今年の夏の台風はどんなことになるのだろう。灼熱と台風。どうなることやらである。

梅雨明け

夏がやってきた気がする。暑い、ひたすら暑い。歩けば汗だくになる。駅からほど近い鶴舞大学への道のりですら、手拭いを絞れば汗が滴る。地響きの如くの蝉の声。叫べばよい。ほんのわずかな地上を謳歌するがよい。そんなことを思いながら吹上駅からの道のりを楽しんでいる。35℃を超えますと言われても、普通だなと感じるようになった。50年前の30℃を超えますという感覚かなと感じている。

視覚・聴覚的幻想かと、勘違いかなと思うのだが、あふれ出る汗が勘違いでは無いよと教えてくれる。水分を摂取していないとあちらの世界に渡ってしまう。そんな恐ろしさすら感じる。冷房も恐ろしい。室内外の温度差が激しすぎて、人間が耐えられるヒートショックの閾値を超えているのではないかと感じる。身を守るのは自分だけである。無意識のクーラー病と言うか、バージョンアップしたコロナ禍がはやり出したのも、世界的なヒートショックで体が疲れたところに変異がマッチしたのではないか?

積極的に水分を補給したいのだが、移動、討議で水分補給の間が無い。飲める時に飲んで、何と言うか、ラクダのこぶではないのだけれど、違う人類になっていきそうな気がする。水分を保っていられる器官が発達しちゃったりとかね。地球温暖化人種とか、500年後の人類に歴史づけられたりしてね。この時代のせいで、水膨れの体になったのだと恨まれるかもしれない。

梅雨明けだが、どうも「梅雨明け三日は晴れ」とかという伝説は通用せず、思いっきり夕立を覚悟しないといけないらしい。来週は台風がくるかもしれないし、来ないかもしれないしと言う、どうも大気の状態が大きく変わったようだ。地球の有り様が変わっても、人間はちっとも変わらない。旧態依然が大好きで、視覚というお墨付きが好きらしい。時代の変容で資格なんて意味がなくなるのにね。基礎力を身に着けず、形だけを整える。クリスマスケーキとうわべ人間。冷凍保存で、溶けたら喰われておしまい。よく似ている。

時代は換わっていますよ

現在が第4期中期目標・計画期間なんだけど、第5期は本気で本社は首を切りに来るのだろうなと感じている。本来やるべきことを腰を据えてやるのが良いのだけれど、大切なのは腰を据えた結果、どんなアウトカムズが生まれたのかと言うことだ。そして腰を据えてどんなアウトカムズを産もうとしているのかだ。単に必要と思うからなんてことでは許してはくれない。我が国の教育に必要なのだ!なんてこぶしを振り上げても、大きな足で踏みつぶされて試合終了である。

若者が動かないから、動く教育を見せろという。それはそうなのだけれど、雨後の筍よりも増え続けるAI・IoT人材なのだけれど、それは間違ってはいないと思う。ただ、猛烈に、強烈に発展が続く分野において、よーいドンで自国で出来る基礎教育をスタートしたとして、4年後の卒業時に、その基礎で応用に対応できるのか?半導体分野と同様に、太刀打ちできないなんてことになりはしないか?今、大学で初等教育で成そうとしている情報分野教育を中学・高校にシフトして、大学ではもっとウルトラに挑まないといけないのではないか?

国が主導でやらないといけない。教育に掛かる相当の予算をつぎ込んでやっていかないといけないことであろう。ただ、妙なばらまきと言うか平準化と言おうか、尖がったお金の使い方をしないこの国の事だから、結局、手は打ったが世界に負けてしまったという、いつもの繰り返しなのでしょうね。全ての産業界でAI・IoT人材が足りないなんて言っているけど、それって10年以上前から解っていたことで、AIやロボットを導入すると失業者が増えるからなんて言っていてこうなっちゃったわけだよね。

ロボットにしろ専用機にしろ、人が近くにいてはいけないのだ。人体から排出されるナトリウムをはじめとして、様々な原子・分子はエレクトロニクスを破壊する。特に繊細なセンサに悪影響を及ぼす。すると工場は無人化に向かうわけで、世界はとっくにそっちに舵を切っている。勿論、人が介入する部分はあるが、従前のように人が群れているものづくりの場は限られた領域となっていくのはやむを得ない。自分を現場に置かない在り方を工学の学びの場では獲得しなければならない。それは歯のくいしばりと血のにじみ無くしては得られないのだ。当たり前だ。

アルディーノ

T市のイノベーションセンターは、しっかりとした地元中小企業様へのサポートをされていて、その活動状況をお伺いして意見交換をさせて頂いてきたのですが、この春から漸く卒業させて頂いて、次にバトンタッチをさせて頂いた。コロナ禍発生からオンライン会議になったのだが、そうなる前のことだ。アルディーノという、まぁ、ラズベリーパイより低能力なんだけど、目的によってはこれで大活躍というワンボードマイコンを活用して、現場のDXの指導をしているという事例をお伺いした。

その半年くらい前に、M市のお弟子さんが機械の稼働量を可視化するツールをアルディーノで作って、工場が活気づいたというお話を聞いたばかりで、小生もなんかやってみようかなと思って、そのままほったらかしていた。なんかやってみようというレベル感で、なんかやった奴は居ないわけで、最近、これをやってみようというターゲットが出来たもんだから、久しぶりの機械制御にわくわくしている。

枯れた商材で、コンパイラなどもとても使いやすくて、ネットでの情報も溢れかえっていて、すぐにでも取り掛かれるリカレントで頭の体操になっている。学生時代には初期のC言語であれやこれやと機械制御をしていたものだが、40年ぶり(もうちょっと少ないかな?)でもやっていると思い出されてくる。リカレントとしては丁度良いタイミング・・ということでもないが、やることがある内であれば実益ということで、やる気はかなり高くなる。

考えてみればモーター制御ドライバなどが簡単に手に入り、電子リレーだの何だの、モノタロウで一日でやってくる。その道の方には何をいまさらということなのだろうが、面白がった者勝ちだからね。エレクトロニクスに対する妙な知識はあるしね。何かピピっときたものがあったら、それを温めておいて、何かトリガが掛かったら、一気に取り組んでみるのがよろしい。会議でごちゃごちゃと後ろ向きな話をするよりずっと精神の健康を獲得できる。活動の場を換えてみる。大切なことだ。

集中力

久しぶりの連休ではありましたが、やっているのはいつもの通り、書類との戦いと言うか、本社から頂戴した有難いお仕事と言うか。まぁ、それなりのお仕事を頂戴するということは「それなり」の者ということなのかもしれませんしね。嬉しくは無いけれど、過去、先人にお願いさせて頂いていたバトンを受け取ったということで、そのお役を必死に勤めさせて頂くということですな。

歳を重ねるごとに「休暇」という状態から遠ざかっていると感じますな。喜ぶべきなのかもしれませんが、もうちょっと突っ走り続けることに疲れを感じるというか、もういいでしょうというかね。先人からのバトンということを考えてしまうと、まぁ、受け取るしかないのでしょうけれど。いずれ代役は必ず現れて、お前なんぞいらん!と言ってくれるのをひたすら待つということなんだけどね。

本社のお仕事に限らず、大抵のおかみのお仕事には締め切りがあるもので、信じられないストレスになるわけですよ。それでも電子化されてきていて、送り返せとか処分しろとか言われなくなっただけ、ほっとするところがありますな。10年前は確実に紙の世界だった記憶があるのですよ。なんか、アマゾンの配送と見紛うばかりの巨大な、重い箱がどかっとやってきて、10日間で評価しろとかね。今では流石に電子化されて重量からは逃れられてはいるものの、「何処でも出来るよね」という圧力はすさまじい。

兼業扱いになって職場のお仕事とは切り離されるわけだから、基本、深夜か休日に戦うことになる。中身にはふれられないけれど、見事なものだなというところから、時間泥棒のレベルまでスペクトルが広い。その経験は間違いなくお仕事に、自然と活きるものだから、組織にとっては決して無駄にはならない。若手支援とかになっていくわけなんだけどね。先の三日間は天気が宜しくなくて、諦めがついたからよろしい。職場に行って嫌味を言われるよりずっと良い。連休と言う名の労働細密充填状態であった。

安心と安全

丁寧な研究が良い。丁寧であればあるほど、新しいことが見えてくる。先日大先輩の彫塑家の方のお話を頂戴したのだが、漱石の夢十夜では無いのだが、入っているものを削り出すのが彫刻で、それはマイナスである。彫塑は足して作るからプラスである。それを美しく作り上げるのが彫塑家である。結論が決まっているのが彫刻家、結論を創造するのが彫塑家。妙に腑に落ちた。

ビジョンからバックキャスティングで素晴らしい社会を描き、そこに到達するためにはどんな要素技術が必要なのか?それを見出し、そしてそれを解決していく。未来を想像し、新しきを創造する。ビジョンを達成するという大きなお話であるから、一つの要素技術でなんとかなるものではない。積分していくわけなのだが、今、全てが揃うわけではない。次世代の研究者にバトンタッチということになるが、それを受け取る者が出てくるかどうかも分からない。彫塑家と研究者の違いはそんなところか?

開発はゴール設定が「売れ続ける」というところにあるわけで、研究とは全く違う。これも先人がずっと前の学長が「気軽に言うな!」と怒号を上げられたのではっきりと覚えている。先人の教えに無駄は無い。「研究・開発」という連語を当たり前の如くに使った者に対して、「研究と開発は全く別物だ。そんなことがわからんのか!」という、これも腑に落ちた。

もう一つ、「安心・安全を御社は作ってますよね」ということに対して「安全は当たり前、安心は到達し得ない」と世界トップの商材を世に出し続けられた方の重い一言は忘れられない。安心に到達する為に、プラスし続けながら、時にはがらっと入れ替える必要がある。売り上げでは無い、人の安心は時代によって世にある道具が変わるのだから、安心への因果関係が変わる。だからそこ研究が必要なのだと。宿題の締め切りをとっくに過ぎて、取り繕うかのごとくに発表の前日に提出してくるような輩が作る商材に安心は皆無だ。それは間違いない。