PR考

KGIと関係がありそうだなと思うのがPR。なんだそりゃと思うかもしれないけれど、PRって自己宣伝では無いからね。アピールと勘違いしてんじゃないのと、自律機能と他律機能の区別がつかないというか、意識出来ていないというか、そんな人はほったらかすわけだけれど、まぁ、大学ってPR出来ていないなというのも置いておいて、ちょこっと他律機能からPRを語ってみたいと思ったわけだ。連休前だしね。

連休だから何だという事も無いんだけれど、4月30日から5月2日までを年休を獲得して頂くと、それなりに大きく休めるなという気がする。気がするのだが、お上からお仕事が飛び込んできた場合はその限りでは無く、野望はついえるわけだ。お上から飛び込んでくるというお仕事はそれなりに大きくて、ここにPRを呈するのチャンスがあるわけだ。

Public Relationsだから社会は当方にこんな期待をして下さいとか、こんな他律機能を活用して頂きたいとかを展開していくわけで、それなりの聴き手が油揚げ持ってやってきたら、こちらからは鍋とコンロを引っ提げて一網打尽ではない、美味しく調理して差し上げることがPRを呈することになるのだ。自分達はこんなことが出来ますよなんていうガキの使いでは無いのだ。

社会がこの次元を保っているのは我々の他律機能のお陰であると、「貴方無しでは我々は存在しえない!」と思い込んで頂くためのPRであって、自らの他律機能と社会との関係性を腑に落として頂く行為がPRである。他社より廉価短納期で信頼に応えるなんてどうでも良いのだ。それは自虐である。折角の連休なのだから熟慮してみるのが良い。

戦略考

とあるところでのお話なんだけど、戦略立案部局における合否判定というか、よく頑張りましたと褒められるかどうかの指標が、その戦略が採択されたかどうかであると。戦略を創る担当者からすると、それが正しいKPIみたいに感じてしまっているらしい。企業でも、ミッションを意識してそれを達成する為に起業して、そのミッションの上に共有するビジョンを策定し、そのビジョンを達成する為に戦略を立てるところまではいく。で、どうなの?

どうなの?というのは、戦略を分解して、定量化して、それを達成する為の戦術を立てて進めていきましたとなった時に、戦術の結果「こうなりました」と結果が出たら、それは戦略が求めたものなのかどうなのか、どうやって判定するのというところまで考えられてない。戦略を立てた人間達は、大抵老人で、どうせ居なくなってしまうからと、戦略にKGIを盛り込まないからだ。

マイルストンも感性というか、定性的で、KPIまで定性的。そんな戦術しか立てられない人が戦略を立てるなんてそもそも無理なのだ。KGIなんて聞いたこと無いとかね。そんな人に何故に時間を奪われなければならないのか。戦略を通して何を実現したいのか、その実現した様はどのように明らかになるのかまでをセットで提言が成されない。我が国の悪癖である。

戦略は目指すところがある筈で、自組織のミッションだからこそ立案するのだから、自組織がどうなったら戦略を立案した結果だと言えるのか、微分値を定量的にKGIに盛り込むべきなのだ。微分値を表現出来ないリーダーは要らない。そんな人間は戦略などと語ってはならない。だからこの国には政治が無い。そう感じている。

オタクを救う機器

こんなものがあったら有難いと、探してみるとあったりする。御同輩がいらしゃると言うことだ。HDMI端子を持つ機器同士を接続すると、映像と音声が小さい端子を通して送信される。デジタル信号をそのまま受けて、最終的に内臓アナログスピーカーからTVモニタであれば音声信号を出力してくれる。音の良しあしは置いておくとして、ちゃんと音として聞こえるから面白い。デジタルオーディオが当たり前になるわけだ。

その当たり前だと困ってしまう、古典オーディオオタクが居るわけで、WE555WとAltec604Bから何が何でも音を取り出したいわけだ。となると、HDMIの音声信号を横取りして、アナログプリアンプに放り込み、パワーアンプから出力する必要が出てくる。ブルーレイディスクの音を、TVモニターから取り出しても面白くもなんともなく、画面が大きくなっても喜びは全く小さいままである。

HDMIの仕様を拝見して、これならオペアンプでなんとかなるのではと思い、いやまて、一人のオタクが欲するのだ。キングジムさんであれば、役員の1名が欲しいと言っただけでポメラを作って売っちゃったんだから、世の中の古典オーディオオタクの数を考えれば、きっと信号取り出し器は販売されているはずだと調べてみたらあるわあるわ。

置いてきぼりをくったオタクを救う機器を早速入手して試してみると、予想以上の効果を得て満面の笑みである。オーディオオタクがどこまで踏ん張れるかだが、海外観光客は、日本に残ったアナログLPレコードを買いあさって海外に持ち出してしまっているという。まぁ、板のほうは間に合ってはいるが、これから出てくるデジタルの板を楽しめるのは愉快である。隙間商材ということだが、技術経営とはこんなビジネスモデルを作り出すことでもある。当たり前は駆逐される。そんな時代である。

バタバタ過ぎる

4月になったなと思ったら、バタバタ状態になる程に予定が入り込み、あっという間に20日を過ぎてしまった。少しは余裕があるなと思っていたら、なんだかどうしようもないくらいの事態に陥っている。頑張ってしまって鬱になったり、こんなはずではなかったと退職してしまったりということがあるとTVなどで見聞きするわけだが、分かる気がするとなってしまっていることが恐ろしい。

じっくり時間が欲しいわけですよ。新しい思考に打ち込むというか、本来、そんな時間が無ければならないのに、常に追い立てられ引き立てられ、誰かの前にさらされ続けていると、これはこれで精神的に厳しいと感じてしまうわけだ。結局、土日無く何か、仕事関係のことに時間を費やしているのだが、どこか、スパっと空白の一日を作るべきだと思っている。

企業の社長さん達って、本当に凄いと思いますよ。図太いというか、気のいいおじさんではやっていられないのでしょう。選ばれし民なんだろうなと、尊敬というか感動というか、凄い方々だなと思います。まぁ、そんなものには向いていないということなんだけど、一人で考え事をしているのがお似合いだなと思うわけですよ。

連休の谷間にもなんだか引っ張り出されることになり、なんだかなぁという状況にある。休めない民族は滅びるに決まっているのだ。新規に挑戦するとか、じっくりと長考して自分を見つめなおすとか、そんなことが出来ない環境は、人の働く場では無いと感じるのだ。どこかでぷっつんと切れてみたい。そんな思いを抱いている。

医工学連携

自治体がシンクロしないと、税金の無駄遣いになる事例として、名古屋市と愛知県の展示場を挙げることができる。両方合わせれば結構良いものが出来るだろうと思うのに、意地の張り合いで中途半端なモノが出来る。街中に吹上ホールがあるのだが、これは中途半端というよりは、場所の利便性と言う図抜けた優位性があるので、これは良いのだ。ビッグサイトと並ぶくらいかそれ以上のものを作らないと世界から人を呼べない。

先週はセントレアエリアにある国際展示場に出掛けて、医療機器展を拝見してきた。商工会議所主催の展示会で、中部地域の医療に係るものづくりというか、仕組みと言うかそんな展示が成されるということで、医工学を一つの柱とする鶴舞大学として連携の在り方を拝見しに行ったわけだ。医療分野は「許認可」という高いハードルがあって、そうやすやすと参入できない分野で、いわゆる参入障壁を作って新規参加者を撃退する仕組みを作っている。大学としてもおいそれとは近寄れない仕組みだ。

仕組みが無いなら作ってやろうということになるわけで、すると学ばないといけないということになる。学ぶ場があるならば出かければ良いということで出かけたわけだ。医療機器に関係する展示会で常に感じることは売り上げ規模が極めて小さいということ。利益と言ったら良いだろうか、それが出ないけどやってますみたいな。それは絶対におかしいのですよ。良品なのだからそれなりの利益が無ければならないが、最終顧客が患者と言うことで、べらぼうな商品価格設定が出来ない世界。

一品一品は素晴らしい仕上げで匠の技を感じるのだが、量産による利益からは遠いところにある。それを解決しなければ医学と工学の連携はできたとしても、医工産学官金連携にはならないのだ。そこに活路がある。そこに飛び込んでいくべき隠された扉がある。こじあけようではないかと握りこぶしを作った、そんな出口であった。

NDA

企業さんとお話をさせて頂いて、直ぐに出てくるのがNDAのお話。それはそうでしょうとは思うんだけど、こっちのアイデアまで甲に帰属するとかね、得意技だね。こちらもそう簡単にはひっかからないし、そんなものははねつけるのだけれど、そもそも論なんだけどね、アイデアにチャレンジする気があるのかねと尋ねたい。

日本の凋落は企業が挑戦というか、基礎研究を全くしないことが原因なんだけど、アイデアだけ盗んでも、形にしようともしないわけで、それは知恵の死蔵以外の何物でもない。そんな死蔵されたアイデアが世の中にはたくさんあるのだろうなと、勿体ない限りである。大学教員の知財なんてのもその範疇だね。

昨日、プリウスの窓枠の防水性能が低くて、酷い場合にはドアが開いてしまうという凄いリコールが発表されたのだが、省部材は正しいのだけれど、素材そのものの性能を上げないと、少なくしたらそれだけ弱くなるのは明らかなんだけどね。固定枠なのか稼働部なのかは分からないけれど、稼働部であれば劣化は必ず生じるしね。これなどは負の方向性を持ったチャレンジだね。

アイデア泥棒は多い。思い出したくもないことも沢山あるわけだが、段々と警戒して口を閉ざすようになってきた。良かれと思っても、相手は泥棒と思わないといけない世の中らしい。ピラミッドの頂点だけが儲かる仕組みがずっと続いてきたわけだが、底辺の知恵と技術が霞めとられ続けてきて、それが承継されなくなり消えていく。カンコツが崇められる時代ではない。盗むのでは無く生み出しなさいよ。言いたいのはそこである。

遥かなるがらんどう

週間掃除ネタということではないのだが、古い紙媒体はドキュメントスキャナを用いてどんどこ電子化していっている。ドキュメントスキャナを使い始めたのは相当に古く、既にソフトウエアなどはメーカーサイトからダウンロードできない機種まで現役で生き残ってしまっている。取り敢えず動く限りは使ってしまおうということなのだが、セキュリティホールになったらまずいなとは思いながら、それなりの価格がする機械だからおいそれと交換できない。

機械のお話では無くて、スキャンする紙のほうのお話。博士課程学生の頃からの古いファイルケースから出てくる、語るも涙の古いデータ達。方眼紙に1mmごとにプロットしてあって、それが精緻に並び、誤差範囲を考えてもぶれることなく、整然と並んでいる様を見て、丁寧に研究を重ねてきたなと、我ながら感動するのだ。光記録の原点になる奇跡のナノ秒領域の振動波形など、涙が滲んでくるほどだ。

まぁ、そうなんだけど、それを価値と感じるのは自分だけで、あの世迄その感動を引っ張ることは出来ないわけだから、スキャンしたらあっさりと廃品回収に回すのだ。それで良いのだ。想い出は必ずゴミになるというやつで、どんどこ思い切っていくわけだ。スキャンするのが面倒なものは、そのまま束ねてさようならである。

什器の廃棄の時点で停滞してしまっているのだが、それもまぁ、進んでいくでしょう。それにしても25平米の部屋をがらんどうにする事の大変さに参ってしまう。30年ため込んだ結果なのだが、前の職場から持ち込んだ書類までもが立ちはだかってくる。終活は大変である。早め早めが肝心だね。

環境

工場見学をさせて頂くと感じる事なのだが、ミクロなオイルが舞っているなと。コロナ禍が始まった頃に、いろんなシミュレーションが展開されていて、中華料理屋さんなどで、厨房の空調の場所を変えたら気流がどうなって、ウイルスはどうなって、調理における水蒸気やオイルミストがどうなってという報道がなされていた。曰く、オイルミストを室外に完全に送り出す空調は無い。

オイルミストの表面活性は高く、物質に触れれば吸着するし、密度が上がれば合体もする。隙間があれば環境に漏れ出してくる厄介者だ。その発生源があれば、必ずそれは拡散して、何かに吸着して異変を発生させる。床が滑らないからこの環境にはオイルミストが無いということではない。少ないというだけだ。その少なさの影響を理解せねばならぬ。

大気1リットル当たり、2.69X10^(22)もの分子があるのだ。仮に、オイルミストがppmオーダーですよと言ったとて、大略、10^16個/リットルもあるのだ。あっという間に表面を覆ってしまう。ビニール袋でカバーしたよと言ったって、そのビニール袋にオイルミストが入っているでしょということだ。清浄環境を創り出すのは極めて難しい。

この季節では黄砂が舞い、オイルミストどころでは無い。気管支炎も気を付けるべきという濃度のミクロな砂が舞っている。発生源から遠ければ遠い程、大気分級によって細かい砂塵となって襲い掛かってくる。オイルミストも同様で、発生源から遠くなればなるほど、ミクロなミスト粒子が舞ってくる。ものづくりは難しい。環境を整えるとはどういうことか。考えねばならない。

お屋敷にて

鶴舞大学の周辺は古いお屋敷が密集していて、数年前から更地化と新規建設が続いている。通勤途上において、素敵だなと感じていた木造住宅が取り壊されはじめた。段々と外壁が剥がされ、間取りと言うか内装が見え始め、床の間等々、立派なお屋敷で勿体ないなと、毎日の事、経過を眺めていた。

昨日、いよいよ更地になったなと眺めてみたら、隣の住宅が良く見える。回り込んでみると境界となっていたブロック塀が根元からばったり、一枚岩となって倒れ込んでいた。ぎょっとしたわけだ。神戸震災の際、倒れるかもしれないブロック塀を点検して、倒れて人が下敷きにならないようにとのお触れがあったような気がしたのだが、古い住宅の奥にあるようなところには手が入らなかったということだろう。工事中に人災が無かったろうか?心配になった。

ふと、組織のルール等々、眺めてみると、善かれと思って創った特別ルールの継ぎ接ぎになって、根本から改定するべきところがそのままになっていたりすることもあり、これはまずい。鉄筋が土台から立ち上がっていないブロック塀と同様ではないか。新しい作り込みということの難しさを感じたのだ。手が入らないからそのままにする。面倒だからそのままにする。

人のやること、誰かが責任をかぶらねばならないこと。責任をかぶれば宜しいだけの事だ。気が付かないことは難しいが、気が付いても「面倒だから」と隅に追いやっていることは無いか。すわ一大事に下敷きで圧死ということにならないか。倒れた瞬間に居合わせたわけでは無いので、その惨劇は妄想するしかないのだが、万が一は起こるものと考えて行動するべきと、自分事と考えたお屋敷の解体であった。

展示会にて

先週、ポートメッセで行われたものづくりワールド名古屋に出掛けてきた。会場内でとてもお世話になった方にもばったりと出会い「大学の椅子に座っているようではだめだ。出歩いていること、良し!」とエールを頂いた。まぁ、定年まであと少しだが、外回りを積極的に継続していこうと。そのポジションを活かすうえでも、職場の外の窓口として活動せねばと意を強くした。

そんな当たり前のことを言いたいわけではない。会場を巡って感覚的に感じたことなのだが、一つは出展社数が減ったなと言うこと。もう一つは中国や台湾、韓国からの出店がべらぼうに多いなと言うこと。円安だから日本の主要と思われる展示会への出店の敷居が下がっているということもあるでしょう。いや、それだけではない。

ブースに並ぶものを拝見すると、その出来具合は、近隣の日本からのブース上の品質と全く変わらない、いや、アイデアと言う点では先へ行っていると感じる。日本のカンコツ対DXという感じがする。顧客の声に寄り添って、カンコツでそれに丁寧に応えるという日本のうたい文句だが、その文末には必ずと言って良い「廉価・短納期」が躍る。

差別化できる良いものに対して値下げ要求などせず、その開発にリスペクトする海外と、何が何でも値下げさせ、技術を生み出す知恵をリスペクトしない我が国製造業。この行く末は見えている。3D技術にしても、相変わらず機器は海外製が主力である。また、それを用いたキラーアプリケーションの提案も無い。工学部教育を根本から変えないといけないのではと思うのだが。はてさてどうなることやらである。