未来から帰ってきたら?

そろそろ陽が暮れる頃のことだ。35℃を超える気温で、国内が賑わっている時刻だ。グリーンランドの氷河が拡大しつうある頃であれば、20℃を超えたらびっくり、それが今や、30℃を下回ったら病的に思われる地球である。この地球規模のお話が面白いではないか。

たまたま、遠方より来る方と、とある古い映画を見て、二人で「成る程」となったわけだ。温暖化がどうのこうのというわけではない。朝起きて夜眠る。その間に、今のリズムと違うことが発生したとして、その時、我々は何を次の世代のために成すかを考えてみただけのことだ。

綺麗事では無いのだ。今、小生がお伺いするお話は、全てが「綺麗事」なのだ。結果だけではない。その人にとって綺麗事なのだ。威張って蹴散らして、自らが偉いとふんぞり返る。それが今の方々であって、歯を食いしばるなんて古いことは何もない。単に、お前達は要らない種族だと威張るだけだ。

だったら、どうぞ、お代わりなさいな。ホモサピエンスが勝ち残ったの如くの栄華を見せたらよろしい。それは美しい。そう思う。そしてそれを目指したいが、時間軸は進んでいるのだ。時間という物理定数は容赦ない。貴方の年齢が主人公では無いのだ。どうぞご自由にとは、小生は言わない。100年後に会おうではないか。それだけだ。

お盆

先祖との会話の時である

静かに自らの毎日を見つめ直すことが出来る

生きる、死ぬという単純な線引きではない

ぐっと、握りこぶしをご先祖と共有できる、それがお盆だ

100歳時代考

明日が今日の延長としてやってくると思っていると、突然、足元をすくわれる。海外ではよくある「もう、今日まででおしまいだから」という一言で、次の職場を探さないといけなくなる。今日、年功序列だの、終身雇用だのという制度は無きに等しく、内定なんてものは無きに等しく、まぁ、そうだったかもねと、はしごが突然無くなったりする。外されるどころか、気がついたら戻る場所がなくなっているなんてことがよくある。

ミッションを達成していれば、まぁ、青天の霹靂確率は30%程度に低いものだろうが、それでもその程度は常に覚悟をしていないといけない。小生とて常にそれは感じているし、明日、どうやって食いつなごうと常に身構えているというところが本当のところだ。あやうい身分であるのは間違いないのだ。それは誰しもがそうなのだ。

とあるところで「人口が減って、人生100歳時代なんて言われるのだから、勤務延長が伸びに伸びて、ずっと同じ職場に居られるのですよね」と魂消た意見を仰る方に出会い、度肝を抜かれた。人口減少が続き、前年度から50万人も減少する国である。人口減少が前提となって心豊かな人生を歩める方向に舵が切られて行くだろう。それは高齢の方が延々と若い感性が必要な職場に居続けられるということではないのだ。

昨日からお硬い戯言になってしまっているわけだが、要するに地球的俯瞰力から自らを客観視しましょうよということなのだ。自分の価値観で、他人の目のふりをしたとしても、それは自らを見つめ直していることにはならないし、自らの定規で目標を設定してそれを達成しましたと言われても、あぁそうですか、それは組織の方向性とは違いますねとなるだけなのだ。自己満足は要らない。想像できる他者満足も要らない。黒子の意味を考えてみるのが良い。それだけの話である。

やんちゃ?

もっと頑張れるはずだ。そう思うならば別のステージで頑張るのが良い。いやいや、まだまだだと思えば、その場でもっともっと踏ん張れば良い。ただ、まだまだだと思う基準が、自分だけの汗の多さだったりするのであれば、それは基準の見直しが必要だ。課題を見つけてそれを解決する企画を作りました、それを達成しました・・だから何?ということだ。あなた無しでは提案出来ない企画はなぁに?それが企画である。課題発見能力や解決能力は日々の生活で既に会得しているでしょ?それを評価しろと言ってもねぇ。

芝生の広がる広い公園で、さぁ遊んで良いよと言われた途端に走り出す子と、座り込んでつまらなそうに何かを食べたいと泣き出す子と。後者が圧倒的に多い気がするのだ。行き先が決まっていれば歩けるけれど、さぁ、何処に行っても良いよと言われた途端に、人の目を気にして何もできなくなる子。まぁ、後者の子供が多いから、親としてみれば、親同士でひたすら話し込んでも、子供は公園の柵を飛び出すこと無く、安心していられるのかも知れない。素晴らしい調教ぶりである。

三つ子の魂百までだから、大人になれば変わるでしょと思っていても変わらないのだ。やんちゃな大人は、子供の頃もやんちゃだったのだ。傍から見れば小さいが、当人にとっては大冒険の繰り返し。髪の毛が何処かに挟まれば、ガリバーが縛られたシーンを思い出して、もう、意識はファンタジーだ。ファンタジーと言えば電脳の仮想空間の中だけと教え込まれて育ってしまえば、見せかけの企画づくりに終止するのでしょうね。

ゴールが見えた途端に走り出す大人。ゴールを夢見て突き進む大人。子供の時から決まっていると、そう決めつけてしまうと見も蓋も無いわけだが、実際のところそんな気がするのだ。「こんな世界だったら素晴らしいのに!」と心の底から湧き上がる想いこそ課題であって、イノベーションである。その想いを描けるか、課題を発見するだけか。そんなところに日本の行く末が見えるようである。

帰省と旅

見えない病魔と戦って頂いている病院の皆様が、次々と感染症に襲われていく。工学者などは何も出来ず、実に悔しい想いをしている。総力戦で何かをやってはみたいが、見えない的にバンザイ突撃するのは、時節柄好ましい態度ではない。静かに秘策を錬ることぐらいが関の山ではあるが、何か、チャレンジをさせて頂きたい気持ちは山々あるわけだ。

三重県の知事が独自の緊急事態宣言を出された。岐阜県知事などは「名古屋から来るな、名古屋に行くな」と、地名を挙げてアンチ名古屋ぶりを発揮して頂いているわけなのだが、それはかなり頷けるところがある。逆の立場なら同じことを言ったに違いないのだ。飲食店という、ストレス解消で明日の元気を与えて頂けるお店が悪者扱いをされて、これも実に息苦しい。

日本の国の伝統であるお盆の帰省の時期が迫ってくるわけだが、今年のお盆は通常というわけには行くまい。政府はGoToキャンペーンよろしく、不可思議なことを言い出しているわけだが、ご老人が楽しみに待っているのは解るのだが、なかなか思い切りよく帰省というのは難しかろう。今年は、まぁ、我慢をして、その分、不安が払拭された時に、再会を喜び合うのが良かろう。

帰省は駄目で旅行は良い。旅行先の仕事も良くて、何が何でも旅行をさせようという、その根性は凄いなと思うのだ。命がけで旅をしろという、まるで獅子の谷底落としみたいな、そんな国家に住んでいるわけだ。じっくりと人生を考えるなどと、優等生地味たことなど御免こうむる。何か新しい、そして面白いことは無かろうか。まだ数日ある。自らのひらめきに期待しよう。そんな日々だ。

お盆休み一週間前にて

土曜日から激しい晴天となり、明け方の太陽の日差しが懐かしく、ぼぉっと眺めてしまった。こんな空だったなぁと、青空に驚かされた。そして太陽のエネルギーが雲の宇宙よりには降り注いでいたのだなと、改めて太陽の平等さに頭が下がる。人間目線で言えば大地に降り注いで欲しいわけだが、宇宙目線から言えば、地球上の蠢く連中のことなどどうでも良く、ひたすら核融合を継続させて、エネルギーを提供する活動を、水蒸気のカーテンだろうがなんだろうが、問答無用で続けるのだ。格好良いではないか。

降り注ぐ日差しの強さと水蒸気を多量に含んだ熱波に驚くわけで、これが遠く太平洋上では連日こうだったのだなと思うと、8月に入った途端に2つの台風が洋上で生まれても、まぁ、そうだろうなと納得するわけです。少し前に、気象予報士の方が、今年の台風は猛烈に発達する可能性がありますとTVで語っていたのだが、その大きさは何とも言えないが、数だけは多くなりそうだ。となると、暑いけれども、台風が年中やってきて、やっぱり曇り空が多くなるのかもしれない。

7月の日射の少なさに、地元の農協では野菜の出荷が少なく、他地域の所謂「ハウス」ものの野菜が並ぶマーケットに行かねばならぬ有様である。巨大なニガウリだけが山のように積まれている様を見ると、どうやらこの野菜だけは曇天にも強いのかなと、南方野菜のパワーを見るようで頼もしい。季節の野菜の変化を、悪気象だからこそ顕著に感じるわけで、これはこれで納得する。店頭から消えた野菜こそ、地のものであると。

お盆休み前の一週間に入った。お盆休み前に片付けておこうという気合を感じる日程表になっていて、気合を入れ直すわけだが、体力勝負の一週間、体調維持に気を付けねばならないが、コロナ禍は容赦なく広がっていて、重体にならなければ問題ないという政府の一言に無責任を感じつつ、自衛のみが身を守る国に居る以上、水分補給にも気を付けながら、当たり前の日常を繰り返すのだろうと、見えないからと焦ること無く淡々と過ごそうと思う私であります。

工学が生むものは?

街中を何気なく歩いていて、突然、爆発が起こってガラスが降ってきたら・・というような事件が郡山で発生した。天変地異は恐ろしい。大雨で地すべり、川の氾濫で多くの命が失われたことは悲しい出来事である。自然には勝てない。突然発生する。しかし、天変地異に文句を言っても、これは仕方のないことだ。一方で、ガス爆発という工学が根本にある技術に拠って大惨事が発生するとなると、これは人為的なミスであって、これは怒りの矛先はある。

山中を自転車でツーリングをしていて、下りのとても気持ちの良い田舎道。田んぼが青々と広がり、風が耳を通り抜け語りかける。カーブが迫り、緩くブレーキを掛けたら、前輪のブレーキゴムが台座から突然外れ、一か八かで田んぼに突っ込み、まぁ、今も生きているというわけだが、これなども不良品だったからというわけで、工学が原因の人為的殺人未遂である。

学生の時、窓の外をぼぉ〜っと眺めていたら、屋上で作業していた方がペンチを落とし、それが目の前に落ちた。30cmの距離である。これも幸い?にして激突しなかった事例であって、作業中に手が滑ったということだろうが、高所で作業する人のペン一本だって体に結びつけているのが普通であって、これも技術者の怠慢であって人為的殺人未遂である。

工学は人を救うこともすれば殺めることもある。正しく使い、それでも不幸を呼ぶこともある。それはそこまで思い至らなかったからだと、原子力発電関係者は仰るかもしれない。しかし、もう、撤退もやむを得ないと思っていたら、燃料サイクルを実現する施設が認可を得た。日本の工学は一体何処に向かうのだろう。天を仰ぐばかりである。

退化は嫌い

某先生から「偽善者!」と怒鳴られて、既に20年以上が経過した。正論のつもりだったんですけどね。教育に対して「俺は出来ないんだから巻き込むな!」ってことだったんですけどね。今の在宅勤務やテレワーク、そしてウエブ教材による教育の議論と似ているなと思った次第。

「教育は平等でなければならない」という教育の機会均等の大原則なんだけど、出来ない人が一人でも居たら「全員に対してやってはいけない」と言うのが「偽善者!」と怒鳴った人の理念だったわけなんです。こちらからの想いは「8割出来ているから、後2割はどうやったら出来るかを考えましょう」と説明申し上げたら大上段から怒りが降ってきた。

ネットワーク講義をスタートする時、出来ない人がどれだけ居るのか、その人達にどのような対処をすれば良いのかという考え方が出来たのは良かったのですが、もしもこれがコロナ禍騒動が無ければ無理だったでしょうね。そもそも論として遠隔授業などは議論に上らない。仮にコロナ禍騒動下であったにせよ、絶対に対面と言う選択肢もあったわけですが、機会均等が前向きに捉えられたのは良かったと思う。教材の提供は絶対にしないみたいな強硬な対応だってあり得たわけですが、それは無かった。高いレベルに向かっていこうという意思が見えた。

研究も「解らない」からやるのであって、高いレベルに行くために四苦八苦して挫折してもまた這い上がっていく前向きさが必要で、それを好んでやる人種が研究者と言うことになるわけだ。個人の信念は重要だ。一方で組織として達成するべき必然さはもっと大切だと思うのだ。今より高いレベルに皆で行きましょうというお願いに、出来ない人が居るから駄目だという議論はおかしかろう。世界は猛烈に進んでいく。現状維持はあっという間の退化に繋がる。恐ろしい。

変態の時か?

恐竜の絶滅と惑星の地球衝突との関係が、まぁ、学説として述べられるわけで、6600万年前の恐竜絶滅の時期と重なって発生した事象であるから、「違う」と言っても「そうだ」と言っても、そうかもしれないねくらいの落ち着きがある。生命進化の改革のトリガとして、大量絶滅や放射線被ばくによる突然変異や、それらの交雑による多様性の誕生とかね、いろいろあるわけだ。

今回のコロナ禍で対面講義や実験実習という、それらを体験し提供させて頂いてきた身としては、それをいきなり取り上げられて、ネット授業で全てを簡潔させなければならない現状は、惑星衝突みたいなものかと、漠然と思っていたりする。チョーク片手に全身全霊で学理の美しさを訴え聞き手の記憶に刻み、それを活用できるゴールを目指す。それが目に見えない細菌によって打ち砕かれた。

細菌にやっつけられたという点において、ジュールベルヌの宇宙戦争も思い出される。小学生の時に何度も読み返し、星空を眺めて、円筒が降ってこないかしらと、火星人に会ってみたいものだと本気で思っていた。ワクチンを創るとか何とか言っているわけですが、細菌が死ぬものを体に入れて良い事あるのかしら?こちらも進化してウイルスと共存できるくらいの進化が無ければいけないのではと思ったりするのです。

何処かに居たウイルスを引っ張り出してしまった。引っ張り出した以上は人間が何とかしないといけない。パンドラの箱の事例が引っ張り出されますが、希望なんて残らないのです。希望は抱くものであって解決に持ち込まないといけないのです。教育もまた然り。新しい人類にどのようにバトンを繋ぐのか。旧人類の使命ですな。

今でもハウリング?

ウエブ会議が当たり前になっているのに、ハウリングが怖いとか、実際に会議中に「グォングォン」とハウリングが発生する。そしてそれをほったらかして会議が進んでいく。なんと寂しいことでは無いか。足元の会議に限って生じる。複数の外部の皆様との会議において、初期の頃は発生したこともあったが、現時点は今は昔である。あり得ない。

これを人の不注意とするのか、それなりの機器があるのだからそれを使えば良いでは無いかということにするのか。機械の進化は不具合からのフィードバックだから、直ぐに機械ががらっと変わることは無いので、注意をしながら議論を進めるということしかないわけで、ハウリング防止と言う極めて基本的なお作法がいきわたらないことは「情けない」というレベルである。

小学校や中学校の時の朝礼などで、キンキンと耳をつんざくハウリングが懐かしいわけだが、それが今も普通に発生することの悲しさである。困ったら他の人から指導を受けるか、リーダーが「こうしましょうよ」とお作法の再確認をすれば良いのだ。弱さがあっても良いではないですか。それを受け付けることが出来る組織を作っていないといけないわけだが、みんな弱いということを前提にしている組織であるかと言うことなのだが、いつも胸に手を当てないといけないと思っている。

既に海の外の国々ではにっちもさっちもならない程に新型コロナ感染者が無限に増え続け、それを前提に様々な手段を講じることが出来た社会と、油断しきって対応が後手に回る社会との差は、極めて大きいと考える。自分の事と何処まで捉えることが出来るのか。他人事では無いのだ。ハウリングから話が大きくなったが、何か変だぞと思ったら、他人のせいとは考えず、まず、身の回りのチェックをしようよ。結局のところ、まわりの人達を尊敬していますかということなのだと思う。ささやかなお願いだが、ハウリングは無くしましょう。よろしくお願い致します。