どっちに向かうか

あんまり政治寄りのお話をすると、何処からともなく槍が出てくるので、深入りはしない。つまらないと思われようとも、まぁ、そういうことだ。ということで、今週はやはり大型連休のお話が旬だろうと思うのだ。10連休と言う空前のお休みを頂いて、小生もどうしてくれようかと悩んでしまったりもする。

日頃、休暇でのんびりお休みなんて生活とは程遠いところに生きているので、有意義に過ごそうと思うのだが、休暇と言うものは怠惰で無為に過ごすことが重要な気もするのだが、そこはけち臭いので、何か面白そうなことをしてみたいとも思うのだ。週末にマーケットに行ったのだが、プール用品などがずらっとならび、あぁ、成る程、南の国で過ごす人が多いのだなと、ややうらやましくもあったりする。

過去、がまの油地方に居た時には、兎に角、北に向かって動きましたな。東京方面は人と車でごった返し、移動したら肉体と精神が不健康になるという状況で、空いている方角に向かった記憶があります。名古屋市内からだと、これはこれで街中は混雑するわけですが、高速道路のボトルネックを飛び越えてしまうと、関東程の渋滞は無いことが有難い。動きますからね。

過去、虎ノ門から1km進むのに2時間掛ったという首都高速駐車場のトラウマがあり、東京方面には兎に角車で移動したく無いというのが素直なところ。そもそも東京を車で走る愚は地球環境に優しくないしね。どこにどう行くかは決めてはいるものの、日頃の精神的疲労を少しは休めたいなとは思っております。

連休を語る前に

愛知県では2週前の地方選挙であったが、全国平均的な投票率が40%そこそこと、なんともお粗末な数字である。お粗末と小生は思っている。選挙区によっては立候補者が定数を満たせないということで、政治と国民と言うか、行政と国民と言うか、その離反の度合いが選挙のたびごとに大きくなっている。

立候補する側の広報を読んでみると、一昔前に比べて不具合解決型のマーケットインタイプになっているなと感じる。不具合に感じていない人には全く関係が無いわけで、生活が変わらなければ投票しなくても良いかなということなのかもしれないけれど、決してそんなことはない。

お役所の方々とお付き合いをさせて頂くと、その決め事の多さと細かさに驚かされる。一つの決め事に物凄くコストが掛かっている。そんなものAIにジャッジさせてしまえば良いものをと思うものが沢山なのだが、そうでもない、これはもめるわなぁというものもある。そこにこそ代議員の思案と決断が必要なわけで、それは有権者の投票が後押しになるのは間違いないのだ。

投票してしまったら、あるいは、当選してしまったら全てがお仕舞というのではなく、投票したら、その者がもしも当選したとしたら、その活動中の責任は投票者にもあるのだ。国政において悲惨な状況になったとして、議員の不誠実な対応は全て選挙民の責任なのだ。それを共通認識として持たないと民主主義は崩壊する。地方選挙後半戦の投票率も極めてお寒いもののようだ。この国は何処に行くのやら。不安になる。

いつかは見える

夜空を彩る星々は日中は太陽の明るさに打ち消されて見えないだけであって、実はそこに存在している。人間の目に見えないだけだ。あると思って頼りにしても、梯子を外されるなんてことはざらにある。きっと小生にしても無意識に外してしまっていることもあるだろう。いや、あるに違いない。そう思ってそろそろと進まないと組織がでんぐり返る。それはいかん。

いかんのだが、人間のやることだから、そこには間違いが必ず潜んでいて、それを指摘してくれる人を大切していくことこそ、見えない組織力の源泉になると思っている。見えない心に刺さる苦言を「お灸」と捉えて踏ん張れるかを見える化することこそ進むべき道であろう。

全部が全部、見える化されると疲労困憊の世の中になりそうで、見えないで良いものは見えないままでいて欲しいと、やや逃げ腰になったりもするのだが、見えるべきものは見える化しなければならない。それが無意識に行われているようにするのが工学の一つの役目かもしれない。

見えない温暖化ガスが、人工衛星の目によって見える化されてみると、世界の経済活動の活発化と同時に温暖化ガスが増えるという、当たり前の結果も見えてくる。見えないふりをしている人よりも、見る気が無い人のほうが罪が重い。宗教家では無いが、そんな生命体にはなりたくないなと思ってはいるものの、余りにもやるべきことが増えてくると、五感も第六感も封じ込めたくなる自分が恐ろしい。そうならないように適度にのんびりしてみたいものだと、来年の満開の桜を、もう期待している私であります。

思考はゼロ円か?

教育という、その効果は受けた人次第という、なんとも曖昧で苦しい作業ではあるのですが、希望と信念によって骨格が創られ、人生の積分によって彩られた伝達者のバトンは確かに重いなと、最近つくづく実感するのです。自分は何を色付けたのか曖昧模糊として不安ではあるのですが、やはりそれは確固たる意志によって渡していくべきなのだろうと勝手に思う訳です。

希望と信念なんて目には全く見えないのだけれど、真実から形成されているものであるならば、工学者にはきちんと伝わっていく。しかしながら、伝えられた者が、それをどう使っていくのかは、受達者に依存するから恐ろしい。年齢を重ねて「自分は正しい」なんてことだけを想い出にしてしまうと、途端に社会の壁になってしまうのですな。一時期、バカの壁なんて言葉が流行りましたが、正にそれかもしれない。

研究者倫理の試験なんてものを受けさせられて、且つ、受験して合格したからその者は工学人としての有資格者だなぁんて、なんともはや、既にその仕組み自体に疑念を抱きそうになるのですが(表現するのが厳しいぞ)、インチキが横行しているから仕方がないということなんでしょうね。

学理の探求ほど面白いものは無いわけで、目に見えないから思考する。工学の進化で目に見えるようになると「なぁんだそういう事か」となって夢が覚めるわけで、しかし、そこに真実があり、学理が工学の仲間入りをしていく。目に見えない思考こそ社会還元の種であり、育てるべきなのに、それはゼロ円だと決めつける経済活動がある。倫理観欠如の真実がここにあると実感している。

ご都合工学

中部圏にやってきて、それこそ年がら年中(大げさ)出掛けている場所が奥三河地域である。1500万年前の火山地帯を感じることが出来る、極めて貴重な地域であって、新東名と建設途上の三遠南信道を使えば、あっという間に東栄に到達できる。ダムの底に沈んでしまって見ることはできなくなったが、大地を割いて上がってきた溶岩の岩盤などは、自然の力を見せてくれる筈なのだが、人間はダムを作って見せ無くしてしまう。

エレクトロニクスなどを否定することは簡単だが、生まれたからにはそう簡単には死に絶えたくないと、自然に抗うのが命というものだから、工学そのものを否定したりは決してしない。その在り方、使い方が世界中で見直さないといけない状況になっているということだ。

デザイン思考などと奇麗な言葉が流行っているのだが、正確さよりも満足度を高くすることを目指して思考するというのが根本にあるのだが、それはそれで無意識に生命が行ってきたことにラベルを張っただけに過ぎないので、言葉はどうでもよろしい。3Dプリンタなどは思考のサンプルを目の前に創り出してくれて、思考の相方として「見える化」の道具として極めて優れていると感じている。

きっちり形を決めてゴールに到達する道筋を最適化していく過程で、決めたゴールが間違っていたなんてことは良くあることで、それも含めたデザイン思考なのだが、ゴールを守って道筋にバイパスを造っていくと、見えないインチキが生まれるのだろう。美しい仕上がりの予定が「そんなもん、機械的に出来ないぞ」という声に押されて汚らしくなる。そんなものづくりが未だに幅を利かせているのだなと、昨今の見えないインチキの横行に出会う度にがっかりするのだ。

見せない工学

目に見えないけれどデータが示すという事であれば、自動車の故意の整備無視というのが流行っていて、その流行が止むことなく続いている状況こそ、日本の病巣と感じますな。ブレーキの整備がいい加減な状況で出荷されていることなど、購入者には見えませんからね。これはとても怖い事であります。

利益を追求するのが企業の本質ではありますが、企業の組織としての活動には社会に対する影響責任というのがありますな。持続可能な社会をステークホルダーと共に築いていく責任がある。信頼を超えて信用される立場、即ち、無意識の安心を約束しているべきなのに、その見えなくても良い安心が、実は無かったとしたら社会への負の影響は余りにも大きい。

ネットのお陰か、ものづくりのインチキが世界中にあることが伝わってきて、ものづくり研究者として辟易するわけです。目に見える必要はないのに、見せないといけないのかと。倫理教育などが大声で叫ばれるのも、結局は、見えなくても良い倫理観を、見せないとお互いが信頼しあえないという、生命としての不連続状態に来たのかなと、全球凍結しなくても種が滅ぶのではと思ってしまうのです。

天が与えてくれた自然現象を、人が暮らしに取り込み便利を感じ取ることを可能にする思考が工学の筈ですが、そこにはインチキが無いということが前提であって、車軸が折れるような自動車を企業が売っているとなったらどうでしょう。経済活動などむっちゃくちゃですな。その時、人はどんな行動にでるのやら。

温暖化ガスは見える

地球温暖化と言うと「あれは嘘」という人々の大声に耳を塞ぎきれないので、温室効果ガスの増減位にしておくのが良かろう。具体的に温室効果ガス濃度が閾値を下回ると、地球全体が結氷するという事象が、過去、少なくとも2度は生じていると、化石や迷子石分布の研究から明らかになっている。だから生命が維持されるためには温室効果ガスはゼロにしてはいけないのだ。

ゼロにするには生命そのものが、地上からほぼ居なくならないといけないので、その議論そのものに意味が無くなってしまうので、それは思考の外に置くことにしよう。温室効果ガスとして働いている分子として炭酸ガスやメタンガスなどが、その存在量から主人公となっている。

地上観測点は沢山あって、また、航空機などにも観測機が搭載されているけれど、海上に限らず全球を観測出来ないと意味がない。そうなってくると宇宙から見ないといけないということになりますな。実際に2009年から正確な全球上のCO2濃度が観測されている。

そのデータを拝見すると、夏と冬で明確な差が、赤道のあっちとこっちで出ているのですな。活動が活発になれば増え、逆もまた真なりで、濃度は薄くなったり濃くなったりを年単位で繰り返す。さんまの不漁などは叫ばれていない時代の事だ。それが2014年を過ぎると、明らかに全球で増加して、こりゃぁ北極海航路も冬に出来るわなぁとなっているわけです。目に見えないので分からないけれど、確実に温室効果ガスは増えているなとデータは示しているわけですな。

フルスロットル考

がきんちょと言っても大学生の頃だけど、アクセルってベタ踏みかオフかどっちかであった。ガソリンを使う使う!燃やしたガスを大気にまき散らし、迷惑千万。ガードレールを突き破ろうが、ぐるんぐるんと横転しようが止めないところが青春と言うことですな。周りの人達も同様であったからということもあろう。やんちゃな世界はやんちゃな四季の移ろいがあったということだと「勝手」に想い出にしている。

ガス欠にならずにいたんだから、どれだけの燃料タンクと供給源があったかと言うことでしょうね。それこそ思い出してみると、ガマの油売り領域には「研究要素以外に何も無い」のだから、研究でやんちゃをするしか無かったのだ。余計な事が無いわけだから、エネルギー効率は高かったのかもしれない。それがマルチな活動を要求されるようになると、一つの失敗が他の足を引っ張ることを恐れるようになって不安と心配が先に立つ。これこそガス欠の元だ。

気になりだせば嫌な方向にのみ思考は傾く。頑張りすぎて体が動かなくなって焦燥感に襲われる。あれやらなきゃ、これやらなきゃとフルスロットルのアイドリング時間が長くなり、どんなに燃料があったとしても、あっという間にからっけつだ。365にあるファイルを何とか救い出さなきゃみたいなものこそ無駄な焦りだ。

未来を恐怖して過去を振り返って焦るんだけど、結局のところ、人間には「今」しか無いんだよね。第六感までも含めて全てを今に、猛烈に強烈に集中させて、今だけを想って一歩一歩進む。小生の言う一歩一歩の意味はそれだ。エンストしないで動き続ける、そんな働き方で良いのだ。きついなぁと感じたら、いや、本当は感じる様ではいけないのだけれど、深呼吸してみよう。小生もそろそろアクセルベタ踏みも限界にきているような、そんな気がすることもあるのですが、やっぱり床を突き抜けるくらいにアクセルを踏んでいる方が気持ちがいいなぁと、いきなり倒れたらごめんなさいの、私であります。

先延ばしの恐怖

そんなのが法則として人の名前が残るのかぁ?というのにパーキンソンの法則というのが御座いますな。イギリスの政治学者でいらっしゃる、シリル・ノースコート・パーキンソン氏の「人は嫌な仕事を後回しにする」という法則なんだそうだ。そりゃぁそうだろう。と思ってはたと気づいた。

だだだっとごった煮が出てきたとき、苦手な食材から食べている自分を。パーキンソンの法則に従ってはいないではないか。となると、このパーキンソンの法則が当てはまる領域がある筈。良く読んでみると「仕事」というのが入っている。嫌な仕事って何だと考えると、自分一人では出来ないお仕事の時、且つ、及ぼす範囲が巨大な時に実行が遅くなっている自分に気が付く。

一方で、これは、職制柄、長考し広い範囲の情報とその分析が必要になっているところに、割り込み作業がずんどこ入ってくる現状において、勝手に後ろに動いていっているだけだぞと、「後回し」とはちょっと違うのではとも思ってみる。確かにしょっちゅう、メンバーに向かって「今日出来ることは明日に回して呑みに行こう」なんて言っていることに苦笑いだが。

いずれやらなければいけないのだから、出来るだけ早く解決することが、複雑化させない唯一の方策であることは間違いない。今、本社が子会社で稼いで自立しろみたいなことを叫んでいるのだが、その締め付けも昨年よりも今年は更に複雑化して厳しくなっている。社会的リソースも減ってくる。まだ大丈夫と先延ばしにしていると取り返しがつかなくなる。最大の悩みである。

遠い365

かれこれ数週間の格闘、激闘、疲労困憊と言うことになるのだが、鶴舞大学の多要素認証によるがっちりガードシステム構築によって、絶対的安心領域にお仕事の電子ファイル達が封印されている事実。ネットワークが時々つながらないとか、やたらと遅くなるくらいは我慢しますよ。社会的に襲ってくる電子アタックに、組織的に対応して頂いているのだなと思うだけです。思考の時間が増えたと思えば良いだけ。

ところが、安心・便利な空間が与えられたものだから、オタクとしてはそんな広場で遊びたいわけですな。開設当初からせっせと与えられたクラウド空間を満喫していたわけです。昨年度前期の講義資料などから、そこにきちんと整理整頓、やれば出来るぜみたいな、実空間との違いを発揮して喜んでいたわけです。

そこに多要素認証が出てきて、QRコードを読み込んでみたいになったと思ったら、悪いことにOSアップデートでシステムに入れなくなる。そこは解決して頂けたのではあるが、肝心の365空間に一向に入れない。駆け込み寺にお参りしたら「初事例です」として音沙汰無しとなり、いよいよ講義が始まるのだがファイルレスの再構築。これでは使わなかった方が良かったと、ため息がでる。

使った自分が悪いのは間違いない。偶然に、講義に持ち込むPCに部分断片が残っていたからそれを活用しながらということになる。これはこれで偶然なことで、本当のところ、お仕事用365にアクセスさせて頂きたいのはやまやまだ。こんなことがあるとやっぱり紙は捨てられないということになり、断捨離不能の言い訳に繋がるのだ。