インフルエンザ

インフルエンザが猛威を振るっていますな。受験シーズンで、修論・卒論の締め切りがわんさか。国の予算の審査なども目白押しのこの時期、インフルエンザウィルスは極めて恐ろしい。便利な道具の進化の過程で生まれた仮想通貨もウイルスにやられて霧散。これなどは進化の過程の代償とでも言えるのかもしれないけれど、リアルな生命を宿主とするウィルスにおいても、ワクチンに耐性を作って戦う姿勢を示すところなど、ウィルスってものはそういうもんかと、なんだか感心したりして。

インフルエンザと私ということではないのだが、その昔、予防接種を受けるとそれだけで感染症発症状態となり、それが複数年続いた記憶がある。以来、予防接種なるものを信用せず、手洗い、うがいを励行し、菌を過剰に体内に取り込まないようには心掛けてはいる。しかしながら彼らは目に見えない厄介な代物故に、置かれている環境は一般人類と変化は無い。変化は無いが取り敢えず定常状態からの偏差は、水平状態認定を受けられるほどには振れない。

年末からの地球外生命体説を真に受けると、幼年期において微少な菌で異様な反応を示したところなど、HGウェルズの宇宙戦争で火星人が勝手に絶滅した様とよく似ている。絶滅しない固体もあったろうにと思うのだが、現実と映画との違いがそのあたりにあるのかもしれない。42億年前に生まれた初期生命は炭素の集合体であり、殻を纏い自己分裂する、その自己分裂こそが生命の証。他の生命の中でそれを実行したら、宿主に変容が生じてもそれは必然だろう。

しかしながら、そのような生命同士の合体によって、目が生まれやがて人類にまで到達している。哺乳類として目に見えるサイズで言葉を持って協力しあう声明を人類と呼び、なんだか偉そうにしているが、実はインフルエンザと人が呼ぶ生命体も実は何かを考え、伝えあって、地球を汚しまくってのさばっている生命を絶滅させようとしているのではないか?勝手に温暖化まで引き起こし、折角の地球を無茶苦茶にしている様を許さないのではないか?そんなことをふと思う、何故か動き続ける私であります。

直線

神は直線を作らない。人間の目で見て、点と点を最短で結ぶと直線になる。獣道は決してまっすぐでは無い。獣は木の根を踏まないから、必然、曲がりくねった道になる。海から隆起してほぼ平坦な大地に雨が降る。隆起に従って溜まった水は海に流れ、川になる。断層に沿った川の場合、直線になるが、それは余程の事で滅多に現れない。直線こそ人類が到達した奢り高ぶった結果に得た社会的秩序であろう。

山を歩くには最も安定な尾根を歩く。雨の削り残しの尾根であるから、これは滅多に直線という状況にはならない。曲がりくねった尾根であっても、ひたすら前に進んでいけば、もしも断崖絶壁にあたらなければ、遠くに見えていた頂上に辿り着く。それを工学技術によって直線的に結び付け、これまた工学的に作り出した自動車という道具を使いやすいように創り込み、いよいよもって直線道路、そしてそこに並行して並び立つ家屋の世界を作り出した。それが文明というならそれはそうかもしれない。多くの文明社会において四角い町割りが好まれて使われている。

縄文時代ですら直線的な大路が創られていたことが発掘によって明らかになっている。神に出来ないことを人類が成し遂げたと思ってはいけないのだと思うのだが、今、我が国の政治は正に短絡的な進み方をしていると感じる。ネットワークを通じて人にとって便利な道具の出現を知る。それに追いつく教育を目指すとともに、まずはお金を通じて導入していく。世界と同列を目指すにはそれが手っ取り早い。そうすると外貨と交換できる自国通貨を作り、それを中核として人の世が出来る。

極めて短絡的な姿と感じる。便利を追求することが悪い事とは決して言わない。そもそも小生はオタクであるから、便利な道具は大好きである。一方で、ちまちました不便も大好きである。不便を克服して年始を迎える極地がおせち料理と考える。保存食の位置づけではあるがいちいち縁起に結び付ける。縁起ものなどは直線とは全く相いれない。心の作用であって、迷うから太くなり深くなる。ゆっくり歩くからこそ文化が見出される。世界が慌てて直線を歩むからこそ太く曲がった道を歩みたい。細ければ迷路だが、太ければ皆が並んで笑って歩ける。一人では文化はならぬ。ましてや文明をや。そう思う。

自転

昨日、プレートのお話をしたら、今度は地球の自転のお話だ。2011年から時点が線分の1秒ほど遅くなっているそうな。なんでも、核の周りの状態や海水温の分布によって周期的に変化するのだそうだけれど、今回の遅くなるバージョンでは、遠心力が減少方向に働くから、赤道地域が地球を締め付けて、プレートを極地方向に押しやるのだそうだ。2011年頃から世界中で大きな地震や噴火が増えているのは必然なのだそうだ。こうなってくると白根山の噴火など、まぁ、そうなのだろうなというところだろう。

地球規模の気候変動や地殻変動を地球の遠心力と結び付ける直接的なお話を伺ったのは初めてだったので、妙に印象に残ってしまった。ウェゲナーは大陸の移動は地球の遠心力だと、当時は地面の下の情報など分かるわけは無かったから、それを苦渋の選択で発言され、学界から消されてしまったが、直接的では無いにせよ、関数的には関わっている出来事であったに違いない。直感を大切に科学者は生きるべきだと言うことか。

大きな地震が発生するとプレートの位置が変化して、その都度、早くなったり遅くなったりを繰り返しているらしい。その積算の結果、しばらくは遅くなる方向に働いて、地球の締め付けが成されているらしい。数億年の長さから思えばなんて事の無い変動なのだろうが、その上に乗っかっている新参者の生命体には、案外、致命傷だったりするのかもしれない。地球がくしゃみをすれば人類など容易に消し飛ぶであろう。

週の頭から大き過ぎるお話だが、1月31日の皆既月食はちょこっと期待している。宇宙の中に住んでいるという感触を直に味わえるイベントで、出来れば晴れて頂きたいものだ。電子マネーがどうだとか、関東に雪が降るだとか、誠に平和だからこそ聞こえてくるニュースだろう。宇宙の出来事に目を転じ自らがいかにちっぽけか再認識している私であります。

雪景色

寒い日が続きますが、皆さん、お元気ですか?40年前の冬になったのではと、冷え込む日々が懐かしかったりします。ここ数年、特に名古屋では暖かく、謎の昆虫が夏にはびこったり、あるいは、果樹が実らなかったりと、本来の日本の植生を乱していることを実感出来ていました。ぐっと凍る。水ばっかりの人間にとっても昆虫にとっても厳しい冬。耐え抜いた方に都合良く働く。そんな冬の寒さを有り難くも思ったりする。要は寒さに耐える体を作れということだろう。

昨日に続いて雪の朝である。昨夜の帰宅時においても特に家々の日陰になっている路面における氷結が激しく、駅までの道がえらく長く感じた。小生の職場というか建物というかも同様に北側に出入り口があるものだから、凍結が厳しい。うっすらと氷結している程度の名古屋の冬を語ったら、秋田の知人たちに鼻で笑われそうだ。TVでは秋田の猛吹雪が放映されている。秋田空港など完全に閉鎖の状態だろう。流石の突撃秋田便のパイロットも厳しいのでは無いか?というか、航空機の性能限界を超えているかもしれない。

ラニーニャ状態が観測されていて、寒い冬になるということは解っていたが、やはり地球規模の気象現象というのはデータ通りになるのだなと妙に納得してしまう。ガキの頃は寒いと言うと親父にぶん殴られたものだが、今となっては懐かしい。「寒い無し」という謎のプレッシャーを念仏のように頭の上から降らしてきた親父だが、そんな雷神の如くの親父は今の時代では生きられぬ。ただ懐かしいだけだ。

寒かろう、暑かろう、所詮は人間の感じるところ。水っぽい人間だから、寒くなれば凍るし、暑くなれば乾く。自然の摂理にあがなうことは出来ない。地球のやることに文句は言えない。ただ感謝すれば良い。高齢化で独居社会になると、地球と仲良く暮らす社会学が進化するのだろう。結局は人間同士の優しさがキーワード。気象が厳しい時にそんなことを思うだけでもちょっとは平和に向かうかなと、それでもやっぱり寒いのは厳しいなと苦笑いの私であります。

出張

今日はお江戸である。こんな日に限ってという路面具合だ。さっさとお出かけである。今日はこんなところで失礼いたします。

移動中の新幹線の中で出張の顛末を述べるとしよう。想定以上に新幹線が遅れて名古屋駅に到着した。悟りを開いて遅刻を覚悟する。車台周りに雪が固着して、それを落とすために10分以上の遅延が更に発生する。モーター駆動用デバイスの進化は新幹線を省エネルギー化したわけだが、その見返りに低温化して雪が走行中に凝結する。自動車においても暖房が大変だという妙な話が出ているが、技術の進化とはそんなトンチンカンなことも呼び込む。今年は更に進化したデバイスが試験段階に入る。雪だるまみたいな新幹線にならないような足回りになるのだろう。

この季節に遠距離を移動するという行為そのものが間違っているのかもしれないが、好んで移動するわけではないので仕方が無い。呼ばれれば移動するしかないが、リニアモーターカーが動き出せば、殆どトンネルで問題なかろう。40分で品川とはとてつもないお話だが、小生が現役時代には動かないだろうから、まぁ、その世代の皆さんは頑張って移動して下さい。羨ましくもあるが、旅の感覚は全くなくなるだろう。ちょっと焼酎を一杯という楽しさは無くなるね。

省庁が東京にあるからみんなが東京に移動する。電子的ネットワークの発展で多少は減少したのだろうけれど、それでも皆が東京を目指す。人と人が出会って何かを成すという行為は無くならないのだろう。人類が今の生態である限り、何かを食べないと生きていけない。その食糧の確保において自給自足だけの社会となれば別だが、それもなかなかにして困難と思う。となると、誰かが生産した食糧を代価を支払って頂くことは継続していくのだろう。見てくれを気にしなければ要は食糧があれば何とかなる。

隣の方はずっとPCを移動中にいじっている。ポメラニアンになって久しく、PCを持ち歩くことが激減した。故障やデータ漏洩の恐怖は耐えられない。紙とペンがあれば永遠に思考し続けられるし、そんなものが無くても頭の中で思考を巡らすのは大好きだ。出張の原因とて、職場をなんとかしなきゃぁという思考が原因だ。何もしないのであれば移動などしなくてよいのだ。その代わり職場が無くなっていく。そんな時代である。そんな時代だから雪だろうがなんだろうが移動し続けなければならない。N700は軽快に進み、更に遅れることは無く小田原を通過した。お仕事が出来そうだ。めでたしめでたしである。

プレート落下により

愛知県に住んでいると草津良いとこって何処だということになる。下呂温泉に急こう配を付けてみれば、まぁ、そんなもんだ。筑波からだとそれ程遠い距離では無かったし、そこを越えれば長野県ということで観光ルートだ。日本海からプレートが沈み込み、そして落ち込みが加速する辺りはマグマフロントで火山列が出来る。震災によって大きくプレートが日本の下に入り込んだろうから、火山活動が活発化しても全くおかしくない。むしろ今までよくぞ沈静状態を保ったものだ。

小学生の頃にウェゲナーが唱えた大陸移動説に深く感動した。高校生の時、地学部を作って廃鉱山や海岸縁の露頭に出掛け大地の活動に胸躍らせたものだ。その中でどうなってんだ?としばらく自分の頭の中で解決できなかったのが、と言うか、文献で明示されていなかったのがプレートの核方向への落ち込み。考えてみれば溶けたプレートの原料が地上付近で冷やされて固まるのだから、核に向かって行けば再び溶けて無くなるのは必然なのだけど、なんかピンとこなかったのですな。頭が固いことです。

そこそこ硬いプレートが加速しながら別のプレートと摩擦しあいながら核に向かって落ち込んでいく。その時、マグマが発生し、密度が下がって浮上して、地上付近に水分が多いところがあればそれを突沸させ水蒸気噴火となる。これが激しくなるとマグマそのものがお出ましになる。破局的噴火などとマスコミは人類を脅かして喜んでいるが、まぁ、そんなに年中発生するものでは無い。奥三河にだって、その痕跡はあるが、今はいたって静かなもんだ。

静かなもんだと言っていて、いきなりのスキー場での噴煙と噴石だ。何しろ人間にとっては大きな地球の中身の、ほんの小さな変動を予知しておくのは無理というものだろう。プレートの動きは観測できるが、それが次の瞬間にどのように急激に変化するかなど知り様がない。知ったとしてそれをそこに居る人間にどのように伝え、そして行動させるのか?大震災の変動の余波は通常100年以上継続するという。まぁ、そうだろう。ああでもないこうでもないと悩み続けるが、宇宙の営みからすれば些細なエゴのぶつけあいだ。苦笑いである。

天変地異?

東京が大雪だという。大雪と言うなら日本海沿岸地域と比べてからお言いなさいと、20㎝で積雪と大騒ぎするなかれだ。この数年、東京で積雪ネタを聞くことが多いような気がする。小生が学生時代、北関東エリアはしばしば30㎝を超す積雪に見舞われた。自動車は少ないし、鉄道も無いから大雪になるとスキーを履いて学内を滑っているつわものが沢山居た。安アパートのドアが凍り付いて、折角、たどり着いたものの、研究室に引き返したなんてことも思い出の一こまだ。

東京の大雪をしり目に、本来、地形的には日本海の空気が抜けてきて大雪が降るはずの名古屋は、ここ数年というか、十年近くというか、台風にも大雪にも見舞われない。更には地震もちっとも来ない。これだけ天と地に恵まれていると、そのうちに思いっきりしっぺ返しがくるのではと勘繰ってしまう。適度な都合の悪い事というのは、気持ち的には案外必要なのかもしれない。

普通が一番なのは間違いなかろう。平穏無事な時が続くのが最も良い。良い筈なのだが、何かが起こるのではと恐れてしまう。達観しきれていない証拠だが、やはり驚天動地の天変地異にはご遠慮申し上げたいのは本音である。日本は4つのプレートが重なる世界でも稀有な領域に位置するのだがら、それにやってこないでと祈るほうがおかしい。それに備えることこそ日本という島国民族の必然だろう。

御同輩の多くが「昔はもっと寒かった」と言う。確かにそうだったかもしれない。今の気候を単純に温暖化と結び付けるのは愚の骨頂かもしれぬ。しかし、この名古屋エリアの天変地異が過ぎ越していく様は異様に感じる。何も起こらないことは素晴らしい。ちょこっと気になって、県の食糧自給率を調べてみた。なんと、カロリーベースで13%しか無い。人口が多いからということらしいが、安定した農業県と思いきや、全くそんなことは無かったのだ。食べ物が無い。ネジやエンジンでは生きていけない。既に天罰が下っていたかと、天網恢恢疎にして漏らさず、銭ばかり追いかけていると所詮は食えない世の中か。天変地異も逃げていく。そんな名古屋エリアだったのかもと、背筋が寒くなった私であります。

滑りにくい靴

今週は寒気と低気圧で太平洋岸も大荒れらしい。共通テストが一段落で、そろそろ私立大学の入試がスタートする頃だ。受験生は坂道だけではなく、地下鉄の階段など、滑りやすく作られているところでは十分に注意されたい。下手をすると骨折など悲惨な打撃を受ける。スタイルなど後回し、ここは一番、結氷した道路向けの靴などを新調しては如何か。

これが面白くて(何が?)雪道用のスノーブーツって、雪があるから滑らないという靴もあって、結氷路では限りなく滑るものもある。山道具屋も怪しい流行りの店ではそんなものを売っているから気が抜けない。というか、そんな店には行かずに駅前アルプスにでも行っていれば宜しい。以前は栄に一店舗、まともな店があったのだが、山ガールブームが遅すぎたせいか潰れてしまった。困ったものである。

ブリジストンが作った「転ばんしょ」(北海道弁でころばんしょは転ばないの意味だそうな)ソールを採用している靴などは、氷点下で、雪をかぶった寺院などの撮影に行くときはとっても重宝。凍っていないところでは摩耗が早いが、最近、積雪で結氷する都会の道路などではもってこいかも。どんな靴に採用されているかは各自で調べて頂くことにして、こんなものを選んでおくとよい。アシックスもアイスウォークなる品を出していて、こちらも氷のシーズンの山を歩く人たちには評判が良い。

君子危うきに近寄らずというか、行く暇がないというか、そんな状況ではあるが、結氷路は極めて危険である。靴で氷上ホッケーを可能とする靴もあるそうだが、そんなものは一般民間人にはオーバースペック。滑らないのも大切だが、靴の中が濡れて、試験中に足先が痛いなんてのは最悪だ。転びそうになっても普通の長靴を採用されるのが良かろう。やたらと地面が凍り付く筑波に12年住んでいて冬の靴選びはかなり大切だと骨身にしみた。名古屋ではほぼ役に立たない知識だが、東京への出張もあるし、靴のチェックでもしておこうかと思う私であります。

自らを刮目せよ

日本で最初に技術経営に着手されたのは本居宣長さんだろう。宣長さんと言ったって一緒に呑んだことは無いのだが、その博学多識ぶりは菅原道真さんの再来とも言えるのではなかろうか。道真さんは出世欲が強すぎて時代のレールから飛び出してしまったが、宣長さんにいたっては、かっとなって刃傷沙汰に及んだ最初の学者と言って良かろう。なんでも最初は偉い・・・かなぁ?

技術は知財をもって認知され、そして価値を生む。知恵を形にする。それが価値である。価値に対価を払って頂ける世の中は正しいし清々しい。心を盗む泥棒はこれまた清々しいが、知恵を横取りする輩は嫌らしい。新しいふりをして世間を闊歩する輩のいかに多いことか。まぁ、そんな者は気にしないのが寿命を延ばす秘訣だが、そんな連中に限って目立って視界に入ってくるから嫌らしい。

技術がお金を産まない日本において、泥棒一族がはびこって、更に国を疲弊させる。博士課程への進学者の数が年々減少しているのも努力と知恵にお金を払わない日本の体質故だろう。歯の食いしばりと血の滲みに敬意を払わない。そんな国に何時からなったのだろうか。学びの末に妬まれ、育ての親に捨てられた道真さん以前から、ひょっとすると日本人のDNAの中にそんな遺伝子があるとしたら自らを消滅させても余りある。そんな世界はまっぴらごめんだ。

努力。良い響きだ。我を忘れ生きていることにすら執着せず、ただただ純粋に研究に打ち込んで、一年に二、三日も体を横にしない、そんな日々を体と心に刻んできた。評価だけを慮り、自身だけが努力していると己惚れている君よ、刮目せよ。孔雀の羽はいらぬ。血と汗で応えよ。先哲の名が残るのはまさにそれだ。それだけが正しい人の姿だ。だからそれに倣う。真似るべきは偉大なる魂だ。それだけで良い。

蛸壺生活者の未来

プログラミングに初めて触れたのは高校生の時の紙カード時代。キーボード入力なんてなくて、マークシートカードが1行毎に対応して、そこにマークして一つのイベントを創り込む。小生はそこには何の面白みも感じることも無く、結局、大学で研究室に入り、機械をヒューレットパッカード社の謎の機械で制御するようになるまで、真剣に取り組むことは無かった。小さなミスでも命とりで物理現象を再現しようと躍起になった青春時代だ。結局、理想的な再現など、当時の計算機の能力では厳しくて、実験結果優先の、実験屋にとっては明るい時代であった。

スマホが当たり前になって、PCすら持ち歩かなくなった自分の生活スタイルに驚かされる。バーチャル空間で無意識にカード情報などをやり取りして買い物をしている。新幹線のチケットだってネットで予約、タッチで乗車みたいなスタイルになって久しい。儲けるチャンネルはIT産業に集中する。人に最も近いところの産業だからこそ価値を実感できるところにお金が落ちるのだなと、当たり前なんだけど、凄まじい時代だなと感じる。

アントレプレナー教育プログラムを走らせてみると、安全運転すらしない名古屋地域の大学生がわらわらと自主的に集まってくる時代である。就職活動の一助に、起業が選択肢に入ってきている。自分を振り返ると情けない。重箱の隅を楊枝でほじくる研究に没頭し、限られきったコミュニティで安心感に溺れていた。まぁ、その時の蛸壺生活は無駄ではなかったと思っている。そこで得たスキルは、壺の外では得られなかったと思う。

ソフトウエアがハードウエアの極限的深化によって支えられているのは事実だが、計算機科学の進化が材料や素子の深化を呼び込んだのは間違いなかろう。今、半導体デバイス関連産業は史上空前の活況で、これがいつまで続くのやらと恐ろしくもある。このまま電脳空間に安らぎを求めていくのか、それともリアルな人間活動が縄文時代以降、テクノロジーにまみれてきたその便利さを置いておいても人対人の共創に戻ることがあり得るのか。AIって案外、後者じゃないのかなって思ったりもする。折角の人間に生まれてきたのだから、その有難さに感謝して生きていたい。リアルにそう思う。