イノベーションジャパン

58大学が組織的取り組みを全国規模で展示するイノベーションジャパン大学見本市が明日から2日間、ビッグサイトで行われます。既に準備のためメンバーに先乗りをして頂いております。多くの知古の方々との出会いもあり、とても楽しみにしているのですが、体調が本調子ではなく、多くの方に肩透かしを食らわしてしまうかも。その節はお許しください。

大学の特色が明確に現れ、今後、こんな方向に進んでいくのだなと実感することが出来ます。有難い勉強の機会であり、2日間、多くの学びを得たいと思っております。産学官金連携機構として、まだまだやっていかねばならぬ改革、挑戦するべきことが沢山あるわけですが、その方向性の確認と言うか、順番を確認するというか、そんなところで御座います。

幕張メッセから比べれば遥かに行きやすいビッグサイトであるわけですが、流石にここ数年はゆりかもめに乗ることは無くなってきましたな。大雨だと駅から濡れにくいという選択によって活用することはありますが、乗っている間にその時間の無駄感覚に悲しくなってしまいます。新幹線を使ってお江戸に出たのに、そこから籠に乗せられたような気分になります。

スピードばかりが良い事ではありませんが、満員感も加わって、あれは乗りたくない乗り物ナンバー1なんですな。特に荷物が多い時には御免こうむりたい。そんなこんなで今日は朝からお江戸です。いろいろとご無礼の段、ご容赦くださいませ。

杞憂?

様々なところで感じる薄ら寒さ。バブルというなの麻薬に溺れ、その幻想をひたすら追い求める。為政者は既に気が付いているのかもしれないが、国民にそれを見せまいと躍起になっている・・違うかなぁ?それくらいの政治家が居てくれれば有難いのだが。AI、IoTと絶叫されて久しいのだが、既に教育の基礎がそれを軸足にしていることを体感出来ない。

だったら大学がやれよと?冗談ではない。三つ子の魂である。大学生では遅いのだ。そろばんの学習があったから、加減乗除は身についた。それは有難いと思っている。機械が壊れるとそれを分解させてくれた親に、様々な機械の構築をしている今、それは凄まじく役に立っていて、これまた大感謝である。小学校に上がってからでは遅いのだ。

パンゲア大陸から分離独立し、プレートの動きによって大陸に衝突。今もヒマラヤを押し上げ続けるインドだが、かの国こそそれを実現していらっしゃる国である。人々の勢いたるや凄まじい。気が付けば誰も居ない研究室では何も進まない。教員だけが実験室で研究をしているようでは、この国の未来は無いなと実感している。

時代ということは間違いなくあろう。江戸、明治、大正、昭和、平成が過ぎ去ろうとしている。それぞれの時代末の人達が次の時代の旗手たちにバトンを渡してきた。今、自分は渡せているのだろうか。社会人学生の中には、そしてその卒業生の中には何か世の中変だぞと気が付き始めている人々も出てきた。絶望する必要は無いのかもしれない。杞憂であれば有難い。

求道者の如く

8月末に近づいているというのにちっとも涼しくならない。台風がやってきても名古屋はろくすっぽ雨が降らない。大地は乾ききり熱風が吹く。素足で板敷を歩くと、妙に暖かい。流石に熱いということは無いのだが、気持ちの悪い事この上ない。ただ、悪い事ばかりではなく、カトレアが咲いた。生まれ故郷の熱帯を思い出したように、実に可憐で楽しませてくれている。他のいわゆる日本原産の植物は大丈夫かと心配になる。 

大丈夫だったかどうかは来年の芽の出方とか花の付き方とか、年を越さないと分からない。環境のお話は直ぐに結果が出てくるものではないから恐ろしい。確実に進んだ温暖化ではあるが、都合が悪いのは人間だけなのか、それとも生命体としての地球にも深刻なダメージがあるのか分からない。過去には地球全球凍結が発生したこともあり、またその逆に氷河が無かったことだってあったわけだから、地球そのものは、まぁ、くしゃみにもならないのだろう。 

一昨日はインドネシアの早朝女子マラソンを見ながら昨日の中部圏公設機関新人研修用のプレゼンシート、課題を作っていた。想定以上に時間が掛かり、ゴールまでに完成させようという目論見は見事に壊れた。9月だけでも10件程度の講演をこなさればならぬ。年々、大学の夏休み期間での行事が膨らみ続け、とても学者の生活では無くなっている。まぁ、職制が許さないというところはあるだろうが。 

若い研究者の方々に伝えたかったことは、自らが何ができるかではなく、他の方が成すことを共に達成することである。自らが何かが出来るなどということは当たり前だ。特に公設の場にいるのであれば、社会に対して自らがどんな働きかけが出来るのかを明確に示す義務がある。自らを高め求道者の如く頑張っていただきたい。応援する。

 

 

今日も37度

今日も37度を超えるらしい。まぁ、慣れてきたのは事実だが、それでも暑いものは暑い。年々暑くなるのは間違いなくて、そのうちに平均気温が夏季では40度を超えるようなるだろう。それ程、遠い未来ではなかろうて。

太陽という素晴らしい存在が無限に与えてくれるエネルギーを、人間がせっせと蓄えたのだから、それは暖かくなるのは当然だ。これ程までに人類が一致団結して成し遂げたことは他にはなかろう。人為的に気候変動を起こしたのは恐らく初めてだろう。初めての後には何かがある。

24時間テレビを批判するわけでは無いが、一晩中起きてお仕事をすることを是とするような活動に見える。そんな活動が本当に正しいとは思えない。人間、生き物だからその活動はいつかは必ず止まる。天命よりも早く停止するとすればそれは周囲の我儘に起因する。休みたくても休めない。強要は耐えきれない。

国民の批判を一身に浴びてもへっちゃらな方がリーダーを目指すらしい。なんだか随分とお安い国家に見える。まぁ、全国民が良しと思っているのだから仕方が無い。民主主義とはそういうものだ。

 

興味と趣味

心が動く、それはその対象が何かを感じさせてくれるからだ。それが世界で最初の出来事であれば当然そうだろう。それを日本語は興味と呼ぶ。単に面白いということではない。心が動くほどのものである。後悔などなく、のめり込める、そんな対象に興味を抱く。楽しみであり、それを体感し味わうことが出来るほどの楽しさだ。興味とはそれ程に優れている。

趣味とはまた違う。興味は自らの外にあり、趣味は自らの中にある。それ故に、趣味は身勝手であり、利己主義者は趣味のみ満足でき、自らが制御できない興味という人間が到達した文明を理解することは出来ない。自らのミスを他に転嫁し、正義は趣味の中の自分にしかないと断言し、他を排斥する。

会話力によって生き延びたホモサピエンスも、趣味のみに生きるDNAによって滅びるのだろうと実感している。やまとごころなど無いのだ。日本人は須らく滅びるということではないが、ネアンデルタール人が滅びたの如く、趣味人は消えていかねばならぬ。旧人類と蔑まれようが、興味を抱ける民は、その慈しみの心によってその生命を永らえる。

泣く人が居ない。そして笑顔になるだけの出来事に興味を抱けない。自らだけが正しく、自らを正当化し、他を排斥する者がはびこる今、旧人類は心を揺らがせることなく、死を恐れず決断せねばならぬ。決断を知らぬ者によって決断を迫られる時代になっているのだなと、陰口、裏表を定常状態とする者に溢れた世の中で生き抜く辛さを感じる私であります。

 

20号

起きてみると晴れている。台風は何処に行ったのやらと思うのだが、心配することはない、きちんと今宵にはやってくる。気象変動の極端事例を挙げよと言われれば、誰もが台風と応えるだろう。それ程に当たり前なのだが、これほど、破壊的で驚天動地なイベントは他にはない。地震雷火事親父の親父の部分だが、熊本方面では大嵐をヲヤジと呼ぶ。親父に権威があるわけでは無く、大嵐、即ち台風が恐ろしいということだ。 

台風程恐ろしくなれるわけはなく、ふむふむと分かった顔をしているのだが、台風という空気の渦は、それはそれは恐ろしいと思う。新聞のお天気欄では「台」と書かれるだけなのだが、海水面からエネルギーを取得し、ぼんぼこ強くなっていく。昨日などは19号が送り込んだ熱波で瞳が焼かれる程の感じを受けた。気候変動の凄まじさを体感できた。 

小生的には1980年台、中学生だったと思うのだが、9月にやってきた台風21号がやたらと凄くて、それこそ親父の都合で住んでいた羽田の周辺がどっぷりと水に浸かり、悲惨な思いをした。当時は下水が完備されておらず、まぁ、ねぇ、要するにとんでもない状況になるわけだ。それを思うと、インフラの進化とは凄いものだなと実感する。 

今宵、恐らく台風はやってくるのだろう。愛知県は災害が逃げていく稀有な県であり、三英傑が出るわけだなと感じるところだ。災害は忘れたころにやってくると寺田寅彦先生は仰ったが、まさにそれで、忘れたままなら良いのだが、平坦な地べたが全て雨水に覆われる事態がやってこないとは限らない。南海地震で沈下するかもしれない。今日は天変地異を思いながら過ごすとしよう。暗天を見たら皆、帰らねばならぬ。今日はそんな日だ、

 

 

ラジオ

感傷という単語は知らない。ボヘミアンラプソディーが20世紀、最高の「音楽」と称号を受けて早くも18年だ。楽曲そのものは小生が中学校2年生の時のものだ。芸術以外の表現が無いと感じた。ラジオ短波の100万人の英語で小林克也さんが取り上げていらっしゃったことを覚えている。世界と繋がるラジオ短波、その中で繰り広げられる、なんというか「誰も聞いていないからやりたい放題」みたいな雰囲気が心地良く、毎日毎日、ラジオ短波である。

ラジオと言えば、今もある「ジェットストリーム」だ。「夜のしじまのなんと饒舌なことでしょう」というフレーズを1970年代のラジオ少年に知らないとは言わさない。未だに続く夜のしじまだが、城達也さんのなんとも甘い音楽とも言えるナビゲーションに、心打たれた学生の何と多い事か(勝手な統計です)。飛行機の旅で、雲海の上を白々とした薄い闇を亘りゆく飛行機の窓辺に、そのフレーズを思い出さない野暮は無い。

想い出に浸るわけではない。想い出はごみである。ゴミになるから想い出であり、今そのものこそ、真空に広がる爆発であって、さっきはすべからくごみである。そこまで達観せずとも好いと仰って頂ける方もお出でだが、所詮、小生如きが未来など語れず、世界の土地々々で、受け止めた民族が、宗教に至るまで伝達するのだ。

ラジオは今もある。スマホラジオも良いのだが、やはり、チューニングして会話を探すのが面白い。語る、そしてこちらは想像する。その関係が良いではないか。一つの答えだけではない、無限の可能性がある。チューナーの向こう側。案外リアルな関係と思う。愉快である。

休暇

クイズに正解すると有給休暇が取れると、ジャパンビバレッジのとある部署で上司がメールをばらまいたらしい。誰も正解が出ず、有給休暇は誰も取れなかったという。休暇というのは素晴らしい。ストレスリッチでそれこそ死ぬほどのプレッシャーの毎日だが、それをほんの少し緩和してくれるのが休暇なのだと実感した。小生においてはそれこそ30年で1日の休暇だったか、それでも気分は随分と違う。

明るい時刻に読みたい本を読み続ける、この暢気さである。この暢気な状態こそ休んでいるという証であろう。体を動かさないという点においては、デスクワーク主体の人間であれば、まぁ、そんなもんだ。無理に日常を変化させる必要はない。職場での追及が無いということが休暇であることを実感できる。働き方改革なんてことを政府は叫ぶが、30年で1日しか休暇を取れない、そんな人達がこの国にはあふれていると思う。

年に標準で20日間の休暇が与えられる。20日もあるのかと思ったりしてきたが、1日の休暇を頂いてみると、20日くらいは欲しいなと、実はそう思ったのである。しかも、連続してどかぁんと仕事から遠ざかって、読書や山歩きなどに浸ってみたいとそう考えた。何かのために休むのではなく、休むために休む。これは実に本質的である。土日なく物書きなどしていると、これは人間として間違っているのではと感じた次第だ。

とは言うものの、たまたま会議などが入っておらず、お盆のロックアウトに連続できたから休暇を取れたのだが、一般的平日にそれは確実に無理だろう。来年のお盆までお預けである。それでもなんでも、休暇という響きは宜しい。なんだか、最大のご褒美に感じる。倒れる前に休暇だろう。そんな気がする。

電脳寿命

残った人生を考えてみると、そろそろ「もうこれは生きている間は用無しだろう」というものが身の回りに散見される。必要な物品までもストイックなまでに捨てまくるのは断捨離というカテゴリなのだろうが、そこまで人生を達観出来ていないので、断捨離などはしない。ただ、無限の速度で増え続ける物品を捨てる・捨てないというふるいにかけて手元に残すと決めたところで「何処に?」という場所の問題が付きまとう。この場所との戦いは切実だ。

基本的にその時に何かの仕事を突破するために揃えてきた物品であるわけだが、社会の進化と共に「それでは対抗できない」、「対抗出来ても時間というコストが掛かり過ぎる」という事態に陥った時に、進化した物品を導入してそれを突破してきたわけだ。そうではない、例えば調理器具などは学生時代に購入したビタクラフト鍋などは代打の登場は恐らく小生が生きている間にはあり得なくて、何かを買い足すことがあったとしても一線から退くことはあり得ない。不要となることは無い。

特にエレクトロニクスの進化は劇的であって、都度都度捨てては来ているのだが、本体は捨てたはずなのに電源が残っているとか、既に何に使ったか忘れてしまったケーブルとかアダプタとか、そんなものはえいやっと消えて頂く。代役が生まれたら消えていく、正に破壊的イノベーションによって現役を退いたものを二度と使うことは無い。想い出はいつかゴミになる。ゴミはゴミの行き場に収まるのが良い。

何かの夏のイベントの度にもらってしまう団扇とかね。やたらと数がある。これなどは特に捨てるという事は無く、BBQの時にジャンじゃか使ってボロボロになったら、そのまま火葬というのが良かろう。ゴミ箱に放り込む類のものはまだ良いのだが、本とかレコードとかは、これはまぁ、そうはいかないのだ。その中でも順序を立ててご退場をお願いしてみたりはするのだが、退場速度よりも入場速度が桁違いに大きく、はてさて、どうしましょうという感じで、地味に毎日1個は何かを捨てようと日々苦慮している私であります。

勘・コツの未来

そこに何かがあると言うわけではないか、そこに行かないと無い事は沢山ある様な気がする。それをその時に見たと言う、その事実こそ貴重な体験となるのだろう。経験と勘だけで行なっているものが、実は極めて定量的な行為であって、日本の産業の方向が見えてきているなと感じる。 

難しい話では全く無くて、様々な分野で行なっている勘コツ的な仕事は、これから加速的になくなるだろう。ビッグデータの時代においては当然だろう。かく言う自分の様なお仕事も、近い将来、消えてなくなるのかもしれない。 

哲学者ばかりが闊歩する時代になるのかもしれない。それはそれで面白いのかも知れないが、人類は急速に減って行くのかも知れない。人の為に人がいる事の価値を高める社会になるのだろうか?戦争優先の政治には辟易だ。 

急に明け方、涼しくなった。異常な暑さが続いたからそう感じるのかも知れないが、とても有り難い。たった1日ではあったが、初めて取った休暇中にあっても面倒なメールが飛んでくる。多くを無視させて頂いた。悪しからず。