カメラの眼

竜巻発生の確認報道が増えたのは、携帯が行き渡ったからという、成る程なぁと思った話を聞いた。それと同じで、火球と呼ばれる流星の目撃情報が増えたのも、携帯だったり、ドライビングカメラの設置が増えたりということなのだろう。毎日、1トン程度の星屑が地上に降り注いでいるわけだから、地上の何処かでは観測されていて良いわけだが、地上から確認できる高さまで燃え尽きずに落ちてくるサイズの隕石が、カメラに撮影されたということで、監視カメラって凄まじいなと感じる次第。

日本ではまだまだ進んでいないが、それでもかなりの数の監視カメラが設置されるようになってきている。一般の住宅でも空き巣対策にカメラを設置していることに、散歩をしていて気付く。ダミーカメラも含めて、効果はあるなと思うのだ。竜巻だったり、流れ星だったりの、そう滅多に起こらない自然現象でさえカメラに収められるわけで、それよりも遥かに多い空き巣が、カメラに写り込む確率が高いのは当然だ。

海外では個人情報云々など有無を言わさず公開し、その手の類を追い込んでいくわけだが、どうもこの国ではそれが許されないところに恐ろしさがある。某監視カメラの映像を拝見したことがあるのだが、余りの鮮明さに度肝を抜かれ、それからはそれを見かけたらVサインなどして喜んでいる。美国においては誰が何処の店に入ったかまでリアルタイムで解析出来る程のデータを蓄積しているわけで、まぁ、それを知ったうえで過ごすのが当たり前になっている。

火球がニュースになって、隕石が増えたのか?と思うのではなく、それを撮影するカメラが圧倒的に増えた思うべきでしょう。しかも流れ星だから気が付いてカメラを起動して撮影するということを実現しているとしたら、起動時間が極めて短いわけで、シャッターチャンスを狙う人々の気持ちに叶う時代になってきているのだなと、電子技術の進化に感心する。カメラの映像より、目の前の花を愛でていたい。そう思うのだが、自然の神秘にも興味津々。そんなカメラの使われ方に期待したいが、ちっとも遠出が出来ずうんざりの昨今であります。

自助

名古屋市繁華街の飲食店対象に、午後9時までの短縮営業要請が出るようで、29日から来月18日までということらしい。緊急を要することなのだが、今日の金曜日はスキップして、日曜日からという依頼が、本当に市民の身を考えているのかと考えてしまう。一方で、お店側からすると、金曜は稼ぎ時だから呑みに来てねということでありましょう。

どこからともなくやってくる、感染力が強化された新・新型コロナウイルスということで、最早、短期の自粛依頼など効果はありそうにない。それは誰しもが思っていることではなかろうか?新聞等で毎日公開されるグラフを見ていると、曜日によって上がったり下がったり。その傾きを定規でなぞってみると、3回目の山は相当に伸びそうだ。

累積感染者数というグラフを見ると、4月手前から急激に立ち上がり、そこから7月初頭までは緩やかな増加となる。工学的業界人だと、ついつい傾きを見るとグラフの変曲点とか傾きとかが気になって、明らかにその傾きが大きくなっている。そして重傷者もそれに伴って、まぁ、母数が増えるから確率が等しくとも増えることになるでしょうね。オリンピックを何が何でも開催することが目的化されていて、国民の健康などどこへやらである。

国民側も独自の対応策を取らねばならないでしょう。減毒化させるミストだとか、報告されているもの、プライベートコミュニケーションのもの等々、自らの身は自ら守る、自助せよというリーダーの言葉に従って行動すれば良い。まだまだ因果関係が分からない。効くのか効かないのか、効くけど副作用が酷いのかもしれないワクチンに過度の期待をせず、いよいよ寒くなる冬に向かって自助方法を考えましょう。そんなところかな?

呑気

名古屋から富山に出ようとすると、高山を抜けるか福井を抜けるか。北陸新幹線の金沢から敦賀延伸が遅れているというニュースを見て、これが出来ると少しは早くなるのかなと思ったりもする。どうせコロナで何処にも行けないから、地図を眺めていたところでそんなニュースを見た。だいたい、新幹線が出来ると在来線が消滅するから、しらさぎって敦賀行きになっちゃうのかしら?

米原からスイッチバック的に北に上がっていくのが好きなんですよ。あの、理不尽な動きが。滋賀人的にはわくわくものですよ。そしてあののんびりムードで余呉湖あたりを通過して、いよいよ山間地に入っていく。こんなところを通って、よくもまぁ、戦国時代に戦をしたもんだなと呆れ返りながら眺める車窓の、なんと穏やかなことか。旅感覚をじっくりと味わえる。

敦賀から新幹線になってしまうとという表現は宜しくないかも知れないが、いろいろと都合も悪くなる。現時点でも乗り換えずに富山には行けないわけで、金沢からの新幹線乗り換えが敦賀乗り換えになるだけだから、まぁ、乗り換えという点では変わらないかもしれない。例えばですよ、富山でお酒を買い込んでほろ酔いになった頃に敦賀で乗り換えると、ホームでまた何やら買い込みそうな気がするのだ。何処が都合が悪いのか解らないけれど、高速で突っ走って稼いだ時間を、その後のしらさぎで全部吐き出すみたいで嫌ですな。

速いだけなら徹底的に速いほうが良いわけで、旅路なんて贅沢なことを考えるからいけない。でも、時代はそっちの意識の方向に向いている気がするのですよ。気合を入れる時には思いっきり、気を抜くべきときには全身で脱力。そんなことを考えるなら高山経由で行けよとなるわけですが、あれはね、あれはちょっとね。高山から北が特にね。余程、気持ちに余裕が無いと使えない。次に乗車するのは何時のことか?敦賀延伸が遅れますよというニュースから、地図旅をしてみた小生でした。

思い違い

記憶をひっくり返してみると1986年前後だと思う、インターネットが大学に入ってきた。大学と言うよりも、加速器のメンバー同士でデータを共有するにあたって、テキストベースであれやこれやとデータに関してやりとりしていたことを突然想い出した。誰が何を言うとか、どうでも良くて、このデータは正しいですかという、観測技術に疑いをもって、そして何かを得ようとする、それが、当たり前であった。

今、政府の皆さんが押し付けるのは、病床があふれるから、何故だか熱も出さないような若者は感染者カウントから外して、まぁ、回復すれば良かろうと、人数にも入れない、それが日本である。諸外国ではあり得ない、自国の自虐である。

先日、パンクしたタイヤを交換して、街中を走ってみたのだ。新品のタイヤは心地よく、地面をリズミカルに弾いてくれる。ブレーキを掛ける度に、ぐぐっとスリップして、部分的にゴムが無くなっていた以前のタイヤではなく、八事の坂を心地よく下ってくれる。それが大切。ぐっと筋肉に力をこめながら、そう、額に汗しながら進むことが良い。

汗ってなにかと言えば、努力の決勝だと思うのです。威張って若い連中を奴隷化することが価値では無い。当たり前なのだが、そうしたがる方がいらっしゃる。嫌である。でもいらっしゃる。はてさて、どうしようか。

思考放棄

利用していない内に、対象除外などになっていくGoToトラベルやイート。まぁ、積極的に活用しようとは思ってはいないのだが、絶対に取り下げないと言っていた首相だが、ここにきて調子がおかしいですな。一時的に適応除外はするべきだけれど、それは地元で考えて、地元で保証しなさいということで、国と地方が税金の再配分を押し付けあっている構図は、なんとも見苦しい。と、言うか、元来、GoToなんとかって、感染が続くさなかにやらなければいけなかったのか?

過ぎ去ったことだからどうしようも無いのだけれど、熟慮無く動き始める。どうもこの国、その傾向が強くないだろうか?いきなり殴打事件が頻発したりね。突発性幼児性というか、どうしてそうなるのか解らないことが多い気がする。GoToトラベルによる感染者は何名だから大したことは無いのだという、根拠の無い数字を並べられても困ってしまう。見えないウイルスの怖さは十分にわかった。政治の有り様までおかしくなる。

見えないことは恐ろしいことである。まぁ、空中のウイルスが目視出来てしまったらそれはそれで相当に恐ろしいことは間違いなかろう。ただ殺菌は出来るわけだから、目に見えるところから消毒していけば良いという安心感は獲得できるのではないか。大変なことだけれど、じっと屋内に籠もっているよりは安気である。打つ手無しの現状を何とか変えてみたいものだ。

暖かかった三連休であったが、今日辺りからぐっと冷え込むらしい。街にお出かけになって保菌して、身体を冷やして体力を落とし、菌の増殖を許すようなことがあってはならないが、ニュースの類を拝見する限り、自粛陽性のあった連休中の人の移動は相当にあったようだ。命よりも経済ということなのだが、人の命があっての経済では無いのか。教育の方向性が間違ってきては居ないか?思考する生き物がそれを捨てているのではないか?そうならない方向に舵を切らればならない。そう思う。

百万台

変な言い方だけれども、今の時代、あっという間にニュースとなって真実も虚構も広がっていく。真実として百万台規模の工業製品のリコールなんてのがありますな。小生が最初に購入した自動車がリコール対象で寂しい思いをした記憶は未だに残っている。もう二度とこの企業製品は購入しまいと、他の企業の自動車を購入したら、いきなりリコールだ。そんなものか?

ネットのニュースを見ていたら、やっぱり自動車のリコール話が出ている。星の数よろ多い企業様が関わって、技術を競っている筈ではないのか?これは失敗作品でしたと言うのは、まぁ、企業的には断腸の思いかもしれないけれど、購入する側からすると、とんでもない金額の製品が「不良品」だったりすると、思いっきりがっかりするわけだ。

ものづくり屋として、毎日毎日、悩み続ける。当たり前の思考である。昨日のことなのだが、ルーチン的な作業ではあったのだけれども、ほんの数度、この季節にしてはやたらと暖かい状況において、悲劇的な状況が発生した。3週間、地味に続けてきた作業が全て消え去った。しかし、人は殺していない。リコールなどする状況にはない。

丁寧な作業、仕事が必要なのだ。百万台規模のリコールが当たり前の産業界こそ、小生は異常だと思うのだ。国民を養っていると威張る前に、絶対に人を殺さないものづくりをするべきだと思うのだ。経済的に百万人を養っていると胸を張る前に、工業的に人は殺さないと謙虚に成るべきだ。丁寧にコツコツ。経済よりも丁寧だ。当たり前だ。

AI予測

学者先生方のコメントはリジェクトするのに、AIが出す数値はニュースになる。賛成とか反対とか、そんな次元を語るつもりは全くない。データと国民的行動から推測されるものであって、これは実に面白いものが公開されたなと、興味深いものである。12月には愛知県は新型コロナウイルス罹患者は減るのだそうで、それは有難いことであるが、東京、大阪は増加傾向とされていて、愛知県はそれだけ観光的要素が少ないのか、会食などでの対策がしっかり取れるエリアと認められているということか。いずれにせよ興味深い。

昨日の発表では493人という東京での感染者数であり、いよいよここまで来たかなというところだ。ヨーロッパ型に変異し、そして乾燥・気温低下というウイルスにとって極めて過ごしやすい環境になってきたということで、全ての人が気を付けなければならない状況に入ったと考えるべきだ。もういい加減、新型コロナ禍のネタはやめたいなと思うのだけど、AIによる推測とか、東京の、本来、16時過ぎの発表となっていたのに15時に発表があったのは、500名を超えないようにしたためかなと、妙なところに目が行ってしまう。

健康管理に関するAI活用はもっと成されて良いと思うのだ。個人情報が云々と直ぐに言われてしまうのだが、人間ドッグの結果を受けてどんな栄養素が足りないとか、そんな情報とネットスーパーがリンクして、栄養を補う献立を送ってくれるとか、日頃の健康管理のスマートウォッチとも連携して、医療費を1/100にするとかね。農作物の栄養素を高め、農薬などを減らしていくことともリンクして、ベンチャーとか誰か起こさないかしら?

変えたくない大人たちが寄ってたかって潰すのでしょうけれど、健康で笑顔ある生活を送りたいという願いすら我が国では潰される。コロナ禍で世界中がでんぐりかえっても、結局はガソリンエンジン自動車を売りまくる事を褒め称え、世界の流れと逆行しようが知ったこっちゃない。AIの予測だって、自国のものではない。この国の思考力は何処に行ってしまったのでしょうか。いじめや賄賂は許されて、真っ向勝負のバカ正直者は絶滅あるのみ。まぁ、愉快だな、そんなところだ。

根本解決は?

研究の仕方にはいろいろ流儀があって、人それぞれで面白い。市販の機械でやらないと他人が論文を参照した時に同じ結果が得られないから、自作の装置などはもってのほかと怒られる方もいれば、世界初の出来事を目指すために世界初の装置を作り込むのだと息巻く方もいらっしゃる。カミオカンデなんてその両方良いとこどりなんだろうなと、流石ノーベル賞だと感心する。強烈な先生の個性によるリードの結果ですな。

小生的には地味にコツコツと作り込んでいくわけですけれど、従来、当たり前だと言われていたものが「なんて酷いことになっているのだろう」となることが多い。多いというか殆どだ。実例を出すとミサイルが飛んでくる雰囲気があるので、やめておくけれど、余りにも酷いものがある。こんなもの救いようが無いと思う技術なのだが、それが当たり前に世の中で使われている。

まぁ、その手法で作られた部品を使っている機械は動いているのですよ。時々、ニュースになりますけどね。要は視点なのですよ。太陽が照らす大地を見るか、大地の中に芽生える種の目線で大地と大気の境界線を見るか。多く、太陽から大地の目線になる。間違いでは無いが、本質では無い。言い切ってしまうが、小生はそう考えている。会議での議論も同様だ。

この議題の落としどころって、結局のところ、不具合解決か、根本改革かのどっちかなのですな。ほとんどが全社なのががっかりするところではあるのだが、根本は何かを見極めていくためには、余りにも悲惨な現状を手当てしていくことも必要である。世界は猛烈な勢いで変わっていくが、強烈に変えたくない人々が次世代を破滅させる。その一員にならないように、心を丸く腹立てずで今日も過ごしたい。そう思う。

臆病の薦め

理想とかそんなものは叶わない。しかしながらそれを胸に抱いていないと、座礁続きの人生の航海において、再び船が動き出せるか、永遠に夜が明けない朝を待つようである。お気軽が一番なのだが、達観ってそうそう到達できる代物ではない、境地ではない。異様に増えきった人類にどんな未来があるのか、生命として不安は多いが、日は沈み夜が明ける。これが繰り返されている間は、なんとか頑張らないといけない。

毎日、絶滅している種があるというが、ウイルスまで生命に含めると、新種の誕生は絶滅を上回っているのではないか?『新型』コロナウイルスとか人間は勝手に命名しているけれど、具体的には新型の中に更に新型が重なって、もう、何がなんだかという状況ではないのか?分析技術が進み正体は画像化されてはいるけれど、人類を叩きのめしているその本質には誰も到達していない。あっという間に世代交代する種に、数えることが出来る数しか種の分化が成されていないものが勝てっこない。

偶然という人間が作った適当な言葉に望みを託すしかないのでしょうね。偶然に生きている、偶然に助かった。まぁ、交通事故も感染症も、致命傷から立ち直っていくという点においては似たようなことかも知れない。どちらも偶然である。ただ、偶然に何かに出会う確率は下げることが出来ることは、そうだと思う。偶然に確率をもっていくのは間違っている考え方だと解ってはいるが、まぁ、臆病が一番だということだ。

『良い』臆病を徹底することは案外大変だ。つい、天狗になって人は挑戦を選択してしまうのだが、それをぐっと堪えることが出来たら、朝日を浴びることが出来るのだ。何が大切なのか。絶望的な状況の中で、その暗黒に捕まるか捕まらないか、結局は臆病が一番なのだと経験は語るが、人は挑戦を美徳とするからいかん。経済などという言い訳をするからいかん。学びを止めてはならない。それは臆病でも出来る。それで良いと思う。きっと明日はやってくる。そんな人にはね。

秋っぽく無い

水蒸気が多くて、秋らしく無く、スカッと遠方の山並みが見えない。精々、猿投山塊までである。例年、11月も半ばを過ぎれば恵那山は勿論、御嶽山も見えて普通である。妙に暖かい。暖かいと言うか散歩をしていると暑い。10月初旬程の気分である。しかしながら紅葉は間違いなく進み、木々は冬支度である。ふと、見上げて、空の色は縄文の皆様と同じ色だったのかと、「空の色は変わらない」という詩人の一言って本当なのかなと空想した次第。

現時点では3.8cmずつ遠ざかる月であって、地球と月の引力バランスが主に効いてくる。45億年前に惑星衝突で地球から飛び出した岩塊起源の月であって、その時の放出角度、速度が今持って関わっていることが愉快である。その当時は年間大略20cm程の勢いで離れていったらしい。遠ざかる力も次第に弱くなり十数億年の後には一定の距離を保つそうで、人の寿命からすれば宇宙のイベントは大きく、そしてゆっくりしていて安心である。

縄文初期の皆さんは今より平均400m程近い月を見ていたわけではあるが、楕円軌道を取るお月様はただでさえ5万kmも近づいたり遠ざかったりするわけだから、月と地球の平均距離の変化程度で空の色が変わるわけはないなと、天文学の観測結果を知ってしまうとどっちらけてしまうわけだ。神秘が解明されるとそれだけ、頭の中の物語が狭くなるなと、興味を持ったらそこで踏みとどまることも必要だなと、定量的な観測こそ大切だなどと、日々、叫んでいる人間とは思えないロマンチズムだ。

面白いと思い込めるから研究に打ち込めるわけで、そのきっかけはほんの小さな不思議感覚だ。知らないだけで既に解明されていることであっても、知らないことで楽しむ事が出来る世界は広くなる。大切なのは純粋に何にでも楽しいと思える心なのだと思う。格好を付けることではない。何でもキレイに話を纏めることではない。プレゼンなんて後で良いのだ。人の目ばっかり気にする人ばっかりに為った時、愉快な科学は無くなるのだろうと思うより、自らが面白がり続けようと思う、ちょっと霞んだ秋の空を眺めて思った私であります。