永遠のPCトラブル

昨日のパーソナライゼーションと関連してしまうかもしれない。突然、PCが立ち上がらなくなった。これは今年に入って2度目である。異なるPCで発生した事例で、1台目はCPUファンがへたってきて、回転数が上がらずにBIOSがPCを起動させずにダウンするという状況であった。ファンを取り外して手で回してみると、ベアリングがへたった感満載で、これは修理というレベルでは無いなと実感。12年以上も回り続けるというのは凄い技術だなと感じたりしました。類似のファンを購入して、無事にPCは再起動。古い機械なのでデータを吸い出して、事なきを得ている。

今回のケースは2台接続している外部ディスプレーが要因という、後で解った事なのだけれど、まったく謎の症状でPC本体が立ち上がらなかった。先ず、接続されているケーブル類を全て外して、PCだけで起動するかどうかのチェックをするわけだが、駆け込み寺の起動スイッチの長押しをしてみても、うんともすんとも言わない。これは困ったことになったぞとなるわけだ。職場のPCなので、データは全てクラウド上にあるので、他の場所のPCからアクセスすればお仕事は出来るわけでその点に関しては慌てないのだが、起動しないという点では焦るわけだ。

とある緊急ハードリセットボタンというものに初めてアクセスしたのだが、それでも起動しない。ネットでの情報のお作法に従ったら、漸く立ち上がってくれた。ホッとして、ケーブルを繋ぎ始めると、2面あるディスプレーの内1台がうんともすんとも反応しない。なんだこりゃ状態で、他のPCを持ってきて繋いでみると何と起動するではないか。接続端子としてHDMIとDisplayportの2種類があるものだから、それを入れ替えてやってみたら何と動く。う~ん、解らない。理解出来ない。

一度、三面鏡環境でお仕事をしてしまうと、これから離れられないわけだ。55インチ4Kディスプレー1面でも良いのだが、あんまり仰々しい仕組みを何台も作るのが嫌なので、1面は縦置きでA4書類を原寸よりやや大きく表示する事で、書類を見ながらワークが出来る環境を創っているわけだ。AppleIIからPC遊びを続けているわけだが、まだまだ不可思議なことに出合えるPCとの関係性である。T社さんがシステムダウンで工場停止なんてことも防げないわけだ。ネットワーク世界の恐怖。小さなお話だが個人対応のお話まで。

バックキャスティング

パーソナライゼーション。一つのキーワードである。垂直統合から始まった日本のマスプロダクションであるが、価格競争まっしぐらで自分達の首を絞め合って現在に至る。国債の発行額に比例したGDPの伸びしかしない我が国において、マスプロダクション型ビジネスモデルは終焉を迎えているという事であろう。様々なお企業が新規事業創造に取り組み始めているのだが、これもうっかりするとフォアキャスティングの旧態依然に陥ってしまう。

リーダーが60歳以上のお企業になると、なんとなくバブルの香りを吸っていて、延々と過去を引きずり続ける。一秒前すら大いなる過去という時代において、30年以上も前の幻を追い求める。未来にいざなうのではなく、過去の遺物を提供し続ければ、身を切る価格競争のみで、価値から対価を得ようという発想には至るまい。近江商人の如く、日本中をくまなく歩き、良いものを見出し、それを届ける気概は何処に行ってしまったのだろう。世界中に無い良いものを作ろうとする挑戦の精神は生まれないのだろうか。

昨日、歴史ある某お企業様がお越しになられて、滅びゆく運命にあると仰った。慧眼で在られる。GAFAの時代に古典的ビジネスは成立しないということなのだったが、それでは生き残るためには何をしたら良いのかというところで袋小路である。鶴舞大学の商材をご紹介したのだが、果たして買って頂けるかどうか?当方も技術系商社と言って良い立場であるから、売れるものは売り抜きたいのだが、買い手が旧態依然の思考回路では何ともならない。

そのお会社の素晴らしいところは、若手企業群を形成させ、そこで侃々諤々未来に向かうチャレンジとは何かを議論して頂いて、生き残る可能性のある未来を抽出しているとの事。当然のことながら今無い技術が要求されるわけで、そこに本学の商材を当てこませて頂こうと、そんなお話をさせて頂いた。バックキャスティングには今のペインは存在しない。それを解らずにバックキャスティングを語る輩のなんと多い事か。世の中が二分化してきた。それを強く感じる。面白い。

夏休み考

先週は新幹線で東京二往復であったのだが、小学生らしい子供連れの親子を見ると、そんな時代もあったなぁと、当時は新幹線なんぞ贅沢で乗れなかったけど、夏休みの思い出作りをやって頂戴と思うわけだ。その裏で、まぁ、これは時事ネタでもあるのだけれど、給食が無い夏休みは家計負担が大き過ぎて、夏休みは迷惑だとの親からの声が学校や教育委員会にあるというニュースを拝見して、う~むとうなってしまう。

どれだけ貧乏な国になったのか。結局、これが少子化の本質ということであろう。家族の団欒、絆創りよりも補助のある給食を提供して欲しいと切に訴える窮状があるということだ。小生は週末にマーケットに行って食材を買いだめしたりするわけだが、明かに価格は上がっている。それを実感できるほどに上がっている。ガソリン代などは明確に急上昇していているわけで、消費税も政府に入るこのガソリン価格はこのまんま上げ続けるのだろうなと、諦めてはいる。二重課税は永遠に無くなるまい。

夏休みのお話に戻るのだが、街中の公園などの横を車で通っても、そこには人が居ないのだ。山の中の河原を見ても、遊んでいる子供を見ないのだ。家に閉じこもってエアコンを使いまくるわけで、そうすると電気代が嵩んでくる。学校に行っているのであれば、ご両親が外で働いていらっしゃればエアコンは停止するわけで、夏休みになると食費、光熱費が一気に嵩んでくるわけだ。家計の月別支出という平均は情報としてあるが、小学生を有する家庭の家計の夏休みとそうで無い期間の微分値などは見たことが無い。

正確な統計値を見たことが無いから、マスコミから流れてくる夏休みの惨劇が正しいのかどうかは解らない。解らないのだが、ベースの給料が物価上昇分をカバーしていない我が国においては現実問題としてあり得るのだろうなとは想像出来る。その昔、スペインにおける文科省にお邪魔させて頂いたことがあるが、お母様達が政治家さんや行政の皆様とラウンドテーブルを組んで、議論されている様を拝見した。我が国がそこまで成熟するにはどれだけの時間が掛かるのだろう。現場の今と未来をしっかり考える政治であるべきだ。大学も同様。頑張るしかない。

申請書考

最近、ファンドの獲得に対して支援をお願いされることが増えてきた。それなりに回数を重ねた方であっても「これは酷い」というものに出逢う。若い方なら「まぁ、仕方が無いな」と思ったりするのだが、図抜けて素晴らしい仕上がりの文章にも出逢う。するとこれは年齢とか申請回数とかで決まっているわけではないなと解ってくる。某、日本最大のファンドマネージャ提案などは、事務局が最低線の精査をして頂いているので、手元に届く際にはそこそこの状態にはなっているのだが、第一稿などを拝見すると、何をしたいのか解らないというレベル感がやってくる。

ファンド申請だったり、賞の受賞を目指すものだったりと様々なのだが、一つ言えることは「研究の未来を、定量的に描けていますか?」ということ。単に改善・改良などの提案では、余ほどのことが無い限り通る事とは無い。お作法を示すことはしないが、大切なのは申請によって未来をどれだけ手前に引き寄せるかだ。それは論文でも似たようなところがあるのだけれど、論文は今の絶対を示すのであって、ファンドはファンドマネージャの意向を汲んでそのビジョンを叶えることを前提に、どれだけ未来を手前に引き寄せるかが重要だ。

いろんなファンドがあるので一概には言えないのだけれど、この申請者にお金を託したら、ファンド側として鼻が高いという内容でなければならない。研究者の自己満足の補強みたいなものは直ぐに見抜かれはじかれる。勿論、出来レースの低俗なファンドもあるからそこまで言えないけどね。ファンドにも松竹梅があるわけで、松を前提にお話をしている。学者の提案であるから、新奇学理によって理を明らかにすることに対して、新規の工学的手法などを提案する際、本当にそれが唯一の解なのかも示さねばならぬ。

しかしながら多くの提案は「これがあったら出来る」みたいな、いや、金額からするとこれしか買えないからこれを提案するみたいな申請になってしまっていることを感じるわけだ。研究テーマの設定も陳腐、新奇学理の提案もない、そしてその改善策も不確定要素満載で、どうやって研究しようというのか?考え方を教わってこなかったのかと思ってしまうのだが、企業人とお話をしていても同様の場合もあるから、研究者の指導についてもっと踏み込むべきだと考える。プライド云々ではない。日本の未来はそのあたりからだ。

変化

昨日からイノベーションジャパンというイベントが始まっている。当初は日本中の大学の取り組みを紹介しあったり、基礎的研究成果を企業や他大学の人達と議論し合いながら将来を楽しんだ集まりであった。コロナ禍中で文科省の思考は完全に変わり、ゴールが決まっていて、後は企業が銭を出すだけみたいな集まりになっている。これの何処がイノベーションジャパンなのか?恥ずかしくなる。中には鶴舞大学の若手の様に「そこに食い付かれるとは思いませんでした!」という基礎研究成果をこっそり発表している素敵な若手もいらっしゃるのだけどね。

幾つかの工科系単科大学がお互いの日頃の取り組みを発表しあって、学び合う場もこの機会に設定しているのだが、三年間、すぱっと間が抜けているものだから、皆さん、かなりの新しい取り組みを始めつつあった。これは一緒にのっかりたいなという事例もあったが、余りにも陳腐で、文科省の残虐性を全く意識しようとしていない職員殿が怒鳴られた場もあったのだが、これなどは氷山の一角であろう。明日も無事に職場があると思っていらっしゃるのでしょう。そんなことは全くあり得ない。

起業という点に関しても、お上は極めて積極的であって、それを意識しない工科系の執行部は消えてなくなれという勢いである。小生などは基礎こそ大学でなければ取り組めないと思っているし、それを死守しようと考えるのだが、短絡的に小銭を稼ぎたがるお上は、数理系学科・学部をどかっと増やし、その分、文化系分野をこそぎ落とした分けだが、これでは海外と文化を語り合い、日本の将来を明るく出来る者を失くすことになってしまう。文化系があって理数工系が成り立つのだ。

情報系ベンチャー業界においては、ネットワーク系ビジネスは飽和して加工傾向に入ったという思いもあるとのこと。そろそろディープテックが注目されるだろうとのことだが、それは中々難しいだろうと思う。研究費の削減はディープテック系基礎研究を絶滅させるし、答えのある世界に生きてきた学生諸君、そして教員となった若手には、三十年掛かってゴールインするような歯の食いしばりと血の滲みは似合わない。というか、出来ない。ものづくりせず、GAFAの後塵で納得するのか、夢を描いて散っていくのか。工科系大学は正念場を通り過ぎた。それが見えたビックサイトのイベントであった。

どこにでもDX

現在の職務に就かせて頂いてから、文房具など、消耗材を購入したことが無い。先人が残して行って頂いたものをそのまま活用させて頂いている。ラインマーカーなどは、職員の皆様の文章添削に用いるのだが、これもPDF上で行えるようになってきたから、殆どお役御免の状態にあるので、何時まで経っても消耗していかない。いや、自然に乾燥が進むから気が付いたら使えなくなる方が先だろう。文房具など、入試のチェック作業などでは必須と思うのだが、これもパッド上でAIで文字判定をして頂いて、自動採点などが出来るようになれば、その追跡チェックで済むようになり、赤鉛筆は過去の遺物となるだろう。

ちょっとした電子機器、例えば、コロナ禍のお陰で大流行?したWeb会議用スピーカーなどは、事業所に一体、何台あるのだろう?最初に購入したものが不調になり、現在二台目なのだが、こんなものも決まった時間にしか使わないから、それ以外の時間帯において貸し出しても何の問題も無い。職員一人一人に1台というのは大袈裟だが、一部局に1台ということも必要無いのかもしれない。勿論、全部局が一堂に参加する会議があるから、これは無ければいけないのかもしれないが、DXによってシェア出来れば、これも削減対象である。

構成員が発生させる情報は一元管理されるべきで、それが出来ていないから、ややこしい無意識の法律違反が発生したり、多重記入を強要されて、時間と精神の無駄遣いをさせられる。物品簿などは最たるもので、購入した備品を電子的に管理できるのは良いのだが、いざ、これは誰かに譲ろうと、その二者間で納得した後は、なんと紙と印鑑だ。印鑑レスの事業所を目指すとうたいながら、何というていたらくだ。まぁ、これなどは、過去に好き勝手やってお上からおしかりを受けた経験からなのだが、そろそろ呪縛を解いてもよいのでは無いか。

性悪説に立っている限り改革は進まない。単純では無い事は解るのだが、そろそろ覚悟を決めてDXということによって生まれる前向きな資産を考えたい。人事など、お上の絶対的方針の下、執行部の大方針が明らかにされて動いているわけだが、これなどは歴史上の人物が悪さを見えないところでやっていると、後の人間がえらいめにあう。まつり事は単純では無いのだが、これとて、いずれ収束するのだろう。教育改革に厳然と取り組んでいくためのDXであれば、それは実行されなければならない。それだけのことだろう。

進化論

ダーウィン曰く「変化できるものが生き残る」と。優れた取り組みを学んだから、それをここにも取り入れようと、それは誰しも陥る罠である。優れた取り組みというところが、伝統ある組織で行われている取組だったりすると、それが素晴らしいのだとなるのだが、果たしてそうだろうか。MITで行われていることをNITにそのまま移植して、それが正しく動作するだろうか。それなりの上司と呼ばれる方が音頭を取ると、世話して頂いた若手などは、そうだそうだとなるのだろうが、二二六事件が何故起こったかを思い起こすまでもなく、危険がはらむ。

偉い方が言うのだからそれは正しいと信じ込むのは構わないが、他人を巻き込んで良いものでは無い。時代は動いているのだし、未来を起点に起こり得る可能性から行動を判断するのが正しい。過去を批判し、他所のルールは素晴らしいからそれを真似しようと大きな声が聞こえてくるが、その素晴らしいと言っている人の価値観であって、絶対値で正しいというものではない。いや、正しいのかもしれない。そこには検証が必要である。

信じるの対極は疑うであるが、疑う前に評価しようということだ。それが討議であったり、データ収集であったりするわけだ。熱帯低気圧は台風には成長しません。何故ならば先の台風が海をかき混ぜ海洋を低温化させたからだと、根拠をもって説明されると、はぁ、なるほどとなるわけで、妄信には当たらない。延々の不況期間で国が疲弊しているから、税金の無駄遣いである国立大学法人を潰してしまえという論調を、少子化だから教育機関は減って良いのだという主張にすり替えて、それを進めようとしているわけだ。反論は認めないと決めている内閣府の頑固さは物凄い。

変化しないものは生き残らないということであれば、それはお上の主張そのものであろう。そして他者を扇動する正義無き騒乱者であろう。確かに変化することは難しい。しばらくはこんな状態が続くのだろう。批判は主張では無い。それを主張と受け止めて支持をすると、批判を目的に進むことになる。信念をもって事に当たる。世の中に先んじて変化していく。常に新しい。その為には後戻りは出来ぬ。未来基準である。当然のことだ。

駄々をこねる

人との繋がりの面白さと申しますか。昨今の選挙情勢と申しますか。学外の方がどのようにお考えかということは、鶴舞大学がどのように社会評価をして頂いているかと言うことで、極めて重要なことである。自分を副学長にするのならば、票を集めてくるぞと言う、なんというか、何年前の出来事であろうか。未だ、国立大学の時代において、小生も巻き込まれながら、歯を食いしばっていたら20年以上が経過してしまった。

今回の選挙は全く違う。不平不満で、あいつらを駆除して俺がトップになったら、人事ポストは無限にあって、どんだけでも自由気ままにやりたいことが実現できるということが、小生の耳にも伝わってきた。小生的には「ふぅぅん」である。そんな魔法を繰り出せる方がトップになられるのであれば、どうぞ。小生は居なくなればよろしい。いや、本当である。文科省から自在に人事を獲得できるリーダーがいらっしゃれば、そこそこ、何とかなるのかもしれない。

その為政者殿は研究資金等々、お金を集中されるのであろうが、基本的資金をある一定以上に分配して、ミニマムなペーパーであっても自らを表現できるアシストはさせて頂いてはいるが、我が国の15大学程度である、そんな大学は。それも解らず、組合のお申し出を拝見させて頂くに、基礎研究のためのお金を無限に増やせと仰る。足りないと思われるのであれば、足りている大学にお移りなさったら如何か?と、申し上げたくなる。暴言多謝ではある。

身体を病むと、どうすれば良いのか分からなくなる。弟子どもが頑張ってはいるが、それは小生からすれば、見かけ上の出来事である。小生の首を欠き落とせるかどうか。圧倒的な新しさを論文や学会を通じて発進していく。その美しさ、すばらしさ!10年後、20年後、漸く評価されるのである。今日では無いのだ。どこかの大学に吸収されるにせよ、独自性を消してまで吸収されるのか?有り得ない。だから、副学長になりたいなどと言う人民ではだめだ。挑戦者でなければならぬ。当たり前だ。

改革の方向性

我が国の教育改革というと、Q1ジャーナルやトップ国際学会でのプレゼンが諸外国に比べて絶対数が少なく、伸び率も鈍化している大学が悪者化されて、少子化において、特に税金を投入しなければならない国立大学法人は統合して、学長の数を減らし、国際的に戦える巨大戦艦になっていくべきだという方向性が賛同されるばかり。経済界も日本の企業が儲からないのは大学が人材を育成しないからだと、これまた安易に同調してくれるものだから、国立大学法人の立ち位置がどんどんと厳しくなっていく。

企業は通年採用型就職形態に移行してはいるものの、それは多くはジョブ型採用者であって、通常の卒業生に対しては、所謂一斉採用が保たれたままだ。企業が「この学生こそは!」という者に奨学金を出して、博士まで伴走するなどと言う、海外で見られる育てて採用するというパターンは殆ど無い。文理融合型教育をしろとか、起業家教育、リカレント教育をしっかりやれという、企業にとって都合の良いことばかり言う。まぁ、それはそうかもしれないけれどね。

理系人材を増やせと言って、数理・データサイエンス系学科を国公私立問わずぐわっっと増やしたわけだが、教育する側の質の担保はどうしてくれるのだ。全国に800を越える大学に対して一律の評価基準を押し付けてくるやり方を変えようともせず、特色を出せとかね。卒業要件の厳格化や学修成果の可視化要求はその通りだと思っている。それらを黒船として活用できない大学は消え去る運命にあるのは間違いない。大学側も「言いたいことを言いやがって!」と外圧を排除するだけでは無く、黒船として活用させて頂けるところはさくっと頂くのがよろしい。

某巨大企業殿からは、博士後期課程修了者に対しては既卒者扱いのジョブ型採用であるし、過程において挑戦したプロセスが重要で、それは課題設定能力、論理的思考力、創造力に直結するから喉から手が出ると仰って頂いている。要は大学は研究の府であるのだから、博士後期課程に気持ちよく挑戦できる環境を整え、世界と交流して、我が国をけん引する人材を育成していく義務があるということだ。それは当然そうだし、学科・分野の存続にだけ大声を上げる大学は社会から見放されていますよと言うことだ。未来を創造する場である。今を護ろうとする場では無いのだ。

締切考

毎年のことで慣れていると言えばそうなのだが、締切がお盆明けから一斉に増えるということ。お盆前に解っていたことでは無く、新規にどどどっと襲ってくるのだ。勿論、お盆前からの頼まれものもあるのだが、それはかなりの案件をお盆中に撃退できるからそれはそれで良いのだ。お盆休み中に申し訳ないということは全く無くて、24時間、お仕事をさせて頂ける期間中こそ、お仕事を押し付けて頂きたいものだ。ご先祖様とそんなに長く戯れるわけでは無いからね。

リフレッシュしているのだかいないのだか解らない状況でオフィスに入ると、恐ろしい密度で締切付きメールがやってくる。内容が面白ければ良いのだろうが、解釈出来るまでに時間が掛かってしまうような、難解な文面にのけぞり、極めて近未来の締切を拝見してはのけぞり。次々と締切一覧がビジーになっていく様に、逃げ出したくなってしまう。逃げるところが無いというのが問題なんだけどね。

既知の間柄に向かってのプレゼン依頼というのが最もハイストレスである。初見の皆様相手なら「はい、ごめんなさい」で逃げ切れもするのだが、半ば追っかけの聴衆相手だと、必死になって新規の話題を作らなければとなり、これが猛烈にストレス源となるのだ。講義であってもそうだからね。毎年同じことなど話していたら、留年生に申し訳ないと、気合を入れ過ぎると、留年生が雪だるま式に増えていくから要注意だ。

審査というからには適合・不適合を決めねばならぬ。絶対値で通過させることが出来るのであればそれは気安いのだが、順位付けとなってくるとそう簡単では無い。ピンとキリの分類はこれはまぁ、容易ではあるが、チーム「ピン」を決めていく良心の呵責というか何というか。こんなことをさせないで頂きたいということなのだが、しかもそこには必ず締め切りがある。土日だっていろいろと新規に襲ってくるのだ。締切の無い世界に行ってみたいものだが、それはそれで厳しい世界なのかもしれぬ。より良くということに押しつぶされるのかもしれない。人間の悩みは尽きないものだ。