ちょっと国政選挙考

国政選挙時に拝見するのが政党別マニュフェスト。自分の価値観に近しい者に投票したいわけで、文字ずらだけは追いかける。ただ、選挙演説の中身が「当選後の行動規範」にもなっていない現状を考えると、見てどうなるという事になってしまうのだけどね。それでも見ていかないと、自らの投票意思喚起にもならないので、ちゃんと眺めていくのだ。とっても便利な時代になって、比較検討できるサイトが立ち上がっていたりね。ただ、それが真実なのかどうかの判断は難しい。そこに操作が入っていたらどうしようもないからね。

取り敢えず、比較サイトがそれなりに真実を伝えているとして眺めてみる。一票なのだが、国民であることを実感できる数少ないイベント参加券を頂いているわけで、有効活用をしたいと思っているわけだ。時代が猛烈に動いていて、安全保障と外交、食糧問題等、自らの中の優先順位で合致するか合致しないかを検討するんだけどね。結局はこの国、旧態依然から何も変わらない凄い国なので、どんなに考えても無駄なのかと諦めてしまう。

ねちっこい、小生ですらそうなのだから、投票率が、ここ数回の選挙において上がったためしがない。人口は減るは、投票率は下がるはで、数少ない人間が口裏合わせて、ゴリ押しの政治を展開するわけだ。それが気に入らんとか思うのだけれども、まぁ、自分の考えがマイノリティであることは選挙をもって証拠付けされているわけなので、泣きっ面に蜂状態を我慢せねばならぬわけだ。なんか、知恵の無い国にどんどん退化していっているなと、世界との比較になってしまうのだけど、そう思う。

国家のDXってなんとかならんかなと思うのだ。共通言語で語ることが出来るのがDXの本質なわけなんだけど、マイナンバーカードすら「個人情報がぁ、わぁわぁ、ぶぅぶぅ」となってしまう国ですからね。デジタル庁とか出来たけど、何をやったかさっぱり解らない。税金が活用されていないなということだけは解る。節電したらお金を貰えるとかね。「あたおか」な政治家諸氏にはご退席を頂きたいのだ。それだけなんですよ。そろそろ進みませんかね?と思うだけだ。

根付かない雇用

誰かの事を一所懸命に想っていたとしても、それは全くの心の無駄遣いだってことがしょっちゅうある。そんな時には忘却力こそ最大化させるべきで、それが欠落した人生を歩んできたものだから、疲弊感の積分値が凄まじい。何処まで積分できるのだろうとう限界に挑戦する気はさらさらないので、どうにかしたいものだ。それと関連して、近年、Z世代の若者が企業に定着しないのだとのお悩みを頂戴する。これなども想いが通じないことの典型例であろうと思う。

とは言うものの、所詮、最初から相思相愛では無いということだ。そもそも論、企業ビジョンを明確にストーリーとして語れない企業や部局に対して手を挙げて頂いた方と相思相愛である筈もなく、入社直後にというか、それ以前にどんなアプローチをしてこられたのでしょうか?Z世代諸君は会社の中に自分を置いたりしないですよ。会社なんて自分の一部と思っていますからね。その一部も、腕時計のような一部であって、取り換え可能と認識している。それは正しいと思っている。

もう、年功序列だの生涯雇用などと言っている時代では無いので、そもそも言っていたのは日本だけだが、Z世代の方が寝着かないと嘆くことがおかしいのだとは思うが、まぁ、考えてくれと言われてしまうと考えなくもない。そもそも、生まれてから作られていく価値観が全く違う人を雇用していたりしないだろうか。そうであると、もう絶望でしかない。精神構造がねじれの位置関係にあったということで、これはもうどうしようもなかろう。人事課の能力向上をお薦めするということだ。

もしも、価値観の方向性が似たような方向性を持っているとするならば、それはZ世代さん自身への働きかけのアプローチが間違っているという事だろう。この辺りはノウハウなので、例え戯言であっても無償公開はするなと、関係者に厳命されているので口を閉ざすのだが、もしもその者に、自己完結している何かがあったならば、それを双方に見えるかするところからだ。それが蜘蛛の糸になっているから、独り占めしないでじっくりと手繰り寄せるが良い。欲を出せば直ぐに切れる。心の無駄遣いをしないように。まぁ、教訓なんだけどね。

梅雨明けの熱帯夜

暑い暑いと思っていたら、なんとこの時期に梅雨明け宣言が出されてしまった。梅雨明け三日は雨知らずということで、山屋さん達は大喜びなのだが、この時期で梅雨明けとなると、休暇との兼ね合いで、一週間のお休み下さいとは言い出しにくかろう。ちょっと驚きの早さで驚いている。それはそうだ。1951年以降で最も早いとのこと。熱中症にはくれぐれもご注意と言うところだ。

学生時代、野中の一軒家のような4畳半のアパートの2階で生きていた。本当にぎりぎり生きていたというくらいが適切な表現だったと思う。エアコンなんてとんでもない、扇風機も無く、トタン張りの屋根の輻射熱が、天井からそのまま降りてきて、オーブンの中に居るようだった。4年生になると研究室に避難できたが、3年生の時はひたすら耐える毎日である。風がぴたっと停まり、余りの熱さに驚いて、外に飛び出しても、本当に音も無い世界で、ただただ、空気が停まっていて絶望感を味わった。

逆に冬になると、角部屋だったこともあって、室内の台所の水道のコックの部分が凍って割れて、正月明けに帰ったらそこから氷の彫刻が出来ていて、床一面に氷が張り、入り口の部分に落ちていた年賀状が氷の中と言うことも体験した。貧乏自慢では無いのだが、今ではそんなアパートは無かろうとは思うが、それでも博士号と頂戴するまではそこで耐え忍んだ。今となっては良い想い出でしかない。

中心街とは遠く離れ、それこそぽつんと暮らしていた。窓から関東平野を対角に見える富士山が、なんとも嬉しくて、夕日に富士山のシルエットを見つけた時、なんて平らな土地なのだと驚き、嬉しかった記憶がある。梅雨明けの声を聞くと、空気が停まった夜に眠れなかったことを思い出す。熱中症を防ぐため、クーラーを適切に使いましょうと今では言うが、そんなもの無かったぞと、きっと今も無い人は居るだろう。ご同輩諸氏に申し上げたい。水だけは飲みましょうねと。今も思い出す空気の動きが無い夜。貴重な体験である。

大切なのはクモの糸

人と人が化学反応を起こすきっかけって何かと。猛烈に強烈な化学反応というのは、裏切りだったり破滅だったり。そんな時に残った何かがそれを起こすのだろう。大事なものはすべて消えてなくなる。それが生きているということなのだと感じる。それでも絶望から立ち上がれるのは、何故かその時、細いけれども決して切れない糸で繋がった人が、何故かそこに現れるからだ。想像でしかないが、がむしゃらに走っているからだろう。止まればそれでお終いだ。

某大学の理事殿のお話を頂戴しにちょこっと移動をしていたわけだが、そのお話の真っ直ぐさにに感動した。組織の一体感というか、真っ直ぐさと言うか。振り返ることが最小限で、前を見て未来の話をされる。その根本にリーダー殿の決断がある。拠って立つものが頑丈だと、それを信じて突き進めるのだなと。こんなお話を伺えるのは、走り回っているからに他ならない。大失敗とか後悔とか、それを引きずらせようと心をかき乱す輩は多い。それは反省という時間で断ち切って、前に行くのが良い。

我が国において、産業と大学の関係性が、今ほど語られていることは無かろう。その意味は、産業が大学に口出しをするなと言った1990年以前よりも、今の、細い糸でも切れないでくれという希望として強く語られているとは感じる。微妙な言い回しだが、その中には、企業から生まれ出る価値を現金に換えて、それを幸と感じる輩がやたらと多いのも事実だ。どうも政府の考える「ベンチャーで国に新しい産業を」という掛け声で、VCの皆さんが強欲になりすぎて、技術の正常発展に目を開けようとしていない。

ただ、今、世界中で世に出ていない基礎研究や応用技術と呼べるものを、社会の幸に換えていかないと、それこそ沈没したまんま、この国の経済状況は上に向かないでしょうね。国民を裏切らない政治家が居るのなら、学問の深化とそれを技術に換えていくことに少しでもお金を投じては如何か。機械を停めている企業に支援金をばらまいて、価値を失った旧態依然を税金で延命して一票に換えていく、そんな社会はもう沢山だ。裏切りと破滅をバネに飛び上がる。その連続だ。そんな感じだ。

共同研究は

30歳代で共同研究を体験すると、その後、研究力(参加している国際会議の質や論文のFWCI値などがKPI)が高い状態で保たれているという報告が、某国立大学法人から成され、まぁ、そうだろうなと、肌感覚を納得した次第。企業との共同研究など、学者のやることではないという考えも、それはそれで正しい。新たな学理を追求する、その姿勢は絶対に正しいし、失っていただきたくない。ただ、それが、社会に相手にされなくなっている状態で、それを貫くのはどうかと思うけどね。

共同研究って、第三者の目線が入るわけですよ。インチキが出来ないというだけではなくて、相手と共通言語で語り、成果を納得していかないといけない。これは鍛えられますよ。何を書いているのか、専門家にも分からないような文章しか書けない研究者って沢山いらっしゃって、大学は旧態依然だなと感じることが多い。会議でも「そのロジックは解らない」とかね、気に入らないから入ってくる方が多いが、第三者にはそうはいかない。

このそうはいかないというのが素晴らしい環境なのだ。同類項にくくられる人達が集まる学会の中でぬくぬくと育ち続けると、学生時代からテーマが同じというすごい状況にもなったりする。世の中がひっくり返るほどの、人類の幸福を作り上げるというのなら、それは勿論良いのですけどね、それが許されるのは、それなりの大学でということになるのだろう。東大や京大はそればっかりやっていただいていれば良いなと思ったりもする。

大学は知恵の宝庫なのは間違いない。俗に開かれていないといわれるが、それは窓口を広げるだけではだめで、一般民間人が理解できる「てにをは」を使いこなす研究者がいるということに他ならない。研究以外の業務が多過ぎる若手に研究時間を持って頂くためには、それなりの年齢の方々の自己犠牲が必要なんだけど、その方々は研究のエキスパートであることは間違いなくて、どのようにバランスを取るのかは極めて難しい。いずれにせよ。若い研究者の皆様には、小学校5年生に理解して頂ける言葉で語れる力を持って頂きたい。他大学でも同様の考えを持っている方のお話を伺ってほっとした。

教えるは学の半ば

とある団体からお尋ねを頂いた。人生100年時代を通じて生き生きと働ける社会を実現するには、企業と大学ともっと連携が必要なのでは無いかということなんですけどね。その団体さん、思い込みが激しくて、18歳人口が減るんだから、大学には入学しやすくなるでしょ?とかね、何を言っているんだこの人達はと思ってしまう。低次元な思い込みそのものが、この国の価値を下げ続けていることに気が付かない。挑戦をしない、意識を変えない、その状態で、100歳人で溢れかえった日本は想像したくない。

ガラパゴス携帯が電子機器の小型化の極致を走っている時、海外では、所謂パット型が生まれようとしていた。Newtonデバイスをご存知の方は、もう相当にご高齢になっていらっしゃるからお話にならないとは思うのだが、「ボタンがある」当たり前を、無くしてしまうことに踏み出せなかった日本。この、やってみたらどうだろうということをさせない大人達が質問項目を作って訪ねてくるわけだ。どうせなら中高生にどんな社会に住みたいかを聴いて、それを大学で実践するには社会はどうアシストするべきかとかね。前向きな質問が欲しいわな。

夢を持った学生達を吸い上げて、価格競争に巻き込んでいくだけの日本企業に未来がある筈もなく、そんな団体に「送り出す人材に身に着けて欲しい能力に関して、企業のニーズを把握しているか?」とかね。人材育成に税金以外で投資せず、自分達の都合だけを考えろと言う。若者の能力最大活性化とかね、そんなところに投資をしないで、産業界が求める人材を意識しているかとかね。入社してすぐに辞める、その理由を若者にだけ責任をかぶせている。

世界から尊敬をもって購入して頂ける商材を造らない。勿論、全てのお企業様がそうだとは言いませんよ。素晴らしいものは沢山ある。でもそれは適正価格で売られているのか?そして日本人は適正価格でそれを購入できるのか?価値に見合う対価を支払うには、価値を理解できる人財である必要が、そもそも論としてある。そんな教育をさせて頂いたとして、社会がそんな人材で充たされるには、ここから100年掛かるでしょうね。それが教育というものだ。今の利益だけを欲する団体に言われたくない。

定量的自己分析

とあることがきっかけで、小生自身は何を実現可能か、今現在の機能を全部書き出せという指令を受けた。これがなかなか厳しくて、エビデンスを示せと言われたら、とてもでは無いが、1項目も上げられそうにない。取り敢えず、今まで何をやってきたとか、プレゼン資料を見ながら、自分はこれは出来そうだみたいなのを書き出してはみているけれど、段々とこっぱずかしくなる。なにやってきたんだろうなって。苦笑いの連続である。

これは俗に「自律機能」と呼ばれるカテゴリ(呼んでいるのは我が国でも、小生の関係者の50名以下でしょうね)なんだけど、それは単独要素で出来上がる場合もあれば、いくつかの要素から成立している機能もある。多くは複合化された要素からなっている。それらを使って活動をさせて頂いているわけだ。それを意識してコントロールするためには、定量的に自らの機能を理解する必要があるというわけだ。新しい事に取り組もうと思えるかどうかも、その理解に依るのだと考える。

ただ、闇雲にご依頼をお引き受けしてしまうと、ご迷惑をお掛けすることになるわけだし、逆に、もっと深くお仕事をさせて頂けたのに、上辺だけとかになってしまうかもしれない。ただ、ここで重要なのは、自律機能はあくまでも自分自身の機能であって、それは単に「自分はこれが出来るから」という事に過ぎない。良く見られる「私が所属する係のお仕事は〇だから、〇以外は絶対に拒否します」みたいに、〇のお仕事が期待されたレベルで達成できるかどうかも解らないのに威張られるパターンはこれだ。私はこれが出来るという思い込み。

そうならならない為には、基本、聴き力が基本的機能として働かないと、なぁんにも起こらない。どんな刺激を与えても馬耳東風。威風堂々の状態に見えるのだが、結局、他者の問いかけにお応えできない。勇気を持って聴けるようになるには、入ってきた情報を的確に処理できるかどうかの自己分析に掛かっているというわけだ。共同作業にしても、これは自分が分担できるか等の判断もそこから生まれるはずだ。やらない人より理由を語って断れる人。これからはそれで行く。

1.999倍

この国は「2倍は駄目だ」と言われると「じゃぁ、1.999倍ね」とする方がリーダーなので、まぁ、未来は無いな。数学でlimというものがあったが、2を越えなければ良くて、限りなく迫っていれば良いとする日本のリーダーの思考力に、ある意味凄みを感じるのだ。呆れているという意味だけどね。1.999人ってどんな人数なのか?2倍が駄目だと言われたら、限りなく1倍に近づけようとするもんだと思うのだが。

世界を見渡すと、声がでかい人が世の中の方向性を決めてしまうのだなと、それがはっきりと解る。クーデターの後、長期に政権を担っているような団体だから、1倍も100倍も同じと思うのだろう。でも今回の2倍騒動は、様々な政党の考え方が具体的に分かって面白かったですね。民主主義をどう考えているのかはっきりしたし。国会議員と地方議員が混同されているなということも明確になりましたしね。

まぁ、いずれにせよ、それが民意という事なんですな。選挙のたびに思うのだけれど、結局は民意なんですよ。投票しないことも民意、多数決で勝った政党がやりたいようにやるというのも民意。そんな国に存在しているのだなと思うしかないわけですよ。そう考えるのだなと誰かが理屈に合わないとひねると、それに対して反対意見が出てくる。きちんとしたエビデンスがあって、それをもとに、世界を俯瞰して「今はこうするべきだ」と判断するしか無いですからね。最後は民意に従うしかない。

それにしても1.999倍には驚きましたよ。それを裁判所がどう判断するかは解りませんが、一票の格差が2倍以上は憲法違反と言った裁判官殿が、どんな判断を下されるのか、見ものだなと思っています。1.999は2より小さい。数学的には正解である。しかしそれは小手先のお話では無いのか?いやいや、それが民意なのだと、判断して責任取りたくないということで、長いものに巻かれろということが通るのであれば、まぁ、諦めるしか無いのかな。そんなものかもしれませんな。

データ負債は?

超大型のデータセンターが世界中に構築され続けている。巨大なエネルギーが無限に生み出されるデータを保管し活用を待つ。そのまま死蔵されるデータが殆どであった時代から、全てのデータが何らかの属性を持ち、高速なAIによってそれらが想像もしていなかった価値を生み出す。その価値は地球温暖化を促進させる電力発生と消費に伴う発熱を生む。戦争もデータ処理も、地球温暖化促進の意味で同等だ。

その昔という程の過去では無いが、雪国において「この雪を財産に換えられないか」と言われたことがある。冷熱を価値とするならば、巨大エネルギーの冷却と、そこで発生する熱の再利用だろうとお話をさせて頂いた記憶がある。データセンター開発企業が、それを北海道でやり始めた。排熱の利用が面白い。きくらげとウナギの養殖である。最近、生のきくらげを小生の行きつけの野菜ショップで見かけるのだが、そんなに流行っているのかと、ちょっと驚いている。

雪を活用できる期間は限られているわけだが、冷熱をどれだけ上手に保管するかは、それこそ平安時代の氷室を見れば明らかで、真夏の時期まで氷として取っておける。積極的に雪を確保して、重力で圧縮して、それなりに保存していけば、夏の入り口くらいまでは冷熱を獲得できるのではないかと思ったのだが、大略、データセンターの冷却用の電力を4割削減可能だそうだ。4割は凄い。何しろ、エネルギー喰いの化け物だから。

本来、そのまま溶けて地下水になり、地熱を下げていく雪だったわけだが、それを地上で人間の都合のために溶かして、そして川に流していく。その効果がどのように生活に現れるのか?自然に手を加えることには変わりなく、いや、水の流れを変えるというのは大それたことではないかしらと、それも語った記憶がある。生態系に大きな影響が無ければ良いが、まぁ、そんなことは無いだろうね。データの生み出す利息が負債で無ければ良いけどね。

脱私物化

脱私物化。これは一つのキーワードなんだけど、私物化を目指すと平気で人は人殺しまでするんだなというは、大国が証明して見せた。そして、他国は手出しできないという事も分かった。そんな世界情勢であるからこそ、しっかりと地に足付けて成すべき事を成すということが必要だ。何のために成すのか。それはビジョンの達成の為に他ならないのだが、多く、目の前に与えられた作業をこなすというところで停まってしまっている。

コストが掛かるからと言って、多く、やっておけばよかったお仕事が海外に逃げて行った。身の回りにある基礎研究で「これは実って必要不可欠だ」と思ったものでも、ドラスティックにゲームチェンジが起って「もう要らないよ」となっていく。その勢いが極めて速い。研究テーマの私物化も滅びの姿だ。源実朝では無いが「明るさは滅びの姿」ということで、見えてしまったら、もう手放さないといけない。研究テーマなどそんなものだと思っている。企業がお金に換え出したら、もうそれは学者が追いかけるものではなかろう。

究極の私物化は命ということになるとは思うのだが、それとて、他者が勝手に奪っていくご時世である。生きている内が華とは良く言ったものだ。今を全力で生き抜かないと、何のために命を預かったのか分かったものでは無い。私物化しているという意識は無いので、もうそろそろ良いかなとは思ってはいるが、まぁ、風の如くに生きているのがお気楽で宜しい。お仕事も私物化している意識は無いので、やりたい人がやればよろしかろうくらいが丁度良い。

巧言令色鮮し仁とは良く言ったもので、たぶらかされてはいけない。その真反対が三方良しということなのだが、それが一番宜しい。自らが最も良いと、相手も良いよと言うのが中核の思想であるから、自らを鍛え上げることを一番にしないといけない。何も、他者に忖度しまくることが三方良しでは無い。三方良しと言える程に、自らを鍛え、脱私物化していく。遠いなと思う。