今日で勤務現場への出所はおしまい。明日からは暫く在宅勤務をさせて頂く。7階に居室があるのだが、エレベータの保守点検が来春まで行われるということで、昨日から登山状態になっていることも、ちょっと面倒だなと感じる次第。それくらいの体力が無い者は務まらないよという職場からのエールかもしれないが、修論・卒論に追われる学生君達は体力増強の機会と捉えて頂くしかあるまい。足の活動は脳への血流を促す効果があるから、思わぬ良い成果の獲得に繋がるかもしれない。何事も前向きに捉えるのがよろしい。

常に全力でということなのだけれど、そろそろ体中にガタが来て、にっちもさっちもいかない状況ではあるのだが、そんな泣き言が許される職制では無く、思考を巡らし続けなければならない。各大学における差別化というのは大賛成で、道州制では無いけれど、やや広域において、専門色を高めていくこと、そしてその色をエリアの企業や子供達と共有していくことが、この国が世界から必要とされる為に必要なことと考えている。病床の多い病院も良いが、絶対に病が治る病床も良い。工学とは世界の人の笑顔の為にあるのだから。

2027年に開業と言っていたリニアだが、どうも品川に45分で行くストーリーは当分おあずけのようだ。ドメスティックな話題で恐縮だが、小生的には現役時代にリニアで出張に行けるかななどと面白がっていたのだが、思わぬところでとん挫した。しかし、このとん挫の理由はとても重要で、議論・討論の徹底という、当たり前の重要さを改めて感じたことは有難い出来事であった。将来的にどうなっていくのか解らないが、地球温暖化の加速で、トンネルを掘っても掘らなくても、地下水が枯渇するということはあり得るかもしれない。琵琶湖を見ていてそう思う。

リスキリングが大切ですよと、考える手法を講座として提供し始めたわけだが、多くのお企業様からは「高価すぎる」と言われてしまう。値引きはしない。しっかりと高評価を頂けているからだ。アウトカムズ思考の無い皆様にとっては、人の思考能力を高める事よりも、ロボットを導入してコストをカットすることにお熱が高まるのであろう。どこまで行ってもコストはゼロにはならないけどね。新奇を生み、そこに挑戦していくのは、当面は人なんだけどね。その意識で新年も活動していく。そんなところだ。

次に向かいましょう

今年も残りわずかと言うか、戯言的には勝手にやっているので、語る、語らないを求められることはなにもないのだが、年内、いつまでやってんですかと言われると、明日までですねと答えますな。驚いたことに、社会的には小学生は、この地域においても冬休みに入っていて、がきんちょどもは自転車に乗って縦横無尽に街中を走り回っている。元気なものだ。とは言え、目に入るがきんちょは数名であって、多くはこたつに入ってゲームでもやっているのだろう。そこになんのイノベーションもない。

以前、破壊的イノベーションを語ったことはあるのだが、そもそも論、破壊される前に、存在理由がなくなっている商材があって、過去の遺物が継続してしまっているので、注文が発生し、それを作り続けているという、正に破壊されていることに気が付かない日本と言って良いだろうか。それ故に一人当たりGDPが30位以下になるわけだが、こう言うと、いやいや、本当はもっと下がっているのだが、気合を入れている業種があるから、まだ、そのレベルだと、世界的企業に怒られるだろう。その通りである。

素材などで破壊されずにいらっしゃるお企業も、AIのマテリアルインフォマティクス、プロセスインフォマティクスの台頭で、今よりももっと優れた商材があっという間に社会を席巻し、破壊される側に回ることに油断してはならない。戯言などは永遠に戯言なのだが、これとて、バカAIなんというものが出来たら、もっとまともな駄文をしたためるであろう。それはあまりにも底辺なので、ほったらかすとして、破壊的イノベーションが誰に牙を向けてくるのか、油断ならない。

身内で話をしていたのだが、誰が何を破壊するのかと言うお話だが、夢を抱いた人間の、その思考そのものを破壊することによって、まったく新しい、そう、思いもよらなかった圧倒的な世界観に向かって動き出す、人間の思考そのものを破壊してこそ、破壊的イノベーションというところに至った。今、売られている加工機を使って商材を作っている企業などは、既に破壊されているわけだが、フォアキャスティングで描いた夢こそ破壊されるべきだ。破壊は破壊を呼び、真の新しさを目指し始める。バカな縄張り争いに付き合っている暇は無いのだ。

残念

べたなネタになってしまってつまらないのですが、品質不正の件は本当にいただけないなと感じるのですよ。一人当たりGDPが急降下を続ける中、工学に携わる者として、そして教育に携わらせて頂く者として、なんということかと。この手の類が留まることを知らずに延々と湧き出てくる。政治家諸氏の金銭感覚の無さ、マスコミの政治家諸氏へのおべんちゃら、そして公安だってトカゲの尻尾を必死に探す体たらくなどは「またか」という、まぁ、そんなもんだろうという感覚で捉えるが、技術の不正は頂けない。

「〇はあります!」と再現性を確認せずに公表して残念なことになった事例は、まぁ、理研のとりまきが悪かったのだろうとは感じるのだが、研究を実施しているご当人が再確認をしなかったという点においてはまずかったよね。あんな時にはマスコミは大喜びで断頭台に人を押し上げてしまうのだが、角栄さんの後、同様のさらし首を見たことが無い。マスコミなんて無くなったら良かろうと思ってしまうが、ダイハツさんの品質不正を、今後どんな風に論じていかれるのだろうか、ちょっと注目したい。注目したからと言って、どうということも無いのだが。

もう、何年前になるだろうか、恐らく8年位前だったと想像するのだが、Dアメリカ社を尋ねさせて頂いた時に、衝突試験実験場を拝見した。一体一千万円超えの試験用マネキン(マネキンとは仰っていなかったが、正式名称を忘れてしまったので)達がずらっといらっしゃって、衝突試験における費用の掛け方に「人の命の為に当然の事」と仰っていたことを思い出し、この度の某社殿のなんというか、命の軽視に日本企業の有り様を感じて天を仰ぐ。

天網恢恢疎にして漏らさず。ものの見事に洩らさなかったわけだが、昨日現在までで174件(新聞情報の転載)の不正箇所が見出されたという事なのだが、今後、増えて行ったりしないこと願うばかりだ。現場はプレッシャーを経営幹部から受けたということだが、わが身を振り返り、気を付けねばと思うばかりだ。思い違いだったということと、組織ぐるみの隠ぺいということは大いに違う。ものづくりに携わる地球人類全てに関わる問題である。市井の人々の命を軽視してはならない。お金を命より優先してはならない。それだけのことなのだが。何時まで繰り返されるのか。悔しいばかりだ。

Why?があること

何か新しい事をやってみようと思った時に、誰かがこれをやっているからとかとか、ネットで見たネタを組み合わせると出来そうだからとか、そんなアプローチを取りがちだ。また、リーダーにしても売れなかったらどうしようとか、そんなもの、出来る筈はないだとか、そんなことで手をこまねいている間に海の外の人達が、新しい事業を進めてしまって、降り出しに戻っていく。マイナス金利の目指すところが、企業が給料を上げ続ける状態になったらそれを止めて、先ずはゼロ金利からということなんだけど、なんだかなぁ。

その昔、ひょっとすると今もあるのかな?、某学会において、Si基礎物性評価というセッションがあって、40年前から重箱の隅をつっついて、漆をはぎ取って、材木の中を見て喜ぶみたいな人達が集まっていた。批判するわけでは無くて、そこでの新しい研究アプローチが半導体デバイスを作り続けた企業の知恵になっていたのは間違いないのだ。ちゃんと世界的な論文に掲載されて、企業の活力にもなっていた。ただ、学者サイドは企業の活力なんてどうでも良くて、兎に角、ニッチを目指したわけだ。

要するに、社会では潜在的であり、そして未知であることに挑戦するわけで、「無い」ことに挑戦していたことに驚くわけだ。ただし、そこには不文律があって、何故それをやるのか?という「Why?」の問い掛けは必ず答えるということはあった。大いなる失敗もしでかしたが、その場において猛烈に鍛えて頂いたことは忘れない。例え、社会において顕在化している問題であっても、そこへの取り組みが成されておらず、未知の領域であったならば挑戦しても良い。そこには意味的な価値が生まれるから。

いろんなお企業様からのお問い合わせで「こんなジグソーパズルのピースは落ちていませんか?」という問い掛けがくる。開発に行き詰まったか、最初から技術を買ってしまえと言うことなのだかは定かでは無いが、社会で顕在化していて既知の課題にお金を投じても、そこには価格競争しかない。学者がそこに手を出すと、ハゲタカジャーナルに投稿するしか無くなるわけだ。研究成果のエクセルギーがゼロなんて研究を何故やるのか。マスプロダクション終焉の2023年だが、2024年はどうなるのか。新しいアプローチは何時始めても良い。今始めようではないか。

エクセルギー

以前、大気中エクセルギーの獲得ということでファンド提案をしたことがあるのだけれど、どうも審査員に全く通じなかった表現だったのではないかと、エクセルギーという単語に思う。熱力学の講義担当であったので、物質がもつ総エネルギー量であるエンタルピーに対して、実際に活用できるエネルギー量としてエクセルギーという概念が生まれるわけだが、エンタルピーが大きい物質があったとしてもエクセルギーが小さいと、活用しようとすると公害に直結するようなものが出てくるわけだ。エンタルピーに対するエクセルギー量の割合をエクセルギー率というのだけれど、それが大きければ大きい程、使い勝手が良いエネルギー源というわけだ。

天然ガスは結構優秀で、エクセルギー率は92%もある。それ故に天然ガスを発電に使ったりするわけだ。一方で、水素は燃やしてしまうと83%であって、仕事に活用するには天然ガスより余計なものを出してくるということだ。一方で電気という代物はなんと100%のエクセルギー率を持っている。だからその場で作ってその場で使うととても良いエネルギー源ということだ。ただ、遠くから輸送するというプロセスにおいては抵抗体を通って熱に変化していくわけだから、これは勿体ない事をしている事になる。

特に、大量電力発生に用いられる蒸気タービンを考えると、ボイラーにおける蒸気発生に使われないロス分は20%程度が排熱され、その残りの80%分が蒸気がタービンを回すのだけど、電力になる分は80の内の32だけであって、残りは排熱となっていく。コンバイン発電はその熱も上手に取り込んでいくという考え方だけど、燃料電池で水素が持つエクセルギーを100とすると、電力に変換できる量は72もある。排熱は28となって、分散電源としての水素と燃料電池の組み合わせの良さが生きてくる。

しかし、肝心の水素をじゃぶじゃぶ生み出すことがなかなか出来ないわけだ。ASEAN諸国の皆様からみて日本は単なるパートナーの一つというように見られるのも、エネルギーも食料も無い国だからだ。もう一つ言えば借金も凄いぞ。誰も覚悟しない、決断しない国。日本のエクセルギーってどんだけ低いのだろうと思ってしまう。オープンイノベーションのパートナーに選ばれない国の代表選手になりつつある。細かく見ると、中小企業や大学のエクセルギーが小さいということだろう。変化しなければ!

破壊してこそ

コダックとフジフィルムがフィルム戦争を繰り広げている間に、カシオQV10が颯爽と登場し、それ以降、デジカメの進化は止まらない。アンセルアダムスのゾーンシステムの考え方から、兎に角、シャッターを切りまくって、2000枚の中から1枚、お気に入りの撮影結果が残れば良いやという、撮影スタイルまで替えてきた。シャッターどころか、高速メモリの重厚長大化で、ビデオ撮影の一駒を切り取って、静止画として鑑賞に耐える記録方式にまで到達した。人の行動まで変革する破壊的イノベーションである。

日本の自動車業界も見えないところでEVシフトを進めてきた部分もあるが、日本の政策面が全く追いつかず、急速充電機の設備が出来ず、口ではSDGsと言いながら、CO2対策への本気度はどうなのだろうと疑ってしまう。まぁ、大震災で原発がひっくり返ったのは事実で、電力不足を火力で補っていないところはまだましか?しかしながら、電力網の脆弱さはいかんともしがたく、もしも、急速充電が可能な全固体電池が実用化されて、夜間に家庭充電が可能になると、送電網がふっとぶかもしれない。それこそ全固体電池による破壊的イノベーションである。

リアルな破壊は頂けない。そうであれば、在宅勤務環境などの徹底した整備が必要であろう。それに伴う開発も必要だ。PCのディスプレーでは無く、壁そのものが「あっち」の空間との境界になるような、リアルな人同士の触れ合い空間を作ってしまうのが良かろう。破壊的イノベーションはいたるところにある。ディスプレーなど地震の時に吹っ飛んでくる凶器のようなものだしね。トレインシミュレーターの様に、左右・全面がいざとなったら会社環境そのまま投影されるような仕組みがあれば良かろう。

EVとなることで、車両重量が増し、サスペンションがごつくなるだけでは無く、タイヤと道路の摩擦の増大で、マイクロ・ナノダストの排出量が増している。タイヤの素材など、呼吸器系疾患の原因になるし、EVによって新たな病の発生に繋がるかもしれない。移動することで莫大なエネルギーを必要とするならば、それを無くす研究もあって良いではないか。化石燃料で作られた社会をトレースせずに、もっともっと破壊的イノベーションを進めなければならない。そう思う。

変化し続けること

師走に入ってからの最初の寒気で、やっと冬を感じるなというか、やっぱり冬はやってくるのだと、なんだか昨年と同じ感覚をやっとこさ持つことが出来た。日中の風の強さも寒さゆえに感じるようになり、まぁ、それでも凍てつく状態という事もなく、冬がやってきたなと言うところだ。夏からいきなり冬になったと思ったのだが、やはりその間にはなだらかなというか、それなりの気温帯の日数があるのだなと、四季はやっぱりあるのだなと思ったところだ。

そうかと思うと、太平洋上において台風が発生したりで、12月中旬と言うのに海の温度は上がったままなのだなと感心するばかりだ。何十年もかけて海洋の温度を上げてきたのだから、熱容量の大きな水を温めたのだからそう簡単には温度は下がらない。温度が変われば密度が変わり、それが変われば海流の流れも変化していくのも当然だ。日本近海の魚の生息域が北上していって、富山では不漁のブリなどは北海道で豊漁だという。季節ものの魚が居なくなって、富山のお正月の準備は大変なことであろう。

百年企業の魚介類せんべい屋さんが「海水温の1℃の変化で起こる生き物への影響は、地上の生き物への5℃の変化と等しいのだ」と、経験から語って頂けたのだが、もっと大きいのではないかと思う。海藻が茂ったエリアに、南国の魚が上がってきて、その海藻を食べ尽くした結果、生態系がガラッと変わる。海水温による変化が、海中生物の勢力図をがらっと換えてしまうということだろう。何億年のスパンで見たら、そんなことはしょっちゅう起こっていたのだろうけど、寿命の短い人間にとっては大騒ぎになるわけだ。

魚を生業としていらっしゃる皆様にとっては、地域ブランドが無くなっては大騒動だ。ガソリンを使えなくなった自動車と同様かもしれない。農業においても、夏の暑さが厳しくて生育に異常をきたし、米などは一等米が少なくなって悲鳴を上げている。みな、平等だ。研究者も開発を少し意識すると、社会との連携の在り様もがらっと変わる。社会の変化の勢いは気候変動よりも大きい。自らを変えることが出来ることを幸いと思うべきである。変化していくこと。それだけである。

惨劇

ロッキード事件という事象があったことを覚えている。そんなに若かったわけではないから、TV報道なども鮮明に覚えている。賄賂という単語の意味もその時に理解したのでは無かったか?それまでは水戸黄門の菓子折りの山吹色くらいの印象しか無かったわけだが、政治家という職業にはつきもののように考えてしまった。当時の5億円、今で言うとどれくらいの貨幣価値があるのか。相当のものだろうということくらいだが、「またか」という感じしかしない。

「ほう」と思ったのは内閣不信任案に野党が纏まって反対意見を投じたということだ。最近はすり寄ったり離れたりで、どうなるのだろうと思っていたのだが、流石に今回は反対側で一致したようだ。是々非々は勿論良いのだが、尺度が国会議員さんの方にあって、国民の側に無いということを感じているのかしら。マスコミも何も言わないしね。そもそも、今回、後退させられる大臣諸氏や副大臣諸氏、政務官諸氏がどのような法律策定に関わったのか伝わってこない。

これだけのことを成し遂げた人ですよという一覧があっても良いではないか。国政選挙で最高裁判事の国民審査が成される時には、この判決には賛成だ、反対だと、判断指標が公開される。じっと眺めて、ちょっとこの人とは価値観が違うけれども、全体を見れば、その重責にふさわしい方なのだろうと判断させて頂けるのだが、憲法を超える人数を集めた国会なんだけど、誰がどれだけ国家にプラスの意見を仰っているのか全く分からないのはどうしたことか。

その昔のマスコミさん達は、政治家諸氏に果敢に立ち向かっていっていたと思うのですよ。まぁ、マスコミって結局は記事を売る人達なので、ゴシップ大好き国民向けにはネガティブ要素をニュースにせざるを得ないのかもしれないけれど、税金の使い手である皆さんの前向きな功績を讃えるような場面があっても良いのではないか?日頃からそんな記事を目にしておくと、選挙の時も誰を選ぼうか、選ばないようにしようとか、思考が広がるしね。国会議員さんと国民と、どんどんと遠くなっているなと感じる週末であります。

シンギュラリティの後は?

窓口業務をさせて頂いていると、いろんなお声を聴かせて頂ける。こんな技術が欲しいのですけれどと言われるのが最も多かったりするのだが、企業様からのその手の声は、商材として販売している技術が欲しいということがメインになっていて、買い叩いてくることばかりである。これが日本が貧乏国になってきた理由では無かろうか?

そもそも日本の大学って、ドイツの専門職教育機関を真似て講座制を作って、それでずっとやってきた。専門家が出来てそこで狭い範囲の研究が成される。それはそれで良いのだけれど、隣は何をする人ぞで、交流を嫌うというか、視野が狭いというか。自分の研究が盗まれるのではないかということを極端に恐れて、交流を避けてしまう。ニッチでマニアックな研究、タコつぼ型と言われるチームが出来上がる。外とのインタフェースを持たないから、価格が安くなる。

大学が発展していく過程で、産業界とのインタフェースとしての側面を作るために大学院を作って来た。教育、研究、社会貢献という三本柱の誕生なのだけれど、社会貢献の部分が他国に比べるとおろそかになってしまっているのは、買い叩かれるということもあるのだけれど、社会の側が「どうせ大学は企業が社会にどれだけ貢献しているかに興味は無いのでしょ?」という冷めた思考があるからではなかろうか?

親方は、大学へのお金は過去20年間で10%も増やしていますよ、努力が足りない!と叱責はするが、物価高騰、円安のことは一切思考には入らない。ドイツでは80%も増えている。韓国においても30%伸びている。少子化対策で3人目からは無料ですよと言っておきながら、その進む先を伸ばそうと投資することは無い。シンギュラリティがもうすぐ来て、その先に何を成していることで大学と言って頂けるのか。議論をしなければならない。そんな時代だ。

子育て支援?

子育て支援で大学無償化とかね、約4兆円もつぎ込むそうなのだけれど、折角、育った人達が夢と希望を抱ける未来が日本にあるのかななどと悲観的な想いがよぎる。10兆円ファンドに手を挙げさせて金をばらまくから、大学はもう良い。後は、子供を増やすだけという、これまで何十年と成功しなかった出生数増加が、3人目からは大学進学をゼロ円で実現させてあげましょうと言う代物なのだが、そんなことで増えるんかいな?

そもそも3人目ありきという考え方が何処からくるのだろう。円安と給料安のお陰で、一人だけでも精一杯の臨界値を超えてしまうのに、長老政治の昭和30年代が懐かしい人達は、現状から遥か彼方にいらっしゃるから、人口増大を続けていた頃をもう一度と想っているのだろうか。少子化は先進国の辿る道だし、食糧自給率もエネルギー自給率も、国民を養えない状態にありながら、一人当たりのGDPを上げる算段では無く、3人目から無償化で国力が上がるとでもいうのか?

3人目が無償で大学に入るとしよう。その3人目はどんな大学に入るのか?入った大学が国際的に認知されない程度の大学であったらどうするのだ。教育・研究に国が選択的投資を続け、破壊的イノベーションを発生させる基礎的研究を無くし、短絡的に社会に実装される研究のみにしか資金を投じない状況で、教育の質をどのように担保していくのか。そんなものは各大学が考えろ、寄付金を集めて自立しろと迫ってくるが、パーティー券のキックバックなど望むべくもないのだ。

日本がオワコンと言われて久しいが、バックキャスティングの思考も出来ない社会を作り込んでいく政治家諸氏の旧態依然さに呆れるばかりである。心ある若者が海を渡っていくことを止めることは出来まい。存在している知識を知恵に換え、社会に活用して頂くことは勿論だが、その知識は、途方もない仮説と検証を繰り返して生まれてくる。その場が大学であり、その繰り返しが無くなった場に入った3人目の末路やいかにである。呆れかえる。