お作法は?

Web会議なんだけど、Teams、Zoom、WebEXと、主なというか、メジャーどころというか、この3種類を切り替えて使っているんですな。職場においてはTeamsを使わせて頂いていて、Outlookが職場の公式アプリであるから、会議の設定などは極めてお気楽極楽で何の文句も無い。普段、3面のマルチディスプレイを活用しているわけだが、PowerPointの画面をどの解像度のディスプレイに置くかで、相手にどんな風に伝わるかというお作法が解れば、まぁ、何とかなる。とは言うものの、職場のメンバーにヘルプして頂いたのですけどね。感謝しています。

Zoomの要求はとても多くて、本社はZoomを要求してくる。昨年の今頃だったか、画面に突然「不正なアクセスがあります」と警告が出て、バタバタと退出した頃が懐かしい。最近のバージョンはそんなことは無くなったようで、普通に動いている。集団での会議において、内職をしながら参加していても、機械動作が極端に遅くなることは無い。遅くはなるが耐えられない程では無い。要求されれば使っても良いかなとは感じている。

WebEXなんですけど、これは重いんですよ、小生のPCが古いということもあるんだけど、内職は避けた方が良いでしょうね。これが一番、何というか、お堅い雰囲気でありまして、産業系のお役所はこれを積極採用されるんですよ。動作が重いものだから、カメラは必ずオフでありまして、会議の雰囲気が一切ない。こんなことで良いのかって思う。5Gのネットワークが普通に使えて、大容量情報伝送が参加者全員可能な環境になると、きっと快適なツールなんだろうなと思うのですが、その実力をフルに感じたことは一度も無い。いつも苦しみながらWeb会議に参加させて頂いている。

だらだらと何を言いたいかと言えば、3種のツールともにお作法が違うんですよ。小生も人の事は言えないんだけど、「画面は共有出来ていますか?」とか「聞こえていますか?」とか、もううざったいったらありゃしない。画面の共有は出来ているんだけど、プレゼンテーションが先に進まないとかね。ご当人はプレゼンしている気になってどんどんしゃべるんですが、聴いている側はタイトルシートをじっとみつめて「あぁっ」とため息をつくばかり。過去、OSの違いによるお作法の違いの吸収が大変だったんだけど、プラットフォームを選ばないツールの活用で戸惑う時代になってしまうとは思わなんだ。PCでZoom、携帯でTeamsの会議に並行して参加して、会議の掛け持ちにおいて時間と空間の壁を超えるのは良いんだけど、やっぱり人間はシングルタスクが良いなと思う私であります。

楽しい大人ですか?

量子という単語が経済的新聞にも踊るようになって数年経ちますな。世界的にはかなり大きな投資が国から成されているわけですが、後手後手のこの国では「正しく評価しているのかしら?」という程度の投資しか無い。それを見るにつけ、悲しくなるわけですな。悲しい国になってしまっているなと。前向きに成長している国に見えないわけですよ。人は減り続けるしね。国会は閉じちゃうし、マスコミは毎日同じことを繰り返す。国民にすり込む役を果たしているんだろうなぁと理解しています。

皆が平等に競争する環境は正しいですよ、でも、これだけ世界に置いてきぼりを食って居る状態においては、思い切った「正しい不公平」に挑戦しないといけない。これが我が国の最も苦手とするところでは無いか?全ての人に公平というと聞こえは良い。勿論その前提には様々な弱者は優先的に「正しい不公平」で救うことは論を待つ必要は無い。競争力はあるけれど、口を開けて待っているだけの人達とかね、何で平等に扱わないといけないのだ?挑戦しようとせず、待つのみの悲しい大人を何故救う?

弱者という点において、憲法解釈で男女別姓とかね、世界では当然の如くに認知され進められているのに、この国では忌み嫌われる。女性天皇にしてもね、過去あったわけでしょ?何で今、認められないのか、これも全く分からない。そもそも男女共同参画なんてことが話題になること自体が恥ずかしく無いのか?当たり前すぎて話にならない。当然のことなんだけど、間違った不公平の思想なんでしょうな。千年前には政治家の教育係が女性だったんだ。

現実を見渡せばおたんこなすばっかりで、頑張ってみようかなって気力も萎える。それは理解できる。その通りなんですよ。だからこそ、正しい不公平が良い。強い人が弱者の新しい挑戦を潰し続けるこの国のあり様を変えたいじゃないですか。「過去を全て知っている」みたいな超人が現れて「お前のやろうとしていることは駄目なんだ!」と叩き潰して、こっそりアイデアを盗んで金儲けをする。その輪廻はいつまで続くんだろう。悲しい大人の国から夢のある子供の国で良いじゃないですか!楽しい大人になりましょうよ!!

今の心根

自分の心根に従うことが出来る人こそ幸せな人だろう。もしもその幸せの定規が、自分ではなく他の人々の幸せであったならば。多く、自らの弱さに負けて、自らの弱さの定規をあたかも一般論、他人が仕掛けたのだと逃げを打つ。振り返ればその連続であったのかもしれぬ。何となくだが、今更にして自らの心根に従うという価値観が理解できるようになってきた気がする。まるで、あたかも学会等で大発見を発表する大学院生の発表の如くの「示していると考えられることを示唆している」みたいな、結局何も言っていないことに等しい語尾だが、そんな気がするのだ。

仕事の「追いかけられ感」は正に自らの弱さの定規にピッタリ当てはまる。何で毎日毎日、やりたくも無い仕事に追いかけられ、心身共に疲れ果てる日々を過ごさねばならぬのかと?単純なことである。それが仕事であって、その達成が社会の一助となるからなのだが、外部目線を失ってしまうと、自らの弱さに振り回されることになる。後悔だけが残る。タイムマシンは無いので、全く無駄に心を消費することになる。良い事は一つも無い。傷だらけになっても、まだ、その傷の上に傷を作る毎日を過ごす。

きっかけは何でも良いのだが、恐らく、興味とか、好奇心とかそんなものだろう。面白そうだなと思って取り掛かってみると、これがなかなか上手くいかない。上手くという自らの仮説を真実に転換して思い込み、そうならないことを悪しき結果と捉えてしまう。何時の頃からか「究極の結果って何だろう」ってお仕事に取り組ませて頂くように、何故か心根が転換したのだが、その結果、その時、おかしなことになっても、妙なことに巻き込まれても、「まぁ、何とかなるだろう」と惚けることができるようになってきた。結局のところ、もしも仮説が間違っていなければ、自然の摂理によって、究極の処に落ち着く筈なのだ。生きている間には無理かもしれないけどね。

社会の定規の上の自らの心根って、結局、そんなところなんだと感じている。好きなものは好き、それは「何故?」と問われても、社会における「駄目なものは駄目」と一緒で変えようが無い真理だ。よし!と思っても「いや、待てよ、まだまだだ」となるではないか。うっちゃって置けない。我が国は既に経済大国でも、技術立国でも無い。でもまだ人だけは居る。何とかなる。その為に何かをしよう。今の心根はそんなところである。

心の断捨離

人は誰もが心が弱いですからね、折れるんですよ。しがみつくんですよ。新聞やネット記事なんかを見ていると、日本はDXが進んでいないことが問題だと騒がれるのですが、何でDXしなきゃいけないの?って強く言っていないから、今で良いんだってなってんのかなとも思うのです。それとDXって川下の一番儲かる人の都合に合わせることにもなるので、その辺りも中小企業のDXが進まない理由でもあるのかなと感じているのです。

古いネタなんですけど、カセットテープはなかなか滅びなかったですよ。今、断捨離をしていると、引き出しから出てくるのが磁気記録媒体。カセットだけではなくて、いろんなやつね。光ディスクだって、読めないものも沢山。ゴミの山ですよ。で、CDが出てきた時に飛びついて、日本語レーベルで最初のディスクを買って、「あれ、こんな音なんだ」って思い出を持っていますが、暫く、カセットデッキ、テープは売られていましたよね。その商売にしがみつく人達が大勢いらっしゃった。

破壊的イノベーションが起こっているのに過去の成功にしがみつく。もう、未来は無いって解っているのに、断捨離に数年掛けてしまう。どれだけの損害を出しているのか。売り上げだけでは無い、新しい事業に向けての教育も出来ないわけで、捨てられない経営者こそDX化の阻害要因なんだなって思いますよ。まぁ、「日本の」お役所なんかはね、
イノベーションなんか理解しないから最初から期待していないけどね。民間企業でそれはいかんって。

そして新しい事で自分では理解できないのに、若い世代に任せられない。「自分がやった方が早い」病。そんなこと無いって。自分が出来ることなんて全ての人が出来るに決まってるんですよ。だってあなたに出来たんでしょ?それより新しい教育を受けた方が出来ないとしたら、あなたのやっていることは既に世界のスタンダードから外れているという事です。捨てた方が良い活動なんです。もっと言えば、引退しなさいという事です。そう言われると心が折れる?いや、言うほうが折れるですよ。だから仲間の心を折らない為にも、挑戦し続けないといけないんですよ。そんなもんなんです。

アンチ他人国家にて

自立した国家であった縄文時代。三内丸山遺跡など、1500年も同所に人々が暮らしていた形跡が残る。長期政権の江戸時代だって300年だ。どんな風に助け合って生きていたのか思いを巡らすだけで愉快である。かなりの遠方と交易を行いながら集落を、即ち生活を維持していたことは驚きを禁じ得ない。平均気温は2~3℃高かったわけで、海面は今よりも5m程高かった時代である。青森の遺跡であるが、今の気候と比較は出来ない。

クリなどは栽培され、古木は建材として活用され、サーキュラーエコノミー社会の走りであろう。仏教が入ってきて貴族がふんぞり返り、命令に同調させる社会の確立から、日本は一気につまんない国になり果てたのであろう。図抜けることを認めず、為政者だけが甘い汁を吸う。国民は知らされず、世界のコロナ明けで低迷しきる様子になっても、同調している人達は全員が低迷しているわけだから違和感無かろう。

違和感が許されない不思議な世界である。必死の努力で世界の頂点に立った途端に、国民と同調せよと、負けたらブーイングである。そんな国にまともな精神の若者が居着く筈はなく、優秀な方々が海の外に出ていく様は、まだ、まともな世界が残っているなと感じる次第。協調しないと仕事が回らないとかね、そんなところは同調で良いんだけど、DXなんてマイナンバーカードですら国が手出しをするのを恐れる程の謎の状態だ。

65才以上の方は、一気に重篤化する恐れがあるからワクチン先行接種となったわけで、余ったワクチンをそれより年齢が低い人が接種して何にも悪いことは無い。我慢しているんだから誰かが幸せになるのは許せないという、アンチ他人主義、正に貧相の同調主義国家と言えよう。自主規制を他人規制にすり替えて、他人の足を引っ張りまくる。文明人のやることか?恐ろしい社会である。

一歩を

方向性って大事だなと思う。何かに向かっているとか、近づいているとか。自分目線か相手目線かにも依るんだけどね。結局はビジョンに向かっているということが大切で、そのビジョンは身の丈一杯とマッチしているかはもっと大切で、それを見誤ると間違った方向に向かっていく。出だしが肝心なんて言うけれど、ゴールの方がもっと肝心。

さて、方向が決まったけどどうやって進もうかってことになる。道なき道を進むには、直感頼みの無鉄砲というのも艶っぽいのだが、こけたら悲惨な大けがになりそうだ。誰かが伴走してくれれば有難いが、そんな奇特な奴はそうそう居ない。だからこそ伴走者の価値は高い。進みたいと願う者と伴走者はビジョンの共創者ということになろう。より確実に短時間にビジョン目指して進んでいく。

共創と言うと聞こえが良いんだけど、どうも丸投げ、任せっぱなしパターンが多いように感じるのだ。額に汗してアイデアを出して、その実現に向かおうとすると、面倒だとか恐ろしいとか、突然、活動量が減る者が何故か多い。これも最後までやる抜いた経験の無さなのなせる業なんでしょうけれど、一歩を踏み出さない奴と、途中で投げ出す奴のどっちが多いのかとすると、なんとなくなんだけど一歩を踏み出さない人が増えていると感じる。

やってみると何処からともなく評論家がやってきて、無駄なことをするとか、そんなことをする金があるならこっちに回せとか、なんやかや言ってくる。そんな経験が重なってくると、新規挑戦なんかしたくなくなるし、夢を描くなんてことも虚しくなってくるのかもしれない。年齢を重ねても何か新しい事を思い描いて進んでいく人の頭の中がどうなっているのかしらないが、そんな人も間違いなく居る。ひょっとすると一歩を踏み出す若者よりも多いのではと感じる。こんな国ではいかん、一歩を踏み出そうよ、伴走するからさ。

シベリアにて

心臓を取り出して弁を人工のものにするという手術があるんですが、体温をゆっくり下げて冬眠状態にさせてやるんですよ。身内でやった人がいらっしゃるので知っているんですが、人工冬眠で宇宙のかなたに旅をするっていうのが、現実に可能なんだなって実感したのはその時からでした。もう、かれこれ20年近く前ですけどね。

一昨年くらいからシベリアの永久凍土が溶けて、人類誕生前から氷漬けになっていたウイルスが活性化して空気中に放出され始めているというニュースに時々出会うようになり、最近ではTVのネタにもならないくらい。今を騒がす新型コロナもそんな奴なのかなって思ったり。なんせ、目に見えませんからね、恐ろしいったらありゃしない。それより大きな生物と呼べるレベルのものが凍っていて、そして蘇るってことは無いのかなと思っていたら、ロシアから発表がありましたね。

100μmもある多細胞生物が、3万2千年の時を経て「起きた」とのこと。既に餌に食らいつき、活発に運動している様子が動画で公開されているのを拝見したのですが、ちょっと何と言って良いのやら。それまでは7億年前後にあった全球凍結の時代の、それこそウイルスれべるものが生き返りましたってお話というか映像を見た時は、生命って凄いものだなって実感していたのですが、100μmという目に見えるサイズの代物が冬眠から覚めるってなんだか凄いなって。

この研究グループの方々は人体の冷凍保存のキーとなる、細胞や臓器が冷凍状態で破壊されない物質を、このワムシさんから抽出して、人間の冷凍保存に応用したいんだそうで。遠い未来で目覚めたとして、何か面白いことありますかね?一週間前のことだって、えっらく昔に感じる程に時の進み方が激しいわけだしね。今、この時に体験するから尊いわけで、無理して未来に飛んでいく興味など無い。それにしても永久凍土の解凍ってこれからも何だか目が離せないなって、人間が免疫を持っていない殺人ウイルスの解凍だけは勘弁して欲しいと願う私であります。

精神世界の異端児

先日、某所で対面の講演をさせて頂いた。講演というか講義というか、名目は講義になっている。年齢差、最大43歳である。何が伝わるのか?恐ろしくなる。こんな所に出てきて良いのか?そう考えてしまうと「教師」の積もりがいつの間にか「説教坊主」になっているのかなと、教壇の無い教室で、ここに居てはいけないのでは無いかと、正直、思った。教わる側の気持ちにどれだけなれるか?「解釈不能だろうな」という気持ちはわかる。彼らの頭の中の咀嚼具合が伝わってこない。

自分が同じ年代の時、大人の言うことに従うという概念が無かった。要はいきがっていたということなんだけど、同様に考えれば、講義など引き受けてはいけないのだ。人生100年時代なんて、要は、年金を渡すことが出来ないから、自分で稼げなくなったら死ねということなんだろうけど、とてもではないが、そんな思想に付き合ってはいられない。付き合う自信などどこにも無い。80歳を越えた国政のリーダーに従っていたら、この国、一体、何処に行ってしまうのか?

勿論、教育や研究に長けた方に政治をお願いする事が正しいこととは思わない。それぞれ役割があって、年齢分担をすれば良いのだ。若くして政治向きの方も時々出現するわけだが、全ての人がそれに当てはまるわけでは無いから、無理をする必要は無い。世代の枠組みは重要で、フリック入力で論文を音速で書き上げる人種と、機械式タイプライターで育った人種ではSDGsと聴いた時に、真っ先にこう取り組もうというベクトルは異なるだろう。若い思考のベクトルに委ねたい、そう思う。

受け取った感覚が一つあって、それは思考のステップが妙に細かいこと。全てが与えられているわけだからその範囲で生きていれば良い人種なんだなと強烈に感じる。思い切り思考をすっ飛ばす小生と、そんな事、何故考える必要があるのかと、道の無いところに分け入るなんて考えもしない人種と、もう、同じステージに立つことはお互いにとって精神上良くないのではと思ってしまう。君達には君達の幸せがある。どうぞ、その幸せに突き進んでくれと言いたいが、どっこい、こっちの世界は世界で、あっても良いだろうと、精神世界の異なる国民の生存を認めて下さいねと、そんなお願いはしないで勝手に突き進もうと思った私であります。

今昔マップ

元来が人文地理学の研究者でいらっしゃる埼玉大学の谷先生に公開して頂いている「今昔マップ」を愛用させて頂いている。全国くまなくということでは無いのだが、明治以降の街割りの変化を見られるとともに、「今との比較」が出来ることが極めて痛快。ツールの公開に関わる皆様に深く感謝申し上げます。

宿舎を建てる段になって、その土地は一体なんだったのと気にし始めたのがきっかけで、図書館に行ったり、江戸の古地図とかを買ってみたりしていろいろ眺めて面白がっていた。とあるところで「名古屋の古地図展」に出掛け、現在の居住地近くの地形図を明治時代の陸軍が作図していたことを知り、きっと探せばあるだろうと、探していたらツールの公開が始まったというタイミングの出会い。求めよ、されば開かれんってなもんですな。

日頃、自転車で通っている道とかね、明治からというか、きっと江戸時代からあったんだろう道路だったりすると、それなりの石仏様がいらっしゃったり、やたらと曲がりくねっていたり。神社などは位置が変わっていないことが多いですな。故事来歴を調べてみるには、戦前の街割りを知るのが一番。漱石の小説などは明治の町割りを見ながら読むと実に楽しくなる。

川越市などはコロナ禍明けの観光狙いかどうかは知らないが、古地図アプリなどを作られたとか。名古屋に居るとなかなか川越に行こうとはならないけれど、地元のアプリが出来たら面白かろうと思う。どうも愛知県の方々は誇るべき地元なのに、地元観光をしていらっしゃらない方が多いと感じる。まずは今昔マップを活用させて頂いて、ご自分の住まい周辺をタイムトラベルされては如何だろうか。

身の丈

身の丈に合うと言うと、日本人は「分相応に生きろ」ってなんだか悪い意味に捉える傾向があるように感じる。身の丈を考えろとかね、悪口にしか聞こえない。それではと、自分の身の丈一杯って何処にあるんだろうって考えたことありますか?相手の身の丈なんて見下して発言していませんか?各自の身の丈って、結構高いと思いますよ。粘り強くてストレスに耐え、何かを成す。発言者にとっては「くだらない」と感じることでも、言われた側の世界においては「ナンバーワン!」かもしれないよ。身の丈を甘く見てはいけない。

組織となるとこれは更に難しい。「これは無理です」とか、「出来ません」って平気で言うんだけど、組織力こそ甘く見てはいけない。組織の身の丈ですよ、これはかなり大きい。だって、大きくするために組織化しているんだもん。自分達の組織の力を目いっぱい社会に向けて発現させていますという組織体を見てみたいものだ。多くの日本企業が消えていくのも、自社の身の丈をしっかり見極めなかったからだよね。身の丈の力をリーダーが引き出し切れなかったから。

組織の身の丈を構成しているのはやっぱり人なんですよ。一人の人は勿論の事、その繋がり、そして繋がりの連鎖が作り上げる身の丈は凄い。大学の学科なんて、何々の学問を身に着けたから卒業証書を出すってライセンス認証してしまえる程だ。最近はその質保証も求められるようになっているわけだが、そこに携わる人々は、それに恥じぬ働きをしないといけないのは勿論だが、お互いを高めあう工夫を新しくし続けないといけないし、それが組織力となって承継されているかも感じなければならない。

何かね、東京でオリンピックやるよと決まった時には、福島で溜まり続けるトリチウム水をどうすんのかななんて思って大丈夫かなと感じたものだが、今はコロナ禍対策が不十分なまま実行すると決定されたわけで、身の丈、解ってないなぁと思ったわけですよ。身の丈に合ってない決断をした国家の気がするわけだけど、まぁ、粛々と、身の丈をしっかり見定めて、挑戦を続けようと思うだけの私であります。