今の心根

自分の心根に従うことが出来る人こそ幸せな人だろう。もしもその幸せの定規が、自分ではなく他の人々の幸せであったならば。多く、自らの弱さに負けて、自らの弱さの定規をあたかも一般論、他人が仕掛けたのだと逃げを打つ。振り返ればその連続であったのかもしれぬ。何となくだが、今更にして自らの心根に従うという価値観が理解できるようになってきた気がする。まるで、あたかも学会等で大発見を発表する大学院生の発表の如くの「示していると考えられることを示唆している」みたいな、結局何も言っていないことに等しい語尾だが、そんな気がするのだ。

仕事の「追いかけられ感」は正に自らの弱さの定規にピッタリ当てはまる。何で毎日毎日、やりたくも無い仕事に追いかけられ、心身共に疲れ果てる日々を過ごさねばならぬのかと?単純なことである。それが仕事であって、その達成が社会の一助となるからなのだが、外部目線を失ってしまうと、自らの弱さに振り回されることになる。後悔だけが残る。タイムマシンは無いので、全く無駄に心を消費することになる。良い事は一つも無い。傷だらけになっても、まだ、その傷の上に傷を作る毎日を過ごす。

きっかけは何でも良いのだが、恐らく、興味とか、好奇心とかそんなものだろう。面白そうだなと思って取り掛かってみると、これがなかなか上手くいかない。上手くという自らの仮説を真実に転換して思い込み、そうならないことを悪しき結果と捉えてしまう。何時の頃からか「究極の結果って何だろう」ってお仕事に取り組ませて頂くように、何故か心根が転換したのだが、その結果、その時、おかしなことになっても、妙なことに巻き込まれても、「まぁ、何とかなるだろう」と惚けることができるようになってきた。結局のところ、もしも仮説が間違っていなければ、自然の摂理によって、究極の処に落ち着く筈なのだ。生きている間には無理かもしれないけどね。

社会の定規の上の自らの心根って、結局、そんなところなんだと感じている。好きなものは好き、それは「何故?」と問われても、社会における「駄目なものは駄目」と一緒で変えようが無い真理だ。よし!と思っても「いや、待てよ、まだまだだ」となるではないか。うっちゃって置けない。我が国は既に経済大国でも、技術立国でも無い。でもまだ人だけは居る。何とかなる。その為に何かをしよう。今の心根はそんなところである。