第二波?

ちょっと前に、連休明けの7日の時点で、夕暮れの街は賑わいを取り戻していたというお話をさせて頂いたわけですが、福岡や東京でも第二波の気配が出てきましたな。第二第三の発症拡大は過去の感染症でも同様であって、今回はあり得ないと考える方がおかしいので、まぁ、そうだろうなと思う次第。いよいよもって、気を付けなければと気を引き締めるだけです。気は引き締めても、マスクの細孔がウイルスよりも狭くなると呼吸が出来ないわけで、結局のところ、現状でどのように気を付けるかにある。

日本は集団免疫を獲得している国という考え方も取り沙汰されているわけですが、仮にそうであったとしても、変身を続けるウイルスですから、先に生じた免疫が効かないなんてこともある。集団免疫を獲得したと暢気なことは言ってはいけない。結局のところ「新生活様式」なるものにしていかないといけない。

実践していることと言えば自転車通勤くらいなもんで、それとても、信号待ちの時には人は群れている。今週に入ってからマスクレスの方がどんどん増えているのはやむを得ない事だろう。先述のようにマスクがウイルスを防いでくれるわけではないから。飛沫に乗ったものはマスクの外に瞬間的に留めることが出来たとしても、飛沫の乾燥と共に、外気と一緒に体内に取り込まれるわけだ。相手に感染させないという点においては効果はあるようだが、それも限定的であることがわかってくると、アベノマスクって何だったのだろうとなる。自分も隠れ感染源かもしれないという意識が必要だ。

確率的な発生数だから、人口が多い領域や、クラスタ発症の可能性があるところは全て第二波発生エリアということになるわけで、言ってみればどこにでもある。雨天で乗車する地下鉄の満員さを考えると、吊革に掴まる人が少ない分、人と人との接触は確実に増える。お疲れのご同輩は座席に目一杯詰まって、最早諦めの境地に達していらっしゃる。児童・生徒もいよいよ動き出す。何がどうなるのか。恐れてばかりではいけないが、油断に溢れた元の生活には戻ることは無かろう。そう思う。

赤字国債

結局の所、我が国はマイナンバーカードの普及が25%にも満たないし、肝心要の住民基本台帳とマイナンバーが結びついているわけでもない。じゃぁ、住民基本台帳に個人を紐づけしてしまえば良いのにと思うのだが、金融機関と結びついているわけでもなし、税金とも繋がっていない。住民とかマイナンバーとか言うけれど、役所から見れば「そこに住んでいる誰か」や「Aさんと呼ぶより53番と呼ぶね」というくらいなもので、何の価値にも繋がっていない。

そんな国がコロナ禍からの復興予算として、第2次補正予算案の追加歳出を一般会計の総額で31兆9114億円とし、財政投融資や金融機関の融資などを合わせた「事業規模」は117兆1000億円程度とした。必要な財源は全額を国債の追加発行に頼り、赤字国債を22兆6124億円、建設国債を9兆2990億円を発行するという。当初予算と第1次補正予算を含めた今年度の国債の新規発行額は過去最大の90兆2000億円に達し、歳入の56.3%を国債に頼ることになる。要するに財政支出は72兆7000億円程度だ。

これだけ数字を並べられると、マスクで10億円くらいどうってこと無いと感じてしまう恐ろしさである。普段から厳しく歳出を押さえていて、いざとなったから蓄えから出していこうということではない。リアルな借金である。お金を撒けば、その分、国民はお金を使って循環するから問題は無いのだと未だに思っているのだろう。後世に借金を無限に増やす、そんなやり方を政治と言えるのか。背に腹の話がしょっちゅうでてくるのだが、その腹は価値のある腹なのか?

粛々と進むしか無い。失業を無くすということだが、コロナ禍は様々な状況を見せつけてくれた。従来様式の労働形態は、これからは全く通用しないことを示してくれた。いや、通用させないほうが良いことを示したのだ。昭和のやり方は、もう繰り返せないのだ。ゼロから数字を生む以外の活動はこの国の外でやって下さい。厳しいが現実だし、そんな気持ちである。

反転

授業と宿題を反転させる、即ち、みっちり予習しておかないと講義についてこれないのは学生の責任というのが出発点だ。勿論、教師側はそれに応えられる予習教材を準備しなければならない。JABEEの担当者だったから、海外の流れは知っていたし、その効果もなる程なと思ったのを覚えている。今のWeb授業とは趣は異なる。しかし、今年の教材を来年は講義の深堀に間違いなく活用できる。そう考えると、しっかりとウエブ教材を作り込むことは我が国の財産となろう。

これは大学だけのお話では勿論無い。初等教育から企業向けのリカレント教材にあっても同様のことが言える。反転授業は対面での議論を重視しているところが肝であるわけだが、例えばTeamsで質疑をチャット等で行えば、その記録は全員に共有されるし、全員に対して貴重な講義材料にもなる。自らを鍛える場と捉えるか、単に面倒が増えるだけと捉えるか、えらい違いだ。

ウエブ授業においては受講生同士の繋がりを加速させるとか、その効果を得るのはそれなりの仕掛けが居るなと思う。画面上の学生を指さして、勢いで会話をして、講義室全体を巻き込んでいくというような野蛮で昔気質のやり方は通用しない。そもそも論として、リモートワークネイティブの諸君に、コテコテの現場人種のボケなど通じようが無い。教材の録音時に聞き手は居ないのだ。一人で盛り上がるしか無いが、聞き手はシラッとしていることは間違いない。

世界中のオフィスでどうやって新人教育をしようかなどと、あれこれと試されているに違いない。市場からはUSBのカメラなどが消えてしまい、カメラ付きノートPCも特需のようだ。機械は売れるのかも知れないが重要なのはコンテンツだ。コンテンツの良質化こそ考えるべきなのだが、時代と共に良質の有り様が変化していく。時間は残酷である。そう感じる。

御用は聞かない

首都圏での緊急事態宣言がいよいよ終結するのだなと、ネットニュースを見ていて実感する。緊急事態宣言が終結するだけであって、地上の新型コロナウイルスが直ちに無くなるわけではない。実際に、東京では新規の感染者が出続けているわけだし、いつ、どんな集団感染が発生しないとも限らない。クラスター発生という言葉で片付けられがちだが、所謂繋がったひとかたまりということでその名前を使っているのでしょうけれど、要するに、油断をすると痛い目を見ますよという状況には代わりはないのだ。

油断はしていませんというギリギリの線はどの辺りなのだろう?三密などという定性的な表現は止めて、明らかになってきた科学的根拠を元に線引きをしたいのだ。密集する部屋のあり方を避ける必要は継続しないといかんだろう。6月1日から一斉に元に戻すなんてことはあっちゃあられんこっちゃ。折角身につけた活動様式なのだから、キープしていっても良い部分はあると感じている。

とは言うものの、経済活動において、海外との取引を停止し続けて良い訳はない。国の外で評価されてこその先端技術なわけで、その点においては全力でご協力申し上げねばならない。教員の研究に打ち込める時間の増大こそ最優先事項であるわけだが、従来には無かったウエブ講義の準備に追われていらっしゃるわけで、無闇に共同研究のお話などを持ち込める状態ではないのも事実。このあたりは大学として難しいところである。各人が取り組めることに最善を尽くすということに尽きる。

霞ヶ関の枠の中と外との乖離が恐ろしい。言われているような第二第三のコロナ禍が発生した時、緊急事態宣言の神通力は効かないであろう。お願いベースの仕事不許可命令に従う国民はどれだけ居るのか。それを思うと、兎に角、第二第三波を発生させないように努力していくことだ。そのためには経済的に極めて厳しいことにもなろう。こんな時だからこそ、本当に良いものを作る努力が必要である。御用聞きなどいらないのだ。自ら発想すれば良い。それだけのことだ。

フィルター

緊急地震速報全国版を、バックグラウンドで立ち上げながら、それなりのお仕事をしていると、突如アラームが鳴り「何処かが震度1」と伝えてくれる。震度1をどう捉えるのだ?太平洋プレートは7cm/年、グイグイと東日本の下に潜り込み、海水を含んだプレートを摩擦熱も含んで長野県直下に運び込む。2011年の震災から、その影響が人間の観察下になるように現れ始めたのだなと納得している。東北の大地の歪が、中部で開放され始めた証であろう。どうなることやらである。

子孫を探して面白おかしく社会をたぶらかす番組が流行っているようだ。たまたま、画面を見たらそんな番組をやっていただけなので、真実かどうか解らないが、解らないからこそ、歴史を語っているように思える。誰も知らないから、一番手に語れば真実となる、という理屈なんでしょうね。古文書に残っているからと、それとて何処まで信じてよいのやらである。見せ方と、見る方の気の持ちようで情報はあらぬ方向に伝達されていく。人間の意識のフィルタは極めて大きい。何を言っても聞かないフィルタなんてのは最悪だ。

いよいよ関東エリアも緊急事態宣言が解除されるそうで。ただ、そうなったとしても、当分は東京に行く気はしないし、来客して頂きたくないという気持ちは本音である。様々な場所で生き続けるコロナウイルスであるから、どんな経路でやってくるか解ったものではない。自分が安住している以外の場所での行動は、おっかなびっくりに成らざるを得ない。これも意識のフィルタの一つではあるが、君子危うきに近寄らずということもあるのだから、臆病は正義であろう。

いろいろ身の回りを見渡してみると、なんでこうなっているのかなという現象に満ち溢れている。その「なんで」を思わずに活動しているわけで、人間の愉快さがそこにあるのだろうと考えるわけだが、全ての因果関係が解る生活って、妙に味気ないのだろうとも思う。推測、空想があるからこその人間であって、その能力を封印する必要は無いだろう。SNSという妄想の発散ツールで、誹謗中傷で人を死に追いやる時代である。無くなって欲しいものだが、どうなることやら。

逃げ得の国

目が曇ると怖い。それを一刻のリーダーが示してくれたということだ。冷徹に成り切ってもいけないのだろうし、人情に振り切ってもいけない。中庸ということなのだろう。自分達だけが正義であると、700年代から倭人は先住民を殺戮し続け、完全にその純血を断ってしまった。それを正義と貫き、教育してきたのが現状である。更に遡れば、西方からの文化を伝えた民を追放し、自らが決められた血族と伝承してきた一族も居るわけで、時の大きな声に流されやすい民族ということなのかも知れない。

マイナンバーカードの普及の少なさを見てもそうだ。マスコミが「個人情報が漏れるから危ない!」と、何処かの学者の一声を、全ての学者の声と置き換えて報道すると、8割以上の人が「危ないカードは持たない」となった。そもそも論として、社会保険庁が国民が払った年金の記録をきちんとしておかなかったから、個人と将来支払われる年金とを明確にしましょうとして考えられたものであって、国民一人ひとりの社会における権利を保証するものであったわけだ。それが行き渡っていたら、とっくに困るであろう人が、困った後でも、未だに支援されない国の状況は無かったかも知れない。

住民基本台帳とマイナンバーカードが紐づけされていないということにも驚いた。この国は一体、どうなっているのだ。何でもかんでも監視して、出張帰りの新幹線で焼酎を呑んだみたいなところまで記録されてはつまらないが(別に何とも思わないのだ、つまらないというだけだ)、自分が持っている社会的権利を使えないこの国の状況は国民が作り出したものだが、結局、自分達で自分の首を締めているだけの話だ。

何となく思うのだが、巨悪に声を上げても殴られ抹殺され損な国だなぁということ。電車を待っていて、さぁ、乗り込もうとしたら、4、5名の人生の大先輩達が、小生を跳ね飛ばして割り込んで、どかどかと席を確保する。まだ来ていない人の分も含めて占拠する。これが日本の有様だ。良い行いは褒められなくても良い。しかし、悪しき行いは天網恢恢疎にして漏らさずの世であって欲しい。それだけの事である。逃げ得を許さない。それだけで良いのだ。

何が新しいのか?

鶴舞大学は6月1日から様子を見ながら研究活動の再開ということになっている。研究室活動は基本的に「実験現場」では中止して、学外からのコロナ禍流入の確率を下げる努力をしている。にも関わらず、県の緊急事態宣言が解除された日から、どどっと人が増えている。学外からのアポ無しの来客もあり、お断りをさせて頂いているにも関わらず、突如として訪ねていらっしゃる。ルール違反である。ルール違反者にはそれなりにご対応させて頂くので悪しからず。もっとも、ご同輩が多数いらっしゃるので何ともはやである。

新聞紙上等でアフターコロナという記事を多数目にする。多くが、在宅勤務にシフトした部署が、元に戻ってはならないと警鐘を鳴らしている。賛同するところである。現状技術を維持して、次を迎えるなど有り得ないのは常在戦場の企業のお話と考えては大間違いで、これだけ発達した仮想空間を最大限に使わずしてなんとするかである。また、組織を主役にせず、自らの自由を求める者の存在理由も確実に失われてきている。いや、そのような方は組織に拘わる必要は全く無く、今、飛び出して挑戦することをお薦めする。日本の何処にもしがみつく所は無い。

連休中に話題になっていたが、粗大ごみの持ち込み役場に長蛇の列が出来、この機会にこそ身辺整理を成さる方が大勢いらっしゃった。小生もその一人であるが、未練たらしく、だらだらと延々と続けている。趣味の領域に入ってきているとも言える。新しい事を興そうとしているわけだから、古いルールに消えていただくことが必要だ。自分自身が一番消えるべきなのだろうと解って入るが、だらしがないからのうのうと残っている。悲しいことだ。

何が新しいのか?常に問われることだし、歌にもなった。データという金融よりも高付加価値を生み出す可能性に背を向けて、ハンコにしがみつき、紙を愛し、出勤することに喜びを得る生活って何を生むのでしょう?旧態依然の状況にあるのは間違い。ト書きに進行役を縛りつけ(好んで脱線するけど)、決まったゴールに落とすだけの会議であればやらなくて良いのだ。多くの組織がその状況から脱するのだろう。その時、溜め息をつくような状況にはしたくない。そう願っているところである。

明日への希望を

スモールビジネスの連立によって、新規商品がユーザーにダイレクトに届き始める時が来たら、それは日本のものづくりのあり方が変わった結果と、後世、語られることでしょうと、小生はとある原稿に書かせて頂いた。試作ネットや糀谷周辺のことではない。あれは現行のチェーンで注文をこなしているだけだ。親元が居て、そのために残った皆を束ねて、胴元でございと言いたい人が多くいらっしゃるわけだが、明日の商品が昨日までの技術の積分でですとと言われて、明日を夢見る若者はいない。それを期待する商社も居ない。

タイムマシンに乗って、過去の栄光を語る方の何と多いことか。一方で「この人は凄いな」と感じさせて頂ける方は、過去の想い出であっても図抜けていて今も誰もその領域に到達していないし、あるいは、今この瞬間をどんどん過去にしていっているお話を聞かせて頂ける方である。日本社会で叩かれる方々はそんな人達だ。加えて、そんな方々は、自分の成したことに謙虚だ。それは既に過去であることを知っているからだ。

本で知識を得ることは、我々にとって多くの著者の考え方を学ばせて頂く上で、大いなる修行である。何も新しいことはないなと感じるのであれば、それはその著者と同様の人生を歩んできたということだ。そこで安心しているのであれば、貴方の代わりはその著者がしてくれるのだから、貴方は不要ということになる。そう成らないためには、もっと瞬間を強烈に生きなければならない。精一杯ということだ。目玉がでんぐり返るくらいに頑張ってみることだ。

タイムマシンのお話をしたが、ターミネーターは何故強いかと言えば、未来から来たからだ。今、この瞬間は、昨日の同じ時刻からすれば未来なのだ。想像も出来ない自分になっていたか?そうではあるまい。しかし、人にそんな気持ちになって頂ける衝撃を、どかんと発信出来るような、そんなイメージを抱くことが出来るとすれば、是非、人に分かち合って頂きたい。そんな瞬間を作り出してみたいものだ。それが希望である。

因果関係

押し通すと勢いづいていた検察庁法改正案でしたが、土壇場になってひっこめましたな。国民が何を言ってもへっちゃらで押し通してしまうのかと思っていたのですが、ここに来て急に国民の理解などという単語を使っている。何が何でもやり通すことが国民の利益になるのだという表現を一切していませんでしたからね。法律の受益者側のお話しか無かったわけで、落ちるところに落ちたのかなという気にもなる。そもそも議案として持ち上がることがおかしいのだけれどね。

並行して語るのはどうかなとは思うのですが、ソフトバンクグループの営業損益が約1兆3千6百億円だそうで、投資の失敗と言うものは、黒字も赤字も富裕層がやらかすと大きなものだなと感心する。コロナ禍も影響はしているのでしょうけれど、レナウンなどもそうだけれど、社会の猛烈な変化を様子見するとこうなってしまうという見本ですな。他山之石とせず、常に気を配らねばなりません。学びは大きいですな。

勢いって大切だと思うのです。この時代、石橋を叩いて落としていたら、結局、何処にも行けなくなってしまう。じっとしていると「何もしない」認定を頂いて、あちらの軍門に下りなさいと、行き先を支持されてしまう。自律的判断なんて決して許されない状況にある。それでも貫くものをもっていないといけない。それが差別化要因と言うことなんでしょうけれど、世界をリードし続ける何かでないといけないという厳しい状況である。

今、一番大切にしていると思っているものを放り投げてしまったとき、果たしてあなたはどんな状況になりますか?本当にあなたの幸せと因果関係があったのですか?相関関係と因果関係。その道のエキスパートでも間違える。為政者は上手にそれを操って、因果関係に見せるのだが、今回はそれがうまくいかなかったということだ。コロナ禍で国民には時間があった。そういうことかもしれない。

気の緩み

「我慢して欲しい」という依頼から始まって、「宣言だ」という弱い命令に代わり、「解除する」と気を抜かせておいて、「油断するな」と脅しをかける。様々な仕事をすることが許されて、それに対して税金を収めている。その許可に対して「締め付け」をしておきながら、税金の変換には極めて困難な道を用意して「道を開いたから言うことを聞け」という。難行苦行に耐えきれなかった企業から雇用解除、倒産と流れが出来ている。「気を緩めるな」という号令が余りにも虚しい。解除したんだから。

何度も書かせて頂いたのだけれど、そもそもバブルという絵に描いた餅で、食べきれないご馳走を体験した方々が大勢いらっしゃって、今もそれを求めて経済復興などと言う。国民が税金を納付して、国民の安全が守られて、それ故に頑張れるというのが国の基本ではないのか?最低限で良いのだ。その最低限すら無い状況になっている。恐らくなのだけれど、今回の在宅勤務という形態で「回る」社会を体験してしまったので、むしろ、これを基軸に歩みを進めたいと願う大衆があって良い。パソコンの画面など、自宅も職場も同じである。組織にネットワークを整える能力があるかが重要ポイントだが、多くの体験もディスプレイを通じて実現出来ることに納得しないといけない。

航空機パイロット養成など、地上でのシミュレーションで散々墜落しているから、実機訓練で落ちないだけのことだ。むしろ、実際の実験は複数回こなすことは困難だし、何故それがそうなるのかという原理と共に、何故、その装置の材質、仕上げ、組み合わせがベストなのかなどはシミュレーショで宜しい。そこにこそ時間を掛けて学ぶことで、現場での機転が効く人を育てるのだと、このコロナ禍時代で骨身にしみた。この状況を安易に戻してはならない。単に職場に居るから仕事をしているとの思いは、幻影であると認識しなければならない。

某D社が数千億円のリコールを出した。1個2000円の燃料ポンプに対して6万円の賠償金を支払うこととなった。世界中で340万台(もっと超えるとも言われているが?)正確な情報は伝わっていないが、燃料と材料との反応が云々という不確実な噂なのだが、それこそ、座学でみっちり身につけられる範囲である。燃料ポンプに関しては散々自慢話を聞いた。その結果がこれである。ものが持つべき本来の能力を形にする、技術の価値化が現場意識に無かったということだ。形を丁寧に作るだけでは駄目なのだ。素性を知り、価値を生む場を探し、そして技術を価値に転換する。気を緩めているのはコロナ禍の前からだろう。そんなところだ。