捨てられない

研究に活用する高額物品は、法人大学ではあるのだけれど、国費という考え方の元、備品として取り扱う必要がある。国の支配下にある法人大学であるから当然のことである。異論はない。無いのだが「寿命はこんだけ」と、誰が決めるのか分からない廃棄猶予期間が勝手に付けられる。これが頂けない。

超精密機器においては、研究という極めてハードな使い方をするのだから、その精密さの寿命など1か月程度と考えるのが正しく、3年とか5年とか、更には10年とか、信じられない期限設定が成される。極めて不愉快で、リプレースしようにも廃棄できなければ部屋がぱんぱんになる。危険でもある。稼働部品があるものは当然のことながら摩耗が進み、メンテナンスを繰り返しても欲しい精度は出せなくなるわけで、そんなものを他の研究者には譲るわけもいかず捨てることになる。

形あるものはいつかは壊れる。当然のことなのだが、それが通じないから困る。部屋を明けろと言うくせに、明けようとすると廃棄はままならぬという。エレクトロニクス機器はどこかに保管というわけにはいかないのだ。分析機器などは億の金額はするのだが、これなどは世界的競争が激しく、毎年リプレースしたいくらいなのだが、まったくもって金勘定屋さんにおかれては、研究的思考が無いからいかん。

勝手に耐久年数を決めて、それを盾に「捨てられない!」と迫ってくる。捨てたいのだ。捨てるべきなのだ。勿論、手作りの機器においては、部品を欲する若手に譲っても良いのだが、近年の若手は手作りが遠いところにあるので、これも受け取って頂けない。化石人種が退出しようとすると大変だ。

不法投棄

部屋を片付けようとして、家賃を払っている部屋に、一時的に物品を退避させて、その後片付けようと考えていたら、家賃を払わない輩がゴミ捨て場と勘違いして、どんどんとゴミを投げ入れてくる。所詮、その程度の輩と部屋を並べてきたということだ。

小生の装置は壊しても問題ないと言っていると、その教員の学生さんから聞いたことがあるが、なんとかとはお付き合いしない方が身のためなのでほったらかしていたら、その暴挙である。なんでも相談室に駆け込みたいが、君子危うきに近寄らず。君子では無いがそんな気分だ。

必死に研究費を稼いで作った装置でも、いつかは陳腐化して腐敗するわけだが、処分するにも相当のお金がかかる。大学は金をとってこい、研究論文を出せとは言うが、処分にはほんの少しのサポートもない。大学の真ん中あたりまで持ってきたら捨ててやるくらいの懐の深さが欲しい。

金がない金がないと執行部は叫ぶが、無駄な金が出て行っていないか。本気で考えているのか。ベテランの事務員さんの超過勤務は払わない、一方で、パートさんは大勢雇用する。これでは効率が上がるわけがない。そもそも紙とハンコがいまだにまかり通るからね。ため息も出ない。

あぁ投票率

脱税しようが公金をどのように使おうが、どんな候補者でも当選しちゃうこの国なんだけど、まぁ、想定よりも与党が頑張ったかなというところだ。それはまぁ、変わらないだろうと思っているのだが、困ったことは20歳~24歳の投票率が30%台しかないこと。三人に二人は意思表示をしない。18歳~19歳が40%を越えているので、その内に、ひょっとすると伸びてくるかもしれないのだが、余りにもお粗末である。要は「大学生年齢」である。

それに引き換え団塊の世代のパワーは物凄く、70%を軽く越えるのだ。先日もご高齢の方々が散歩宜しく投票会場に向かっていく姿を拝見した。高年齢者が高年齢者の候補者に投票しているかどうかは分からないが、若者が手を挙げないと、何時まで経っても政治家の平均年齢が下がらないのではないか。それが良いか悪いかは分からないが、若者に国を引っ張って欲しいという気持ちは小生にはある。何とかならないものか。

講義で言って良いのか悪いのか謎ではあるが、「みんな選挙に行こうよ」と話をしたことがある。SNSの格好の餌食っぽいネタではあるが、そんなことはお構いなしだ。税金がどのように活用されているかしっかりと見張らねばならない。そうなのだけど、脱税しようが公金を私的に使おうが、お目付け役のはずの国民力が働かないから、当選したらやりたい放題である。

大学経営も執行部が何をやっているのか、見せていたつもりでも「見えていない」と言われればそれまでだから、見る努力をしなければならないのだけれど、公金不正使用者が当選して、堂々と「禊は終わった」と、普通に戻ってしまうこの国はいやらしい。代替わりは必要だ。若者よ、頼むから投票に行ってくれ。少なくとも「この政治家・政党は嫌だ」という意思表示でも良いから。わずかな情熱も消え果る。そんな気分だ。

ノートPCは

現状、物価高で海外から日本に輸入しなければならない部品類が多く、PCは高根の花になってしまっている。正に40年ほど前の状況に似ている。あの頃は日本の技術があまりにも最悪だったのと、ミイソの排他文化によって、電脳が特権階級の持ち物になっていたから仕方が無かったかもしれない。DOSV機が香港や台湾からどどっと入ってきたのだが、日本語の壁を破るのにしばらく掛かった。懐かしいお話である。回顧的お話をしたいわけではないからこの辺で止めておく。

昨日、弟子から「購入したノートPCがお亡くなりになった」との泣き言を頂いた。形あるものが壊れるのは当たりまえ。電子機器に価値などなく、それが生み出す利便性と情報にだけ価値があるのであって、特に自ら生み出した情報に関しては常にバックアップをしておくのが当然なわけで、それがあったのだから、まぁ、我慢するべきだなと言うことになる。今の価値観は違うのかもしれないが、回顧的(結局回顧するわけだ)にはデスクトップを購入できないし、USBメモリなんて便利なものは無かったから、職場と宿舎で一台しかPCを持てないのであれば、仕方なくノートPCという選択肢になったわけだ。

ひたすら重いPCをどうやって運ぶかと、当時としては奇異な目で見られたリュックスタイルで、職場と宿舎を往復し続け、それでもハードディスクが弱いから、日常的にバックアップをして、まぁ、ノートPCに引きずられる職場環境でしたな。今ではクラウド環境のお陰で職場と宿舎にデスクトップがあればよく、それが無い場所であればスマホで済む補助的環境を整えれば良くなった。小生はポメラニアンとして初号機からずっと愛用しているが、それなどはHP100LX時代からの流れともいえる。

ローカルAI搭載のノートPCが登場してきて、便利に使いこなしていらっしゃる方がお見えなのだが、残念なことにまだその領域にスキルが至っていない。いずれご利益最大限となりたいとは思うのだが、もう既に「お前なんかいらない」状態の窓際どころか蚊帳の外生命体であるから、事務職がAIに置き換わる素晴らしい社会を現場で見ることは無さそうだなと残念でならない。ノートPCは温度・湿度が異なるところを持ち歩く機器であり、今のところ壊れて当然の機器と言える。壊れたら「良く頑張って支えてくれた!」と感謝するだけで良い。そんなものだ。

国勢は

新しいプレゼン資料を作り込んでいる時、全部を新しく創り上げることもあれば、再利用と言うか、これをベースにターゲットとする聴衆向けに過去に作ったシートを創りかえる事がある。「あれは何処でしゃべったっけ?」と、あれやこれや、プレゼンシートジャングルを彷徨するのだ。その際、思わぬシートに出合う事がある。こんなシートを創ったっけ?と。本来の探査目標とは異なるシートに目を奪われる。凄い発想力だなと呆れかえる。

戦後から人口が増えつつある途上に1960年代があって、正に、お年寄りが孫を育て、働き年代が猛烈に世界中を飛び回り、政治も日本の未来を見据え、世界と渡り合っていた時代。世界がプラザ合意を発動せざるを得ない程、日本が頑張っていた時代である。その後、人口はピークを迎え、現在、減少傾向に入っているわけだが、その頃の人口の頭数と等しくなるのは2040年頃と予測されている。

現在、総選挙広報活動真っ盛りであるが、子育て世代を支援して、産めよ増やせよと、戦後のキャッチフレーズを繰り返しているが、実は今は、その当時に比べて遥かに人口は多いのだ。それなのに、世界に対する日本のプレゼンスが低下の一途を辿り続けるのは何故か。学ばないからである。学びを産業に取り入れないからである。企業が口を開けて補助金が届けられるのを待っているからである。そして政治がそれを叶えるからである。

同友会のリーダーが「1500円の最低賃金を支払えない中小企業はご退場と言う時代だ。人が払える企業に移ることで国際競争力を取り戻せる」と仰ったのは名言であり喝采する。小生が30年間叫んできたことが漸く、社会に届いたということか。そんなわけは無いのだが、学んだ者も学ばない者も賃金は一緒の異常国家であるのは間違いない。選挙結果は与党圧勝で終わるだろうが、国もとんでもない事になるのかな。くわばらくわばら。

総選挙考

SNS情報は凄いなと思う。050-5799-7608はどんな番号ですかと問えば、総選挙における意識調査の為のアンケート元の電話番号だと教えてくれる。小生は画面に名前が出ない限り電話に出ることは無いから、履歴でこんな面倒なことをするだけなのだが、例によって、選挙にはいろいろ思うことはあるのだが、まぁ、それは言わない。主張はあるんだけど、まぁ、それは小生の意識上だけのことだけなのでほったらかす。

政策なんというものは、裏に隠れて全く見えないのだ。その中で、極僅かに見えてくることがあるのだが、まぁ、それを探って気に入った極僅かに投票するのか、これは絶対に嫌だから、そうでは無い中で、まぁ、許せる政党に投票するのか、まぁ、そんなもんだ。戯言だけれどもキレが悪いのが選挙時なんだけどね。政党から何を言われるというよりも、その支持者から地下鉄に落とされるとかね、いろいろあるからこのへんで止めておく。与党程怖いものは無い。

さて、いつも言うことなのだが、投票活動を行わない民は国民では無い。その者には存在理由は無い。SNSでなんだかんだ、自分の生きる場所はここにあるなど威張りまくるのだが、国の行く末に参加しないくせに、そんなことを語るな!学び者に存在理由は無い。解決困難な事例が沢山だ。そうなったのも無投票行動が産みだしたものだ。どうせ変わらない?なにをどう変えたいのか?

投票率90%を超える総選挙で選ばれた政党の政策を見てみたい。それはお手本になるだろう。現状、40%未満の投票率の中で、当選率が上がる仕組みを作って税金の使途を決める選択手法選ばれた者の奴隷になるのはこりごりである。先ずは、自らの意志を示そうではないか。個の意識が国の方向を決める。大賛成だが、30%代の国民の意識しか反映されない国の有り様には辟易だ。まぁ、変わらないのだろうな。残念だが、そんな国だ。GDPなど上がるものか。馬鹿々々しい。

遥かなる教育者

教育者と言うわけでは無いが、職業関係を問うアンケート欄には教育関係にチェックをしている。頭の片隅に教育者であると何処かで思い込んでいるに違いない。思い込みは必要だと思っていて、自己暗示と言うか、そう思い続けていると、いつかはそうなると、何処かのお坊さんが言っていたのを鵜呑みにしている。そのうちそうなるだろうという事で、今、そうなっているというわけでは無い。

教育者って何だと聞かれれば、それは生徒の目を通して、自らが発信している内容に納得できていること。そして生徒はこちらの目を通して、伝えていることに納得を得ていると体感することが出来る者と答える。相互の立場において納得できる話術を駆使出来る機能が必要なのは言うまでもない。そんな名人芸には遠く及ばないのだが、目指しているのは間違いない。

上述の定義を用いているのは、教育と指導はまるで違うからだ。指導は自らが有する機能を、それより劣る機能を有した者に上意下達することにより、受け取った者が指導の通りに実践できるレベルに到達することだ。受講者が、到達目標に達することで指導の効果が測られるわけで、指導者側から計測可能な達成状況を想定出来る。

教育はそれは出来ない。何故ならば、教育者側と受け手の側の、双方の知恵が「教え」に重畳するわけで、世代を超えた教師と生徒の関係においては時代背景までもが知恵としてお互いが受け取ることになる。教える側も受ける側も、それぞれが自らの内省を伸ばしながら教育は成される。教育は一生であり、指導は一瞬である。教育者は授業が出来るが、指導者には広義しか出来ない。これが解らない者は教壇に上ってはならない。そう思っている。

研究って?

言い尽くしたことなんだけど、バックキャスティング。これは未来に発生するペインをどう解くかということであって、未来を想定して、今を見ることでは無い。未来から見えるのは未来であって、今では無いのだ。今を想定するのであれば単なるフォアキャスティング思考である。未来の出来事を予測しているようなのだけれど、改良改善で価格競争に陥るだけ。

研究の経営力は、正にそのバックキャスティング思考力なんだけど、これが案外出来ていないというか、出来ない人が沢山。特にスタートアップとか、今のペイン慣れしてしまっている人が陥っている。こんな悩みを解消しますって、それって単なる技術でしょ。決して研究対象ではない。特に大学の中堅若手がそうなってはいけない。要素研究に打ち込むからこそ「謎」が見えてくるわけだが、それを見る工学すらなないものを見いだせたら、それは素晴らしい。打ち込むのが良い。

教育改革なんて正にこの謎を見出す手法を、異分野の人達と意見を交わしながら見出していくことが出来る人材を育成することなのだろうけれど、育成する側にもそんな力は無いのだから、共に育っていくしかないわけだ。SNSの世界で生きている若者諸君は、既に仮想空間において知っていること、知らないことの共有が成されて、更に、謎があれば知恵の輪を重ね合って解決していっている。AIもあるしね。

始まりは終わりの出発点であるし、終わりは始まりの出発点でもある。新しくするのが先か、古きを駆逐するのが先か。どちらかでも良いから、兎に角、挑戦することである。見たことが無い新しい試み。やってみるのが良い。立ち止まったら始まりの無い終わりに行きつく。終着点である。

度々のQOL論

食糧問題を栄養不測の観点から見ると、トマトとか特定の栄養素を獲得できる作物を、機械的に増産させている取り組みは、単に農業を自律的産業化させるだけではなく、生命維持の観点で正しいのだろう。人口の適正化とか、その為にエネルギーを使うとか、負の視点での指摘は簡単だが、今の環境を作り出してしまった後の祭り的な対処であっても、次への経過点として、そうあることは必然なのかもしれない。単なるビジネスの観点だけで見るべきではない。

QOLという単語は産業戦略工学専攻教員時代にお目にかかったのだが、その単語の記憶は上長教授同士が「QOLは変化しないのだ!」「いや、向上したり低下したりする指標だ」と本気で怒鳴り合ったことで記憶に刻まれている。社会的に当たり前に使われて、なんだか未来の光明の様にふんわりとした幸せな世界をイメージさせる単語なんだけど、決してそんなことは無い。生活の質と直訳してしまうと『質』なんだから微分値があっても良さそうに思うのだが、そう思うか思わないかは学者の持論に任せたい。

マーケットに行けば手が出ない高価なトマトジュースから、貰っても飲みたく無い様なものまで様々なんだけど、「こんな効能がトマトジュースにはあります」というテレビショッピングやSNSで呪文を掛けられると、財布の中身に応じた商材戦術にまんまとはまって買っていく。いや、効能は虚偽では無いのだろうけれど、トマトを食べたら劇的に健康になりますなんてことがある筈は無いのだが、誰でもクモの糸に縋りたい気持ちを使ったビジネスにまんまとはまっていく。

数万年を経て構築されてきた肉体活動を維持させる食べ物だから、何世代前からか繋がる食生活が作り上げた今のDNAにとって、より良い状態の食材を得ることが重要であって、そのより良い成分が今のトマトにあれば良しということなのでしょう。勿論、トマトだけで解決する問題では無いのだけれど、DNAでQOLが決定づけられるのであれば、主観的なQOLは変わっても良いのでは無いかと今は思っている。その時の上長教授の年齢を超えてしまったが、そんな気がしている。

有りたい姿は?

先日、某金融機関での会合で、例によっての乾杯の挨拶をさせて頂いた。研究でもなんでもないところに引っ張り出されて、晒し者にされるのは本当に煙たい。心底、嫌なのだが、やらなければならない雰囲気だから引き受けてきたが、金輪際お断りと心に誓っている。と言う意味では記念すべき最後の挨拶であったわけだ。翌日に別の重たいお仕事があったので、それを纏めなければならず、ノンアルコール飲料を呑んで笑われていたが、それでしのいだ。

そこでお話したことなのだが、要するに学者は未来に「こう有りたい」姿を描き研究に取り組む生命体で、企業は展示会などを見て回ってあたかも未来と勘違いをしている過去に浸っている無残な遺体であるということ。未来に生きるのか過去の想い出に浸るのか。次元が違う生命体であるのだが、過去から脱却するために最も有効な手法が、未来を描く者との社会の新たな共創である。

研究者において気を付けなければならないのは、企業対象の研究発表会ということで、自らを売ろうとしてしまうこと。それは小生のようなエージェントに任せておいて、遠い未来をビジュアル化させれば良いわけで、当日は研究発表者のチームリーダー氏は、見事に未来を描いて頂いたから、優良顧客がテーブルに集まってきた。今に寄り添って良いことなど何もないのは、円安の日本の現状が物語っているわけだ。

そんな場に居ると、ふつふつと良からぬ気持ちが湧き上がってきて、こんな研究テーマを立ち上げてやろうかななんて悪だくみを考えてしまうのだが、既に研究室はクローズであるのだから、それこそ有りたい想いだけで「誰かに押し付けよう!」なんて考えてしまう。秋田には素晴らしい加工企業もいらっしゃるしね。今のままか有りたい姿か。内省してみると良い。人生は短い。あっという間である。挑戦せよ!