遥かなるエコシステム

やってみせ、言って聞かせてさせてみて、褒めてやらねば人は動かん。そうなのだけど、やっぱり気付いて欲しいということありますよね。政治家諸氏に苦しんで見せても何もしてくれないのは当たり前なのですが、小さな組織でそれはいかんですな。小回りを利かせスピード感を持って活動していく。常に先回りして考えて、その中の一つでも認めて欲しいと動き回る。弱小組織であればあるほど、その思考と目配せ、根回しが必要になる。

エコシステムという単語が氾濫しているのだけれど、スタートアップによるイノベーションエコシステムとかね。お互いを活かし合って高まって、更に新しいスタートアップがイノベーションを生んで・・見たいな絵に画いた餅。それを目指しなさいと言われるわけで、そんなもん、簡単に出来るわけは無いとは思うのだが、しかし、挑戦してみないとなとも思っている。出来ないのはやらないからだ。そう、その通り。こんなものがあったら嬉しいなと、その昔に想像したことが、今は現実に起こっている。使える道具となっている。

イノベーション慣れと言うか、インターネットが出現して、キャラクターベースでUnixのツールを使わせて頂き、今まで恐ろしく高価なテレックスとか国際FAXとかを使っていたものが、海外の加速器からのデータが手元にどんどんと送られてきた時、これがイノベーションと言うことなのだなと感じたことを覚えている。IIJという団体が派手に儲けているとか、そんなことは同でも良くて、通信業者がこれからじゃんじゃやか儲けるのだなと思ったものだ。

サービスを支える工学は苦しみは多いが日陰者扱いである。半導体の基礎的研究など「原子が一個動いたから何だ?」とオタクの世界になってしまうのだが、それが量子コンピュータを動かし、そして社会に変革をもたらしていく。眼に見える大成功を支えるミクロな世界に生きる人達に、もう少し脚光と言うか、光が当たっても良いのではと思う。それが大学の有り様だし、イノベーションエコシステムを支える本質であることを、社会はもっと認めるべきだ。それが無いから魅力を感じて頂けない。光あるところに影がある。そういうものだ。

老害

目先の事は大切だと誰もが思う。それはそうだ。今の困り事をほったらかすわけにはいかないし、今の事に集中していたら、何かやっている気になれるからね。どれだけ先のことを考えられるかなのだけれど、先人が遺産として今を準備してしまって、今の人が身動き取れないなんてこともあるなと感じることがある。

今の若い人達はと、多くのご同輩が仰るのだが、それはどうかなと思う事もある。今の時代の主役は、これからを待つ人達なのであって、昔はこうだったと懐かしむ人達は既に化石なのだ。新しいルールに合わせられないから、無理矢理、過去に今を合わせようとする行為は老害だ。

私達はこれが得意だと仰る大企業の皆様がいらっしゃるが、それでは何故、日本の貿易赤字が増え続けるのだ。世界から認められないレベルの商材しか作れないからだろう。企業レベルの老害である。ここには過去に売ってしまった商材の補償のために過去を作り続けないといけない呪縛がある。すると、過去が胸を張ってくる。自分の目が黒いうちはなんてのは、最も忌むべき老害である。

今のやり方を取り入れようとすると膨大な投資になるからやらないと言う。本当にそうか?地球上を埋め尽くす自動車だが、自動車を作り続けるために人間は存在するのか?地球温暖化抑止と叫びながら、自動車に乗って移動を続ける人達。自動車を莫大なエネルギーで作る人達。どうも違和感がある。これも老害思考か?新しくあること。難しい。

AR6

IPCCが3月20日に第6次評価統合報告書を発表した。拝見すると「まだ希望はあるよ」ということは書かれているのですが、「どこに?」と疑問を呈したくなる。気候変動を逆転させる方法は、カーボンネガティブしか無いのは当たり前なのですが、世界中でCO2排出量を減らしましょうと気合を入れてきた2010年から2019年の間に、年平均排出量は過去最大を記録したとのこと。コロナ禍で世界の経済活動が停止して、若干、下ぶれしたのは有名ですが、それまではせっせと地球を暖めていたということだ。

報告書を鵜呑みにすると、平均気温上昇を1.5度に抑え込めば何とかなるということなんだけど、それを達成するには、2025年までの間に、CO2排出量がピークアウトしないといけないそうだ。ふぅんと思ったのだが、残りは2年程度ですな。新規の火力発電所とか、自然エネルギー源製造にムキになっている現状において、そもそもそれは無理だなと、誰もが実感すると思うのだ。全ての経済活動を止めて、ひたすら手動の農業に邁進するとかね。そんなことでもやらない限り、危険限界の平均気温2度上昇に向かうでしょう。

化石燃料採掘も停まって無いしね。夏が来れば冷房したくなるし、冬が来れば化石燃料を燃やしたくなる。誰がそれを止めることが出来るのか?日本の少子化では無いけれど、夢を描けない社会に、子供を産み落とそうなんて思う人は無責任だ。描いた夢にしがみ付いて、歯を食いしばり血を滲ませる者が子供を残す。そんな時代だ。ずっとずっと先延ばしすると、もうどうしようもありませんよとなる見本だ。温暖化もその事例だ。

最早、激しい気象環境と付き合って、どのように食物生産を続けるとか、工業製品製造を行うのかとか、人類が生存したことの無い悲惨な自然環境下で生き抜く方法を模索する時期に来ていよう。インドの巨大経済圏からアフリカ経済圏の大規模発展が続くことを誰も止めることは出来ない。その時、地球はどうなっているのか?見ることが出来るか解らないが、少なくとも省エネに貢献する研究だけはしてきたと、思うしかあるまいと感じている。遥かなるカーボンネガティブである。

見せかけは辞めましょう

イノベーションとか、新規事業とか社会はうそぶくけれど、そんなもんをリードできるのは博士だけだ。日々の活動で血を滲ませ一歩間違えたら命を捨てていたかもしれない、そんなぎりぎりまで追い込まれてもいないくせに、頑張ったのに認められないとか、ふざけるな!学位記獲得は遊びではない。そうなのだが、頑張ったけど認めてくれないとかね。そんなことで、カウンセラー殿が出てきて「今の人達は昔と違うのですよ」と言われて納得できるか?

複雑で課題困難な社会の状況において、困ったら助けて欲しい、支えて欲しいと安穏と言える。ふざけるな!助けなどない。当たり前だ。何故なら挑む課題は世界初だ。何人も経験したことが無い課題に「もしも」挑んでいるのであれば、助けなどありえない。そもそも考えない。それがどうも「努力しても報われない社会だから、やる気が出ないのだ」と自らこそ正義だと言う。ちゃんちゃらおかしい。笑ってしまうぞ。

苦しい仕事を行うことは間違っていると、正義面する輩のなんと多いことか。私の意見と違うことを上から目線で押し付ける上司は間違っていると威張る。そうかもしれない。でも、本当に努力しているのか?努力ってなんだ?自らの能力の限界を発揮した瞬間が努力だし、その結果、更に成長して、自らにしか達成できないお仕事が出来た時、それは努力だ。でも、次の瞬間、他者に「おまえはいらないよ」と言われるほどに追い抜かれるかもしれない。その時、諦めずに新しき事を社会に生み出す。それが努力だ。

どんな言い訳も無い。でも言い訳しかない。言い訳しか聞けない。それは楽でしょう。出来ないことは言い訳で成り立つ。出来た理由は根拠が必要だ。わがままとエゴで出来ないと言う。それを認めろと言う。僕は本当に出来た理由だけが欲しいのだ。でも出来ない言い訳だけを聞かされる。自分自身、この時代には無用な人間であると理解してる。しかし、挑戦とはそんなところからであろう。結果は問わない。大切なのは挑戦すること、挑戦し続けること。貴方はできた。だから明日が見えたであろう。明日はそんな人にしかやってこない。そんなもんだ。

博士

人材不足という言葉が安易に飛び交う。上司の言うことに馬鹿正直に「はい」というだけの人を求めるのであれば、ChatGPTの有料版を活用すればよろしい。今のところ、世界中で育て始め、使われ始めたところだから、使いこなし続けることで、得られる機能は無限と感じる。これはインターネットビジネスを「こんなもの、おたくの道具だ」と無視して滅んだ日本のマーケティングを想起させる。あんなものは「まだまだだ」と思っている時点で既に退場組と言えよう。

日本人は真面目でこつこつと取り組むと言われるのだが、全ての人がそうではない。断言する。そうではない。小生は祖父母や両親からの口伝でしか、先の大戦の悲惨さを受け継いでいないが、そこから立ち上がる強靭さにおいては、正に七難八苦を精神力で切り抜けてきた国民性を感じる。その方々と対決できるとするならば、そこには「おたく」が必要である。現代において、どこにおたくが居るのかと言えば、それは「博士過程学生」である。

72時間、材料と戯れ、シャワーを浴びて再び72時間、研究に没頭する。オーバータイムの給与の上乗せをよこせなんて言わない。真理の追及に全てをささげるのだ。いや、そんな意識もない。ひたすら打ち込むのだ。それが博士課程学生だ。そのおたく道こそが我が国経済発展のキーだと思っている。しかし、日本人の博士人材が加速的に減少している。博士は使えないとか言っている企業が多く、雇わない。雇っても4年生で入った社員さんが、同じ年齢になった時には、博士取得者の上司となって「人が有する機能」にリスペクトしない。

そんな企業の商材が世界での競争力があるはずがない。人を喜ばせるには、喜ぶ人をリスペクトするところから始まる。日本人博士学生が少なくなっているから、海外の留学生に国の税金を使って博士を取得させることになる。技術は国に残らず、次世代の教育者として根付くこともない。これで国の技術力が上がるわけがない。ねちっこく力を醸成し、それを機能として社会に変革をもたらす。それを活用する側は「任せれば良い」のだ。グループリーダーとして活躍できる場は沢山ある。全ての企業に一人は博士人材がいる。そんな国になった時、貿易赤字は解消するかもしれない。そう思う。

植物だけでは?

世界中で樹木の伐採が収まらず、海洋の温度上昇も収まらない。CO2が極地近傍の低温の海に溶け込んで、海流の移動によって酸性の海水が広がっていく。現状は極地の海の体積に対して地球全体の海洋の体積が大きいから、薄まって「大したこと無かろう」と思われているのだろう。春から秋と言うか、この間の樹木によるCO2の吸収は間違いなく地球規模で生じているから、植物の光合成の活動とは素晴らしいものだと改めて感じるグラフを見た。信じられるデータかどうかは定かではないが、環境省のホームページに掲載されている情報だから信じることにしよう。

ただ、地球大気中の平均のCO2濃度が右肩上がりで、その平均値に対して数%で上下する分が植物の活動分らしい。それを見てしまうと、これは植物だけに頼っていてはどうしようもないなと実感させられる。落葉樹などは偉いもので、新芽を吹いて夏を過ぎて活動を休止するまで光合成をきちんと続けてくれる。我が国的には繁茂する竹に期待したのだが、これは1年程度で成木に育つまではCO2の固定をせっせとやってくれるらしいのだが、その後はCO2を排出する側に回るらしい。なんともやっかいなことだ。

すると、その昔のように、竹を生活の中に取り込んで活用すれば良いのだが、そこには手間もエネルギーも必要となり、活用に至らないということになる。そこで諦めて良いのかと言う問題提起である。生分解性プラスチックとか、石油由来で無いプラスチックが期待されているが、そこに至るまでのエネルギー収支はどうなっているのだろうか。石油から造らないというのはSDGs的には認められる気がするのだが、大量なエネルギーを消費しないといけないということになると、それは本末転倒である。

学生の頃、講義で触媒のお話をお伺いして、こんなに便利なものを生み出す学問は素晴らしいと思ったことを思い出す。今の研究もそんなことが根幹にあって、構造を破壊するのではなく、原子で構成される面をはぎ取っていくという自由エネルギー制御に拘ってきている。CO2ネガティブに持ち込むには触媒というものの働きが必須である。植物だけではどうしようもない。我が国が産業的に排出する量に対して、日本の国土前面に最もCO2を光合成で固定する植物を植えても2桁足りない。世界中で緑化が進まない理由はこんなところかと、定量的なデータを自ら調べるとため息が出る。

学び方を学ぶべき

人がどんどんいなくなるのだから、国が衰退するのは当たり前という議論があるが、人が大勢いたら国は発展するのかという単純な問題でも無かろう。ただ、若者が減り続けるという現状は歓迎するべきでは無いのは、そう思う。スポーツの祭典を拝見していても、溌溂とした若い方々の漲るパワーの発散に惹きつけられるし、日の丸の勝利は嬉しく感じる。猛烈な勢いで減少し続ける日本国民であるのだが、それ以上のスピードでGDPが低下を続ける。これを真剣に考えねばならぬ。

国民力という言葉があるのかどうかは知らないが、我が国発の商材が、海外にどれだけ受け入れられているのかという観点において、貿易赤字は明かに、受け入れられていないと判断するべきだろう。為替相場にしても、円が極端に弱くなっているのは、我が国の価値が世界から見て相対的に低下していることの表れとしか思えない。商材の価値が認められないから、その国の貨幣は弱いとなるのが自然の流れ。

ただ、輸出額は労働者人口が減っていると大騒ぎをされているにも拘らず、上昇基調にある。すると、総力戦で頑張っているということになるのだろうか。ベテランの頑張りが大きいのだなと感じるのだが、それはベテランが造れる商材が今のところ海外に買って頂けるだけの機能を有していることの裏返しであって、ベテランが若手を引っ張り上げているという事なのだろう。しかしそのやり方は何時か貯金が尽きるのだ。

オープンイノベーションなどという単語が踊り、DXに代表される「X:トランスフォーメーション」という現象が求められてはいるものの、意識は変わらず、独り勝ちを目指すビジネスモデルは変わらない。鎮守の森を守るのは良いのだが、過去の商材の価値にしがみ付いて、新奇な挑戦を放棄すれば、そこには敗北だけが待っている。リスキリングという単語も踊るわけだが、何を学んだら良いのか分からない状態では無いのか。そうであれば学び方を学ぶことだ。終身雇用など過ぎ去った幻影である。まず、そこから意識を変えるべきだ。

ご神域に想う

狭すぎる道路の入り口には「この先は狭くなるので車で通行できません」というようなことが書かれている。家々の間の路地などによく見られる光景だ。すると、それが書かれていない路地は車で通行できると判断してしまう。判断してしまって「山椒魚」状態になるのではと恐怖する路地もある。昨日、雨が降る前に出掛けたくなったところがあって、小一時間、ステアリングを握っていたら、ゆっくりと、だんだんと、道幅が狭くなってきたことに気が付いた。

二車線から、1.5車線位と言うか、センターラインが消えて「なんだか狭くなってきたな」と思った。ナビには数百メートル先のターゲットの場所が見えてくる。それなりの有名な場所の筈だから、駐車場があって、それなりの道幅になるに違いないと思ってしまう浅はかさだ。V字コーナーが現れ、車幅の道路になったなと思ったら、路肩に巨木が生え、鋭利な路肩のクランクにつっこんでいた。久しぶりに手に汗握ったが、ダメージなく到着はしたが、こんな道が通行可能と認定されて残っているのだと、なんだか日本らしさってこんなところになるのではと、激しい鼓動を感じた。

スーパーリングエイトも日本だが、路地に囲まれた鎮守の森も立派な日本である。むしろこんなところにこそ日本を感じる。近代化と呼ぶ伝統の破壊にめげずに神聖な場所を創り続ける。神の社の発祥は、集落における尊敬される代表者の墓所と言われているが、その場所に立ってみると、古の中心地であり、時代によっては防御の拠点ともなり、近づくのが難しいところであったり、風光明媚なところであったりと、細い路地がそのまま残ってしまうのも、まぁ、それはそうかなと思ったりもする。

伊弉諾尊の墓所には歩行可能な石橋があって、これが実に愉快なのだが、昨日、出向いたところの石橋は、文化財と言うことで立ち入り禁止。先の渡れる石橋も文化財なのだが、そのあたりが神聖なる場所を人目線で考えるのか、神仏目線で考えるのかの違いだろうと思ったりもする。神聖なる場所に立ち入らせないのは人。立ち入って頂き、神との結びつきを感じて欲しいと願うのも人。その場所の人の有り様が見えるわけで、偉そうにふんぞり返るだけが神聖な場所ではないと、これもまた日本人らしいと感じたご神域であった。

憂い

先週の金曜日の夕方、鶴舞公園を歩いてみると、一分咲きと言っても良い程の開花。今週末の卒業式では見事に咲き誇りそうではあるが、太平洋からの湿った空気の流入で、どうやらお天気はご機嫌斜め期間に入るよう。久しぶりのお花見の宴も、晴れている時にどんどんとやって戴きたいと思うところだ。再び、コロナ禍が進化して、とんでもないことになる前に、大空の元、うっぷん晴らしをされるがよろしい。

昨日、ぽかぽか陽気に誘われてステアリングを握ってみる。ずっと書類との戦いで、長期遠征などは出来ないから、ちょこっと以前から気になっていた場所を訪れてみた。小一時間で、名古屋市からはそれらしい里山に訪れることが出来るので、有難いシチュエーションだと感じる。小生の在からは東に向かうと混雑しないから、気軽にとなると東に向かってしまう。直ぐに名古屋市から外れることができて、車の密度がぐっと下がって有難い。

水を張る前の田んぼに人が群れていて、何かと思って目を向けると二頭のヤギと子供たちが戯れていた。乳の為に飼われているのだろうか?ガキの頃を思い出して、嬉しくなった。こんな活動が未だにあるのだと、少し、気持ちが明るくなった。電脳では無くリアルな世界を楽しんで欲しい。それが何時まで続くやらである。地域の子供と大人のふれあいのイベントがあちこちであり、それに紛れながら、久しぶりにカタクリの花をめでた。

猿投にカタクリの群生があるが、そこを訪れたのは二十年も前のこと。すっかり忘れていたが、思わぬところに護られている楚々とした姿に、暴挙に破壊されねば良いがなと、心配になってしまった。実際のところ、ご老人方が携帯を身構えて、足元の草花を踏みにじる。その有り様に、亡国という惨状を見る。TVではご近所の国が相変わらずミサイルを放ち続けている。満開の薄墨桜の古木が見事で、いつまで愛でることが出来るのかと不安になった。今週も慌ただしい。一秒を大切に活動したいものだ。

遥かなるカーボンニュートラル

カーボンニュートラルって、何というか、ちゃんとデータを調べて地球がどんな状態になっているから取り組むべきなのだというビジョンから入っていかないと、自社が損失を出しながらそんなことやっていられるか!となってしまう。人は経済活動を止めない、経済活動の為にはエネルギーの大量消費が止むを得ないということを前提とすると、そうであるならば、経済活動における地球温暖化ガスの排出量を削減していく、理想を言うならカーボンネガティブにしていく。それくらいの意気込みが無いと日本に未来は無いと思う。

金がかかるからやらない、誰が損失を補填してくれるのだという意識の方々のお話を頂戴したのだが、未だにそんなことを言う人が居るんだなと、日本のモノが売れなくなっているわけだなと、体感させて頂けた。サプライチェーンでカーボンニュートラルを考えていくわけだから、そこにカーボンニュートラルの為に出資した金額をどんどんと積分していくと、最終ユーザーの手元に渡る時にはかなり高額となっていくだろう。でもそれが正しい姿だ。

そんな高価なものは買ってもらえないと、我が国の経営者は考えているのだろう。愛着を持てる良いものを購入するという考えは何処かに飛んでしまって、安く出来て、数多く出来て、早く出来るというものだけが造られ続けている。否定はしないが、それだけで良いのか。いや、製造現場において、CO2ネガティブを実現するとか、使っているとCO2を固定化していくとか、そんな商材をイノベーションによって創り出せば良いではないか。そこにこそお金を投じるべきだ。

他を圧倒する素晴らしさを得たのであれば、他を圧倒する金額を要求すれば良いのだ。そこには政治の力も必要になるわけだが、補助金寄越せ、助成金寄越せの相手位にしか考えていないから、政治家の使い方も解らない国になってしまっているのだろう。カーボンネガティブが叫ばれる昨今において、カーボンニュートラル程度で「誰が金をくれるのだ!」と恫喝するリーダーってどうなんでしょうね。情けない。