ご神域に想う

狭すぎる道路の入り口には「この先は狭くなるので車で通行できません」というようなことが書かれている。家々の間の路地などによく見られる光景だ。すると、それが書かれていない路地は車で通行できると判断してしまう。判断してしまって「山椒魚」状態になるのではと恐怖する路地もある。昨日、雨が降る前に出掛けたくなったところがあって、小一時間、ステアリングを握っていたら、ゆっくりと、だんだんと、道幅が狭くなってきたことに気が付いた。

二車線から、1.5車線位と言うか、センターラインが消えて「なんだか狭くなってきたな」と思った。ナビには数百メートル先のターゲットの場所が見えてくる。それなりの有名な場所の筈だから、駐車場があって、それなりの道幅になるに違いないと思ってしまう浅はかさだ。V字コーナーが現れ、車幅の道路になったなと思ったら、路肩に巨木が生え、鋭利な路肩のクランクにつっこんでいた。久しぶりに手に汗握ったが、ダメージなく到着はしたが、こんな道が通行可能と認定されて残っているのだと、なんだか日本らしさってこんなところになるのではと、激しい鼓動を感じた。

スーパーリングエイトも日本だが、路地に囲まれた鎮守の森も立派な日本である。むしろこんなところにこそ日本を感じる。近代化と呼ぶ伝統の破壊にめげずに神聖な場所を創り続ける。神の社の発祥は、集落における尊敬される代表者の墓所と言われているが、その場所に立ってみると、古の中心地であり、時代によっては防御の拠点ともなり、近づくのが難しいところであったり、風光明媚なところであったりと、細い路地がそのまま残ってしまうのも、まぁ、それはそうかなと思ったりもする。

伊弉諾尊の墓所には歩行可能な石橋があって、これが実に愉快なのだが、昨日、出向いたところの石橋は、文化財と言うことで立ち入り禁止。先の渡れる石橋も文化財なのだが、そのあたりが神聖なる場所を人目線で考えるのか、神仏目線で考えるのかの違いだろうと思ったりもする。神聖なる場所に立ち入らせないのは人。立ち入って頂き、神との結びつきを感じて欲しいと願うのも人。その場所の人の有り様が見えるわけで、偉そうにふんぞり返るだけが神聖な場所ではないと、これもまた日本人らしいと感じたご神域であった。