年度末

3月末日となった。ここまで新型云々のお話が大きくなると思った人は誰も居なかったのではないか?先のインフルエンザの世界的流行時ですら、日本はある意味蚊帳の外。それもあるが、日本人は世界的大騒動にうといのではないか?

名古屋駅に出てみれば、どどどっと人の列。おいおい、それって所謂濃厚接触ではないのか?まぁ、肺炎にならなければ良いのか?とも思ってしまうのだが、13人しか感染者が見出されていないからという、お粗末観測結果の末の数値でないことを祈るというか、願うばかりだ。

八時だよ・・という同じ思いを抱いた方々は多かろう。ある意味、スターだ。それはそうだ。大きなたらいが頭の上に降ってくる。それを受け止めてみなさいよ。何十年もそんな技をやってこられた方が亡くなった。

あっという間なのである。身内にもそんな病人がいた。だからということではない。肺炎は恐ろしいのだ。素直に恐怖しなければならない。年度が変わるからどうのこうのではないのだ。皆、更に気を付ける。そう願いたい。お願いだから丁寧なうがいと手洗い。それだけで良いのだ。頼みます。

デスクライト

Windowsで時々日本語IMEが立ち上がらなくなり、ローマ字の羅列でがくっとくる。時々発生するので「またか」ということで、右クリックでアイコンをタッチして、復活させて忘れ去る。流石に社会がこれだけ騒いできて、名古屋もかなりの危険性をはらんでいるとなると、帰宅後の石鹸での手洗い、うがいを欠かさないようになる。と、言うか、元々そうだったのを意識するようになったということかもしれない。

徐々にではあるが、身の回りの物品を断捨離し始めた。ただ、世間で言う程の断捨離には程遠いのだが、それでもコツコツと捨て始めた。ゴミの分別出しのルールが無ければ片っ端から捨てているかもしれない。きっかけは電気スタンドである。このスタンドには若干の想い出がある。31年間、手元を照らし続けてくれた。

大学院の4年生の時(小生は5年制大学院であった)、就職活動を始めていたわけだが、とある電子部品メーカーの門を叩いたら『あんたはうちなんかに来ないで、もっと学問を追求しなさい』と、当時珍しかった、高周波でちらつきを抑えるという最新型の同社製品をプレゼントして下さった。31年、一晩中働いてくれたのだが、いざ、退職届を出したら途端に高周波チップが壊れた。分解チェックはお仕事柄で、これはご臨終だなと。

言霊である。学問を追求し続けた間は手元を照らしてくれたが、そのお役を去るとなった途端のお別れである。終わりが始まりとはよく言ったものだ。感謝の一言である。電気製品が30年以上も動き続けた。勿論、省エネという観点では外れる製品だから、利用が正しかったかどうかは分からないが、それでも想い出は美しいのだ。そんなものづくりにいろいろな形で関わりたい。信念として持ち続ける。そんな想いだ。

とある学者っぽい方が2月末にこんなことをおっしゃっていた。情報が欠落していた頃だったから、小生もそうなのかなと思ってしまった。「コロナウイルスは所詮、普通の風邪レベルであって、インフルエンザと比較するとゴミのようなものだ」と。

小生もそう思った。重篤化しなければ大したことは無いのだと。ところがそんなことはない。書物でしか知らないスペイン風邪的な恐ろしさがある。いや、現代医学がある中での恐怖である。これはとんでもない事だ。それを「所詮、風邪のウイルスであるから恐れることは無い」と学者風をふかして世の中を惑わしたTV学者の何とおぞましいことか。

学者の有り様の怖さである。自らが取得したデータを基に会話するのであれば良いが、世の中に点在するデータを整理して、あたかも自らの信念に基づいて取得したかの如くに「マスコミデータ」を信じて世の中を扇動するおぞましさ。改めて「自らを信じる」学者の有り様を学んだ。

巧言令色鮮し仁。祖母が年がら年中語っていた。それを思い出し、先人たるものの有り様を改めて学ぶ。耳に心地良い言葉はいらない。真実こそ学者が伝えることであり、自らが生成し、そして解釈し、発信しなければならない。当たり前なのだが、人間なのだが奉られるとろくなことは無い。学びは深い。そんなところだ。

週末から?

とある偉い方は仰る。不要不急の外出はするなという。しかしそれは週末からだ。働く奴は時間差通勤をしろという。ずっと始発に乗って仕事場に向かっているから、とっくの昔から時間差通勤なのだが、そんなに都合良く、通勤時間を変えられる人がいらっしゃるとは思えない。

成果から考えると、それをどのように得るかが問題であって、通勤なんてなんでするの?となってくる。山奥でウエブミーティングに参加して、それで事務所通いの方よりも企業にとっての収益をあげている人がいらっしゃるのであれば、それは給与が上がって当然である。通ってこないから、給与削減だよというのは真逆の考えだ。要は収益と働き方をしっかりと分析、定量評価し改善せよと言う事だ。

今の行動が収益に直結している場合に、上記の思考は当てはまるわけだが、提案企画が全て当たる世界など無いと思っているのだが、そんなことがある世界が、ひょっとすると世の中にあるのかもしれない。企画の元のアイデアなんて、何処で出てくるか?職場である可能性の方が少ないのではないのか?それが働き方改革の本質だろう。

昨日、とあることからお昼前に職場に入ったのだが、その途中で咲き始めた桜を見た。薄暮の桜とは違い、燦然と輝くその姿に圧倒される。期待されてもそれを圧倒する迫力。期待されたことなど無い自らにとって、尊敬の的でしかない。パンデミックが終焉を迎えることを前提とするよりも、今だからこそ出来ること、考えることがあろう。反省もその一つだ。活動する。それしかない。

目的と手段

そもそも論として、今更のデジタルトランスフォーメーションの論議である。IoTで数値をかき集め、AIで幸せになれるに違いないという幻想に踊らされ、リアルなものづくりから離れていく様は、大風の中、落ち葉を箒ではく姿を見るようだ。どうありたい、どうなりたいというビジョンを持たず、単にデジタル化しましょうと言っても明るいゴールは無かろう。

根性論で、「社長の決断が必要です」なぁんて文字が躍るハウツー冊子がお偉いさんの団体から出されているのを見て、溜息と失笑しか出てこない。そりゃぁデジタル化しないよりはした方がなんぼか良いでしょうよ。ただ、本当になりたい姿を描かないでデジタル化するのか?

昨日、とあるお役所に、開所時間前から飛び込んで顰蹙を買ったわけだが、だぁっと並ぶ方々を見て、「ビジョンがありますか?」と尋ねて歩いてみたくなった。なったが止めた。恐らくそれは無い。無いからそこに居らっしゃるのだろう。明日は我が身である。日本の縮図の中に閉じ込められてはならない。

会議の調整すら紙ベースだったり、メールでの確認だったり。2か月分の空き時間の予定を教えてくれなんてところも未だにざらである。いちいち〇×を付けている時間のなんと無駄な事か。トランスフォーメーションの先に何が見えているのか。今をしのぐことが目的ではない。手段と目的を置き換えてしまうことの何と多い事か。結論と因果を混同する輩の何と多い事か。ツールに踊らされてはならない。そう思う。

原点

先の東京オリンピックの記憶は無い。アベベという選手がマラソンで1位になり、その選手が府中の近くの甲州街道で折り返した地点を、サイクリングで確認した程度のことだ。オリンピックがいよいよ延期が現実味を帯びてきた。

いろんなことが突然変わる。オリンピックと言う国際的なものの日程が変更になったり、中止になったりすることに立ち会えるとは思わなかった。思わなかったことが発生したことを驚くのではなく、そうなのだなと受け入れることが重要だ。

何がおこるかわからない。コロナウイルスによる肺炎死の世界的拡大が原因であることは間違いなかろう。見えない細菌が既存生命を廃絶していく。火星人がウイルスで死滅して、結局、地球を乗っ取れなかったという小説があるわけだが、それが人類にお呼び出したと言う事だ。

何が起こるかわからない。本当にそうだ。しかし、毎日は確実に訪れ、そして過ぎ去る。一瞬とて同じ時は発生しない。そうなのだが、怠惰な人間は同じことの繰り返しを、日々、求めてしまう。そうではない。新しくて良いのだ。前例など無くて良いのだ。日々、ゼロという原点があって良いのだ。ゼロから数字が始まる。偉大な思想である。

さくら

宴席の無いソメイヨシノは、国民の元気の無さを嘆くだろう。どんなに咲き誇っても浮かれて大騒ぎをする民を呆れて眺めるのが、花見というものだと思っているソメイヨシノにとって、今年の早い開花は、溜息みたいなものだろうか。

ご近所を回ってみたら、土曜日の時点できらっと咲いていた。薄紅色のつぼみたちを尻目に、胸を張って輝いていた。やぁっと声が出るのだ。一年ぶりですねと。ほんの数輪ではあるが、紛れもない心のスイッチである。

ソメイヨシノが咲いている間は仕事はしないというのが小生の生き様であって、長い魂の春休みの言い訳なのだが、今年はそれがやたらと速く始まってしまって、新人達との桜の宴席も無く、窓越しの桜で欲求不満の日々になるであろう。

世界ではとんでもなく罹患者が増えていて、日本は真っ当に検査をしていないからの数値だろうなと海外から疑われている程である。どちらが真実を語っているのか分からないが、自らの身は自ら守らないといけない。桜と共に元気になって一年を頑張る。日本人らしさで切り抜けたい。そう思う。

挑戦の好機

マスクを転売して大儲けをした県議は胸を張って議員を務める。発症者を出したくないから検査をしない国も、やはりのうのうとしている。諸外国から日本の発症者数は、検査をしていないだけだからと突っ込まれて、漸く検査キットが出来たからとうそぶく。それをマスコミも偉い偉いと持ち上げる。それが日本だ。愉快な国では無いか。

昨日、たまたま浅間山の麓の駅に停車し、そして乗車したまま更に先に進んだのだが、華やかかりしスキー場も街も閑散として、往時の面影もない。いや、それでもゲレンデでウィンタースポーツを満喫していらっしゃる、ゴージャスな方々もいらっしゃる。車窓から眺めただけなのだが、まぁ、そういう事なのだろう。富めるものはより富むという理屈だな。

出先に到着してみると、中国からの部品は入って来ず、多くの機械は停止しした状態の工場。だから今こそ、新規の技術を導入して挑戦する方向に向かった皆様とお話させて頂き元気を頂いた。大学の超先端を前倒しして、今だからこそ受け入れられる、その最前線の先に身を投じる勇気があるか不安になった。何としてでも頑張るのか、期待をされたら困るからやらないのか。

どうも後者が多いのだ。それが日本の共同研究単価が上がっていかない理由なのだと実感する。挑戦に対しては、今の社会情勢においては、貪欲に受け止めて頂ける状況にあると感じる。お友達感覚のお付き合いを突き破って、挑戦をする時である。絶好の機会を逃してはなるまい。そう感じる。

鎖国

どうしようもない事がある。どうにもならない事を持っていないのであれば、それは恐らく、心の底から、一人きりで生きている方であって、小生は憧れ、そして尊敬する。一方で、小生はそうはなりたくない。孤立無援であっても、その最中において、誰かの為にありたいと願ってしまう。それを完全に失うことはなかなか出来そうにない。

 米国債券市場においてダウ工業株30種平均が約3年ぶりに2万ドルを割り込んだ。我が国の日経平均においても1万7千円台まで来た。つい先日、2万円を超えていたのだ。その昔のバブルと呼ばれる状況を現役で見ていた世界に似ている。社会が静かである。ただ、その時と異なるのは、誰もが言っていることではあるが、鎖国であるということである。金銭で解決できない面白さがある。
 
 面白いなどと言ってしまうと、罵詈雑言が来るだろうが、そんなもの放っておけば宜しい。相場だけが価値だと思い込んでいる人類ヒエラルキーは崩壊すれば宜しい。価値を生み出す人間が尊くなければならない。社会で「為替」だけを持っている人種が黄色い声で迎えられることに呆れるし、未だにそうなのだなと、マスコミの宣伝に呆れるところだ。国力は一部の大金持ちが指標なのか?まぁ、そんなものかもしれない。
 
一人が沈黙したとて状瀬は変わらない。コロナウイルス恐怖症候群に襲われている。その中で、誰かの為に生きたいと願えるのか。そう願える瞬間はどこにあるのか?一言有難うと言える人は、何処かにいらっしゃいますか?それはとても幸せなことだ。そう思う。

未来否定者

耳を澄ましてみると聞こえてくる。嘘と真実が。コロナウイルスという人類を死に追いやる可能性を持ったウイルスが居るのは恐らく真実。マスクやトイレットペーパーが地上から消えるというのは嘘。ただ、嘘の方が人の心を引き付けるものだから、理性のかけらもなく、詐欺にまで発展し、そしてそれを疑わず受け入れる民の何と多い事か。

コロナウイルスの電子顕微鏡像は、大々的に公開されている。しかしながら、その太陽コロナに似た突起の電荷がどうだとか、中性なのだとか、ほんの少しの科学的説明がなされていないのは何故なのだろう。世界中で研究をしている筈なのだから、それくらいは分かっていそうなものだ。どんなマスクが有効で、空気清浄機が有効なのか、その辺りで大略検討が付くのに、誰も言わない。地球人類を殲滅する気か?

その昔のスペイン風邪の恐怖は知らない。人類の3/4が死滅するという現象はどのような世界を生むのだろうか。全ての民が他人事ではない、死への恐怖と隣り合わせになるのだ。まぁ、どんな恐怖ですかと言われると、まぁ、そんなもんぢゃないのと、あっちに行っちゃった経験を持っていると、まぁ、そんなもんかなと、落ち着かない人達の背中をさする役回りになったりしてね。それ故に詐欺師は許せない。

詐欺師と同様なのが未来を圧倒的に否定する者だ。自らの経験のみを道標に歩くのは気が楽だ。きっとそうだ。経験を土台に常に未知なる世界を創っていく奴の後ろにはイノベーションがある。それは極めて愉快だ。愉快なのだが、多くの民にとっては苦痛なのだそうだ。絶対的に新しい事。それだけが価値なのだ。人の為の価値。それを創り出すこと。それ以外に興味は無い。