パソコン考

学生の頃から一体何台のパソコンと付き合っただろうか?メインフレームから入ったから孤立端末の凄さは実感出来ているのだが、今でも感じる「不安定」さである。今朝も立ち上げたら「なんだこの画面は?」という状態であって、さっきまで考えていた高尚な(うそ)戯言のテーマなど一瞬にふっとんでしまった。戯言なのでどうでも良いのだが、パソコンが普通に立ち上がらない時ほど面倒なことは無い。いや、他にも面倒は沢山あるのだが、私的に面倒だろうと言われれば20本の指には入るだろう、うん、たぶん入る・・と思う。

立ち上がらなければ、そろそろ新しくするかなで終わってしまう。昔と違ってお仕事データはクラウド上に上がっているから他の端末を立ち上げればそれでおしまい。なんと美しい事か。だから「なんだこれ」となっても別になんてことはないのだが、腹立たしいのは間違いない。紙と鉛筆を想えばその自由度は素晴らしい。素晴らしいがその紙を持ち忘れてしまうとアイデアそのものを思い出さねばならず何と面倒なことか。と、なると、やはり、パソコンは普通に立ち上がって欲しいのだ。

昔のパソコンの思い出を語っても全く無駄なので端折るが、ウエブの情報に溢れた昨今と言うか、はっきり言って脳みそがウエブの一部にも満たない今、要するにネットに繋がる一つの窓としてのパソコンが妙なことになると困るというだけだ。この時になんとネットに依存していることかと、ゲーム小僧と同様の状態に陥っている自らがへたれに感じるのだ。ネットの上の情報密度のなんと大きなことか。そしてそれが無尽蔵に増え続ける凄さだ。

自動運転になると一日のドライブで車内・車外で生まれて、そしてやり取りするデータ量は4テラバイトに到達するという。そんなものがどんどこ積み重なってビッグデータとして社会に活用されていく。その勢いでも人を跳ね飛ばしたりするのだから、個人が入出力するパソコンなんてものはもはや社会的には何の価値も無く、立ち上がりの画面が妙な状態であろうとも「ふぅん」くらいで終わってよろしい。宜しいのだが、こうやって戯言をほざいているところをみるとどうやらパソコンは立ち上がっているらしい。ちょっと前なら大騒ぎだが、お仕事データのクラウド化。これは必須であろう。心の平穏はそんなところが第一歩だと感じた、朝の「おやっ」であった。

感冒

某テレビ局が主催するアイデアコンテストの審査を依頼され、休日出掛けていた。日曜日だったからなのかなんだかわからないが、少々寒く、過労困憊の小生にとって厳しい環境であった。月曜日の朝、見事に鼻声になり、1階の皆様の笑いを誘うことが出来、それはそれで良かったのだが、なんだか調子が悪くていかん。熱が劇的にあるわけでもなく、まぁ、感冒であろうと古来の自己治療に取り組んだ。医者はいかん。医者は金のために嘘を付く連中だ。

血行を良くせねばならぬ。基本、代謝を猛烈に上げてへたった体細胞に引退頂いて、中から新しくしてしまえばよろしい。基本は風呂だ。体力が落ちたら風呂はいかんと医者は言う。医者が言うなら逆を行く。彼らは薬剤を高価に投与して稼ぐ。ただ、確かに風呂だけでは駄目だ。風呂は体力を奪うというのは恐らく間違ってはいない。その後、栄養を取ってとっとと寝るというのがポイントだろう。従って風呂上がりの準備をしておかねばならぬ。

血行向上のためには玉ねぎがよろしい。ただ、細胞から有効成分が溶け出すのは20分程度置かねばならぬ。だからこそスライスしてから風呂に入ってしまうのがよろしい。スライスして、すし酢とそばつゆを併せて、一味で整えた玉ねぎが湿る程度に味付けをしたらタンパク質の下準備に移る。玉ねぎは出てきた汁分を摂らないとなんにもならないので、味付け液はミニマムでなければならない。病の時は豚肉が良い。消化を助けるにはヨーグルトなど発酵菌が良い。麹も良いがちょっと酸味が欲しかったので、ヨーグルト、レモン汁、醤油とみりんを併せやや火を通し、それを混ぜて豚肉を漬け込む。ここまで来たらじっくりと入浴だ。

徹底的に暖まる。心底暖まるのが重要だ。中途半端ではいけない。骨髄まで血行を上げねばならぬ。上がったらそれが熱的に下がらぬ内に先程の食材を仕上げ頂く。豚肉は広げ打ち胡麻を振り片栗粉を薄くまぶし、オリーブオイルで焼く。玉ねぎとあわせながら頂く。主食はお好みだろう。病時は日本人は米が宜しい。食休みの後横になっていると、どかぁんと汗がでる。面倒がらずに下着を換えて再び横になる。明け方復活である。まぁ、病とはこんなもんだ。人間の野獣性に従って治す。自然と共に生きるべし。

マラソン

奥三河に設楽という町があってそこの岩古谷山などは面白い山だ。それで駅伝で設楽選手が登場した時には応援をしていたもんだ。その人が昨日、マラソンで日本記録を更新した。駅伝で活躍の後、トラック競技で頑張っていたが、漸くマラソンにも挑戦を始めてくれた。元来、箱根駅伝は、先人達が日本陸上界にも長距離で戦える選手を育てようと始めたものだが、区間当たり大略20kmだからか、あるいは、駅伝出場が目的化されてしまって燃え尽きてしまうのか、日の丸を背負って戦ってくれる選手がちっともでない。

こちらは見ているだけだから勝手なもんだが、40kmを走るとなると常人を逸脱した肉体と精神力が必要となろう。そのマラソンの「ソン」を使って、アイデアソンとかハッカソンとか、行われている。昨日、その審査を依頼されて一日潰してきたのだが、形まで創り込むのでジャストアイデアより遥かに良いのだが、本当にこれで良いのかと疑問を抱くこと多々ありである。

名工大は昨年から全学の学生が初頭知財教育を受講するようになり、加えて、大学院では更に深い知財教育が展開される。思考そのものが財産であって、アイデアはただ取りという日本企業の風潮には吐き気がするが、学生諸君に起業の意欲が芽生え始めているのは素晴らしいと感じる。それぞれの分野のある意味プロが集まって、ハード・ソフトを形にしていって賞金を稼ぐ「ソン」荒らしみたいな雰囲気が無いのが良い。

今朝ほど、画面の向こうでお役人殿が「生産人口減少に向かって生産性向上は必須のことで、まだまだ出来る」と仰っていたが、じゃぁやってごらんと言いたい。何かのデータを使えば2000億円の市場が生まれると叫んでいるが、世界は100兆円のレベルでものを生み出しているのだ。単位が違う。大きな目的も無く、単に「ソン」やってみようかという企業根性には呆れかえる。「貴方は誰を今日、どんな能力で幸せにしますか?」そう自ら問いかける私であります。

散歩に思う

春めいた空に誘われて一駅手前で降りてみた。少し早歩きになるとコートの内側がぽっぽとしてくる。正に春来たれりである。今でいう桜山から大学のエリアは御器所村と明治初期の地図では示されている。小生がガマの油売り大学に入学当初は「桜村」であって、一瞬ではあったが「村民」を体験した。御器所村は昭和区のキャラクターで有名な御器所大根の産地で、水田や畑がいっぱいの、目いっぱいの農地であった。今それを彷彿とさせてくれる場所は皆無であるが、街路の石仏などは恐らくはその頃のものであろうなどと考えながらの早朝散歩は心地よい。

妙に遠方から歩いているように思われるかもしれないが、通常、乗降する駅からの時間は10分に満たない差である。コンビニに立ち寄ってなんてしていると同等の時間的ロスですむ。嫌、血の巡りは明らかに良くなって思考もはっきりしてくるし、考え事に集中するなら職場に居るよりずっと良かったりして・・明るい早朝の景色には流石に桜の蕾は見えず、ウキウキ気分はお預けだなと、まぁ、これは仕方が無い。

今の桜山から大学への対角線上に路地跡などが殆ど無いなと感じていたので、調べてみると殆ど民家などが無く、畑の真ん中の小高い丘であったろう場所にお社が立っているのだが、それとて昭和3年の創建で、どうも獣道しかなかったようだ。中心地であった村雲のあたりにむけた杣道はあったようだが、それは今はそこそこの立派な道路に変身してしまっているらしい。思えばその道路のわきにお地蔵さんがある。それが唯一の痕跡なのかもしれない。

早朝の散歩が苦にならないというか、普通に歩ける季節になってきた。足は第2の心臓であって、血液循環を活発化させるには足を鍛えねばならぬ。気が付くと少しの距離でも自転車だったり自動車だったり。こぶしなどは可愛い猫毛の若芽を見せてくれている。是非とも春を探して欲しい。雪の無い名古屋の贅沢である。そう思う。

雪国より友

遠方より友が来た。今年の雪はこの5年間であり得ないほどであると、秋田の友が語る。大雪で屋根からの落雪で大怪我を負う方がいらっしゃり、大変な事態であるとのこと。お見舞い申し上げます。行ったことが無いと決して分からないのが雪の凄さ。そりゃぁ、アルプス山中というのであれば納得はされると思うが、民家が並ぶその領域で、民家を隠す雪が一晩で振るのだ。振るという安直な表現では物足りない。

内陸では大風は吹かぬが、その分、ドカ雪となると友は語る。「のつのつ」と降るという表現がある。気が付くとにっちもさっちもいかないほどに、しかも静かに積もる雪の事だが、その体験は恐ろしい。ついさっきまで乾いていたアスファルトの路面がに1講義を終えたら1mも積もっているのだ。駅ではラッセル車が大活躍。今年はそんなもんでは無いらしい。

新潟の同級生が、北関東大学に居た時に「冬に雪が降らない空が憎らしい」と叫んでいたのを思い出す。憎いというその表現が適切かもしれないと、雪国の冬を体験させて頂いて実感した。それにしても名古屋の穏やかなこと。雪も地震も無い。天災から見放されたかと、それはそれで大変に有難いことだが、毎年、5mも雪が積もり毎朝の除雪が日課となることを体験される方々からすれば、それこそ憎らしいと思われてしまおう。

雪はなかなかとけないのだが、そのお陰でミネラルが徐々に海に放出される。名古屋エリアでは山から急激に土砂が伊勢湾に流れ込む状態が100万年も続いているから、極めて浅い港湾となる。大陸から離れて出来た日本海にゆっくりとミネラルが流れ込み、様々な海の幸をもたらす。凄まじく大変な冬だが、恵みも大きい。平準化された名古屋か極端な雪国か。まぁ、暮らすなら平準が良いかなぁと、随分と保守的になったもんだとちょっと苦笑いの私であります。

本物

ぎりぎりの状況で自分が出せる。これは本物である。実に見事な本物を拝見した。彼らと出会っているのは6年前で、かなり接近したのは5年前。更に接近して昼夜を問わず会うようになったのは3年前だ。それがもう卒業かと思うとその早さに驚かされる。余りにも見事なプレゼンに思わず書き出してしまった。そしてなんでこんな遅い時刻に更新かと言えば、つい、さっきまで床で寝ていたからだ(^^;)

思い出はしょぼいものだが、小生にも記憶の糸のシミ程度に大学生時代というものがある。あるかもしれない。いや、もの凄く濃く残っている。だからこそ、学生君達には濃い時代を過ごして欲しいと願っているし、それが日頃の付き合いに出てくるのだろう。基本、18歳でスタートする学生時代でありとあらゆるとまでは言わないが、今はそんな奴見たこと無いみたいな時代を作った。

3年生までの講義の風景もいくつかは思い出せる。それは極めて特徴のある教官の講義か、ほんの一言の強烈なメッセージだ。その瞬間も思い出せる。如何に、情報量が少なかったかということなのだろう。旅をするにもサイクリング、電車の旅程は時刻表。パソコンなんてありゃしない。ネットだって無いぞ。だから読んだ本、受けた講義が頭に刻まれるのであろう。

刃の食いしばりと血の滲みというのは炎の転校生の一シーンだ。男の生きざまを表現しているのだが、そんな一こますら人生の教師になってしまう。情報大洪水の状況で、小生は創られなかったかもしれない。情報が飛んでいく速度が遅かったからこそ、じっくりと思考できたのだろう。昨日は、この情報洪水時代においても刃の食いしばりと血の滲みを実践した者と時を同じくできた。感激である。

組織論

今日は研究室が所属する大学院専攻の修士論文審査会。学生諸君の中には自己本位のコミュニケーションの世界で生きているので、他者の意見を聞き入れようとせず、また、疑いの目を持って他者と接するので、こちらの意図を伝えることが極めて難しくなっている。それを単に年齢差だというのは簡単で、駄目だというなら、駄目だと言った側の正当性を明確に相手に伝えなければならない。それが出来ないのであれば駄目という人間側が退出する時代になっていると実感する。根性主義は通用しない。

当たり前だが社会はローカルな集団の集合体で、それらが何らかの客観的指標を持って繋ぎ合って維持されている。客観的と思えない指標が振りかざされると、すわ一大事、戦争にまで発展する。やや大袈裟だが、突然病になったり自殺したりと、そんな話を間近で聞いたりなんかするわけだが、一方的価値観で相手にプレッシャーを与えてりるのではと、常に感じなければならないと思っている。こうするほうが良いのにと思ったことが、実は単なる自己の己惚れであって、真の第三者から見たら欺瞞の王様になってしまっているのかもしれない。

国立大学は中立組織だから、常に第三者の立ち位置が求められるから、例えそれが研究の場においてですら、なかなか前進しようとしない者であってもそれを一方的に責めるのは間違っている。常に聞き入れられるにはどうしたら良いのか悩み続けなければならないし、批判を来る返すなど言語道断。誠にもって難しい。19世紀から21世紀まで、それこそほんの一瞬の間の筈なのだが、徒歩でのやり取りが光速での伝聞になった時、人間同士の繋がりは、むしろほんの周囲の人間同士ですら希薄になってきているのだと認識しなければならない。

一所懸命にやっているのだと認識して、それがその人物にとってのものであったとしても、その積み重ねを自己の組織内の機能の一部として取り組むことが出来ないと、纏めるものの無い独裁者という、ロバ耳大魔王に陥ってしまう。それが仮想現実で生きてきた者と、リアルなものづくりで生きてきた者の関係性であり、そこに踏み込めない者は消えるべきであって、指導者の位置に居るべきでないと肝に銘じるここ数年である。旧態依然の社会と仮想こそ是とされる社会。恐らく、様々な時代に繰り返されてきたことだと思うのだが、妙に定年などが延長されてしまって高齢者自殺者が増えるんじゃないのと、終活なんか真面目に考えたりする私であります。

技術は人に寄り添わない

無くならない自動車事故。東北で16台が絡む事故が吹雪の中で発生した。ホワイトアウト状態だったというが、環境がどんな状態であっても、ぶつかってはいかんだろう・・と思うのだ。それが技術というものだ。路地で人同士がぶつかって大怪我を負うこともあるが、それは人間同士の行動であって、ミスをする人間だからこそごめんなさいで許し合うしかない。人間の能力を超えたもの同士がぶつかり合ってはシャレにならない。そんなもの使ってはいけないということだろう。

秋田に通うようになって実感したのがホワイトアウトの凄まじさ。雪の遮蔽版があろうがなんのその、ミクロな切片が空気を遮断し、呼吸困難に陥る程だ。その中を車で出掛ける神経もどうかしていると思うのだが、便利を人は捨てないから、結局のところ不要不急の用事であってなんだか出掛けてしまうのだろう。人間の目では分からないのだから、車に頼るしかない。しかし車はそこまで進化はしていない。だからぶつかり合う。

危険なことは分かり切っている。道路を遮断するという手法もあるが、愚かな人類はそんなことはお構いなしで出掛けてしまう。そして何千台が数珠つなぎという頓珍漢事件が先日起きたわけだが、やっぱり人間そのものの危険回避能力というか、DNAというか、自分の身は自分で守るという基本的能力が欠落し始めているのではと感じる。これはまずいだろうという状況でも行動してしまう。そしてそのいい加減な人間が作った道具を信じてしまう。ネットの向こうの活字を信じてしまうのも人間の愚かさということだろう。信頼し合う前に信じてしまう。

これこそが油断であり、己惚れである。自分だけは大丈夫だろうという不可思議な思考こそ、怪我の出発点だ。怪我で済むなら良いが、命を失うようなことに繋がるから恐ろしい。人間同士が頑張り合って信じあうというのが無限に増殖する生命としては基本なのだろうが、自滅しあって数を減らすというもの実は自然の平衡性にはあると言われている。同一生命体が鶏に次いで2位という状況は、これはやはり異常なのだと思ったりもする。人が人として機能しあい、平穏無事が保たれる。そんな日が本当に来るのかしらと、元気よく咲き出した梅の花を愛でながら、ちょっとだけほっとする私であります。

比喩

君はバラより美しいと照れずに言えたら大したものだと、布施明さんの熱唱に照れ笑いをしたのはもうかれこれうん十年前だ。流れた歳月は大したもんだ。いや、何も恋だの愛だのを語る気持ちはさらさらない。鬼のような形相はまだしも鬼の首を取ったようと言われても「取ったこと無いなぁ」と苦笑いだ。ようは比喩である。この比喩というのは実に頼もしい言語能力だと、昨日、帰りの新幹線でふと思った次第。

定量的に表現してくださいと、審査長としてお勤めさせて頂くわけだが、トップレベルのお話を定量的に聞かせて頂くと「ほほぉ」とは思うのだけれども今の生活がどんだけ素晴らしくなるのか想像が難しい。そんなとき、「風になれます」くらいのことを言ってもらえると、「おぉ、なるほど!」と技術のステップアップを実感出来るのだ。だから『バラより美しい』というのは実に名言だなと流れる街の夜景に赤みが差したような、例によって「それから」を楽しみながら実感したのだ。

日本人のわびさびとか大和心とか、「紫立ちたる雲のほそくたなびきたる」など、比喩の権化であり、日本人は自然の中からいきいきとものの喩を磨いてきた民族であると思う。情景が浮かべばそこで生まれる価値を実感でき、それ故に幸せの物語が見えてくる。物語が見えるという表現そのものも喩になっているところが何が何だかという感じもしないでもないが、そんなストーリー性こそ企画力によって見出されるものでなければならないと、自らを奮い立たせる。

幸せの物語こそ、科学を技術として具現化させる拠り所である。何か論文ネタがあったらそれは人の役に立つだろうなどと短絡思考も甚だしい。スタジャンに曲がる有機ELディスプレーをくっつけてデモしている姿を見て、いよいよカメレオンになるのだなと愉快に思った。プレデターになるのかはどうかは分からないが、既にあるもの、あったら良いもの、それをイメージ出来る表現力。それがものが溢れた社会に求められるコーディネータ力である。取り敢えず今日はここまでとしておこう。

ボトムアップ

ボトムアップとトップダウン。細胞分裂からすれば、単細胞から無限元素結合体の人間などに変異する様は、ボトムアップである。極微の要素を繋ぎ合わせ目に見える形にする。目に見えなくても良いのだが、いずれにせよ、極微の世界を繋ぎ合わせ、目的のサイズに組み上げる様がボトムアップだ。触媒を使って創薬するなどはまさにこの仕掛けと言えよう。原子の性質を活用して、言ってみれば勝手に何とかなる仕組みを、さも、自分が考えたの如くに振る舞う人類に失笑してしまうが、純粋培養という言葉が示すように、目的の元素以外のものの混入を無視できる程に少なくしているのは工学であり、人の工夫であることは間違いない。神のいたずらでは無い。

神のいたずらでは無いから恐ろしさもある。人間が神の如くに元素を創り出し、その合成までやってのける時代にきた。イオン注入と言う言葉を創られた偉大なる先人の恩恵を、核爆弾と言う無間地獄まで大きくすることはボトムアップという概念からは外れるだろう。平和活用だからと言って、イエローケーキの破砕物を砂漠にばらまき、地球気圏にその汚染物質を遍く広げ、遺伝子レベルで生命を破壊する様は、これはトップダウンと言える。それを率先するのが日本であって人々が助け合う当たり前の縄文文化を捨て去った成れの果てが日本人だ。

共に助け合う村の文化と、村の存続によって税金の使われ方に歪が出るから過疎地を潰そうなどという議論は言語道断だが、一部の為政者の所有地があるから、その土地の価格をあげるような政策はボトムアップでは決してなく、単なる国賊の象徴的行動であるのは言うまでもない。突如として大きな橋が架かり、誰も住まない土地が出来、ほったらかしておくとゴルフ場になって、そしていつの間にか荒廃し消えていく。地方を回っているとそんな世界に出会う。しかしそれはそのエリアの住民が望んだボトムアップの姿であって、その瞬間の快楽のためだけに税金が投入された結果でもある。

人が人と出会う。そして議論しお互いを活かしあう方策を考える。これなどはボトムアップであり、将来のありたい姿から今を思うバックキャスティングであればなおさらだ。瞬間の為政者の都合に合わせるトップダウンは安直で思考停止で良いから楽だが、必ず不利益が発生してくる。日本人の安直なトップダウン待ちの姿勢を、挑戦の二文字に換えていくにはかなり大きな意識改革が必要だ。気に入らないからどなりちらす。何も生まないトップダウンには消えて頂き、未来をこうしたいという願いの集合がボトムアップから産まれてくるべき時代である。チャンスである!